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編集部には珍しく人気がなかった。

「あれ、四ノ宮先生。もしかしてもう原稿が上がったんですか?」

 顔見知りのバイトの青年が親しげに話しかけてくる。

「いや、違うんだけれどね。ほかのみんなはどこに行ったのかな?」

「ああ、担当者会議中です。オレだけ電話番で」

「そうか。じゃ、会議室だね」

 くるりと踵を返した鴇の様子がただならぬ事に気付いたのか、あの、と青年が戸惑った声を上げる。

「竹岡さんなら呼んできますけど。会議は、部外者立入禁止で」 青年の声に耳を貸さず、鴇は会議室へと向かう。

 貴志も何も言わずに着いてくる。革靴がリノリウムの床を踏む音が、やけにくっきりと聞こえた。

 鴇は、自分が心底怒っていることを自覚していた。

 しんと頭の芯が冷たく冴え返って、目的のためにはどう言うのが一番効果的かを考えている。

 会議中なのは、都合が良かった。

 いまなら編集長の島原も副編集長の八木も、竹岡も、そして他の作家の担当者達もすべて揃っている。なし崩しに問題を揉み消すことなど出来ないようにしてやろう。

 ノックをすると返事を待たないまま会議室の扉を開く。

 細長い会議室で机を囲んだ三十人ほどの面々が、一斉に振り返った。

「四ノ宮先生。どうなさったんですか」

 八木が、一番奥から声を掛けてくる。彼と編集長に軽く頭を下げてから、鴇は口を開いた。

「会議中に失礼いたします。竹岡君から早急に返していただきたいものがあるので、お邪魔いたしました」

 テーブルの一角で竹岡が慌てたように口を開くのが見えた。

 けれど彼がなにかを言うより先に鴇は続ける。

「竹岡君。私の部屋から、黙って原稿を持ち出しただろう。手書きの」

「え、いや……先生、ちょっと外に出ましょう」

「《空白の日》というタイトルが付いていたはずだ。私はあれを活字にして良いと許可した覚えはないよ」

 ざわ、と会議室がざわめく。

 それが新創刊の雑誌のラインナップの一つだと、皆知っているのだ。八木ががたりと立ち上がった。

「そして、新しい雑誌に書くとも言っていない。新刊の書き下ろしのために、断っただろう?あの仕事は。君は私の担当の筈なのに、忘れてしまったのかな」

「……どう言うことだ。竹岡」

 低い編集長の声。彼の眉間に刻まれた皺を見て、竹岡が慌てて立ち上がり、机を回って鴇の方へやってくる。

「い、いや、四ノ宮先生と少々意見の食い違いが……先生、とりあえず外に出ましょう」

 肩を押そうとする竹岡の手を避けるより前に、後ろから伸びてきた手ががっしりとその腕を掴む。

「あ、あなたは……」

「ご無沙汰しております、竹岡さん。失礼、会議中にお邪魔を致します」

 扉の前に立ったままだった鴇を少し避けさせ、貴志が会議室に滑り込んで扉を閉める。そしてその扉に背を預け、竹岡を机の方へ押し戻した。

「で、出ていって下さい西崎社長。部外者禁止の会議です」

「失礼。皆様。四ノ宮朱鷺先生原作の舞台に関わっております、ウェストエンド・カンパニー代表取締役の西崎と申します」

 こんな時でも貴志は堂々としている。横に立つ彼がとても頼もしく思えて、微かに鴇は笑った。

「お初にお目にかかります、西崎社長。島原と申します。それで貴方は何故ここに?」

 編集長の島原の問いを、貴志はさあ、と受け流す。

「四ノ宮先生に呼ばれたもので。おそらくこの事態を治めるのに、一役買えるかと思っているのですが」

「事態?」

 二人の会話を後目に、鴇は竹岡に視線を据える。小心な男は冷や汗を流し、それでも憎々しげな眼で鴇を睨んでいた。

 形になってしまえば、後から言いくるめることも出来ると思っていたのだろう。

 それだけ鴇を侮っていたと言うことだ。

 けれど許すつもりは毛頭なかった。

