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◇◇◇ 十七年 ◇◇◇

 

 もう大丈夫と言った鴇の言葉に耳を貸さず、貴志は家までついてきた。

「貴志……会社があるだろう」

「平気だ。オレの会社のスタッフは優秀だからな。明日は休みだ、ちょうど良いだろう」

 社長がいなくても会社は回る、などとと飄々と言ってのけるから鴇は困る。

 優しくされるのはとても心地いい。

 それが他の誰でもなく、貴志だからだと気付いている。

 家に帰り着いたときには夕刻になっていた。

 眠っている鴇を起こさないまま、銀座線は渋谷に着き、さらに浅草まで行って、帰ってきたところだったらしい。

 仰天した鴇に、疲れたんだろうと貴志は笑っていたが。

 自分の部屋ではなく仏間に貴志を通して、買ってきた弁当を二人して開ける。食欲はあまりなかったが、食べろとせっつく貴志のおかげで半分くらいはなくなった。

「……お前、アルコールで生きてるんじゃないだろうな」

「まさか。……今日はちょっと、食欲がないだけだよ」

 食事を終えると、貴志の望みで電気を消し、ランプを点した。 蒼い、ぼうっとした光に鴇はため息をつく。

 不思議に心が凪いだ。

 言わなければと思いながら先送りにしていた言葉が、口をついて出る。

「今日は……本当に、すまなかった。貴志」

「もう謝るな」

「……何度でも、謝るよ。……僕があんなものを書いたせいで、君に余計な恥を掻かせた」

「恥?」

「……あんな、話を……」

「間違えるんじゃない。鴇」

 鋭い声が鴇の自嘲の言葉を遮る。

「本当に恥なのは……あの頃のオレの愚かさだ。お前はただ記しただけだ。ついでにいうと今一番悪いのはあの竹岡とか言う馬鹿だ」

 貴志の言葉は優しい。

 それが切なくて、鴇は、机に付いた手に顔を埋めた。

「……もう、止めよう。貴志」

「鴇?」

「もう……ここに来ない方がいい。別れよう」

「………」

 絞り出した声に、暫しの沈黙。

「……別れようと言われるほどのことはまだ始まっていないと思うがな」

「貴志。……僕は、君を、傷つけることしかできない」

「………」

「……以前も…今も。初めにも言った……僕達は変わったけれど、望むほどに、変わってはいない」

 深い、ため息が聞こえた。

「一番最初にこの家に来たのは、四月の中頃だったか」

「……そうだけど……それが」

「あの時、オレは、お前の居場所を聞くつもりだった」

「……え……?」

 唐突な言葉に鴇は首を傾げる。

「陽に……会いに来たんじゃ」

「そうだ。晴記の息子にあって、鴇、お前の居所を聞くつもりだった。お前は知らなかっただろうが晴記は時々お前の近況を手紙でオレに知らせていたんだ」

「え……」

「最も、この家に住んでるって事は書いていなかった。知らせた途端、オレが会いに飛んで来かねないってわかってたんだろうな」

 始めて聞く話が次々と明かされる。

 鴇は言葉もなく、ただ前に座る男の少し疲れたような顔を見つめた。

 三十半ばを迎えた男の陰が、その彫りの深い顔にあることに不意に気付く。

「お前に……会おうと思った。ようやく、その覚悟が出来た」

「………」

「今度こそ、傷つけず、ちゃんと話が出来ると思ってた。そして友情でも愛情でもなんでも良いが、新しい関係が築けると思ってたんだ」

 ざまぁないな、と貴志は嗤う。

「そのあげくが、あの夜だ。あっという間に我を忘れた。お前に夢中になって、何も考えられなくなった」

