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◇◇◇《空白の日》◇◇◇

 

「お前はいつもそうだな。何が楽しくて生きてるんだ?」

 不躾な言葉。

 不躾な質問。

 そこにこめられた軽蔑も、嘲りも、何一つ隠すこと無くあからさまなのは彼が家族だからだ。

 血、という絆は時に残酷だ。

 容赦なくすべてを暴こうとする。

「何も言わない。何もしない。にやにや笑ってばっかりで、なに考えてンだか全然わかんねぇよ。なにかオレに文句があるなら言ってみろよ」

 普通の兄弟ならば、これくらいのケンカは当たり前なのだろう。傷つくことでもなく、翌日になればすぐ仲直りを出来るくらいの些細なこと。

 けれどその言葉にこめられた露骨な嫌悪を上手く受け流すことが出来ない。

 嫉妬と、羨望と、畏怖が、鴇の言葉と手足を絡め取る。

 自分の弱さを鴇は当に知っていた。

 気力も、体力も、頭脳も、すべてに於いて鴇は兄弟の誰より劣っている。

 家族の中で自分が一番下だという認識は、鴇の生をぎこちなく縛った。

「ったく……どうしようもねぇな。お前は」

「もう止めろよ」

 長兄の、穏やかに諭す声。

「鴇には鴇の良いところがあるだろう。みんな、お前みたいに生きられるわけじゃない」

「だってよ。いちいち苛々するんだよ、こいつ」

 すべての言葉が、鴇を、棘のように刺した。例えそこにこもるものが悪意ではなく愛情であっても。

 劣等感しか兄弟に感じない、その貧しい心が、鴇は、心底嫌いだった。

 何故ただ愛することが出来ないのだろうと、弱さを憎んだ。

 

 










 

「久しぶり」

「ホントにご無沙汰ね。とっくにどこかで死んでてもおかしくないと思ってたわ」

 つけつけと容赦のない姉の言葉に鴇は苦笑する。

 長女の茜は兄弟で言えば上から二番目で、当に結婚して家を出ている。仕事をしながら三人の子供を育て、いまでも公務員として働いているはずだ。

 唐突な姉の呼び出しには驚いたけれど、こうして顔を合わせてみればただ懐かしかった。

 指定場所は渋谷の喫茶店で、そういえば姉の住まいはこの辺りだったなといまさらに思い出す。

 もう十年以上も家族とはほとんど顔を合わせていない。

 電話で話すことも珍しかった。

「あのね、唐突で驚くかも知れないけど、父さんが入院したのよ」

「入院?……どこが悪いんだい」

 一瞬、最悪の事態を覚悟する。

 けれど姉は呆れたようにふんと鼻で笑って見せた。

「車で事故ったのよ。それも居眠り運転ですって。単独事故だったから良かったようなものの」

「そうなのか……それで、けがは」

「脚を一本折っただけよ。大したこと無いわよ」

 でもね、と茜は続ける。

「丁度良いわ。あんた、見舞いに行ってきなさいよ」

「……でも、僕は」

 ここよ、と言って茜がメモを差し出す。

 都内の大きな総合病院の名前と電話番号、部屋の番号が記されている。

「勘当がなんだっていうのよ。あんた、父さんと母さんの子供なんだからね、血は捨てたり出来ないのよ。……賭けても良いわ、疎遠のまま一生終えたりしたら母さんも父さんもあんたも後悔するわよ」

「……僕はともかく……」

「ホントよ」

 不意に姉が真面目な顔をしてテーブルの向かいから身を乗り出す。

「……後悔してるわ。私」

「……姉さん」

「子供が出来て……育てて。平等に見るって、なんて難しいことなのかって、わかったの。……そうしたらなんだか、あんたのことばっかり思い出して」

「……………」

「……私達、とても、残酷なことをしてたわ。鴇」

 久しぶりに名を呼ばれた。

 兄弟に呼ばれたそれが、ちゃんと、自分を指していることに鴇は気付く。

「あんたは……弱くて。いつも、誰も傷つけないで。それを責めるのが当然だと、私達は、思ってた。……ごめんなさい」

 始めて聞いた気の強い姉の謝罪の言葉は、しんと胸に沁みた。

 ゆっくりと鴇は首を振る。

「謝る事なんてないよ……姉さん。僕は、弱かった。それは本当だ」

「鴇」

「弱くて……怖がりで。色々なものが憎くて、それであんな事をしでかした」

「………」

「勘当されて、当然だよ」

 黙ったまま、茜は鴇の手にメモを握らせた。

「……私には……これ以上言えないけど。でも鴇、あんたは優しいから…このまま会わなかったら、後悔すると思う。だから、行ってきて。お願いよ」

「………うん。考えてみるよ」

 別れ際に茜は、そう言えば舞台の成功おめでとう、とついでのように言った。

「え?」

「観に行ったのよ。いい脚本だったわ。あんたが書いたの?」

「いや……僕じゃなくて、ちゃんとしたライターさんが」

「そうなの。それはちょっと残念ね。……あのね、私も、父さんも母さんも、あんたの本は全部持ってるのよ」

 じゃあね、と言って茜は踵を返し、軽やかに歩き出す。

 その背を見送って、鴇は知らず笑みを浮かべた。

 長い確執はいつの間にかこうして時がほどいていくものなのかも知れない。姉を目の前にして胸に湧いたものが、ただ懐かしさだけだったことに鴇はほっとする。これを切っ掛けに、両親に会いに行くことが出来るだろうか。

