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◇◇◇ 宛先 ◇◇◇

 

 八木から訪問の連絡が入ったのはその翌日の日曜日のことだった。

 編集部は土日も返上して働いていたらしい。

 合間を見つけてやっと来たという風情の八木の眼の下には黒い隈が浮いている。

「……ご迷惑をお掛けしているようですね」

「いえいえ!とんでもありません、こちらの方がよほど……」

 仏間に通すと、八木は、茶に口も付けず畳に手をついて深く頭を下げる。

「申し訳ないことを致しました。心からお詫び申し上げます」

「顔をあげてください、八木さん。もう良いんですよ」

「良くはありません。……先生が寛大なお心の方で良かった」

「寛大じゃありませんよ」

 苦笑すると、気持ちですがと八木が差し出す箱を受け取る。

 甘味をもらうのはいつものことだが、今回の箱は特別大きい。

「……食べきれるかな……今開けても良いですか?八木さんもご一緒に」

「では、お言葉に甘えて」

 手みやげの中からどらやきと茶通を選んで籠に入れ、テーブルに出す。

 神妙な顔をした八木は、その後の顛末を教えてくれた。

 竹岡は即部署を移動になったこと。やはり、編集部内での地位向上のために鴇の本の発行部数を上げようと画策していたこと。

 売れっ子の作家につく担当はやはり発言権が大きくなるんですよ、と八木は苦い顔で言った。

 ポスターとリーフレットは刷り直し、明日から書店その他に営業が配る手はずになっているようだ。

「こちらが刷り直し見本です」

 見せられたポスターの縮小版とリーフレットからはちゃんと鴇の名前が消えていて、やれやれと息をつく。

「本誌には、四ノ宮先生は急病のためと一枚ページをとることに致しました。……本当に、先生には申し訳のない話ですが」

「いえ……いいですよ。もう」

「そう仰っていただけると……大変ありがたいのですが」

 ふぅと息をついた八木が、茶を飲んで一拍置く。

「……それでは先生。重ねて大変申し訳ないのですが、仕事の話に移らせていただいて宜しいでしょうか」

「はい」

「書き下ろしの方は、終わって居られますか?」

「………あ」

 このところのごたごたですっかり忘れていた。気付けば日付は〆切を二日ほど過ぎている。

「あ、ええと……」

「………後二日、差し上げます。よろしくお願いいたします」

「あ、うん……頑張ります」

 と言う以外答えようがない。さて後何ページくらいかと思案していると、そして、と八木が続けた。

「雑誌の方の〆切は、七月末になります。とりあえず何を書くかの方向性だけでも教えていただけると有り難いのですが」

「…………」

 成り行きのまま引き受けてしまったのだ。当然、そんな事を考えているはずもない。

 昨日一日は貴志と過ごして終わってしまった。

 仕事も現実も忘れて一体何をやっていたのかと鴇は頭を抱えたくなる。恋に我を忘れるとはこの事だろうか。

「あ、あの……少し、時間を」

「わかりました…本当に、先生には申し訳ないのですが、書き下ろしの原稿と一緒に構想だけでも教えていただけると……」

「は、はい……」

 そんなものはこれから考えるのだ。

 果たして間に合うかどうかと戦きながら湯飲みを手に眉間に皺を寄せていると、ふぅと八木が息をつく。

「八木さん。おつかれですか?」

「ああ、いや……いままで少々、緊張しておりましてね」

「緊張?八木さんが?」

 長い付き合いだが、そんな言葉は始めて聞いた。

 いつでも笑顔を浮かべている八木は実は結構な曲者で、宥めるのもすかすのも脅すのも上手い。飄々と仕事をこなしているような彼にも、緊張する事態があるのだろうか。

「……この間は、先生の始めての顔を見せていただきましたからね。実のところ、仰天致しました」

「あ……」

 そんな事はもうすっかり忘れていた。

 海千山千の八木にまで緊張されるとは、一体どんな顔をしていたのだろう。

「あんな風にお怒りになる方だとは、思っても見なかった。普段優しい方ほど、怒るときは怖いというのは本当ですな」

「ああ……失礼いたしました。……そんなに怖かったですか?」

「ええ。まるで蒼白い炎が立ち上っているようでしたよ」

 鴇の怒りを詩的にそう評し、八木は苦笑する。

「鉄槌を下された気分でした。驕るな、と。忙しさを理由に人を蔑ろにしてはならないと、まざまざと思い知りました」

「……そんなつもりでは」

「いえいえ。私がそう受け取ったと言うだけのことです。私自身に、後ろ暗い所があったからですな。……先生はあまり我慢なさらず、ああ言う顔を時々はお見せになった方が宜しい」