「そんな……事は」

「本当だ。……鴇。十七年の間、オレは、お前を忘れなかった。忘れたつもりでいても、すぐ手元に返るほど、お前がオレを支配していた」

 テーブルの向こう側から手が伸びる。

 蒼いランプに照らされた大きな手は、不思議に優しい手つきで、鴇の頬を撫でる。

「鴇。お前も、そうだろう?」

「………」

「オレを、忘れていなかっただろう?」

 弱々しく、鴇は、俯いてその手から逃れた。

「………駄目だよ。貴志。僕は……とても、とても弱いんだ」

「鴇?」

「弱いから……すぐに縋ろうとする。相手のことも考えず、めちゃくちゃに」

 強く瞑った眼の奥に、陽の泣き顔が見える。

 そして笑う晴記の顔、日向子の顔。

 苦痛に青ざめた貴志の、血に濡れた顔。

「陽を……どれほど、僕が縛っていたか、君は知らない。どれだけ浅ましく僕があの子を繋ぎ止めようと思ったか」

「………」

「泣かれて、ようやく気付いた。あの子をここに縛るのが僕の独善だったって」

 堪えようと思った涙が頬を伝う。

「同じように……僕は君を縛る。いいや、きっともっと酷く。今度こそ、君が離れようとしたら、殺してしまうかも知れない」

 ただ、怖ろしかった。

 成し遂げるだけの意志が自分にはある。望むものを、壊してでも手に入れようとする強欲が。

「……馬鹿が」

 舌打ちをする音、そして伸びてきた強い手が、無理矢理鴇の顔をあげさせる。テーブル越しに、貴志が鴇の唇を奪った。

「……っ、貴志……ッ」

「あぁ……邪魔だな」

 片手で貴志が卓を押し退ける。

 軽々と引き寄せられて、その心地よい熱に抗おうと鴇は突っぱねた。

「鴇。聞け」

「……だめだ……」

「聞けよ。……お前に支配されてるって言っただろう。十七年。手放したくないのが、お前だけだと思ってるのか?」

「………」

「オレも、お前を、離したくない。……殺してでも、繋ぎ止めたいくらいに」

「……うそ、だ……ッ」

「本当だ」

「嘘だ……だって」

 混乱する。

 思い出すのは、あの日の晴記と貴志の会話だ。

 生徒会室の前の廊下で、望まない立ち聞きをしてしまった、惨めな記憶。

「だって……君は、僕と、別れるつもりだった」

「……いつの話だ」

「君が…卒業する前。晴記と、話しているのを……聞いたんだ」

「………あのことか」 

 貴志が苦い顔をする。彼も覚えているのだろう。

「聞いていたのか……間が悪い奴だな」

「……ッ」

 暴れて逃れようとする鴇を、貴志が力ずくで押さえ込む。

 畳に押し倒した手は、けれど乱暴ではなかった。

 蒼い海の灯火が照らし出す貴志の顔を、荒い息を堪えて鴇は見上げる。

 深い苦渋が刻まれていた。

「あの頃は……馬鹿だったんだ。オレは。お前と離れられると思っていた」

「……ッ」

「馬鹿な考えだったと………気付いたのは、あの日だ。お前に殺されかけた日」 

「………貴志、ッは、はなして……」

「お前の眼を……近くで見て。どれだけお前に捕らわれているか気付いて。そして、お前が、オレとの関係にどれほど疲れて傷ついていたかを、知って。……眼を覚ました病院のベッドでさんざん佐々木に詰られた」

 苦痛を宿した眼が、蒼い光を映して揺らめく。

「お前を……傷つけない自信が出来るまで近寄るなと言われた。………鴇、いまさら言っても仕方がない事かも知れないが……佐々木や、高瀬と同じように、オレもお前を大事にしたいと思ってた。……出来なかったのはオレの愚かさと傲慢だ」

