この、完全なる夜に   3










真っ白な丸い卵に髪の毛のような罅を入れる。

 両の親指に力を込めればぱっくりと割れて、黄金よりもなお美しい丸く艶やかな黄身とその周りを取り巻くもったりとした白身がボウルに滑り落ちた。

 丸く盛り上がり、白身も段になったとびきりの卵だ。

 さすがガスト老の農場で産みおとされただけのことはある。

 夜明けから一時間もしないうちに農場から屋敷に届けられる卵と牛乳は、いつでもとびきりの味がする。

 穀物と自然の虫を食べて育って気ままに大地を駆け回っている鶏と、化学肥料を一切使わない牧草で育てられている牛にしか出せない、本物の味だ。

 一度でもここの卵と乳の味を知ってしまうと店で売っているものになど到底食指が動かない。

「罪作りだぜ、ガスト。こんなに贅沢にさせてどうすんだ」

 そう嘯き、口笛を吹きながら泡立て器で卵を掻き回す。

 乳を加え、塩胡椒を振ったところで背後に人の立つ気配がした。

 夜明け前、血と硝煙にまみれてこの屋敷にやってきて、挨拶もせずに爆睡を決め込んだ失礼千万な男だ。

「………なにしてんだ」

「見てわかんねぇのか。相当なぼんくらだなテメェ」

 軽口で返しながらチーズの包みを開く。

 こちらも当然ガストの農場で作られたものだ。独特の歯ごたえのモッツァレラチーズは、週に一度ガスト老が手ずから作る逸品だ。

 熱したフライパンにバターを、程良く溶けたら次いで卵を落とし、ざっと掻き混ぜて空気を含ませる。

「テメェが料理……?」

「うまいもんだろ」

 ゾロシアの声は半信半疑だ。

 思わずサンジーノは笑ってしまった。

 名だたるエル・ファノのケルベロス、その三ツ頭のうちの一つであるこのジュデッカのドン、サンジーノが、料理ができるなんて誰も考えないに違いない。

 マフィアのボスにとって料理は目の前に饗されるものだ。

 泡が立ち上り、程良く焼けてきたオムレツの真ん中にモッツァレラチーズをたっぷり落とし、すかさずフライパンを傾けてくるくるとくるみこむ。

 固くなり過ぎないうちに皿に移し、もう一度バターを落としたフライパンに厚切りにしたトマトを並べる。

 強火で両面を焼いてオムレツに添え、彩りに緑のパセリとピクルスを飾り付けたら出来上がりだ。

「窓際のテーブルに運べよ。ゾロ」

「………」

「ぼさっとしてんな。冷めるだろ」

「………ああ」

 まだ半信半疑、と言った様子のゾロシアがそれでもサンジーノの言ったとおりテーブルに皿を運ぶ。

 モッツァレラチーのオムレツにこんがりと焼いたトースト、野菜とパンチェッタのスープ、皿に盛った果物に薫り高い紅茶。

 今日の朝食だ。

「喰ってみやがれ、ドン・ゾロシア。美味いぞ」

「………」

 しかめっ面のままゾロシアが食事に手を伸ばす。。

 その様子に思わず失笑しながら、サンジーノもフォークを手に取った。口に入れるとオムレツはふんわりと柔らかく、熱で溶けたチーズが口の中にほどけていく。

 ぴりっと胡椒をきかせたトマトとの相性も抜群だ。

 包丁とフライパンを使ったのは久しぶりだった。

 どれだか間が空いたかすらも忘れているのに、身体に染みついた技術は消えないものだ。

 ふと向かいを見るとゾロシアはものもいわずもくもくとオムレツとトーストを口に運んでいる。

 寡黙な客だが喰いっぷりは悪くない。

 サンジーノはその様子だけで満足した。

 

 

 

 

 

 

 いいなぁ、とチョパリーニが心底羨ましそうに言った。

「美味かっただろ。サンジのオムレツ」

「ああ……まあまあだな」

「うそつけ。とびきりだっただろ」

 いいなぁ、ともう一度子供のような口調でチョパリーニが繰り返すから、思わずゾロシアは笑ってしまった。

 子供のような見目をしているがチョパリーニもれっきとしたファミリーの一員だ。

 それがこんな口調で羨ましがるとは、サンジーノの料理はよほど珍しいものらしい。

「作って欲しいって言やいいじゃねえか」

「い、言えねえよ」

「そうか?お前がねだればなんでも作りそうだがな」

 おだてに弱い男だし、なにより料理をしているときは本当に楽しそうだったのだ。

 あんな姿は見たことがなかったので仰天したが、慣れてみれば思いの外しっくりくる光景だった気がする。

 サングラスもかけず晒された素顔に、朝の光を受けて光る金の髪、清潔なキッチン。

 大きいが繊細な手に思いの外調理器具が似合っていた。

「作らないよ。サンジ。……お前に料理したのだって、ほんとに、ほんとに珍しいことなんだからな」

 拗ねたように唇を尖らせてチョパリーニがそう言った。

 ソファに掛けると床に届かない足先がぶらぶらして、本当に子供のようだ。

 サンジーノの住処、ジュデッカの本拠地であるこの屋敷は、どこもかしこもちぐはぐな印象がある。

 例えばこの部屋はソファはシンプルなベージュのスウェードだというのに、壁際にはシノワズリの飾りダンスが置かれている。

 一つ一つはいいものなのだろうが、あわせるとどうにも違和感が漂う。

『ジュデッカ』はケルベロスの中で一番トップの入れ替わりの激しいファミリーだ。

 その歪さがこんなところにも見え隠れする。

「作らないんだよ」

 まるで我慢してるみたいに。

 小さな声でチョパリーニはそう言った。

「………今朝は作ってたじゃねえか」

「だから、たまに。ホントに、たまに。……ずっと水の中に潜んでて、我慢できなかったから水面に出て呼吸するみたいに」

「………」

「そうやって、料理するんだよ。サンジ」

 馬鹿な話だ。

 作りたいなら作ればいい。

 料理をするマフィアのボスなど聞いたことがないが、あの男ならばそれはそれと一族の皆に受け入れられるだろうに。

 チョパリーニは黙って自分の爪先を見つめている。

 靴を履くと窮屈だと言って屋敷の中では裸足の彼の足の先には黒い蹄がある。

 ヒトヒトの実を食べたからといって人間ではなく、かといってトナカイでもなくなってしまった彼に、この歪な屋敷は居心地がいいのだろうか。

 だとしたらこの場所を牛耳るあの男も、どこかがひどく歪んでいるのかもしれなかった。

 

 

 ふと舌先によみがえった今朝のオムレツの味は、確かに、いままでゾロシアが食べたどんな料理よりも美味だったような気がした。

 

 

                                09/01/22