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◇◇◇ 黄昏の国 ◇◇◇

 

 連休は行楽日和の晴天が続き、いつの間にか庭の花水木は満開になっていた。

 まるでたくさんの蝶々が群れたように見えるこの花は日向子が好んだもので、塀沿いに白と赤が交互に植えられている。

 長い間放置されていたせいで暗く鬱蒼と茂った庭を、時間をかけて整えたのは日向子と鴇だ。本職の植木屋のように美しい形にとは行かなかったけれど、二人がかりで勉強をして手をかければ、どうにか様にはなった。

 松に掛けた長い梯子の上から鴇を見下ろして、どう、と自慢げに笑った顔を昨日のことのように思い出せる。

 青空に映える花水木を見上げて、鴇は眼を細めた。

 朱とも紅ともつかないこの花独特の色味は、日向子によく似合う。

 一本切って仏壇に飾ろうかと思案していると、電話のベルが聞こえた。慌てて部屋に戻って受話器を上げると、途端に懐かしい声が零れてくる。

『もしもし鴇さん?起きてた?』

「ああ……陽。起きてるよ。そっちこそ、もう夜じゃないのかい」

『夜だけど、イギリスはまだ陽が沈まないんだよ。明るくって寝てらんない』

「そうか」

 軽やかな声が近況を語る。

 ハイスクールの放課後に行っている語学教室は、結構日本人を見かけること。

 ようやく日常会話がスムーズに出来るようになってきたこと。

 ロンドンは公園や街路樹の緑がとても多く、美術館や博物館も見放題で驚いたこと。  

「ああ……そういえば、こちらでも花水木が満開だよ」

『……そっか。そんな季節だね』

「うん。ロンドンには、無いのかい?」

『見かけないなぁ……植物もね、ちょっと違うみたいなんだ』

「そうか」

 鴇は日本から外に出たことがない。陽の居るイギリスの地は、一体どんなところなのだろう。

「……彼は」

『え』

「あの人とは、会っている?優しくしてくれるかい?」

『………へへ』

 暫しの逡巡と、照れて笑う気配。

『実は今、一緒に居るんだ』

「そうなのか」

『うん。彼の部屋からかけてる。明日は、一緒にイギリスの水族館に行くんだ。グリーンパークとかオペラ座とか、大英博物館とか、色々一緒に行ったよ』

「そうか……たくさん、優しくしてもらいなさい。そして、優しくしてあげるんだよ」

『うん…うん。わかってる。わかってるよ、鴇さん。……オレね、鴇さんの、そう言うところ大好き』

「僕も、陽の素直なところが大好きだよ」

 じゃあまたね。やがて少年の声がそう告げて、電話は切れる。

「………またね」

 そしてその度に、鴇はほっとする。

 言わなくても良いこと、無理なこと、無様な甘えを、今回も口にすることが無く済んだと安堵する。

 傍らに陽が居ないことにまだ慣れない。

 淋しさは飼い慣らしてもいつ牙を剥くかわからない野生の獣のようなものだった。

 望んで手を離したのにまだ諦めきることが出来ない。

「……どうしようもないな……ほんとに」

 呟いて時計を見上げると、もう十二時を回るところだった。

 今日は都心へ出向く用事がある。

 慌てて戸締まりと支度をするべく、鴇は奥の部屋へ向かった。

 

 











 

◇ ◇ ◇

 

