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◇◇◇ささやかな嘘の功罪◇◇◇

 

 

「オレが、好きだろう?」

 残酷な男の残酷な笑み。

「答えろ。オレが好きだろう?誰にも渡したくないと、思ってるだろう?」

 震えて鴇は強く唇を噛み締める。

 望まれてそう言ってしまうのはたやすいけれど、口にすればさらに嘲笑が待っているのはわかりきっていた。

 猫がネズミを嬲っては殺すように、子供が玩具を大切にしては放り出すように、この男は鴇をいいようにする。

 怖ろしくて、ただ鴇は竦む。

 伸びる指先から逃れることも出来ない。それが望んでいることだからか、それとも恐怖に怯えているからなのかは、自分ですらわからない。

 ただ諾々と男の意図に従う。

 心のない行為を繰り返すたびに磨り減るものがあることも知っていて、どうすることも出来ない弱さを鴇は憎む。

 触れ合う他人の体温。

 吐息に、声、汗。

 自分の弱さの故だととうに知っているのに、鴇に容赦なく触れる男にその責を転嫁する自分を、さらに憎んだ。

 


















 

「……ァ…ッ」

 声にならない悲鳴を上げて鴇は飛び起きる。

 震える手で口を押さえ、忙しなく辺りを見回した。薄暗い室内で、山と積まれた本とくしゃくしゃになった紙くず、長い付き合いのワープロだけが影を造っている。  

 どこにいるかを思い出して、ようよう息が付けた。

 ここは佐々木の家だ。

 今の自分は三十四歳で、小説家で、そしてこの屋敷に居候をしている。 

 居候、と自分で考えた言葉に笑みが零れた。

 随分と長い居候だ。家主がいなくなったというのに、それでもまだ居座っている。

「ぁあ……まったく……」

 布団に滑らせた手を、思わず強く握りしめてしまった。きちんと洗濯をしたシーツも、陽に干した布団も、あの時の名残など欠片もとどめていないのに。

 夢を見た理由などわかりきっている。 

 あの男との再会が、あまりにも強烈だったからだ。

 じわりと体の奥から湧き起こる熱と、仄暗い夢の残滓が鬱陶しくて、鴇は乱暴に上掛けをはねのける。

 もうとうに無くなっていると思っていた闇雲な憎しみは、時折こうして亡霊のように姿を見せては鴇を憂鬱にさせる。

 後悔などいくらしても切りがないのはわかりきっていた。

 だから囚われることはないと決めたはずなのに。

「……まったく……成長のない」

 暗い家の中はしんとしている。カーテンを開ければ、西の空に僅かに太陽の光が留まっているようだった。

 昨日は陽からの電話がなかった。

「本当に、情けないな」 

 自嘲の笑みが零れる。

 便りが少なくなることなどわかりきっていただろう。 

 大切な相手と海の向こうに渡り、新しい生活を始めて、忘れるほどに情が薄くなくとも割く時間が少なくなるのは当たり前のことだ。

 電話も、手紙も、徐々に間遠になるだろう。

 それを覚悟してこの手を離したはずだ。

 なのに淋しいと訴える感情だけが納得しようとしない。

 無様だと笑って、けれど独りきりの寂しさに耐えることが出来ずに、結局鴇はそのまま家を出た。






 

 