 鴇の、決して世に出すつもりの無かった文章を、こんな形で踏みにじった男に覚える冷たい怒りをすべてこめて真っ直ぐに睨め付ける。

「さぁ。返してください」

「……な、なにを」

「原稿です。手書きの」

 立ち上がった八木が、机を回り、鴇の所へやってくる。

 彼に視線を向けると、手に持った古い原稿用紙の束に気がついた。黄ばんで、鉛筆の文字も薄れたその原稿は、鴇が始めて書いた文章だ。

「………すまなかった。竹岡が君を説得できたというのを、鵜呑みにしてしまった」

 苦い後悔の滲む声で八木が差し出すそれを受け取って、鴇はほっと息をついた。

「古い作品を、出してくれるというので……納得してしまったんだ」

「出すつもりはありません」

 きっぱりと会議室に響いた鴇の声は、鋭かった。

 その声の響きと冷え冷えとした眼に気付いた八木が驚いた顔をする。

「広告も、すべて撤回してください。もしもうこの文章が活字にされているなら、すべて破棄してください。私はこの文章を世に出すつもりは少しもない。……君が」

 竹岡を見ると、彼は真っ赤な顔をして震えている。

「泥棒のような真似をしなければ、たぶん、誰にも読まれなかった。……竹岡君、私は怒っている」

「……なにを」

「君には私の担当を変わって頂きたい。今日からだ」

 強硬な姿勢を押し通す鴇に、ついに竹岡が堪えきれなくなったように吐き出す。

「……っなにを、えらそうに……こんな良い仕事の依頼を断り続けたあんたが、悪いんでしょう。先生」

「理由は言ったはずだが」

「古い原稿くらい出したって良いでしょうが!あんな机の奥の奥に、埃を被らせて放っておくくらいなら、世に出した方がまだましだ。あんただって人に読んでほしくて書いたんでしょう!」

 浅はかな言葉に鴇は不快を露わにする。

 この男には、人の心の中に誰にも触れさせず見せることもせず、ただ時が果てるまで仕舞っておきたい場所があることも、わからないのだろう。

「……つまり」

 怒りを押し殺した八木の声。

「お前は、本当に、先生の机の下を勝手に家捜しして、この原稿を盗んできたわけだな?」

「盗んできたなんて人聞きの悪い……!」

「事実だろう」

 厳然と決めつけた八木の言葉に竹岡が歯軋りをする。 

「………そうすると」

 ため息混じりの言葉が割って入る。編集長の島原が、唸るように言った。

「これは少々、面倒なことになる。……先生、本当にその小説を世に出す気はないのですか?」

「ありません」

「良くできておりましたが」

「当然です。でもこれは小説にするために書いた文章ではありません」

「ふむ……ところが、こちらにも都合がありましてね」

 それはそうだろう。

 ポスターが貼ってあったと言うことは、既に発売の準備が動き出していると言うことだ。まだ雑誌自体の印刷にはかかっていないだろうが、鴇のために空いているページを新しいものに差し替えなければいけない。

 チラシや広告をすべて刷り直し、張り替え、そのために動く金額は莫大なものになる。

「では……四ノ宮先生には大変申し訳ない話ですが、新しい小説を書いていただくと言うのは?」

「お断りします」

 厚かましい編集長の言葉をばっさりと切り捨てる。

「こちらの会社の社員の不始末を、私に尻拭いさせるんですか?長い付き合いです、島原編集長。今から私が満足のいく小説を書けるはずがないことはわかっているでしょう」

 八木がはらはらとした顔で二人を見守っている。

 竹岡は真っ赤な顔のまま、席に戻ることも出来ずに固まっているようだ。

 斜め後ろで扉を塞ぐ貴志だけが微塵も揺らがず、その気配が心強かった。

「ふむ……謝罪と言うことで幾ばくか差し上げても、納得していただけませんか」

「そういう問題ではありません。島原さん、はっきり言いますがこのまま出版を強行するつもりなら私は警察に盗難届を出しますよ。そして、出版社自体を訴えさせてもらいます」  

