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◇ ◇ ◇

 

 ウェストエンド・カンパニーは渋谷に本社を置いている。

 十五階建てビルの最上階ワンフロアを借り切ったスペースはそろそろ手狭になってきていて、自社ビルを持つかと社内で検討中だが、なかなかいい物件が見付からない。

 かかる費用はともかく、輸入部門と空間プロデュース部門でそれぞれ譲れない条件が異なるため、折衝には時間がかかりそうだ。

 当分この狭い場所で我慢するしかないのかとほとんど机の目の前まで迫っているパーティションを見ながら貴志はため息をついた。

「社長」

 コンコン、と叩かれるノックも申し訳程度だ。

 何しろ社長室と言うものが無く、パーティションの向こうはもう普通の社員が働くフロアなのだから。

 自分としてはその方が社員や仕事の動向がわかりやすくて助かる部分もあるのだが、専務の弁としてはいちいち最高責任者の姿が見え隠れしては社員の士気に関わる、のだそうだ。

 ようするに社長に見せたくない事態をごまかしきれないらしい。

 社員十人が仲良く手を取って協力できるような小さな会社ならともかく、こんな規模の会社では有り得ないでしょう。

 少しは自覚してください。

 つけつけと社長に向かってそう言ってのけた専務が、パーティションを回って『社長室』に入ってくる。

 銀縁の眼鏡をかけた小面憎い顔を、思わずじろりと睨んでしまった。綺麗な造作に騙されると痛い眼を見る、という教訓の見本のような人間だ。

「あさっぱらからごきげん斜めですね。社長」

「……お前の顔を見たらまた厭なことを思い出した」

「それはそれは。私のお小言ですか」

「…………」

 にっこりと笑う顔は、本当に喰えない。

 この逆井という男は会社を興してからの知り合いだが、西崎に力を貸してウェストエンド・カンパニーをここまで大きくした立て役者でもある。

 そして空間プロデュース部門の総責任者だ。

 今度はなんだ、と問うと右上をステップラーで止められた書類を渡された。

「昨日の夜お会いするお約束だった、大洋建設の方からお預かりいたしました。社長にお会いできずとても残念ですと申されていましたよ」

「ああ……」

 十枚ほどの用紙をぱらぱらとめくって眼を通す。

「本当に昨日のドタキャンはどうしたんです。夕方には帰ってくる予定だったでしょう」

「一瀬団長に飲みに誘われてな」

「また後日にすれば宜しかったでしょうに」

「ちょっとな……」

 曖昧にごまかすのは、飲みの誘いを了承した理由が仕事ではないことを知っているからだ。一瀬の強引な誘いに鴇が頷くのを見て、一も二もなく貴志も頷いてしまった。

 約束があったことを思い出したのはその後だ。

 慌てて逆井に電話をし、代わりに大洋建設との飲みの席に出席してもらった。

「まったく。どうしてあの劇団にそんなに肩入れしてるんですか?」

「将来性があるからな」

 それは嘘ではないが本当の全部でもない。

 鴇の作品を舞台化するという情報が入った途端、すぐに一瀬にアポを取って営業をかけに行った。

 向こうでも特殊な舞台効果を必要としていたのは僥倖だ。

 本人に会えるとは思いもしなかったが、どうしても、あの男の書いた世界を表現する舞台に関わりたかった。

「………今度こそ……胸を張って会えると思っていたんだがな」「え?」

「こっちの話だ。逆井、これは断れ」

「ええ?」

 書類を放り出した貴志に、逆井が慌てた表情を浮かべる。

「ちょっと待って下さい、社長。めったにない仕事ですよ?大型ショッピングモールの演出を、全て任されるなんて」

「確かに、めったにないな。こんな大きな仕事がどうしてここに回されたか知ってるか?」

「……それは、この会社の最近の業績の伸びを目に止めて」

「そんなのは建前だ。こんな大きな仕事なら、もっと大きな総合商社が請け負ってしかるべきだろう。ウェストエンド・カンパニーに任せられるのは、せいぜいこのショッピングモールの一区画だ」

「自分の会社を卑下するようなことを言わないでください」

「事実だろうが。お前、この仕事を引き受けてこの人数で請け負えると本当に思ってるのか?」

「………それは、派遣社員を」

「オレが派遣をあまり使わない主義なのは知ってるだろう。ったく……欲に目がくらんでんじゃねぇぞ。逆井」

 利に走るあまり、時折大局を見失う専務を貴志は戒める。

「よく調べて見ろ。たぶん、この計画は頓挫する」

「え?」

「地域住民、特に土地持ちの地主の反対がかなりある。それに、あそこは天然記念物の犬鷲の営巣地に近い。それを理由に世間に訴えれば、ショッピングモール自体が出来上がらない可能性が高いな」