 からりとそう言う八木に、今度は鴇が笑った。

「疲れるから、いやですよ」

「そう。怒る、というのは力を使うものです。正直、先生にああ言ったエネルギーがあることを知って、ほっと致しました。……先生の小説は、素晴らしいが、いつも少し、切ない」

「………」

「先生の一ファンとしては、喜ばしい事です」

「八木さん……」

 《空白の日》を含め、これで鴇の文章を最初からすべて読んだ事になった八木には、色々なことが見えているのだろう。

 けれどそれを一つも口に出さない思慮深さを、有り難いと鴇は思う。

「……ありがとうございます」

 何を言うべきかと迷って、結局口に出せたのは礼の言葉だけだった。言葉を操る職業だというのに拙《つたな》いなぁと鴇は思う。

 さらに八木がなにかを言いかけた時に、廊下から足音が聞こえた。

 貴志が障子を開けて顔を覗かせる。

「鴇」

「ああ……貴志。戻ってきたのか」

 着替えをとりに帰っていた貴志は、ラフなシャツに着替えていた。そう言えばスーツ姿以外を見るのはこれが初めてかも知れない。

 スーツの時より学生時代を思い出させて、思わず鴇は見惚れてしまった。

「失礼します、八木さん」

「西崎社長。……先だっては、ご迷惑をお掛けしました」

 貴志にも丁寧に頭を下げた八木が、鴇にしたように事の顛末を説明する。

 鴇の傍らに腰を下ろしてそれを聞いた西崎は、ただ頷いた。

「こちらこそ、失礼を致しました。他社の会議中に踏み込む様な無礼を、許して頂けて幸いです」

「とんでもない。……納得しております。編集長も」

「ならいいんですが。……八木さん、オレは、四ノ宮朱鷺のファンなんですよ」

「え?」

「だから舞台の演出を引き受けた。鴇が小説を書けないような事態には、間違ってもなって欲しくない」

「そう……そうでしょうとも」

 鴇と貴志の間にあった長い時間と確執を、八木は知らない。

 けれど幾度も幾度も頷いて、まるであの文章のことなど無かったかのように、何も聞かなかった。

 やがて帰っていった八木の背を玄関で見送ってから、鴇はふと思い出した。

 八木の持ってきた菓子を開けている貴志に、ねぇ、と声を掛ける。

「そう言えば君に預けたままだった。返してもらえるかな」

「なにを?」

「あの……文章を」

 あれを小説とは呼びたくない。もちろんエッセイでも自伝でもない。あれはただの、鴇の心を連ねた、文章だ。

 タイトルを付けるようなものですら、無かったけれど。

 人を殺そうとした手で、可愛い陽に触れることも躊躇われた日があった。全部を忘れようと思って、そうでなければ進めないと、闇雲に考えて。

 書くことで閉じ込めた気になった。

 月日が過ぎればそんなものはただの思い込みでしかなかったと知れたけれど、それでもあれはあの時鴇に必要なことだったのだ。

 だからタイトルを記した。

 まっさらな日から、始めたかったのだ。

「……ああ」

 微かに、貴志が笑う。

「あれは、返せないな」

「……何故?」

「だって、あれはオレのものだろう。鴇」

「え……?」

 鴇さえも良く覚えていない文章。

 多分貴志は、あれを、全部読んだのだ。

 帰りの銀座線の中で、子守歌のように聞こえていた紙をめくる音を、鴇は覚えている。

「鴇。あれは、お前からオレに宛てた、恋文《ラブレター》だろう」

「………」

 意外な言葉に眼を見開く。

 鴇、と恋人の甘い声で、貴志が名を呼んだ。

「お前の、あの頃の思いが……すべて書いてあった。オレに伝えたかったことが残らず」

「………」

「オレの前に他の奴等に読まれたのは腹が立つが、まぁいい。結局、オレの所に帰ってきたんだから」

「………貴志」

「オレが持っているのがいい。そして、時々読んで思い返すことにする。……あの頃のオレがどんなに愚かだったか。そして、どれほど、お前を、大切にしたいか」

「………そう……」

 鴇にも、それが一番正しい形のような気がした。

