この、完全なる夜に   5










 

「さあ、ビビちゃん。今日はなにを作ろうか?空豆のスープ、ジャガイモのポタージュ、いやいやニンジンをたっぷり使ったキャロットスープがいいかな?」

「もう。空豆は昨日使い切っちゃったでしょ」

「ええ?そうだっけ?」

 やあ、これはオレとしたことが!

 大げさに声を上げて頭を抱えてみせると、ビビが声を上げて笑う。

 それだけでこの狭い、がらくたのような家の中に、光が溢れる。

 

 

 セオドアという名の街だった。

 南には国境があり、そのため様々な人種と商売が入り混じり、流れてきた者は最後にここに辿り着く、まるで吹き溜まりのような街だった。

 その街で、十五のサンジは、七つのビビと共に暮らしていた。

 彼等はひっそりと、静かに、なにも損なわずなにも害さず、ただ彼等の暮らしを守るためだけに生きていた。

 それが幸福な結末を迎えなかったのはなにひとつ彼等の責ではなく、ただ、二人には抗いようもない大きなものに押し流された結果だった。

 その後力を得ようと足掻いて、暴力と国を買えるほどの巨額の金を動かすようになっても、その事実はなにひとつサンジの心を慰めはしなかったけれど。

 

 

 

 

 今日の稼ぎを懐に戻ってくる時は、川沿いの狭い家の方に曲がる道の角から耳を澄ませる。

 嫌な音が聞こえたら全力で走る。

 そうでなかったら足音をひそめる。

 すっかり身に着いたサンジの習性だ。

 そうでなかったらいいといつも思うのに、今日は角を曲がったと同時にひどく咳き込みながら呼ぶ声が聞こえた。

 慌てて走り出す。

「ビビちゃんっ」

「ああ、おかえり、サンジ」

 ベッドの中で苦しそうに咳き込むビビを膝に抱いてくれていたのは、二件隣のあばら屋に住む女だった。

 ビオラという名だ。

 酒場兼花宿という店に勤める人付き合いが良いとは到底言い難い女だったが、ビビには優しい。昔亡くした娘を思い出すからだろうと近所の噂話に聞いた。

「どうしたんだい、ビビは。家にちょっと忘れ物を取りに来たらすごい咳が聞こえてこの有様だろ、あたしゃ驚いて……」

「ありがとう、ビオラさん。ちょっと待ってて」

 彼女の膝の上でビビは咳き込み、寝台に爪を立て、苦しい、と言って泣いた。

 慌ててサンジは部屋の隅に申し訳程度に作ってある小さな竈に火を熾し、水を入れた鍋をかけて沸かし、数種類の薬草と粉薬を溶かした。

 充分煎じたそれをコップに移し替えて冷まし、ぜいぜいと息をするビビの口元にあてがう。

「ビビ。薬だ、飲んで」

「……っ、サン、ジ……」

「ほら。飲めば、楽になるから」

 薬はとびきり苦い。

 けれどしかめっ面のビビは一言の泣き言も言わずそれを全部飲み下した。

 効果はてきめんで、十分もしない内に肩に入った力が抜け、呼吸が緩やかになり、やがてことんと眠りに落ちた。

 ビオラがそうっとビビを寝台に戻し、肩まで布団を掛ける。

 荒れた指先にそれは不思議に似合った仕草だった。

「持病かい」

「………そう」

「なるほどねぇ。だから金が必要、ってわけだ。あんた」

「………」

 ビオラに薬を見られたのはまずかったかも知れない。

 ちらりとそう思う。

 薬はもともと高価なもので、特にビビの病に効く粉薬と言ったら目の玉が飛び出るほどだ。この一回分でサンジの一日の稼ぎの半分は出ていってしまう。

「……ありがとう、ビオラさん。ビビをみててくれて」

「なんにもしてないよ。抱っこしといてやっただけさ。……サンジ、あんたね。七番街には近付かない方がいい」

「………」

「商売は、五か三の奥でしな。あんたの上がりは誰に納めてるんだい」

「……“ネズミの尾”だ」

「ああ……ならまあいいだろ。関わり合うならネズミかイタチだ。いいかい、ヒクイドリには近付いちゃいけないよ。いくら甘い言葉を並べられてもね」

 彼女の歳は知れない。

 どれだけこの街で生きてきたのかも知らない。

 二年前この街に流れてきた自分達には到底わからないようなことが、おそらく山ほどあるのだろう。

「……ありがとう。ビオラさん」

「ああ」

「なんで、そんなこと教えてくれるんだ?」

「あんた達が、可哀想だからさぁ」

 ビオラは赤く紅を縫った唇を裂けるほどに歪めて笑い、そして、サンジとビビの小さな家を出ていった。

 

 

 

 風の吹き込む窓辺でサンジは夜空を見ていた。

 ぽっかりと白い月。

 皓々と夜空に光る月はセオドアの街並みを照らし出し、夜の中で街は昼の何倍も美しいようだった。

 サンジの身体には情事の跡が散っている。

 赤い花びらの中には時折血が滲むほどの噛み跡があって、それは今日サンジを買った男の癖だった。

 十日と空けずサンジを買いに来るその男は、サンジの白い肌が好きなのだという。

 噛めば容易く跡のつくその脆さが。

 腕に酷い痣が残って、その痛々しさを花街の女達に哀れまれたこともあった。

 つらいのならば他の仕事に就くと良い、世話をしてあげようかと言われて、サンジは礼を言いつつもかぶりを振ったのだ。

 薬のために高額の金がいる。

 あまり長い間家を空けるわけにはいかない。

 そして、サンジは、彼女達が言うほどこの仕事がつらいものだとは思わなかった。

 一時、この身体を、人に与えてしまえばいいだけのことだ。

 そこにある苦痛も熱も瞬く間に過ぎ去ってしまう。

 あの大切な少女を失ってしまう怖ろしさに比べたら、それは、本当に些細なことなのだ。

「サンジ」

 ベッドから男が呼んだ。

 月を見ていた視線を、サンジはゆっくりと室内に戻す。

 暗い夜の中で男が手招きをした。

「………花代、はずんでくれよな」

「わかっているとも」

 月を窓辺に置いて、サンジは夜の闇の中へ戻る。

 

 少女がこの夜の中で安らかな眠りにくるまれていてくれればいいと、ただそのことだけを、願っていた。

 

 

09/11/07