「先生、ほらほら!見て下さい、あれ、俳優の中谷章ですよっ!」

「ああ……そう言えば、そうだね」

 しかし人を指差すのは良くないのではないか。

 そう指摘してみるが興奮しきった竹岡の耳には届いていないようで、また別の人物を見つけて声を上げる。

 苦笑して、鴇は周囲を見回した。

 決して狭くはない劇場は喧噪に満ちている。 

 舞台も広く、その上に立って読み合わせをしている人々に鴇は素直に感動していた。華がある、というのはこういうことを言うのだろう。

 身振り手振りの一つ一つが鮮やかで、眼を引かれる。

 この一ノ瀬劇団から鴇の小説を舞台化したいとオファーがあったのは去年のことだ。

 鴇は舞台に明るくないが、八木からの情報によると実力派を集めて昨今徐々に知名度を上げている中堅どころの劇団、とのことだった。

 鴇でも名前と顔が一致するような俳優が数人所属している。

 出版社に口説かれて頷いたが、こうして出来上がっていく舞台を見ていると良かったなと思う。

 自分の書いたものを望んでくれる人が居るのは幸運なことだ。

「楽しいものだね。こういうのも」

「だから、シナリオも四ノ宮先生が書けば良かったんですよ」

 呟くと竹岡が軽く非難をこめた視線を向けてくる。

 シナリオは当初、鴇が書く予定になっていた。しかしあまりの遅筆にどうにもならなくなって、別のシナリオライターが引き受けることになったのだ。

 鴇の作品を尊重しながら、良くできたシナリオに仕立て上げてくれたライターには感謝している。

「でも私は、筆が遅くてね……」

「知ってますよ。でも、時間は充分にとってあったでしょう」

 答えられずに鴇は苦笑する。

 彼が充分にという気持ちは分かるが、時間の感覚は人それぞれのものだ。

 私の十分が彼の十時間なのかもしれないなとふと思う。

 それでは苛立ちもするだろう。

 鴇の苦笑をどうとったのか、苛立った顔のまま竹岡が口を開きかける。その背に、声がかかった。

「お待たせいたしました」

「これは、一瀬さん。ご無沙汰しております」

 途端ににっこりと営業用スマイルを取り繕った竹岡が立ち上がり、座席を縫って現れた人物へ頭を下げる。

 鴇も同じく立ち上がった。 

 一瀬、と言うからにはこの一ノ瀬劇団の団長なのだろう。

 口ひげを蓄えた、恰幅のいい男だった。歳は六十を過ぎているだろうに、とてもそうは思えないエネルギーが白い髪の奥の眼に見て取れる。

「どうも、竹岡さん。で、そちらが……」

 少年のように浮き立った視線を向けられて、思わず鴇は笑ってしまう。

「始めまして。四ノ宮朱鷺《しのみやとき》です。……この度は、拙作の舞台化をありがとうございます」

「始めまして、四ノ宮先生!お会いできるのを心待ちにしておりました」

 ふっくらと丸い手が鴇の骨張った手を取り、ぶんぶんと興奮気味に振り回す。

「舞台化を志してからと言うもの、いつお会いできるかと一日千秋の思いで待っておりました。足をお運び頂いて有り難い限りですとも!!」

 いちいち大袈裟なリアクションをする一瀬は、本当に鴇に会うのを喜んでいるようだった。多忙と原稿を理由に出版社の依頼を断り続けてたことを少々後悔する。

 単なる出不精と、新しい人間関係に出会うことに消極的なだけだったのだが、劇団側としては原作者の来訪がないことにやきもきしていたのかも知れない。

「私は、本当に先生の小説のファンでしてね。今回のお話にOKを頂けたときには、小躍りして喜んだものですよ」

「それは、ありがとうございます」

「さ、こちらへ。先生の作品を舞台化させていただくスタッフ達にも会ってやってください」

 竹岡のことなどもう眼に入らない様子で、鴇の背を押して一瀬が誘う。

 舞台裏へはいると、出待ちの人々が一斉にこちらを向いた。

 主演の中谷章に、助演の斉藤あけみ、その他のキャスト達、照明担当、小道具係とめまぐるしく次々に紹介される。

 その誇らしげな様子に一瀬がどれだけこの劇団を大切にしているのかが良く分かって、鴇は胸が暖かくなった。

 この劇団に取り上げてもらえた事を良かったと思える。

「ああ、そうそう。それから、うちの団員ではなく、外注でお願いしている方なのですけれどもね。この舞台に、たいそう尽力して頂いた方を、ご紹介致しますよ。……西崎社長!」

 どきりと心臓が跳ねる。

 西崎はそう珍しい名字ではない。この東京にならばそれこそ何百人もいるだろう。

「西崎社長!いらしてください、四ノ宮先生をご紹介いたしますよ!!」

「……紹介して頂かなくとも知っていますよ」

 低い耳触りの良い声。

 振り返って鴇は眼を瞬いた。

 どこか困ったような、苦い笑みを浮かべる男の顔。

 それこそ俳優と言っても通るのではないかという独特の存在感と、男らしい美貌を持った彼の顔を、鴇はぽかんとして見つめる。

「………西崎先輩?」

「ああ」

 どうしてこんな所に彼がいるのかと、鴇は、暫し混乱した頭で考えた。

 

 










 

