この、完全なる夜に   4










 泣き咽ぶ声が聖堂に響いていた。

  聖書の一場面を描いた天井のフレスコ画は色鮮やかに美しく、まるでそこだけが光っているようにも見える。

 その高い天井に届く声で、サンジーノが泣いていた。

 呆然と、ゾロシアはその光景を眺めた。

 涙などどこかに置き忘れてきたかのようにいつも薄笑いを浮かべている男が、子供のように無防備に泣きじゃくっている。

「……チョッパー」

「ッ、は、はいっ」

「扉、閉めてこい」

「うんっ」

 素直なトナカイがゾロの言葉に弾けるように飛び上がって踵を返す。

 すぐに聖堂の重い扉が閉まる音が聞こえた。チョパリーニは子供のように小さいが、ヒトヒトの実の能力でゾロシアよりも大きな人型をとることができる。

『ジュデッカ』のボスのこんな姿を、自分達以外に見せるわけにはいかない。

 ああ、ああ、と獣のような声を上げてマフィアのボスが泣いていた。

 その腕の中にはすっぽりと小さな少女が収まっている。

 まるで空のような髪をした、歳の頃は十かそこらだろうか。

 サンジーノの腕の中に収まって、呆然と天井を見上げている。

 彼女を害そうとした男は人にはあり得ないような形になって聖者の像の前に転がり、血は河となって流れている。

「……っ、ぁ…っあ……ビ、ビビ、……ビビちゃん…ッ」

 啜り泣きの声。

 呼んでいるのは少女の名前だろうか。

「ビ、ビビちゃん、……っビビちゃん、よく、よく、……生きて、」

 ああ、と声を上げてサンジーノが泣く。

 身を絞る様なその泣き声がふいに堪えきれなくなって、ゾロシアは足を踏み出した。

 さしかかる影にサンジーノが顔を上げる。その、片方しかない青い眼の中に隠しようのない敵意が過ぎって、白い手が強く堅く少女を抱き寄せる。

 二度と離すまいと言うかのように。

 こんな姿は自分とチョパリーニ以外の誰かに見せられる様なものではない。

「サンジ」

 名を呼ぶと、青い眼が瞬いた。

 ようやく現実を取り戻し、苦しいほどに少女を抱きしめていた腕がわずかに緩む。

「サンジ。行くぞ」

「………なに」

「長居が出来る場所じゃねえ。さっさと行くぞ。……そいつは、抱きかかえて連れてこい」

 少女が髪の色にわずかに赤を差したような紫の眼をゾロシアに向ける。

  聖堂で道を外れた男に犯されそうになっていた少女の服は破れて、頬は赤く腫れ、無惨な姿をしていたがそれは少しも彼女を損なってはいないようだった。

 たじろぐほどに無垢な瞳。

「………行くぞ」

「………」

「帰るんだ。エル・ファノへ。そいつを連れて」

 震える肩で大きく息をつき、片時も離さないと言うように少女をその両腕に抱えたまま、サンジーノが立ち上がった。

「行くぞ」

 ゾロシアは歩き出す。

 この街を出て、安全なあのエル・ファノへ帰るまで、決して気を抜くまいと決めて。

 チョパリーニが先導を買って出て、聖堂の扉が開き、白い陽の光が隙間から零れた。

 

 

 

 

 

 

 

