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◇◇◇ 殺意の形 ◇◇◇

 

 あの時、胸に沸き上がっていた氷のような殺意を、鴇は忘れたことがない。

 あんなにも強く、堅く、激しい意志が、自分の中にあったことを始めて知った。

 そしてそれは消えることなくいつでも心の奥で眠っている。

 だから鴇は時折思い出す。

 あの時強く握りしめたナイフの柄の硬さ。

 皮膚を、肉を裂いて骨を突いた、あの感触。

 掌に残っては時折返る生々しくリアルなそれと共に、いつでもただ目的のためにどんな罪を犯しても自分を突き動かす激しい意志が心に眠っている事も、知っているのだ。

 
















 

 貴志と晴記の卒業が後一月まで迫っていた。

 日々は忙しなく、会う回数も抱かれる回数も減って、このまま終わるのかなと漠然と鴇は思っていた。

 始めて抱かれたのは一昨年の夏の終わりの頃だったと思う。

 暑い寮の部屋で、荒い呼吸と、蝉の声ばかりがうるさかった。

 あれはレイプだったけれど、その後の関係は、鴇も望んで受け入れていたものだ。

 貴志は冷たい男だったけれど残酷ではなかった。

 時折、優しさを見せもした。

「………佐々木先輩に……恋をしてたんじゃないけれど」

 誰にも届かない言葉が口をついて出る。

 放課後の教室はしんと冷たい。

 週番の日誌を書いて、ぼうっとしていたら、つい時間を過ごしてしまった。まだ冬と言っていい空は暮れるのが早い。

 教室の窓から、冴え返って美しいグラデーションを描く空が見える。

 冬の黄昏が鴇は好きだった。

 自分とかけ離れた冷たい清冽さが冬の空にはある。

 晴記に憧れるのは、この冬の空を美しいと思うようなものだった。同じように、貴志にも、憧れていた。

 そして手を伸ばしてきたのは彼だった。

 憧れと尊敬だけで終わるはずだった心を、もっと生々しく定まった形にしたのは、あの男との接触だ。快楽で鴇は縛られて、慣らされた体は心を道連れにした。

 触れられる度に心の中で渦を巻く熱に、鴇は、気付いている。

 けれどこのまま終わるのだとも思っていた。

 貴志も、自分も、何も言葉にしたことはない。

 彼の中に鴇に対する多少の情があることは知っていたけれど、それは学校という特殊な場を無くしても存在するものだとは思えなかった。

 事実、鴇と貴志は学校以外の場所で必要なく会ったことは一度もない。

 その考え、貴志との歪な付き合いが、少しずつ自分を疲弊させ擦り切れさせていたことに、鴇は、気付いていなかった。

 大丈夫と麻酔をかけることで傷を見なかった。

 ため息をついて鴇は立ち上がる。

 鞄を手に取り、寮に帰ろうとして生徒会室に仕事を残してきたことに気付く。

 いまとってくれば、明日までには終わるだろう。

 人気のない廊下を歩いていくと、生徒会室には電気が灯っていた。こんな時間に誰がいるのかと思う。

 成り行きのまままた生徒会員を引き続き受けてしまったけれど、今の生徒会に貴志が会長だった頃のような仕事熱心な人材はいない。

 立て付けの悪い戸の透き間から、話し声が洩れていた。

「……おまえさぁ。あいつが、お前のこと好きだって、知ってたか?」

 ぴたりと足が止まった。

 まるで張り付いたように動かなくなる。

「鴇が?オレのことを?」

「そう。……前、熱心に見てたぜ。今はそうでもないみてぇだけど」

 微かな笑い声。

「鴇は、お前に夢中だろう。西崎」

「あー。夢中って程でもねー気がするけどなぁ」

「よく言う。喰っといて。……どうするんだ」

「なにが?」

「卒業した後だ」

「………そりゃ。別れるしかねぇだろうな」

「捨てるのか?」

「人聞きの悪い。そんな関係じゃねぇよ。……まぁ……可愛かったけどな。でも特に……未練があるわけでもないし。可も不可も無さ過ぎるんだよな、あいつ……」

 その言葉に晴記がどう答えたかは聞こえなかった。

 生徒会員でなくなっても二人は生徒会室に入り浸ることが多かった。聞いてしまったのは不運だ。

 呼吸さえも止めて、足音を忍ばせて、そこからどう引き返したのか、鴇は良く覚えていない。

 目に付くものすべてを破壊したいと思うようなはじめての衝動が強烈に胸を灼いていた。

 黙っているという約束を裏切られたこと、別れを当然のことのように言われたこと、そして鴇の根深い劣等感を暴くような言葉。

 そのすべてが憎かった。

 なにより、それが、貴志の口から発せられたと言うことが。

 一年以上も、身体を合わせるような深い付き合いをしていたというのに、彼のどこにも残れないような自分の足り無さを思い知らされた気がした。

 激情はやがて真っ白な意志と、そして憎しみに変わる。

 研ぎ澄まされた頭の中で辿り着いた短絡的な答えは、その時には酷く、酷く正しいことのように思えたのだ。

 


























  