 文章に連ねながら、この言葉は一番読んで欲しい人には決して届かないのだと思い続けていた。

 けれど彼への思いだけをひたすらにこめて綴ったのだから、確かにあれは、手紙だったのだろう。

 鴇が連ねた文章は渡るべき人の手へ、渡ったのだ。

「そう……そうだね。貴志が、持っていてくれると、嬉しい」

「ああ。大切にする」

「ようやく、僕は………許された気がするよ」

 そう呟いて笑えば、貴志は顔をしかめて鴇を抱きしめた。

 鴇を本当に許さなかったものがなんなのか、貴志には、良く分かっているのだろう。

 いつでも人は己の心に一番強く縛られる。

「鴇」

「……ん…」

 繰り返しキスをして、じわりと身体に熱が籠もるのを感じると、慌てて鴇は貴志を押し退けた。

「ちょ…ッ!タンマ!貴志!」

「タンマってお前……ガキか」

「駄目だって……僕、原稿書かないと!」

「ええ?」

「〆切、もう過ぎてるんだよ……!」

 慌てて貴志の腕から飛び退くと、あぁ、と貴志がカレンダーを見上げて不機嫌そうな声を上げる。

「六月末だったっけ」

「そう!しかも、雑誌に新連載する小説の事も考えないと……」

 暫く忙しくなるから、というと露骨に眉間に皺を寄せる。

「……せっかく恋人同士になったってのに」

「しょ、しょうがないじゃないか……そう言うわけだから、暫く部屋に籠もるから、貴志、帰っても良いよ」

「おいおい、帰っても良いって……」

 呆れた声を上げる貴志を後目に、鴇は慌てて部屋に戻る。

 あのまま一緒にいてまたべたべたしてしまったら、時間がいくらあっても足りない。

 空気を入れ換えるために窓を開けて、敷きっぱなしの座布団に座り、ワープロの電源を立ち上げる。

 暫くして襖をとんとんと叩く音が聞こえた。

「な、なに?」

「ったく……びくびくするな。オレは、作家の『四ノ宮朱鷺』のファンなんだ。創作の邪魔はしない。……多分な」

「……たぶんって」

「夕飯、何が喰いたい」

「え……」

「買い物に行ってくる」

 意外な言葉にびっくりする。

「……貴志、料理できるの?」

「当たり前だ。何年一人暮らしをしていると思ってる。何が喰いたい?」

「え……じゃあ、和食」

「大雑把だな……まあいい、わかった」

 向こう側で遠ざかる気配。慌てて鴇は襖を開いた。

「貴志!」

「なんだ」

 玄関で靴を履く背に、慌てて声を掛けると貴志は振り返る。

「あ、ええと……いってらっしゃい」

「ああ。行ってくる」

 そう言って、彼は、玄関から出ていく。

 その背を見送ってから鴇は部屋に戻った。ワープロの前に座り、キーボードに指を置く。

 開けた窓から滑り込んだ風が、夏の匂いを運んでくる。

 机の下に、鴇が封じていた過去は、もう無い。

 やがて聞こえ始めたキーの音は、リズムを持つ音楽のように流れて、鴇の指の下で新しい物語を綴っていった。

 





















こちらの初出は06年5月に出しました「やさしい支配」という同人誌です。
あれからもう4年か、早すぎる…!!
こちらの物語が当サークルを知っていただくきっかけになればいいなあと思ってネットに載せてみましたが、この話を楽しんでいただけたならそれだけでも満足でございます。
そういえばどこにも書いたことがなかった気がいたしますが、
この物語のテーマソングは一青窈氏の「ハナミズキ」です。
テーマというかなんというか、カラオケで友人があの歌を歌ってくれたとたんがーっと鴇さんが出てきて一曲の間に話が出来上がったという裏話が。
そんなわけでハナミズキの花の画像が使われております。
花らしいところが実はガクという地味な花ですが、独特の可憐さが好きでございます。
五月に似合う。

読んでくださってありがとうございました。




10/11/02了


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