 鴇と貴志が元々の知り合いであることを知った一瀬は、それこそ子供のように喜んだ。

 そのまま少々強引に団員達との酒席に引っ張って行かれ、貴志の隣に座らされて、グラスを傾ける羽目になった。

 どうしてこういうことになったのかと思いながら一瀬に注がれたビールをきれいに空けると、伺うような視線を隣から感じる。

「……なんだい?」

「いや……アルコールは平気なのか」

「強いよ。めったに酔わない」

「……それはまた、意外だな」

 それはそうだろう。学生時代の鴇しか知らないのだから、酒に強いことなど知らなくて当然だ。

「……貴志は?」

「まぁ、それなりに」

 それなりに、などとうそぶいて見せても良い体躯をした男が相当酒に強いのは察せられる。

「おお、グラスが乾いてしまいましたね」 

 既に真っ赤な顔をした一瀬がぐいとビール瓶を突き出すのを、苦笑して鴇は断った。

「日本酒にしてもよろしいですか」

「かまいませんとも!先生、いける口ですな。おーい、こっちに酔鯨一つ!」

 店のお薦めらしい日本酒を頼むと、一瀬は酔っぱらった顔で二人に向き直る。

「で、お二人はどういうお知り合いで?」

「……ぁ……」

「学生時代の先輩後輩ですよ」

 鴇が口を開く前に貴志があっさりとそう言った。

「ああ、なるほど!大学で?」

「いや。オレも鴇も、大学は行っていないんです。高校のですね」

「おお、私も大学は行っていませんとも!」

 共通項に気をよくしたのか一瀬が口ひげを揺らしながら大きな声で笑う。

「ほう、ほう。それでは四ノ宮先生が西崎社長の先輩だったんですなぁ。それはさぞかし良い先輩だったことでしょう」

 うんうんと頷く一瀬の勘違いを正そうかどうしようかと思っているうちに、貴志が口を開く。

「残念。外れです。私が、四ノ宮先生の先輩ですよ」

 眼を白黒させた一瀬が二人の顔を見比べる。

 苦笑して鴇も口を開いた。

「私の方が年上に見えるでしょう。すっかり枯れた生活をしているうちに、髪まで白くなってしまいましたからね」

「失礼ですが……先生は今おいくつで?」

「三十四になります」

「なるほど、なるほど」

 赤ら顔のまま、うんうんと感じ入ったように一瀬が頷く。

「さぞかし、色々なご苦労をなさったんでしょうなぁ。だからあれだけ深く優しい文章をお書きになれる。先生のお人柄が、お顔にも、小説にも現れていらっしゃる」

「いや……」

 面映ゆい賛辞にどう答えようかと迷っているうちに、貴志が一瀬のグラスにビールを注ぐ。酒席に慣れていない鴇はそんなところにはさっぱり気が回らない。

 社長と言うだけあって場慣れしている男は、先程からさりげなく端々に気を配っていた。

「……西崎先輩は、どうして舞台と関わっていらっしゃるんですか?」 

 結局話題を変えることを選んで、鴇はそう言う。

「西崎社長には、舞台の空間プロデュースをお願いしておるんですよ。もちろん当劇団にも大道具小道具の係りはおりますが、先生の小説は私共だけでは現せない場面も多くありましてな」

「……そうでしょうか」

「そうですとも!あの幻想的な雰囲気、色彩、小道具の一つに到るまで完璧を期するにはどうにも私共だけでは手が足りません。そこで、空間の魔術師と異名をとるウェストエンド・カンパニーにご登場願ったわけです」

