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◇ ◇ ◇

 

 空港のロビーで、鴇は目の前に立つ少年を見つめた。

 こうして改めて見てみれば、彼がいつの間にか随分と成長していたことに気がつく。身長こそまだ鴇に頭一つ分及ばないものの、手足はすらりと伸び、顔立ちは大人びてきた。

 寒くもないのに首には鴇の編んだグリーンのマフラーが巻かれている。

 真っ直ぐに鴇を見返す黒い眼が、始めて自分で自分の道を選び取った誇りに輝いていた。それでもまだこの手を離すには早いと、そう喚く心を鴇は押し殺す。

 考えてみれば鴇が始めて親元を離れたのも同じ頃だった。

 そして彼の両親も、十五の歳に寮に入ったきり家に戻ることはなかったのだ。今彼が巣立つのは、むしろ当たり前のことなのかも知れない。

 認められないのは自分の心だけだ。

「鴇さん」

「……約束、忘れないようにね。陽」

「うん。うん、わかってる……絶対忘れない。手紙も、書く。あ、成績表もちゃんと送るから。電話もするよ」

「うん。楽しみにしてる」

 陽の背後に立つ男は、黙って二人の別れを見守っている。

 彼に鴇は深々と頭を下げた。

「陽を、よろしくお願いします」

「ああ……安心してくれ」

「鴇さん」

 陽の手が鴇の服の袖口を掴む。

 小さな頃からそうするのが陽の癖だった。

 子供の頃を思い出す可愛らしい仕草に、笑って頭を撫でると、ぎゅうっとその手に力が籠もった。

「と、鴇さん……ねぇ、やっぱり一緒に行こうよ」

「え………」

「一緒に行こうよ。オレ達と暮らそう」

「……………」

「ね。位牌だけ、持っていけばいいしさ。鴇さんの仕事は、海外でも出来るじゃないか」

「………」

「鴇さん。一緒に行こう」

 陽の背後の男はなにも言わない。

 ただ、そこに在る何かを憐れむような眼で、二人を見ている。

「一緒に行こう」

 頑是無い子供のように陽が繰り返す。その眼の中にある不安も、本気も、わからないわけがない。

 ぽろりと、黒い眼から涙が零れ落ちる。

「……ッ」

 開いた唇が震える。

 その言葉を発するには、途方もない力がいった。 

 愛しい彼とこの先も一緒に暮らせるのは、なんて抗いがたい誘惑だろう。

 どんな場所でどんな国でも、ただ陽が傍らに居るならばそれだけで鴇には充分だったけれど。

 震える唇で、鴇は、いいや、と言った。

「陽。………ありがとう、そう言ってくれて。けれどね、僕はやっぱり、あの家で暮らすよ」

「………鴇さん」

「心配せずに行っておいで。そしてその先どんな道を選ぶにしても、三年経ったら、一度帰ってきておくれ。約束だよ」

「………うん」

「陽。気を付けて」

「うん。うん……鴇さん、大好きだよ」

「ありがとう。……僕も、君が大好きだよ。陽」

 さようなら。

 笑って別れの言葉を告げる。

 そう言う事が鴇が陽に出来る最後の餞だと、知っていた。

 振り返り振り返りしながらゲートをくぐる彼の背を、鴇は最後まで笑顔で見送っていた。

 

 
















 