「私は、あの人の捜している人じゃ、ないと思うの」

 すべての記憶を失ったという少女は、小首を傾げながら、考え、考え、そう言った。

「なにもかも忘れてしまったから。絶対にそうだなんて言えないけど。でも、違うと思うの。……だって歳が、合わないもの」

 多分ずいぶんと多くのものを見聞きして、ただ甘えていればいい子供であることを許されなかったのだろう少女は、ゾロシアにそう言った。

『ジュデッカ』の本拠地、今はサンジーノのものである屋敷のソファに座るその姿はひどく納まりが悪いように見えた。

 大きなソファの片隅に座る細く脆い肩に不必要な力がこもっている。

「……どうしてオレにそれを言う?」

「……だって。あなただけだもの。サンジに本当のことを言えるのは」 

 くしゃ、と顔が歪んで、泣くかと思ったけれど少女は泣かなかった。

「あなただけだもの。……チョッパーはダメ、優しすぎて」

「……そうか」

「そうよ」

 空色の髪の少女が来て以来、サンジーノの世界は彼女を中心に回っている。

 わずかな妬心を抱かないでもなかったが、それよりもいつでも細い糸の上を歩んでいるような彼に安堵があることの方が重要だった。

 けれど、この少女は、賢すぎる。

「私じゃ、ないの。……それなのにこんなたくさんのものをもらって」

「………」

「どうしたらいいの。……お願い、ゾロシア。あなたから言って、私は、違うのだって」

 そして、幼すぎる。

 真実が必ずしも人を救うものではないのだと知らないくらいに。

「……オレはあいつが誰を求めていたか知っている」

「……ッ」

「確かにそれはお前じゃない。ビビ。……あいつがさがしていた子供は、もう死んでいるからだ」

 もう十年以上前のことだ。

 いや、十五年にもなるだろうか。

 小さな港町で、彼は、男娼として生きていた。男に買われ、脚を開き、金を稼いでいた。
 養い子のためだと聞いたのは偶然だ。

 五つか六つだろうかという幼い子供の手を引いて、市場で買い物をしていたのを見たのも、偶然だ。

 子供は空のような髪の色をしていた。

 見ているこちらが気恥ずかしく、暖かになるような笑顔を、互いに交わし合っていた。

 彼等がどんな関係だったのかゾロシアは知らない。

 けれど空色の髪の子を引き取ったというサンジーノも、その少女よりそれほど年上には見えなかった。
 むしろ兄妹と行った方がしっくりくるほどの。

「……あいつにとっては、今は、お前が『ビビ』だ」

「………」

「だから、あいつの傍にいてやってくれ。ビビ。お前にとって負担でないなら」

「………そんなこと」

 ないわ、とかぼそい声でビビが言う。

 それは嘘だ。

 ゾロシアは知っている、けれどこの少女には堪えてもらわなければ。

「お前が『ビビ』だ。今のあいつにとっては。……それが、あいつの、救いだ」

「………」

「頼む。ビビ」

「ゾロシア」

 裏返った少女の高い声が天井に響く。

 甘く柔らかく、無垢な声だ。

 こんな場所においていいものではないとゾロシアは知っているけれど、彼女をここから出すわけにはいかない。

「やめて。頭を上げて。……なんてことするの、私なんかに」

「頼む」

 お願い、頭を上げて、と怯えた様な声でそう言うビビは、その歳にしてすでに知っているのだろう。

 このエル・ファノでサンジーノやゾロシアがどういったものであるか。

「わかったわ。……わかってるの。ホントは、私、ここから出ても行くところなんか無いもの」

「………」

「ただ……ただ、サンジが、……にせものの私に、あんなに……してくれるから…」

「お前が、ビビだ。二人はいない」

「………でも」

「ビビ」

 その言葉に籠もったものを感じ取ったのか、息を呑んだ少女はゾロシアの顔を見上げて、やがて小さく一つだけ頷いた。

 

 

 

 

 そして『ジュデッカ』の屋敷ではマフィアにはあり得ない光景が日々繰り広げられている。

「ビビちゃん!今日の朝のお食事だよ、ふわふわのオムレツにトースト、トマト、ガストの所で作られたベーコンにとれたてブロッコリーのスープ!」

「わあ!美味しそう、サンジが作ったの?」

「もっちろん!ほらチョッパー来い、お前も喰うだろ?」

「いいのか?サンジ」

「もちろん!」

 朝食の席は光と笑いに溢れ、賑やかだ。

 悔しいのでゾロシアは三日に一度は入り浸るようになっている。

 文句を言いながらもサンジーノはきちんとゾロシアの分まで食事の用意をしてくれるのだ。

 

 

 それはこの屋敷にいままで一度も訪れたことのない、まぎれもない幸福の情景だった。

 たとえそれが一瞬のことだったとしても。

 

 

                                09/03/19