「え……」

「そして私の本は二度とこちらから出版させていただく事はないでしょう。……本当に長いお付き合いでしたが、残念です」

 鴇の本は、この会社以外で出版されたことは一度もない。

 その付き合いをふいにしては、作家として立ち行かなくなるかもしれない。それも覚悟の上だった。

「し、四ノ宮先生……それは」

 狼狽えた顔で八木が取りなそうとする。

 八木にはデビュー当時からずっと世話になってきた。

 こんな形で訣別するのは本当に残念だが、どんな手段を使ってもこの文章の出版は食い止める気でいた。

「病欠でも、締め切りに遅れてでも、理由はなんでもかまいません。私の名前は消してください」

「……しかし、それでは」

 顔だけは知っている他の作家の担当者が、声を上げる。

 黙っていられなくなったのだろう。

「創刊の時から、雑誌にケチが付きます。……先生、ここはひとつお腹立ちを治めて」

 それを皮切りに他の人々もざわざわと騒ぎ出した。

 八木は困り切った顔をしている。腕を組んで眉間に皺を寄せた島原が何を考えているかは読めない。

「……結局出版する事になりそうじゃないですか。先生」

 不意に嘲りの声が横から掛けられた。

「竹岡!だまれ!」

 八木の鋭い制止にも関わらず、竹岡はざまあみろという顔で言い募る。

「良かったじゃないですか。あんなホモの小説で、金がもらえるんですからね。……先生も本当は、そうなんじゃないですか?」

 侮蔑の言葉に鴇はため息をつく。では、竹岡は、まったく気付いていないのだ。 

 この男の思慮の浅さはいっそ哀れなほどだった。

「大体、友人だってだけであんな家に住んでいるのがおかしいんですよ。おおかた、あの家の男の……」

「黙れ」

 不意に割り込んだ声が竹岡を黙らせる。

「それ以上一言でも言ってみろ。殺すぞ」

 低い恫喝の声は鴇の耳にも怖ろしく響いて、射殺しそうな眼で睨まれた竹岡は竦み上がる。

「貴志」

 宥めるようにその腕を叩いて、ごめんねと鴇は言った。

「鴇?」

「竹岡君。………君は本当に、私の文章を大切にしてくれていないんだね」

「あんたの文章だって?」

「そうだよ。読んだんだろう、あの文章を」

「ああ、一応ね。気持ちの悪いホモの小説だった」

 鴇は島原と八木の方を見やる。

 あの文章を出版させないためには、最後の手段を使わなければならないようだった。

「島原編集長。もう一度言います。《空白の日》を世に出すつもりはありません」

「………」

「そして出さない方が、この会社のためです」

「なにを……」

 振り返り、手にした古い原稿用紙の束を貴志の目の前に差し出す。

「君にならわかるはずだ」

 受け取った原稿用紙を彼の形のいい指先がめくる。ふと、鴇は不安になった。

 許してくれるだろうか、貴志は。

「……これは」

 さらにぱらぱらと最後の方を見て、顔をあげた貴志が眼で鴇に問う。

「ぜんぶ、書いた。一つ残らず、本当のことを」

 小説の主人公の名は出てこない。

 一人称で、『僕』は、ただ一人の男に対する思いの丈を書きつづっている。男の名も、友人の名も、すべて本名のままだ。

 許してもらえるだろうか。

「……これは、確かに、世に出すわけにはいかないな」

 呟いた貴志が原稿を手にしたまま、何を思ったか名刺入れを取り出す。優雅な手つきで引き出したそれを一枚、八木の目の前に差し出した。

「こんな状況で失礼」

「あ、いや……」 

 反射的に両手を出してそれを受け取った八木が、そこに記された名前を見て眉を顰める。

 やはり、八木はちゃんと文章を受け取ってくれているのだ。

 そう思うと鴇は場違いに少し嬉しくなった。

「西崎……貴志?」

「そうです。この文章に書かれているのは、すべて実話ですよ。『タカシ』は私、『ハルキ』はあの家の亡くなった主、そして『僕』は鴇です」

 部屋にいる全員に聞こえるようにはっきりと、貴志はそう言った。

「なんでしたら証拠の傷跡もお見せいたしますが」

「い、いやしかし……それでは」

 惑った八木の眼が貴志と鴇をうろうろと行き交う。

「実話です、と申し上げたでしょう。十七の頃、嫉妬と絶望に狂って、私は殺人未遂を犯したんですよ」

「………」

「殺しかけたのはこの西崎社長です。実話だと証言していただくためにお呼びしましたが……ご迷惑をお掛けしました」

 そう言うと、貴志はぽんぽんと殊更親しげに鴇の肩を叩いてみせる。

「鴇。そんな遠慮は無用だ。………さあ、どうなさいます。編集長」

 挑むような貴志の口調に、唸った島原が眉間の皺を深くする。

「良く書けていて当然です。あれは、私の、赤裸々な告白だ」

 鴇の言葉に八木が眼を伏せた。

 文章の内容を、思い出しているのだろう。

 実のところ何を書いたかを鴇は良く覚えていない。

 けれど吐き出してしまいたいものすべてをあそこに書き連ねて封じたのだから、生々しく痛みと熱に満ちた、独善的なものであることは確かだ。

 十七の鴇のすべてがあの薄っぺらい原稿用紙の束につまっている。

「まだ十七年です。あの事件を覚えている人もいるでしょう。……西崎社長のご実家の力で、私達の名前も出ず示談と言うことで済んでしまったので大事にはなりませんでしたが、マスコミはおもしろおかしく書き立てたはずだ」  