 眼を覚ますととうに朝陽は高く昇っていた。

 いけない、寝坊をしたと布団をはねのけ、途端にぎしりと身体中を軋ませた痛みにたまらず呻く。

「……っ、痛、たたた……っ。……どうして……?」

 あらぬ場所から響く痛みは慣れたものだったけれど、昨夜の記憶が頼りなくて混乱する。

 昨日は原稿を出版社に届けに行って、そのまま新宿に回ったはずだ。陽を思い出すような笑顔の男の子と二人で飲んで、それから。

 ざっと首筋が泡立つ。

 それから。

「………まさか」

 カタカタと震える歯を思い切り噛み締める。

 鴇、と名を呼んだ低い声。街灯に照らし出された顔には、確かに覚えがあった。

 混乱した昨夜の自分をはっきりと思い出す。 

 十七年の時間が意味を失い、瞬く間に引き戻されるあの感覚。

 どれだけのものをその後に積み重ねても忘れることはないのだと、まざまざと知った。

 軋む痛みも、幾つも散った痕も、鴇を混乱させようとする。

「……ッ」

 ざわりと感覚の甦る掌に強く爪を立てた。

 けれど大きく息を吸って、吐いて、鴇は現在を取り戻した。

 ここは曖昧な夜の闇ではない。昇った朝陽の清冽な光は、人の足元を照らすに十分な力を持っている。

 よろけながら立ち上がると、布団の脇に黒い上着が放り出されているのが見て取れた。

 その脇には丸められた半乾きの白いタオル。

 体が吹き清められていることにふと鴇は気付く。これは彼のしたことだろうかと戸惑いながら、ようよう服を身に纏い、タオルを拾い上げて廊下に出る。

 洗濯機にタオルを放り込んでから彼の姿を探した。  

 上着があるのだから、帰ってしまったということはないだろう。

 廊下の奥の、左側の障子が、大きく開いている。

「……………」

 深呼吸をし、震える歯を喰い締めて、鴇は仏壇のある部屋に入った。

 黒い仏壇の前に座り込んでいる広い男の背。

 記憶にあるよりも大きく、厚く、固い体だった。細い息を絞り出すようにして鴇は彼の名を呼ぶ。

「………西崎先輩」

 ゆっくりと男が振り向く。

 途端にびくりと肩が震えて、鴇は、昨夜のような混乱に陥らないよう強く掌に爪を立てた。

 鴇より一つ上だから、彼ももう三十五の筈だ。

 大人になったのだ、とふと思った。

 十七年の歳月が経ったのだ。

 鴇が歳を重ねて変わったように、彼ももちろん変わっているはずだった。

 けれど不思議なことにそんな風に考えたことは一度たりともなく、思い返す彼の姿はいつでも十八のままだった。

 十八の彼の顔が、ぶれるように視界に重なり、そして目の前にいる男と重なった。

 彫りが深く鼻筋の通った顔も、いつも浮かされたような強い熱を浮かべていた眼も、がっしりとした体つきも、覚えているのと同じようで違っている。

 昨夜はきれいにセットされていたのだろう髪が乱れて、彼の精悍な男らしさに陰を添えていた。

「………佐々木は」

 ふ、と彼が口を開いた。

「亡くなってたんだな」

 記憶にある声が、懐かしい名前を呼んで、ふと鴇は手にこめた力を緩める。

「うん。……四年前に。……知らなかったのか?」

「………いいや。クラスのヤツから話は聞いてた。手紙も来なくなったしな。………ただ、実感がなかっただけだ」

「………そうか。ああ、ちょっと待って」

 鈴虫を鳴らそうと伸びる手を、慌てて止める。

「いま、お茶だけでも取り替えてお灯明をつけるから。ちゃんと手を合わせていってくれ」

 昨夜、そのままにしてしまったご飯とお茶を慌てて取り上げて、台所へ向かう。薬缶を火にかけていると花瓶を持った男が台所ののれんをくぐった。

「ああ、ありがとう西崎先輩……そこに置いて」

「貴志、だ」

「え」

「そう呼べと言ったろう」

 花瓶を置いた手がふと鴇に向かって伸びる。

 さらりと腕を撫でられて硬くなると、見上げた顔が苦い笑いを浮かべた。

「……昨夜オレがなにをしたか忘れたのか」

「………いや……」

「一つを考えるとすぐ他のことがどうでも良くなるのは、変わらないな」

「………そうかな」

「でも、オレも……大して変わってはいないようだ」

 望むほどに歳月は人を変えない。

 鴇もそう思う。

「お前に暴れられて……あの頃の気分になった」