「どうしたんだ。お前から呼び出すなんて、めずらしい」

 放課後、生徒会室に現れた貴志はなんの疑いも持っていないようだった。笑みさえその唇に刻んで、鴇を見る。

 昨日は町の図書館に行った。

 鴇が見たかった類の本は、図書室には置いていなかったので。

 念のためインターネットでも調べて、しっかりと知識を頭に叩き込んだ。

 失敗するつもりは、少しも、無かった。

「………西崎先輩」

「貴志だ。言ったろう。二人の時は、そう呼べって」

「………」

 机を回って、貴志がこちらに近づいてくる。

 その顔を真っ直ぐに見つめて、今はっきりと鴇は自覚した。

 この男が好きなのだ。

 鴇を支配し、操り、好きなように扱って、けれど時折優しさと強さをくれる貴志のことを、恋と呼べる強さで慕っている。

 目眩を覚えそうになる。

 堪えて立ち上がった。

「鴇?どうした」

 その声で名前を呼ばれるのも好きだった。高校で始まった新しい人間関係は、鴇を鴇という個として見てくれている。

 だからちゃんと、始められたのだと、そう思っていた。

「おい……具合が悪いのか?」

「いいえ……」

 けれどその場所でも鴇は駄目だった。いてもいなくても、多分、同じだったのだ。

「………西崎先輩」

「……どうした」

 いつもと違う声に気付いたのだろう。眉を寄せた貴志が鴇の身体に手を伸ばす。

「………先輩の心に、残れたら、良かったのに」

「え?」

 心臓は左胸と言うより中央に。ガクランの釦の、ちょうど向かって右側に。

 生徒会の仕事をこなすように淡々と、鴇は頭の中で手順を追う。ポケットに隠していたナイフは飛び出すタイプのもので、生徒会の資材の中にあったのを選んだ。

 研いでおいたから、切れ味に支障はないはずだ。

「鴇……?」

 いぶかしむ声で名を呼ばれた。

 止められるか、と鴇は己に問う。この男に恋をしている。

 この男と交わすキスや、肌や、言葉が、得難く大切だと思っている。

 その眼差しや、ささやかな仕草や、声に、どうしようもなく惹かれている。だからこの手を止められるか。

 答えは否だ。

 鴇の中に凝った殺意は、こうして手に持ったナイフよりも硬く、切っ先よりも鋭く、氷のように澄んで冷たかった。

 その、くっきりと手に触れられるような形だけが鴇を突き動かす。

 強く握ったナイフが黒いガクランの胸元に滑り込む。避けることなど、貴志は考えもしなかったようだった。

 鈍い感触。 

 けれどそのまま心臓を貫くはずの刃は、ガツンと厭な感触にあたって止まった。

 貫き通すだけの力が、鴇の痩せた腕にはない。

 図書館の本で覚えたはずの手順の中で、一つだけがすっぽりと抜けていたことを不意に思い出す。

「……肋骨にあたるから……ナイフは、横にして水平に出さないと、いけないんだっけ………」

「……と、鴇……?」

 貴志が崩れ落ちる。その身体を支えきれなくて、鴇も一緒に床にくずおれた。

 肉に刺さりきらなかったナイフが血で滑って手から落ちる。

 暖かな液体が手を伝っていく。

 これでは多分、死んでいない、と鴇はぼんやり思う。

 けれどやり直すだけの気力はもうどこにも残っていなかった。

 ありったけの殺意をこめて突き刺したナイフの刃が鴇の力をすべて奪っていった。

 その一瞬の熱が溶かしてしまったように、氷は、消えてしまった。

 貴志を殺してすぐに自分も死んでしまうはずだったのに、これでは出来ない。

 ガツン、と手にあたった骨の感触。

 浅くとも、肉を切り裂いた刃。

「……西崎!!鴇……!?」

 生徒会室に入ってきた晴記の驚愕の声も、鴇の耳には届かなかった。 

 ただ、肩にしがみつくように力をこめた貴志を払いのけることもせずにだらりと両手を床に落として俯いていた。

 溢れる血が胸を、膝を濡らしていく。

 

 
























 貴志は一命を取り留めた。

 幅広だった刃は肋骨で止まっていたが、その切っ先は心臓まで後数ミリと言うところまで届いていて、失血性ショック死もあり得る状況だったのだ。事件は大変な騒ぎになり、問われるままにすべて鴇は話した。

 繕う気力も考えも残っていなかった。

 結局事情もあって鴇は少年院に入れられず、教護院で暫く過ごした後、保護観察処分と言うことで世間に戻された。

 保護観察が解けた途端に家を出て、それから帰っていない。

 新宿にいるとき晴記に出会い、それから、彼の家で過ごすようになった。

 傷害事件は示談と言うことで話が落ち着いた。けれどそこに金銭は介在しなかったらしい。

 ただ鴇が、二度と貴志に関わり合いにならないことが条件だった。

 世間は暫くの間二人の男子高校生の間になにがあったかや事件が起きるまで気付かなかった現代の教育制度について騒ぎ立て、勝手な憶測と噂も乱れ飛んだが、鴇には遠い国の話のようだった。

 文章を書いたのは、晴記の家でだ。

 共働きの二人の代わりに陽を見ながら、鴇は、いつまでもあの時に止まったままの人生に終止符を打とうと思ったのだ。

 すべてを書いて、誰にも見せないまま、封じた。

 そしてようやく、晴記の家族に手を引かれるようにしながら、その先を見ようという気持ちになれた。

 






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