「………貴志」

「お前を支配して、思うように操るのが、手に入れる術だと思っていた。身体を繋げればそれで良いと……思っていたんだ」

 愛しているんだ、と吐息のように小さな声で貴志が呟いた。

「やり直したい。二度と、お前を傷つけないよう努力する。お前に……あんな眼を、させないように」

「………ッ」

「鴇。オレは、お前の……優しさや、従順さだけを愛したわけじゃない。お前のその意志の強さを、尊敬している」

「………なにを」

「陽の手を……離したんだろう?彼を、尊重して」

 唇が落ちる。

 額に、頬に、幾度も幾度も優しい感触が触れる。

「それも、お前の、意志だろう?」

 どこまでも鴇を肯定しようとする声に、目尻に堪った涙がぽろりと零れた。それを舌先で舐めとって、貴志が囁く。

「そんなに怖がらなくて良い。鴇」

「怖がる……?なにを……?」

「お前はもっと心のままにして良い。愛することも……憎むことも」

「だめ……だよ」

「駄目じゃない。……とりあえず手始めに、オレを愛していると言ってみろ」

 傲慢な、けれど優しい言葉。

「言えるだろう?鴇。……オレは、お前を、愛している」

「……ッ」

「もう繰り返さない。お互い、それくらいの分別はつく歳だからな」

 笑い混じりの声が鴇を促す。

「言ってみろ。鴇。今度こそオレは、お前を裏切らない」

「……君を」

 陽が送ってくれたランプの蒼い灯火が、鴇の心を映すように揺らめく。 

「……君を、愛している……ずっと。十七年のあいだ」

「良く言った」

 満足げに笑う貴志が、キスを仕掛けてくる。

 深く重なった唇は呼吸と舌を搦めて、長く続いた。

 ざわりと、貴志の手が不穏に動く。止めようと一瞬思ったけれど鴇の理性も長くは続かなかった。

 掠れた声を上げてシャツの下に滑り込んできた掌の熱を受け止める。

「今日……お前、あの眼をしてたな」

 上がった息で貴志が睦言のように囁く。

「あの……眼?」

「そう。あの日の……あの顔に、良く似ていた」

 言われた言葉に覚えがあった。居たたまれない羞恥と後悔に、鴇は顔を背ける。

「怒っていたんだな。鴇」

「………そうだよ。僕は……怒ってた」

「魅力的だったぞ」

「………何を馬鹿なこと」

「本当だ。あの時も……オレは、お前の眼に見惚れた」

「……………」

 囁く貴志の言葉に嘘は欠片も見当たらない。

「こんなに強い眼をする奴だったかと、思った。結局あの頃のオレは、お前のことが少しも見えていなかったって事だ。無くしそうになって始めて、オレの中に出来上がっていたお前の価値に気付いた」

 ざわざわと胸を伝い、骨格を撫でるように丁寧に愛撫していく掌や、耳元で囁かれる言葉、のし掛かる体の熱さが、鴇を支配していく。

「鴇。……その優しさと、意志の強さが、好きだよ」

 あそこで殺されなくて良かったと笑い混じりの声が囁く。

 堪らなくなって鴇も貴志のシャツに手をかけた。

 開いたその中には、無惨な傷の跡がある。

 指で触れるだけでは足りずに、鴇は首を起こして癒すようにその傷を舐めた。  

「おい……煽るな」

「僕は……君の痛みを知らない。君が、どんな風にこの傷を治したか」

「楽なもんだったぞ。なにしろ、完全看護の病院だ」

「………嘘つき」

 傷跡は小さいように見えた。

 けれどこの場所を貫いた感触はまだ鴇の手の中に残っている。

 心にも。

 一生忘れることのないその痛み、罪は、鴇が背負っていかなければならないものだ。

 けれどそれと同じように、貴志の中にも消えないものがあるのだろう。

 この再会を、鴇は今、心から喜ぶことが出来た。

「………貴志。君を、愛してる」

「ああ」

「昔、出来なかったことが……今はきっと、出来るんだ」

 自分に言い聞かせるように鴇が呟くと、貴志は、笑う。

「当然だ」

 後は言葉もなく抱き合う。

 荒い息を搦めて、切り無くキスを繰り返した。肌に触れて、熱を分け合い、隅々まで確かめるように辿って。

「鴇……鴇。……痛く、ないか……?」

「っへいき……、もっと、動いて……」

「……あまり、煽るな」

 低く呻く男の、歳月を刻んだ顔が、蒼い闇に浮かぶ。

 堪らなく愛しくて、指先で確かめるようにその頬に触れる。

 やがて繋がった身体の奥の熱は、鴇に、堪えきれない声と涙を零させた。

 

 

 
























 

 