「………」

「これはオレのモノで……どうしても、なにをしてもいいものだと、思っていた。……馬鹿な話だ」

 十七年前。

 昨夜の、時が巻き戻ったような奇妙な感覚は朝の光に取り紛れて、消えてしまった。

 けれど残滓だけが二人に纏い付いている。

「……昨夜のことは……忘れよう。貴志。私も、おかしかった。君の顔を見て、ひどく混乱した」

 ふっと彼の顔を見上げ、勤めて笑みを浮かべる。

「……あまり変わっていないね。ずっと、男らしく、格好良くなったけれど」

「そうか?」

 鴇が、必死で場を取り繕おうとしていることに気付いたのだろう。

 貴志も微かな笑みを浮かべる。

「お前もあまり変わっていない……と、言いたいところだが、老けたな」

「まあね」

「白髪だらけじゃないか」

「私の方が年上に見えるだろう」

「………まったくだ」

 二人が並んで立って、鴇の方が年下だと思うものはまずいないだろう。それくらい、鴇の髪には白いものが混じり、顔は精彩を欠いて見える。

「顔色と肌艶が悪いせいだな……まったく、元はいいんだからもう少しどうにかしろと言っているだろう」

「……十七年前に聞いたね」

「佐々木にも言われていただろうがどうせ」

「そうだったかな……」

 支度をするまでとりあえずシャワーを浴びたらどうか、と貴志に勧める。

 風呂場に案内して戻ってくると、丁度薬缶が音をたてて沸騰を知らせた所だった。

 花瓶の水を取り替えて米を研ぐ。

 仏様の支度を終え、二人分の茶を淹れると、日射しの暖かい仏間へと戻った。

 

 

 仏壇に手を合わせ、長い祈りを捧げる男の背を鴇はぼんやりと眺めていた。

 自分の灯したものではない線香の香りを嗅ぐのは不思議な気分だ。

 長い間、この仏壇に手を合わせるのは鴇と陽の二人切りだった。

 晴記も日向子も、肉親の縁は薄い。

 手を解き、卓に向き直った男が、湯飲みを手に取る。

「……貴志、仕事は?」

「輸入雑貨と空間プロデュース、だな。良く言えば。実状はなんでも屋だが」

「そうじゃなくて……仕事に、遅れるんじゃないのか」

「今日は日曜日だ」

「……あ」

 鴇のような仕事をしているとどうにも曜日と日にちの感覚が薄くなる。そう言えばそうだったかと壁のカレンダーを見上げると、もう四月の最後の日曜日だった。

 昨日の祝日から世間では大型連休の筈だが、出版社にも休みという概念が稀薄らしい。

「最も、日曜なぞあって無きが如しだがな。……本当は、今日、尋ねてくるつもりだった」 

「え……」

「あんな真夜中に出くわすとは思わなかったんだ」

 緑茶で苦い声をごまかすように、湯飲みを傾ける。

「ここにお前が住んでることも知らなかった。あいつらには子供が居たって聞いたから、そいつと誰か親戚でも居るんだろうと思ってた。……言い訳にもならんが」

 すまなかった、と掠れた声が呟く。

 鴇はゆっくりと首を振る。

 では貴志は、鴇に会いに、この家に来たわけではなかったのだ。当たり前のことだと思うのにじわじわと胸に広がっていくこの失望はなんだろう。

 淋しさに弱気になっているのだなと思う。

「陽は……」

「陽?」

「日向子さんと、晴記の息子だよ。太陽の陽」

「ふん。日向と晴れの息子が太陽か。わかりやすいな佐々木のヤツ」

 あっさりとそう言って鼻で笑う貴志に、鴇も笑う。

「そう。でもほんとに、太陽みたいな子だったんだよ」

「……だった?」

 言葉を聞き咎めて眉間にしわを寄せる貴志に、慌てて鴇は手を振ってみせる。

「ああ、言い方が悪かった。陽はね、もうこの家にいないんだ。会えなくて、残念だろうけど」

「いない?……どうして」

「……ハイスクールから、イギリスに留学する事になったんだ。その間、この家は私が管理しているんだよ」

「イギリスに留学だって?それは思い切ったな」

「うん。会えなくて、本当に残念だね」

「別に良いさ。想像はつく」

 仏壇に視線を流して、懐かしむ眼を貴志はする。

「どっちに似ても言いたいことはずけずけ言って、時々気を回しすぎることがあって、容姿はそれなり、頭も悪くなく、でも時々周りがフォローに駆け回る羽目になるようなとてつもなくでかい間違いをしでかすんだろう」  