 痴情のもつれの果てに十七歳の男子高校生が十八歳の男子高校生を殺しかけたのだ。

 憶測や噂は乱れ飛んで、尾ひれ端ひれをつけた記事が週刊誌にさんざん書かれていた。

 怖ろしかったのはその事実無根の噂ではない。

 鴇が犯した、あの犯罪の現場が、まるでその場に記者がいたように克明に描かれていたことだ。

 マスコミの情報収集とはこういうものかと思った。

「スキャンダルを売りにするつもりなら、そのまま出せばいいでしょう。けれどその新しい文芸誌は、そんなものを売りにするような雑誌なんですか?」

「………」

「さっき言ったことは、必ず実行に移します。……そして多分、二度と小説は書かない。……私はまだ、あの傷を全部晒してそれでも生きられるほど、強くなってはいないんです」

 八木が呻く。なんてことをしてくれたんだ、と小さく呟くのが聞こえた。

 八木に睨まれた竹岡は、もう嘲笑を浮かべる気力もなくなったようだ。ただぎりぎりと歯を食いしばって床を眺めている。

 やがて、沈黙が満ちた部屋の中に、大きく島原編集長がため息をつく音が落ちた。

「……わかりました。四ノ宮先生。大変、申し訳ない事をいたしました」

「………」

「雑誌は組み直しましょう。四ノ宮先生は急病と言うことで、代理の原稿を入れます。……が、その次の号に書いていただけると有り難いのですが」

「……それは……」

「一月後です」

 抜け目のない島原の言い様に思わず苦笑する。

「……いいですよ。けれど、担当は代えてください」

「もちろんです。八木、とりあえずお前がまた四ノ宮先生の担当だ」

「は、はい!」

 心底安堵した顔で八木が頷く。

「そして、竹岡。処分は追って決める。デスクに戻れ」

 岩のように厳しい島原の声に竹岡は視線を上げないままのろのろと会議室から出ていく。

 八木がそれを見送ってから、深々と鴇に頭を下げた。

「四ノ宮先生、本当に申し訳も立たないことを致しました。……後日また、お詫びにまいります」

「かまいませんよ。私はただ、この文章が世に出なければ」

 ふっと、ため息が落ちる。

 一気に襲ってきた疲れによろけそうになると、さりげなく貴志の手が背を支えた。

「では私は、これで失礼いたします。……島原さん、八木さん、くれぐれもお願いいたします」

「鴇。一筆書いてもらっておいたらどうだ」

 不意に貴志が口を挟む。

「口約束はあてにならないぞ」

「万が一違えるようなことがあったらあなたが証人です。西崎社長。……それに、島原さんも八木さんも、創刊からつくイメージが重要なことは承知していらっしゃるはずです。硬派な文芸誌としてこれから出版社のイメージを背負う大切な雑誌に、スキャンダルを背負わせるような愚かな真似は、なさらないでしょう」

 確認するように八木の眼を見れば、彼は幾度も頷いてみせる。

「はい。……必ず」

 二人が会議室の扉をくぐると、中で途端に起きた喧噪は、もう鴇には関わりのない話だ。

 思わず落ちたため息を踏むように脚を踏み出す。

「……ごめんね」

「何を謝ってるんだ」

「君に……大変な迷惑をかけた」

「オレは、良かったと思っているが」

「え……」

 意外な言葉に顔をあげる。貴志が苦笑して、ぽんぽんと鴇の肩を叩いた。

「一人で解決されるより余程ましだ」

「貴志……」

 許してもらえるかと問いかけて、エレベーターのフロアに立つ人影に気付いた。

「……まだなにか私に用事かな。竹岡君」

 途端に口調が険しくなるのがわかる。

 血の気の引いた顔をした竹岡が、鴇達を睨みつけていた。

「……あんたのせいで……オレは、きっと、飛ばされる」

「………」

「五千部も出ないようなくだらない雑誌の編集に回されるか……外回りだ。あんたのせいで」

「馬鹿が」

 鴇が無言でいると、貴志が庇うように前に立つ。

「貴志。いいよ」

「絵に描いたような見事な逆恨みだな。その悪い頭で良く考えろ、何が原因か」

「……あんたは引っ込んでろ!」

「相手を尊敬できない、仕事と割り切れもしないなら編集なんざさっさと止めたらどうだ。どう考えても向いていないな。最も、お前に向いた仕事があるとは思えないが」

 鋭い舌鋒に、鴇は貴志が怒っていることに気がついた。

「鴇の作品がもっと売れれば、編集部内での地位が高くなりでもするのか?そんなものに眼が眩んで窃盗を働いた上、責任を鴇に押しつけて八つ当たりしようとは、盗人猛々しい」