 鴇の部屋から持ってきた毛布を彼の身体に掛けて、貴志は煙草に手を伸ばした。

 ちらりと仏壇を見やる。

「……今日だけ、勘弁しろ」

 煙草は害毒だと言い切っていた友人は、怒るかも知れないけれど。

 昨夜自分達の行為を出歯亀したお返しだと勝手な理由を付けて、煙草に火を灯す。

 早い朝の光は、もうこの部屋に射し込んでいた。

 鴇は目覚める様子もない。

 その穏やかな寝顔を見ながら、貴志は煙りに紛れて深く息をつく。

 色々なことに、昨夜、けりが付いた気がした。

「……佐々木。喜んでくれるだろ」 

 誰よりも自分達のことを案じていた親友に話しかける。

「ようやく……始められる」

 お前が追いつめたんだ、と彼はいった。 

 微塵も容赦のない言葉が、真実だと、病院のベッドの上で貴志は知った。 

 自分の愚かさを悔いてもそれは取り返しの付かないことだと思っていた。

 鴇を探し、家に保護して、彼にここに住む理由と生き甲斐を与えたのは晴記だ。 

 貴志は、なにもできなかった。

 彼と高瀬と、そして陽という少年がいたからこそ、いま貴志は鴇とやり直せるのだ。

 十七年の歳月が鴇に与えたのは、幸福と家族だった。

 そして、確かに彼の足元にある地面。

「感謝するよ。佐々木、高瀬。ほんとに」

 出来れば面と向かって言いたかった。けれど、彼らは当にここを去っている。

 後悔は数え切れない。

 二度取り戻せないものもある。

 もの思いに沈んだ耳に、不意に電話のベルが響いた。

「……っと」

 鴇の眠りを邪魔するまいと、とっさに灰皿代わりの缶に煙草を押し潰し、子機を取り上げてしまう。通話ボタンを押して、しまったと思ったけれど切るわけにもいかない。

 大方編集部だろうなと思いながら出る。

「はい」

 電話の向こうは沈黙している。

 悪戯電話かと貴志が切ろうとすると、ようやく電話の向こう側から声が聞こえた。

『……だれ?あんた』

 声は少し響いて、くぐもっている。

 甲高い少年特有の声に、ああ、と気付いた。

「陽か」

『……誰だよ。どうして、そこにいるんだ?鴇さんは?なんでオレの名前、知ってるんだよ』

「質問が多いな。一つずつ答えるが、まずオレがここにいるのは昨夜泊まったからだ。鴇はいま寝ている。起こしたくなかったんで、つい出たんだ。悪かったな」

『あんた、誰なんだよ。鴇さんの、新しい担当?』

「違う。なんでお前の名前を知っているかというと、お前の父親に聞いたからだ。お前が産まれたときには高瀬に出産祝いを送ったもんだが」

『………誰なんだよ?』

「言っても知らないと思うがな。名前は、西崎貴志だ。佐々木の、古い友人だな』

 沈黙が落ちる。

 疑っているのかと思っていると、やがて小さな声が聞こえた。

『……オレ、あんたのこと知ってる』

「……佐々木に聞いたのか?」

『そう。……父さんが、時々あんたに手紙を書いてた』

「ああ………」

 時折、鴇の近況を知らせてきた手紙だろう。

『鴇さんの事を知らせるためだって、父さん、言ってた』

「………」

『昔、仲違いしちゃったんだって。でもすごく鴇さんのことを気にしてるんだって』

「ああ。……その通りだ」

『ねぇ。その家に泊まったって言うことは、鴇さんと、仲直りしたの?』

 急くような陽の声にはそうであって欲しいという願いが籠もっている。

「ああ。そうだ」

『そっか……』

「オレが悪かったんだ。……色々、あってな」

『オレ、知らないけど……なんにも、知らないけど。でも、仲直りできたんなら、良かった』

「ああ、大丈夫だ」

 ため息が、向こう側から聞こえる。

 今は海を越えた場所にいる少年は、いつも鴇の身のことを案じているのだろう。

『……昔の友達なら、知ってるかも知れないけど……鴇さんね、すごく、優しいんだ』

 泣いているのかと思う声音で陽が言う。

『すごく、すごく優しいんだ。……オレのことばっかり気遣ってくれて、……自分のこと、あんまり考えないんだよ』