 夜の新宿は喧噪と安っぽいイルミネーションに満ちている。

 人波を縫って、鴇は馴染みの場所を目指した。

 特定の人種しか訪れない店の建ち並ぶ区域から、ほんの少しだけ外れた場所に、通い慣れたショットバーがある。

『リトグラフ』と地味な看板の掛かった店の扉をくぐると、鴇の顔を知っているバーテンが会釈を寄越した。

 カウンター席に着こうと空席を見やって、ふと、知っている顔があることに気がついた。

 嬉しくなってその背に近づく。

「こんばんわ」

 薄い背に声を掛けると、びくりと肩を振るわせて少年が振り返った。

 まだ陽とさほど変わらないだろう年頃の彼は、それでも不思議とこの席に馴染んでいる。

「隣、いいかな?」

 またあの笑顔を見せてくれるだろうかとそう言ったのに、彼は、酷く戸惑う顔をした。

「どうしたの?……ああ、彼氏と来てるのかな」 

 そう言えば大切にしてくれる彼がいると言っていた。これは無粋だったかと引き下がろうとすると、違う、と小さな声が聞こえる。

「……一人だよ」

「じゃあ……誰かを、探しているのかな。私がここに来ては、邪魔かな」

「別に」

 ぷいと前を向いてしまった彼に、戸惑いながらも鴇はその隣に腰を下ろす。手っ取り早く酔えるようにとブランデーをロックで注文して、隣の少年の顔を伺う。

 この間はあんなに笑顔を浮かべてくれたのに、やはり邪魔だったのだろうか。

 頑なに前を見つめる眼が、何故だか痛々しかった。

「どうしたんだい?」

「……なにが」

「なにか……不愉快なことがあったのかな。隣に来てはいけなかった?」

「……言いたいことがあるならさっさと言いなよ」

「え?」

「え、じゃなくて。……気付いてるんでしょう。この間オレが何したか」

「……なにか、あったっけ?」

「とぼけるなくてもいいよ。あんだけ抜いたんだ、気付いてないわけ無いしね」

 ああ、とようやく合点がいって鴇は頷く。

 そう言えば翌日、財布の中身が減っていた。食材の買い物にスーパーに行って気付いたのだ。トイレに立った時にでも盗られたのだろう。

「そう言えばそうだったね」

「そうだったねって……なんだよ、あんた。返させようと思ってきたんだろ。……とっくに、つかっちゃったけど」

「そうか。それならそれで別に良いけど」

 そう言った鴇を、おかしな生き物を見るような眼で彼は見やった。

「……代償に体、ってんなら払ってやるけど」

「いらないよ。……けれど、そうだね。笑ってもらえると、嬉しいかな」

「………は?」

「君の笑顔は可愛かったから。今日も笑ってもらえると、嬉しいんだけれど」

「……なにそれ」

 どういう応対をして良いかわからなくなったのか、少年は複雑な顔して唇を尖らせる。

「あんた、おかしいよ。オレ、十万近く抜いたよ?」

「そうだったっけ……実はいくら入ってたかも、よく覚えてなくてね」

「あんた、金持ちなんだ」

 そう言って、少年はまたぷいと前を向く。これでは今夜は笑顔を見られそうにないと、こっそり鴇は落胆した。

「たかが行きずりの、ちょっと酒飲んで話しただけの相手に、十万も抜かれて怒りもしないって?あんた、オレのこと馬鹿にしてんの」

「違うよ」

 これが逆切れというものなのかと感心しながら、鴇はどうにか少年を宥めようと言葉を継ぐ。

「あの時、私はとても淋しかったんだ。だから、話をして、笑ってくれて、付き合ってくれた君にとても感謝をしている。私には、お金よりそっちの方がよほど重要だったと言うだけだよ」