「その通りだね」

 あまりにも的を射た口上に鴇は声を上げて笑う。大切な友人二人の人となりを、十七年の間貴志が忘れていなかったことが、何故かとても嬉しかった。

「陽が帰ってきたら連絡をするよ。ぜひ、会ってもらいたい」

「陽が帰ってきたら、か?」

「え?」

「鴇。お前はもう、オレに会いたくないか」

 鴇は息を呑んだ。

 テーブルの向こう側で、貴志が、見たこともないような真剣な眼をしている。

 学生の頃の、あの暗い熱に浮かされたような眼とは違う。

 その深さに十七年という歳月を見て、鴇は言葉を失った。

「鴇。……オレに、会いたくはないか」

 伸びた手が、湯飲みに添えられた鴇の手に触れる。指先の熱さに目眩を覚えて、縋るように湯飲みを持つ手に力をこめた。

「鴇」

 弱い心はたやすく揺れた。

 彼ともう一度、最初からやり直せたならと、そんな夢を思ったことは幾度もある。けれどその度に幸福な結末など思い描けないことにも気付くのだ。

 鴇の弱さは人を傷つける。

 自分独りきりで抱えきることが出来ないから、人を巻き込んで、損なう。

「………ああ。もう」

 だから諦めることを覚えた。

 鴇に自分の弱さを教えたのは目の前のこの男だ。

 この再会にまた彼を傷つけることがあれば、もう生きてはいけない気がした。

「もう、君には会いたくない。貴志。……陽が帰ってきたら、連絡をするよ。晴記と日向子さんの子供に、会ってやってくれ」

「………そうか」

「うん」

 ゆっくりと手が引かれる。その指先がなにかを堪えるようにこぶしを作るのを、鴇はただ見ていた。

 自分の中にあの時の記憶があまりにも鮮やかなように、この男の中にも深い傷がある。それを、もう一度新しい関係を結ぶことで癒そうとするのは、おそらく正しい方法なのだろう。

 そうやって鴇を許そうとする貴志が、不思議だった。

 彼の中に鴇への憎しみはないのだろうか。

 けれど真正面からそう問えるほどに鴇は強くも図々しくもなく、ただなにかを堪えて苦い眼をした男に、笑ってみせる。

「……貴志のことは……とても、気に掛かっていた。……本当に、すまなかった。……謝って済む事じゃないが」

「もうよせ。それは終わったことだ、とっくの昔に」

「………君が、元気で、生きているなら、それで十分だ」

「………」

「君が、元気でいるなら……それだけで、十分だよ」

 呟くような声にこめた本気は、伝わっただろうか。

 暇を告げた貴志が席を立つ。

 まだ早い午前の光の中に、遠ざかっていく男の背が角を曲がって消えるまで、鴇はずっと見送っていた。 

 

 独りきりになった部屋の中で昨夜の残滓を片づける。

 シーツを剥がし、布団と上掛けを干して、洗濯機を回す。

 規則正しい水の回る音を聞きながら、ふと、昨夜の貴志との行為が記憶にあるものとまったく違っていた事に気がついた。

 暗闇の混乱の中の強引さではあったけれど、レイプと呼べるほどの暴力はどこにもなかった。

『鴇……鴇』

 ただ繰り返し名を呼ぶ声と、丁寧に体を慣らす指先の優しさが残るばかりで。

 その証拠に、抱かれ慣れた体であっても残るはずの翌朝の支障は、ほんの些細なものだ。

「優しく……なったんだな。貴志」

 彼のために、そして身勝手ではあるけれど自分のために。

 それはとても嬉しいことだと思う。

「……元気で」

 十七年の歳月が流れたのだと、鴇は、改めて強く思った。






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