 いちいち芝居がかった大仰な言い方をするのは、一瀬の習い性らしい。

「ウェストエンド・カンパニー……それが、西崎先輩の会社の名前ですか」

「そうですとも。業界で知る人ぞ知る、稀少な会社ですぞ。ウェストエンドに頼めば表現できない空間はない、という」

「よしてください、団長。たんなるなんでも屋ですよ」

 苦笑しながら貴志が一瀬の賛辞を遮る。

「ただ資材が豊富に揃っているだけです」

「ご謙遜を。優秀なスタッフを揃えておられるではないですか。おまけに社長も手腕もご立派でいらっしゃる」

 そのままとうとうとウェストエンド・カンパニーについて語りそうになる一瀬を、遠くの席から誰かが呼んだ。

「おお……少々失礼を致しますよ、西崎社長、四ノ宮先生。他の所へも顔を出さねばならぬようで」

「かまいませんよ。どうぞ」

「では。お二人は、ごゆっくり旧交を暖めてください」

 おぼつかない足取りの一瀬が、席を立って歩いていく。

 上座に取り残されて鴇は居心地悪く身動ぎをした。酒屋の喧噪の中で、それでも二人切りになったような気がする。

 沈黙の間に日本酒が運ばれてきた。

「……知っていたのかい」

「ああ。ずいぶん前から。……筆名があからさまだったからな」

「そうかなぁ……」

 本名の篠宮鴇を、四ノ宮朱鷺と、漢字を置き換えただけだ。

 単純と言えば単純だが、気付くほどに鴇に関心を持っている誰かがいるなどと思ってもみなかった。

「空間プロデュース、というのは?」

「ああ……ご大層な名前だがな、ようは場所の装飾だ。今回のように舞台美術もあるが、主にパーティ会場や写真撮影、特殊な建物の内装が多い」

「へぇ……」

「とは言っても、ウェストエンド・カンパニーの元々の仕事は輸入雑貨と家具だ。個人的な付き合いのあった写真家や建築家に、それらのリースをしているうちにいつの間にか今の形が出来上がった、という感じだな」

「会社が成長しているんだね。すごいじゃないか、しかも社長だ」

「お飾りだがな。実質、空間プロデュースの現場を仕切っているのは他のヤツだ。オレはその空間を作るのに相応しい材料を揃えるのが主な仕事だな」

「そうなんだ」

 当たり障りのない会話をしながら、鴇は、不思議な気分だった。隣にいるのが西崎貴志ではない、他の誰かのように思える。

 彼とこんな風に、ただの友人のするような会話を交わしたことはない。

 いいや、もしかしたら鴇が覚えていないだけかも知れない。

 もっと違う記憶に、掻き消されているだけなのかも知れない。

「……家は、継がなかったんだ?」

「ああ。用意されているものをそっくりもらうなんて、オレの柄じゃない。弟が継いだ」

「そうか」

 そこにはおそらくもっと違う理由がある。

 察することは出来たけれど問えるほどに彼の近くにいるわけではない。

「………お前は?」

「え?」

「お前はなんで、小説家になったんだ」

「………小説家、か……」

 これほど耳に馴染まない言葉はない、と鴇は思う。

 何故と問われても答えられない。そもそも自分が小説家と呼ばれるものであるかどうかも自分の中では曖昧だ。

「……なんとなく」

「なんとなくだって?」

「そう。書いて、日向子さんに渡して、そうしたらいつの間にか出版されることになっていた」

「……おいおい」

「おかしいと思うだろう?そもそも私は、ちゃんと小説家なのかな?」

「ちゃんと小説家、ってのがどんな定義なのかはしらんが」

 呆れられてしまったかと鴇は首を竦める。自分で会社を興し、それを成長させて、とりまとめている貴志からしてみれば、鴇の言い草などいいかげん以外のなにものでもないだろう。

「周りを見てみろ」

「え?」

 言われて、周囲を見回す。

 劇団の行きつけらしい狭い居酒屋は貸し切りで、座敷からカウンターまですべて劇団の人々と関係者が占拠している。

 西崎のように外注で関わっているもの、舞台の関係者、鴇がまだ紹介されていない人々もいる。

「……うん。人がたくさんいるね」

「その通りだ。このほぼ全員が、お前の作品を舞台化するために尽力しているんだぞ。いまさらお前が小説家じゃないったって通らんだろう」

「………そうかな」

「そうだ。自分のしたことには胸を張っておけ。一瀬団長は、本当にお前の小説のファンのようだしな」

「……そうだね」

 些か卑屈な物言いだったと、鴇は反省する。小説というものは読んでくれる誰かがいなければ世に出ることは出来ない。

 そしてその読者のうち何割かは、確実に、鴇の小説を喜んでくれているのだ。 

「そうだね。ちゃんと、小説家だって胸を張って言うことにするよ」

「そうしろ。……ついでに言えば、オレもお前の一読者だ」

「え?」

「今度の『黄昏の国』の舞台では二幕の海の底と、三幕の真珠館、黄昏の国の影絵をオレの会社で担当することになっている」

 早口に言って明後日の方を向くのは、もしや、照れているのだろうか。

 つられて、思わず鴇も顔を赤くする。

「そ、それは……どうも」

 ごにょごにょと礼を言い、鴇は手の中ですっかり暖めてしまった冷酒を飲み干した。

 






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