「……やっぱり金持ちなんだ」

 今度はそれほど棘のない声で少年はそう言った。

「そうかな」

「そうだよ。でも、ま、許してくれるんだったら、別にそれでいいや」

 不意にからりと少年は笑ってみせる。鮮やかなその笑顔がやはり眩しくて、鴇も笑った。

「あんた、いい人だったし。ちょっと気が咎めてたんだ。……もう盗らないよ、あんたからは」

「……そんなにお金に困ってるのかい?」

「そうだったけど。……でももう、いいんだ」

 それ以上の問いを遮るように彼はそう言って笑ってみせる。

 大人びたその顔はもう陽とは重ならなくて、それ以上踏み込む事を戒めて鴇は彼のために新しいカクテルをオーダーする。

「今日も私と飲んでくれるかな」

「いいよ。……あんた、今日も淋しそうだね」

「そうだね」

 淋しいのは少年も同じだろう。

 けれどその事は口にせずに、鴇はただ笑う。夜の街ですれ違う相手に、それ以上のことは必要ない。

 傷つけず、傷つけられない関係が、どれほど楽で空虚かは良く知っている。

 けれど夜の街を体だけの相手を探すために彷徨わずに済んだことは、少しだけ鴇を慰めた。





















「あんたさ、ちょっとおかしいよね」

「そうかな」

「うん、ぜったいおかしいってば。あのさ、あんまり、この辺うろつかない方がいいんじゃないの。変なヤツの、カモにされちゃうよ」

「気を付けるよ」

 まともなことを言っているようだが実はろれつの回っていない少年に肩を貸し、大通りを地下鉄の駅を目指して鴇は歩いていた。

 少年は鴇よりも背が低く華奢だが、肩に掛かる重さは結構なものだ。

 時折よろけつつ少年に声を掛ける。

「ほら。どこに乗るんだい」

「んー」

「おうちは?沿線は、どこになるのかな」

「ねー、それよりさぁ」

 肩に回っていたのと反対側の手が、不意に鴇の首筋に回る。

「ね、ホテル行こうよ」

「え……」 

 どん、といきなりかかってきた体重を受け止め損ねて、よろりとよろめく。

「わっ」

 そのまま歩道の端に尻餅をついてしまった。鴇と一緒に転んだ少年は、それを気にも留めないようでぎゅうぎゅうと首筋にしがみついてくる。

「転んでしまったよ。起きないと」

「起きたいなら、オレとホテル行こうよ、ホテル」

「転ぶのとそれは関係がない気がするけどね……」

「いいじゃん。どうせあんた、今晩の相手、探すつもりだったんだろ?」

 的を射た言葉に鴇は苦笑する。

「優しい彼がいるんだろう?」

「……もう別れた」

 くすん、と鼻を鳴らす少年の言葉が本当か嘘かはわからない。

 酔っ払いの背を撫でながら、それもいいかなと思う。目の前の少年に対しての欲は沸かないが、どこかのホテルで少年を寝かせてしまっても良いかも知れない。

 しがみついたまま離そうとしない少年に、そう言おうかと口を開きかけたとき、頭上から声が降ってきた。

「なにをしている」

 この街では酔っ払いの奇天烈な行動など日常茶飯事だ。

 行き過ぎる人の眼などまったく気にしていなかったのに、不意に目の前に立ち止まられて鴇は眼を見開く。

「………貴志?」

「なにをしている、と言っているんだ。こんな所で」

 呆れたような声と共に伸びてきた手が少年の首根っこをひっ掴み、猫の子のようにひょいと持ち上げる。

「わぁ…っ」

 引っ張られた鴇も慌てて立ち上がり、少年を支えた。

「いったいな、オッサン……!なにすんだよ!」

「往来で転がっている方が悪い。鴇、この口の悪いガキはお前の友人か」

「あ、ああうん……そんなようなものかな」

 曖昧な返事をどう思ったのか貴志は眉を顰めている。

 二人を交互に見比べて、少年はふぅんと鼻に抜けるような声を上げた。

「なぁんだ。お迎えが来ちゃったのか。じゃ、オレ、帰るね」

「え……」

「あんたが淋しいの、そいつのせいなんだろ?ちゃんと話し合わなきゃ」

 そう言うと大人びた顔で笑って、少年は歩き出してしまう。

「あ、あの……気を付けてね!」

 その細い背に声を掛けると、人波の向こうでひらりと手が振られた。

「……大丈夫だと良いけど」

「それはこっちのセリフだ。お前、カモにされかけてたんだろうが」

「え……」

「どう見ても演技だぞ。あの酔っ払い方は」

「ああ……うん。そう言えば、そうだね」

 歩み去る足取りもしっかりしていた。あれならばうっかり絡まれたりすることもないだろうと一応安心する。

「……何ほっとした顔してるんだ」

「うん。あの様子なら平気かなと思って」

「心配されてたのはお前の方だろう。……淋しいのはオレのせいだと聞こえたが?」

「ああ、いや。それは彼の誤解だよ」

 眼を覗き込んでくる貴志に、慌てて手を振って否定する。  間近の眼が探るように細められて、誤解を受けるまいと鴇は言い募る。

「彼とは、この間も一緒に飲んだんだ。陽に笑顔が良く似ていて、慰めてもらったんだよ」

「慰めて?」

「変な意味じゃなくてね……一緒に飲んで、話をして、それで楽しかったから」

 何故貴志にこんな言い訳をしなくてはいけないのだろう。

 慌てて言葉を探す先から、不思議になる。

 多分この男が、こんな間近で顔を覗き込んでくるのがいけないのだ。遠い昔から身に染みついた習い性で、言葉を紡ぐことで彼の理解を得ようと足掻く。

「お前……」

 不意に貴志がふと眉を顰めた。なにか不興をかったかと無意識に肩が震える。

「……なに?」

「いや、いい。……とりあえず、飲み直すぞ」

「ええ?」

「付き合え。すっかり酔いが醒めた」

「な、なんで……」

 強引に鴇の腕を掴んで、貴志が歩き出す。

「ちょっと……貴志、私は」

 彼にもう会うつもりはないと思っていたのに、意外な場所で出くわしてから、その決め事がぼろぼろと崩れて行っている気がする。

 そうか、と貴志も言ったはずなのに。

「止めた」

「え?」

「もう止めたんだ。お前を、諦めることを」

「………え……」

 雑踏の中の言葉は聞き間違いかと思った。貴志は鴇の手を引いて前を向いたまま、表情も見せない。

 結局それ以上抵抗も出来ずに、鴇は、河岸を変えて飲み直すことになってしまった。






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