 鋭い視線で竹岡を射竦めて、貴志は嘲笑の笑みを浮かべる。

 竹岡、という焦った声が後ろから聞こえた。

 八木が、二人を送るためにか追い掛けてきたらしい。

「竹岡!やめろ!」

「……ふざけるな!お前らみたいな汚いホモに、どうしてそんな事を言われなきゃいけないんだ!!」

 逆上した竹岡が子供のように喚き散らす。

「週刊誌にでもネタを売ってやる、こちとら記者の知り合いは山ほどいるんだ!作家の四ノ宮朱鷺の過去を暴き立ててやるからな……!」

 鴇が止める間もなかった。

 すいと踏み出した貴志が、一瞬の後には竹岡を殴り飛ばしていた。どかっと鈍い音がして竹岡が壁に叩きつけられる。

 その襟首を貴志が掴み上げた。

「……もう一度言ってみろ」

「っぅ……ひぃ…ッ」

「オレ達の過去を土足で踏みにじるような真似をしてみるがいい。どんな手段を使っても、お前を、潰してやる」

 恫喝の滲む低い声。

 冷徹な色がその眼に浮かんで、汚いもののように竹岡を睨め付ける。

「こちとら、商売柄、暴力に慣れた知り合いも多いんだ。ぼろ雑巾になって路地裏に転がりたくはないだろう……?」

「……貴志。もういい」

 言葉を失っていた鴇はようやく歩み寄って、その肩を叩いた。

「充分だ」

「……大変申し訳ない。西崎社長。後の処分は社内で致しますので、どうぞその手を離してください」

 八木が深々と頭を下げる。ふん、と鼻で笑って貴志は竹岡を放り出した。

「……っ、ぼ、暴力だッ!暴行罪で訴えてやる!!」

「………こりねぇな」

 裏返った声で竹岡が喚くのに、苛立ちを滲ませた声で貴志が呟く。八木がその眼前に立ちふさがった。

「竹岡!!無礼もいいかげんにしろ!!」

 われ鐘のような声にびくりと竹岡が身を竦ませる。

「何も私は見ていない。さっさと席に戻って、沙汰を待て」

 その身柄を騒ぎを聞きつけて現れた社員に委ねて、八木は貴志と鴇に向き直る。

「大変、申し訳ないことを……重ね重ね」

「担当はもうちょっと選ぶべきだな」

「貴志」

 軽蔑しきった声で貴志が吐き捨てるのに、鴇は眉を顰めて袖を引いた。

「今日の事じゃない。あいにく、会社は人間性まで教育できないからな。だが、作家に担当として付けるなら、少なくともその小説家の文章を尊重する人間か仕事として割り切れる人間を選ぶべきだ」

「………はい」

「部外者のオレにもわかるほど、あの男は四ノ宮朱鷺を軽んじていた。……気付かなかったとは思えないが」

「……仰るとおりです。御訓告、承りました」

 心底悔やむ声でそう言って、八木は、また深く頭を下げた。

 そのままビルのエントランスまで鴇と貴志を見送った八木は、繰り返し繰り返し謝罪の言葉を述べていた。

 苦笑して、鴇は手を振る。

「もういいですよ。八木さん」

「いいえ。本当に………本当に、申し訳ないことをしました。先生の心に土足で踏み込むような真似を」

「…………文章として書いたものを、世に出せない弱さが……申し訳ないとも、思いますが」

「そんな事はありません!」

 何度も謝罪を繰り返す八木に、ついぽつりと鴇がそう洩らすと、途端に八木は大きな声で否定した。

「例えば手紙や、日記や、人に見られたくない文章は、いくらでもあります。先生が小説家でもそれは同じです。すべては竹岡と、そして確認を怠った私の落ち度です。先生が気になさることはない」

「………」

「人の、大切な手紙を……盗み見るようなことを、私達はしてしまいました。本当に申し訳ない」

 深々と、最後に地に着くほど深く頭を下げた八木と別れて、鴇は疲れたため息をついた。

 空いた銀座線に乗ると傍らに腰を下ろした貴志が、ぐいっと腕を引く。

「寄りかかって良い。疲れただろう、眼を瞑っていろ」

「……ごめんね」

 呟くと、貴志の肩に凭れて鴇は眼を閉じる。

 甘えさせてもらうのは酷く悪い気がしたけれど、今はもう、何も考えたくなかった。

 眼を瞑っていると、少しずつ睡魔が忍び寄ってくる。

 ぱらり、ぱらりとどこからか聞こえる紙の音を子守歌に、鴇は、浅い眠りに落ちた。






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