>>> 9 <<<






 

 電話のベルの音がする。

 そう思った途端にがばっと飛び起きて、腹這いになると、鴇は手探りで枕元の電話を探した。がつん、と腕が放り出したままの本の角にぶつかるが、痛みにかまっている暇もない。

 電話が切れてしまうことの方が怖かった。

「……っもしもし、佐々木ですが……っ」

『鴇さん、寝起き?』

 途端に耳に飛びこんでくる明るい声。

「……あぁ…いや。もう起きてるよ」

『うっそだぁ。声が眠そうだよ』

「………そうかな?」

 明るい笑い声が耳元で弾ける。それだけで幸福が体を満たして、鴇も微笑んだ。

「さっきまで原稿を書いていて……うたた寝をね。起こしてくれて丁度良かった」

『そう?それならいいけどさ……原稿が上がったとこじゃなかったの?』

 〆切間際の鴇の状態とその後の眠りの深さを知っている陽は、気遣わしげな声を聞かせる。

「いいや。……また、〆切に遅れているところだよ」

『その内八木さんの胃に穴が空くよ』

 陽が旅立つ直前まで、鴇の担当は八木だった。

 年度替わりの時に彼が出世して副編集長になってしまったので、交替したのだ。今は竹岡という男に代わっているのだと言おうかどうか一瞬迷う。

「……そうだね。気を付けるよ」

 けれど結局、やめにした。あまり人に馴染まない鴇を知っているだけに、担当が代わったと聞いたら陽はまた色々と心配するに決まっているのだ。

「僕のことより、そっちは?なにか新しいことはあったかい?」

『色々あるよ。あのね、この間は、始めてロンドン以外に遊びに行ったんだ』

 イギリスの気候、珍しい花々、そこら中を闊歩している大きな犬に、道路のルールの違い。イギリスで見つけた色々なことを、陽は、楽しげな声で話す。

 そのすべてに鴇は返事をした。

「うん、うん。良かったね。……彼は、大切にしてくれる?」

『うん。厳しいときもあるけど、でも、オレがちゃんとここで生活するためだからね。心配しないで、鴇さん』

「心配はするよ。僕の眼は届かないんだから。でも陽がこうして電話をくれるから、安心する」

『……そう?』

 ふと、陽の声が翳った気がした。

「陽?」

『……あのね、オレも、心配だよ。鴇さん、ちゃんとご飯食べてる?仕事も順調?』

「もちろんだよ」

『そう?ならいいんだけど……鴇さんもね、時々オレに電話をくれなくちゃ』

「うん」

『ちゃんと、鴇さんがオレの声が聞きたい時とか。オレ、鴇さんの声が聞きたいとき、我慢しないで電話するよ。家族なんだから』

「うん。そうだね。陽の声が聞けると、僕も嬉しい」

『だったら………』

 陽の声がなにかを堪えるように震える。おかしな事を言ったかと心配になる。

「陽?どうしたんだ、なにかあったのかい?」

『………鴇さんは、オレの心配ばっかりだね。なんでもない。また、電話するね』

「陽?どうしたんだい」

『なんでもないよ。ほんとに、なんでもない。オレ、元気だから。ホントだよ』

「陽……」

『また電話する。電話するよ』

 またね、と掠れた声が告げて、国際電話は切れる。

 なにかおかしな事を言っただろうかと呆然と受話器を見つめるうちに、不意に強い目眩を覚えて鴇は布団に突っ伏してしまった。

「さっきまでは原稿、か」

 不意に落ちてきた声と共に手の中の受話器が取り上げられる。滑稽なほどにびくりと震えてしまった。

「だ、誰……」

「ああ、動くな。まだ酔いが残ってるんだ」

「え………」

 鴇と陽しかいないはずのこの部屋にいったい誰がいるのかと混乱し掛けたが、落ち着いた声には覚えがある。

「………貴志」

「ああ。ったく、眠ったかと思えば、ベルが鳴った途端に跳ね起きやがって。あんな勢いで動けば、ぐらぐらして当然だ」

「………あぁ……」

 ようやく記憶が甦って、鴇は布団に突っ伏したまま深くため息をつく。貴志の行きつけだという店で飲んでいたのだった。

 揃えているのは名前も知らないような外国の酒ばかりで、貴志に勧められるまま物珍しさについつい手を出して悪酔いしたのだ。

 帰りの電車から先の記憶がない。

 珍しくも醜態を晒したものだと思う。

「……すまなかったね」

「別に」

 家どころか布団まで鴇を送ってきてくれた男がどういう顔をしているかが気になって、顔をあげることも出来ないので鴇は視線だけをずらした。

 布団の脇に座った男は何故か苦い顔で鴇を見ている。

「……ほんとにすまなかった。今日は泊まっていってくれ。向かいの客間の押入に、布団と浴衣があるから……」

「いつも、電話を待ってるのか」

 不意に男の手が鴇の腕に触れる。鈍い痛みの走ったそこがさっき本の角にぶつけた場所だと気がついた。

「ああ……うん。イギリスとは、時差があるからね。気付いたときにすぐとらないと、次がいつになるか」

「それでいつも、あんな嘘をつくのか」

「嘘?……ああ。そうだね。嘘だ」

 原稿中もうたたねも、すべて嘘だ。陽の安心のためにつくささやかな嘘はもう鴇の癖のようなものだった。

「……まぁオレも嘘はばれなきゃ良いと思ってる方だがな。重ねてついてると、いつか不審に思われるぞ」

「そうだね。……気を付けるよ」

 もっと何か言いたいことがあるような顔を貴志はしていたけれど、急速に襲ってきた眠気に鴇は抗うことが出来なかった。

 眠りに落ちるまで腕に触れていた暖かさが、とても心地よかった。 

 

 






 10へ


index