「……そうだな。そう言うところもあるな」

『オレのこと、すごく、大切にしてくれて。……なのにオレ、大事な人の傍にいたくて、鴇さんを置いて行っちゃったんだ』

「……陽の人生だろう。したいようにしていいと思うが」

『オレのこと、育ててくれたのに。大切にしてくれたのに。……オレは、傍にいられなくって……鴇さん、いつも、淋しそうなのに』

「そうだな」

 人を恋う淋しさが、いつでも鴇の文章にはある。

 そう呟くと陽がしゃくり上げた。

『一緒に来てって……我が儘言ったけど。でも、やっぱり、駄目って言われて……鴇さん、これからどうするんだろうって、ずっと思ってて』

「……心配ない」

『ほんと?西崎さん、鴇さんの傍に……居てくれる?』

「ああ。十七年待ったんだ。離れないさ、もう」

『ホントに……?』

「本当だ」

 繰り返す陽の涙混じりの問いに、貴志は一つずつ答える。

「……ああ。じゃあついでに言っておこう」

『なに……?』

「オレと鴇はただの友人じゃない。陽、お前と加瀬とかいう男と同じだ」

『……え』

「だから、大事にする。他の誰にも出来ないくらいに」

 暫し、陽が黙り込む。

 その後に聞こえたのは、拗ねた口調だった。

『……鴇さん、なんにも言ってくれなかった』

「大人には話しにくいことが多くてな。ああ、そう言えばお前の送ったランプは活用されてるぞ。仏間で」

『ほんと?』

「二度ほどあのランプを肴に酒盛りをした。良いセンスだ。将来、オレの会社で働くか?」

『会社?』

「一応社長だ。海外の品物の輸入をしてる」

『へぇ。すごい。でもオレ、将来、訳者になるんだ』

「訳者?」

『そう。鴇さんの小説を、英文に訳して、いろんな国で出版したいんだ』

 少年の声は誇りと希望に満ちている。

 その率直さを微笑ましく思いながら、貴志は、もう遠い友人達を思った。

 彼らの子供はこんなにも健やかに成長している。            多くの支えを受けながら。

「……言っていなかったな。ありがとう、陽」

『え?』

「お前の……佐々木の、高瀬のおかげで、オレは鴇に再会することが出来た。そして、これから新しい関係を始めることが出来る。……本当に、感謝している」

『……そんな事、ないよ』

 照れたような声。

 愛しいと思う。まだ顔を見たこともない親友の子供を。

「次はいつ日本に帰るんだ?」

『決めてないけど……夏ぐらいかなぁ?鴇さんに、会いたいし』

「オレもお前に会いたいな。陽」

『ほんと?っていうか、オレも会いたい。大事な鴇さんを任せる相手なんだから、ちゃんと顔を見ておかないと』

 声を上げて貴志は笑った。

 物怖じしない陽は、本当に、佐々木と高瀬の血を継いでいる。

『……じゃあ、またね。西崎さん。鴇さんにまた電話するって言っておいて』

「ああ。またな」

 受話器を置いて息をつくと、ようやく鴇の視線に気がついた。

 毛布に埋もれたまま恨めしげな眼が貴志を見ている。

「起きてたのか」

「………随分楽しそうだったね」

「ああ。陽は、良い子だな」

 それには答えずもそもそと鴇が毛布の中に潜り込む。

「おい。どうした」

「……………」

「起きてたなら、声を掛ければ代わったのに」

「………楽しそうだった」

「ああ。そうかな」

「僕だって、めったに陽と話せないのに」

「だから、声を掛ければ代わったっていってるだろう……」

 拗ねた鴇を毛布ごと抱き込む。

 身動ぐのを許さずに、顔の所だけ毛布を剥いだ。

「何を拗ねてるんだ」

「……拗ねてない」

「態度でバレバレだ」

「……いいよもう。そう言うことでも。陽にはまた僕から電話するし」

 そう言うことも何もそうとしか見えないのだが、そこにはもしかしたら貴志に対してだけではなく陽に対しての嫉妬も入っているのかも知れないと、そう考えるのは都合が良すぎるだろうか。