「……………」

「建設会社側もその可能性に気付いてるんだろう。だから、うち程度の会社を選んだんだ。万が一の時に大仰な事態にならないように」

「………なるほど」

「納得できないならもう一度調べてみろ」

 逆井が大きなため息を落とし、癖のように眼鏡の位置を直す。

「いいえ。納得いたしました。社長の仰ることです、間違いはないでしょう。……まったくこの忙しさの合間にどこでそんな知識を得てるんだか………犬鷲の営巣地なんて、普通知りませんよ」

「新聞に載ってるだろうが」

「それでも普通は知らないんです。……だからこそ、あなたがこの社の社長なんですけれどもね。わかりました、この件は私の責任に置いてお断りいたします」

「オレの名前を出しても良いぞ」

「断り切れないときにはそうさせていただきますよ。……余計なお手を患わせて、失礼を致しました」

 丁寧に頭を下げて出ていこうとする男の背に、何故そんな気になったかは良く分からない。

 多分、自分とあまりにも違う考え方をする友人の意見を聞いてみたかったのだろう。

 自分とも、彼とも違う人間で、けれど信頼できる相手の。

「おい」

「なんでしょう」

「どうしても、諦めたくない相手がいたら、お前どうする」

「………は?」

「だから。……諦めたくない相手が、いたら」

 十七年。

 始終彼のことを考えていたわけではない。

 会社を立ち上げてからは忙しなく、部門が増え、徐々に成長していく間も、何一つ手の中から取りこぼすまいと必死だった。

 けれど季節の合間合間に届く手紙、そして書店で見る名前に、いつもどうしようもなく胸がざわめいていたのも事実だ。

 一冊一冊すべてにカバーを掛けて、本は、彼の寝室の書棚に並んでいる。

 一冊も取りこぼさず、整然と、染みすら付けないように。

 こんな風にしていたかったのだと気付いたのはいつだっただろう。

 本当は、大切にしたかった。

 脅さず、傷ませず、怖れさせることもなく、ただ大切に出来たなら、どんなに幸福だったことだろう。

 いまさらな感傷でしかないそれは、けれど、あの頃から抱えてきた真実だとも思える。

 いつでもなにかに怯えるように息を潜めていたあの少年を、労りたかったのだ。

「……関係にもよりますけれどね」

 何を言いだすのかとしかめ面をした逆井が、それでも答えを返す。

「諦められないなら諦めなきゃ良いんじゃないですか」

「……簡単だな」

「当たり前でしょう。むずかしく考えるから面倒になるんです。所詮自分の人生だ、諦められないと思ったら諦めなきゃ良いんですよ」

 書類を持ったまま、ふと逆井は遠い目をする。

「………人の関係はね。どっちかが意志を持って積極的に働きかければ、結構続くものです。……そこに何が介在するかは当人達次第ですが」

「………」

 ちらりと、逆井が眼鏡の下の切れ長の目で視線を寄越す。

「……まぁ、どんな関係でもね。業務に支障が出なくて、ついでに犯罪でなければ、私はかまいませんよ」

「お前に許可をもらう必要があるのか」

「有るに決まってるでしょう。仕事に関係するならね」

 まぁ、もしもなにかまた相談したくなったらいつでもどうぞ。

 明らかにからかい半分という口調でそう言って、逆井がパーティションの向こうへ姿を消す。

 勘のいい男に質問を投げ掛けたことを些か後悔しつつ、貴志は机に肘をついた。

 再会してからこっち、頭の中はあの男の事ばかりだ。

 随分と老けていた。

 そして、貴志の知らない、穏やかな優しい笑みを浮かべるようになっていた。

 真っ黒だった髪に目立つ白髪が混ざるようになるまで、あの男はどんな時間を過ごしてきたのだろう。

「………無理だな」

 結論を出す。

 あの時は出来なかったことが、今ならば出来るかもしれない。

 その可能性を諦める気にどうしてもなれない。

 十七年の歳月は、思うほどに自分達を変えていないのかも知れないけれど、それでも変わったものがあると思いたい。

 少なくとも、あの時確かに存在した理由のない焦燥と世界に対する闇雲な苛立ちはいつの間にか霧散している。

 自分の力で手に入れたものがある。

 そして、鴇を、尊敬している。

「人は、常に、善と悪の狭間で揺れ動かなければならない。そしてその善悪の定義を決めることすら、実は、人の心の内でしかないのだ……」

 書棚に並んだ本の一節を口の中で諳《そら》んじて、貴志は、覚悟を決めた。

 






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