>>> 3 <<<






 

「おはよう」

「おはようございます」

「いつも早いわね、篠宮《しのみや》さんは」

「ははは……」

 早いのではなく単に寝ていないだけなのだ。

 しかしいちいち訂正するのも面倒なので、斜め向かいの家の奥さんに曖昧に笑ってみせると、はそのまま掃き掃除を続ける。

 表と裏の通りをこの家の壁の続くところまで丁寧に掃き清め、日によっては水を打つ。

 集めた塵を片づけて中にはいると、薬缶から湯気が噴きだしていた。沸騰した湯をポットに移し、新しい茶葉を急須にあけて、小さな白い湯飲みに一番茶を淹れる。

 炊きたてのご飯をやはり白い小さな器に小さな丘のように形良く盛り、お盆に茶とご飯と水を取り替えた花瓶を乗せた。

 台所を出て右に折れ、廊下の奥の左側の障子が、目的の場所だ。

 一番最初に朝陽のあたる、一番眺めのいい部屋に、黒い大きな仏壇がある。

 障子を開け放つと朝の光が畳の部屋になだれ込んだ。

「おはよう。日向子《ひなこ》さん、晴記《はるき》」

 挨拶をして、お盆の上のものを一つ一つ降ろしていく。

 花瓶に生けられているのは卯の花に遅い水仙、レースフラワー、スターチスに千鳥草。

 白と青のコントラストが鮮やかなそれを受け皿に置くと、線香を一本だけ立てて鈴虫を鳴らす。

 チーン、という高い音が畳の上を流れていった。

 耳を澄ますようにその音を聞きながら、鴇は、仏壇に手を合わせる。

 台所にお盆を返すと、朝の仕事は終了だ。

 小さな欠伸を一つして、また廊下に出る。

 カーテンを引いたままの鴇の部屋はまだ夜の気配を残している。和室に本棚を一つと卓袱台を置いただけの簡素な部屋の、大半を占めるのは本と資料の山だ。

 さらにもう一枚厚手のカーテンを重ねて引くと、鴇は敷きっぱなしだった布団の中に潜り込んだ。

 深く、深呼吸をして眼を瞑る。

 カーテンを閉め、布団を被っても聞こえてくる微かな外の気配。鳥の声、人の挨拶、やがて甲高い子供の笑い声が行き過ぎていく。小学校の登校時間なのだろう。

 朝方の喧噪は徐々に徐々に遠くなっていく。

 そして浅い眠りの中に滑り込むのが、鴇のこのところの日常だった。 

 

 

















 

     ◇ ◇ ◇

 

 良く動く口だなあ。

 彼に会う度いつも思うことを、今日もまた思ってしまった。

 必要なこともそうでないことも始終喋り続けるそのエネルギーはつくづくすごいと思うが、自分に向けられると少々消耗するのも事実だ。

「ちょっと!四ノ宮先生、聞いてるんですか!?」

「はい。聞いているよ」

「じゃあもうちょっとちゃんと考えてくださいよ!」

 ばん、と手に持った書類を彼が二人の間のテーブルに叩きつけるように置く。

 今の音はこの衝立を越えた向こうのスペースにも聞こえてしまったのではないだろうか。

「おい。竹岡」

 案の定、盆を手に現れた知人は苦い顔をしていた。

 今まで勢い込んで鴇に喋っていた竹岡が、舌打ちをしそうな顔で黙り込む。

 鴇の前に茶を置きながら、八木が頭を下げて見せた。

「なにをでかい声を出した上に机まで叩いているんだ。失礼をするなとあれほど言ったろう。……すみませんね、四ノ宮先生。こいつ、勢い込むと止まらないことがあって」

「かまいませんよ。それだけ仕事熱心だと言うことでしょう。こちらこそ、お忙しい副編集長にお茶を淹れていただいて恐縮です」

「いえいえ、私と先生の仲じゃないですか。何を仰る」

「ありがとうございます。……それでね、すみませんが竹岡君。やはりこのお仕事は断らせていただこうと思います」

「どうして!」

「おい」

 大きな声を上げた竹岡の頭を、八木が小突く。

 そのまま隣に座り込むのを竹岡が横目で睨んでいた。

「次の本の出版が決まったばかりでしょう?私はあの本に、あと二章、付け加えたいんです。それを考えるととても新創刊の雑誌のラインナップに加えていただくことは出来ません。……とても有り難いお話だとは思いますが」

「しかし……!」

「おい、竹岡。あまり強引にするな。執筆のスピードは先生によって違うんだって知ってるだろう?」

「………八木さんは黙ってて下さいよ!」

「黙ってられるか。竹岡、仕事熱心なのは良いが、強引なのは欠点だぞ」

 悔しそうな顔で八木を睨む若い編集者に、おっとりと鴇は笑いかける。

「ごめんね。竹岡君。私は書くのがあまり早くないんだ」

「………」

「人によってそれぞれですよ。個性ってもんです。中には新刊が五年に一回って先生もいらっしゃる」

 早々に後退し始めている額をつるりと撫でて、八木が笑ってみせる。

 彼が担当だった頃には足並みが揃っていた。

 無理を通すこともないではなかったが鴇に余裕のあるときに限られていて、八木の懐の深さに感謝したものだ。

「じゃあ、そろそろお暇させていただきます」

 淹れてもらった茶を一口だけ飲むと鴇はそう言って、ソファから立ち上がる。

 今日の用事は遅れていた原稿を届けに来ただけの筈だったが、思いがけないところで時間を食ってしまった。

 編集部の顔見知りに挨拶をしながら狭い机の間を抜けて廊下へ出ると、慌てた顔をした八木が追いついてくる。

「四ノ宮先生!」

「どうしたんです?八木さん」

 いやぁ、と八木が笑い顔ともなんともつかない顔をする。

「……下までお送りしますよ」

「?かまいませんが……」

「いや……先生にご不快な思いをさせてるんじゃないかと気になって」

「不快?」

 なんのことか良く分からなくて小首を傾げると、エレベーターのボタンを押した八木が、いやぁと唸り声のような声を上げた。

「……四ノ宮先生がこんな事で怒る方じゃないってのは知っておるんですがね……なんというか、竹岡は、少々図に乗るところがあって」

「仕事熱心でいい若者じゃないですか」

「しかし、先生には失礼が過ぎる。重々叱っておくので、ご容赦下さい」

「怒ってなんかいませんよ。……けれど、雑誌の話は勘弁してくださいね」

「はい。竹岡にも言い聞かせておきますので」

 エレベーターに乗り込むと、額に浮いた汗をガーゼのハンカチで拭きながら、ちらりと八木が鴇の顔を伺う。

 その視線にこめられた気遣いに鴇は苦笑した。

「その……先生。今はお一人であのお屋敷に?」

「そうです。誰の眼も気にしない生活を送ってますよ」

「いや、しかし、それは……ちょいと、広すぎますねぇ」

 彼があの屋敷の事を言っているのだとわかって、苦笑を刻んだまま鴇は頷いた。

「そうですね。少々、私には、不釣り合いな家です」

「いえ、そういうことではなく……今度手みやげでも持ってお伺い致しますので、よろしくお願いしますよ」

「ええ、ぜひ」

 八木の気遣いに頷いて、鴇はビルのエントランスで別れを告げた。

 街の雑踏の中に歩き出しながら、ふと四つ角の有名なビルの天辺にある古めかしい時計塔を見上げる。

 短針は六を射している。

 まだ帰るにも、夕食を取るにも早い。

 どうしようかと暫く迷ったけれど、結局胸の奥に宿る人恋しさに押されるままに、地下鉄の階段を降った。

 






 4へ


index