 鴇も起きたのだしと、貴志は立ち上がって庭に面した障子とガラス戸を開け放つ。

 朝の風が滑り込んで、部屋を一掃していった。

「今、何時かな……」

「九時を回ったところだな」

 ようやく起き上がった鴇が、毛布を肩に引っかけただけの格好のまま大きく伸びをする。

 細く骨の浮いた肩が露わになった。

「……目の毒だな」

「え?」

「いや。いい眺めだと思って」

「なに言ってるんだよ……こんなおじさんの身体に」

「その三十路の身体に痕を残したのはオレだが」

 幾つも点在するキスマークを示してやると、ぱっと顔を紅潮させた鴇が毛布を肩から掛け直してしまう。

「……喰っちまいたいほど可愛い反応だな鴇」

「だからもう、朝っぱらから良くそんな事が言えるね!……ちょっと待ってて、朝ご飯つくるから……」

「もう暫く、ここにいろよ」

 立ち上がろうとした鴇を引き寄せて、毛布ごと抱きしめてしまう。

「……動けないよ」

「いいだろ。暫くこうしてたいんだ。……滅多にないほど、いい気分だ」

「ん……僕もだ」

 力を抜いた鴇が、胸にもたれかかる。

 その髪を梳きながら、ふと、貴志は先刻の陽との会話を思い出した。

「なあ、鴇」

「ん?」

「どうしてお前、陽と一緒に行かなかったんだ?」

 

 









 

「どうしてお前、陽と一緒に行かなかったんだ?」

 ふと投げられた問いに、鴇は言葉を詰まらせる。

 さっき、眼を覚ましたら貴志が電話に出ていた。陽と何を話していたのだろう。

「……………」

「誘われたんだろう……一緒に行こうって」

「うん。言ってくれた」

  思い出す。一緒に行こうと、何度もそう言ってくれた陽。

 自分の我が儘ではないかと躊躇いながら、それでも鴇を一人残すのを厭だと言って。

「一緒に行こうって……何度も、言われた。最後の空港でも」

「………」

「でも……駄目だよ」

 その言葉に心はいつも揺れていた。

 うん、と言ってしまいたいと何度も何度も思った。

 例えそこがどんな場所でも、陽が居るならばそれで充分だと鴇には思えたけれど。

「駄目だよ。僕は、……重すぎる」

 そうしてしまえば、いつか、犯す罪があった。

 遠い昔にしでかした過ちを、多分違う形で、鴇は繰り返した。

「あのままついていっても、いつかは陽の荷物になる。陽は優しいから……僕を捨てられないで苦しんだだろう」

「………鴇」

「一緒に……行きたかったけど………」

 大切な人の幸福ではなく、独占を選び、殺意という形でそれを遂げようとしたように。

 いつか、鴇は陽の錘《おもり》になっただろう。

 離れることはつらかったけれど、鴇のためにあの陽の笑顔が消えることはなお耐えがたいと思った。

「言っておくが、オレも重いぞ」

「え?」

 唐突な貴志の言葉に顔をあげる。

 見上げると、笑い皺に歳月を刻んだ男臭い顔が、ちょんと鼻先にキスを寄越した。

「オレも、重いぞ。何しろ十七年だ。……釣り合いがとれて丁度良いんじゃないか」

 冗談半分の口調に瞬きをし、それから不意におかしくなる。

「……はは」

 声を上げて、鴇は笑った。

 腹を抱えるように回された貴志の腕はとても暖かい。

 寄りかかると胸板はしっかりと鴇を受け止めてくれて、鴇程度の重さなどなんでもないと教えてくれているようだ。

「そう……そうだね。僕達は、互いに、ちょっと重いみたいだ」

「当たり前だ。いい歳だからな。……でもその重さを、支えられるようにも、なったって事だろう」

「……そうだと……いいなぁ」

「なんだその自信のない口調は」

 呆れた口調でそう言って、貴志が軽く鴇の頭を小突く。

 くつくつと笑いながら、鴇は、眼を細めた。

 眩しい太陽が、近づく夏を迎えるためにすっかり緑に茂った花水木の梢にかかっている。

 暫くその心地よさを楽しんでから、朝食の支度をするために、今度こそ鴇は、ちゃんと立ち上がった。

 






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