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「どうしたの?」

「なにが?」

「なんだかすごく、淋しそうだよ」

「そうかな?」

「うん。泣きそうな顔してるよ」

「泣かないよ」

「………オレね、彼氏が居るんだけど」

「うん。君はかわいいから、大切にしてもらってるだろうね」

「へへ。……彼氏が居るから、それ以上はダメなんだけど。でも、隣で飲んでも良い?」

「一緒に飲んでくれるの?」

「うん。話したいことがあったら話しても良いよ」

「そう。ありがとう」

 ふふ、と笑う可愛い少年の笑顔。

 遠い人を重ね合わせて、笑い返すことが出来た。

 

 






 

 ほろ酔い気分で夜道を歩く。 

 風は火照った体に気持ちよく、どこからか花の香りがして、とてもいい夜だった。久しぶりに味わう穏やかな心持ちに、鴇は頬に笑みを刻む。

 ずっと笑顔で傍にいてくれたあの少年のおかげだろうか。

 淋しさが埋まることはないとよく知っていたけれど、それでも今は形を潜めている。

 皓々と照る月は白く、その美しさに眼を細めた。

 僅かに欠けて見えるから、十六夜か十四夜だろう。

 鴇の住む家の最寄り駅は、渋谷から急行を使って三十分ほどの場所にある。東京都の隣の県と言うだけで空は広く、喧噪も形を潜めて、家々もゆったりとした空間の中に建っている。

 深夜になれば通う人影もない暗い道を、鴇はゆっくりと歩いていた。 

 帰ったところで、家はしんと静まりかえっている。

 外灯もついていない玄関先は暗く、慣れるまでにはもう暫くの時間が必要だろう。

 花の香を嗅ぎながら、そう言えば庭の花もそろそろ見頃だろうかとふと気付く。

 もう植物が勢いを増す季節だ。

 様子を見て庭師も頼まなければいけない。

 角を曲がって、足元ばかりを見ていたので、鴇は直前になるまで気付かなかった。

 ふと顔をあげてぴたりと足を止める。

 門の前に人影があった。

「陽!?」

 声を上げて駆け寄る。そんなはずはないと頭のどこかではわかっているのに、本気でそう信じた。

「陽…っ」 

 けれど伸ばした指先は止まる。触れる前に、陽でないことはわかりきっていた。

 身長も、肩幅も、まったく違う。

 仄白く街灯に照らし出された人物は鴇よりも余程背が高く、闇に沈む色のスーツを着ていた。

「………っすみません……」

 僅かに後退る気配。

「……人違いを……しました」

 失礼いたしました、と震える声で頭を下げる。

 それと同時に、こんな深夜に門の前でこの人物はなにをしているのだろうという疑問が湧く。

「………鴇?」

「………え?」

 名を呼ばれて、顔をあげた。目の前の男の顔は、街灯の逆光で良く見えない。眼を眇めるようにして見つめる。

「……篠宮、鴇か……?」

 声が震えているのは気のせいだろうか。

「そうです。……失礼ですが、どちらさまで……」

 伸びてきた男の手が、腕を掴む。痛いほどのそれに驚いてとっさに払うと、まだ酔いの残る足元がよろけた。

 たたらを踏んで、頭半分近く上にある男の視線をもう一度見上げる。

「……ッ」

 息を呑む。

 記憶にあるより男の眼は暗く、顎の線は鋭く、肩幅も身長も比べものにならない。

 けれど間違えようもない。

 震える唇で彼の名を呼ぼうとして、けれど喉は違う音を作った。

「……ァアッ!」

「鴇!?」

 悲鳴のような驚愕の声を上げて踵を返す。門を叩き壊すような勢いで開け、庭の中に飛びこんだ。

「おい、鴇!!」

 背後から追いすがる声が、途轍もなく怖ろしかった。 

 玄関の戸を開け、鍵をかけることも考えないまま廊下の奥へ逃げ込む。

 自室の扉を開けたところで、背後から伸びてきた手が肩を掴んだ。

「鴇!おい、話を聞け……ッ」

「わぁあああっ!!」

 パニックに陥った頭では、男がなにを言っているかなど理解できるはずもない。

 ただ闇雲に腕を振り回し、悲鳴を上げて暴れた。

 知らない間に忍び寄って、追いついてきた、怖ろしいものからどうにか逃れるために。

「鴇ッ!!」

 怒りをこめた男の声。

 怖ろしくて竦み上がり、けれど抵抗を諦めることも出来なくて、上げた手が偶然男の頬を張った。

「……ぁ……」

「………鴇」

「………ぁ……あ」

「……随分な挨拶だな……鴇」

 じわりと男の唇が歪む。

 その笑みが心の奥に深い傷のように刻まれた記憶と重なって、鴇は震える。

 今が何時なのかも良く分からなくなる。

 ここはどこで、そして彼は誰だっただろう。

 着崩した黒い制服、乱れたシャツに、のし掛かる男の満足げな笑み。

「西崎……先輩……」

 暗い教室。倒れる椅子の音。廊下を歩く女子生徒の高い笑い声。

「貴志《たかし》だ……教えただろう」

「た……貴志……」

 いたい、と囁くように言う。ぎっちりと腕を掴んだ大きな手に力が籠もる。

「もう遅い」

 貴志が笑う。見慣れた、いいや、この十何年も忘れていたはずの顔で。

「煽ったのはお前だ」 

 ぐらりと視界が揺れる。背にあたる感触は教室の床のように冷たくはなかったけれどその事には気づけなかった。

「や、やめて……先輩」

「鴇」

「やめて………やめて」

 大きな掌が手首を戒めて、シャツを剥いでいく。

 もっとちゃんと抗いたいのに体が言うことを聞かない。

 いいや、抵抗してはいけないのだとどこかで思いこんでいるからだ。

「鴇」

 他の誰にも似ない声で、貴志は自分を呼んだ。

 そんな風に思ったのは、貴志やその友人達が、鴇を鴇として認めてくれていたからだ。

 糸車にかかった糸のように時は巻き戻る。

 ここは教室であり、のし掛かる男は自分を支配していて、抵抗も拒絶も許されない。

 伸ばした手は闇を掻き、やがて沈んだ。






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