 手の中のメモを大切に畳んでポケットに仕舞い、人でごったがえす渋谷の駅に向かった。

 切符を買おうとして、壁面に飾られた出版社の広告に気がついた。

「あ……これか。新しい文芸誌って」

 七月中旬に発売と言っていたから、確かにそろそろ大々的に広告を打ち出していてもおかしくはない。

 へぇ、と思って眺めて、ふと鴇はおかしな事に気がついた。

「………え?」

 急に血の気が引く。

 なにかの間違いかと思ったけれど、ここまでしっかりと印刷されていてはミスで通るわけもない。

 何度見ても、見間違いではなく。

「……どうして」

 呟くと、不意に鞄の中で携帯電話が鳴った。

 貴志につい先日無理矢理渡されたばかりの携帯は、どうにも慣れなくてマナーモードにする事をすっかり忘れていたのだ。

 しかも登録は一件切り。

 慌てて取り出すと、もたもたと通話ボタンを押す。

「もしもし」

『鴇。いま、平気か?』

「あ、うん……大丈夫」

 混乱した頭の中が、貴志の声を聞くだけで落ち着いていく。

 ほぅと息を付いて、鴇は壁際に移動した。

「どうしたの?」

『いや……ちょっと、気になることがあってな。お前、新創刊の雑誌の仕事は断ったって言ってたよな?』

「え……」

 厭な感じに心臓が高鳴る。

『来週催す出版関係のイベントで、持ち込まれたポスターに、お前の出版社の雑誌のがあったんだが。それに、『四ノ宮朱鷺の新境地』っていうあおりがあってな……』

 貴志の声が遠い。

 目眩を覚えて、鴇は壁にもたれかかった。

『お前と飲んだのはほんの十日程前だろう。……なにか都合があったのかとも思ったんだが、気になって』

「貴志」

『……どうした』

 震える鴇の声音に気付いたのだろう。

 一瞬沈黙した貴志が、鋭い声で問う。

「悪いけど……ほんとに、申し訳ないんだけど。今から、出てこれるかな」

『いいぞ』

 一瞬の迷いもなく返す声に、鴇は何故か泣きそうになった。

「じゃあ、渋谷のハチ公口改札のところで、待ってる」

『ああ。十分くらいで着ける』

 すぐに通話は切れる。

 深く、息を付いて、鴇は身体を起こした。

 滅多に覚えない激しい怒りが、蒼い炎のようにじわじわと立ち上り胸の奥を灼き焦がしていた。

 

 




















 

 ハチ公口改札の出口近くに立っていた鴇は、ほんの数分で現れた貴志を見て眼を丸くした。

「貴志、……ごめん急に」

「いいさ。お前があんな事を言うなんて、滅多にあることじゃない」

 仕事は全部丸投げで逆井に押しつけてきた。

 たかが社長一人がいない程度でどうにもならなくなるような会社を造ったつもりはない。

 眼をつり上げていた逆井も、四ノ宮朱鷺の一大事だと言うと渋々ながら外出を許した。

 後の埋め合わせを考えると怖ろしいが。

「で?オレに出来ることは?」

「うん……銀座まで、ついてきてくれるかな」

「銀座?」

「出版社……いや、編集部まで」

「ああ、わかった」

 酷く固い顔をした鴇は、それ以上の質問を貴志に許さずにさっさと銀座線に向かって歩き出す。

 人波を縫ったその肩は酷く強ばっていて、初めて見る筈の鴇のそんな姿に不思議な既視感を覚えながら、貴志も、その後を追った。

 銀座線に乗れば渋谷から銀座まではほんの二十分ほどだ。

 日本初のこの地下鉄は、東京都の古くから栄えた場所を結ぶように出来ている。貴志も仕事柄使うことが多かった。

 平日の昼間なので車両は空いている。

 座れ、と促すと鴇は固い顔のまま隣に腰を下ろした。

「……なにがあった?雑誌の仕事は?」

「断ったんだ」

「………」

「僕は、書いていない。多分竹岡君が、僕の部屋から勝手に持っていったんだ」

「……あの男か」

 チッ、と行儀悪く舌を打つ。

 会ったのはまだ数回だが、鴇を軽んじる態度が見え見えの竹岡はいけ好かない男だった。

「勝手に、受けていたんだと思う。この間……ランプで酒盛りをした日に、竹岡君が来ていたんだ。書き下ろしを書いたところまで見たいって言うから、ワープロを見せて……荷物を受け取りに席を外した」

「……仕事を勝手に受けて盗んだ原稿でお茶を濁すつもりなのか……盗人猛々しいとはこの事だな」

「フロッピーが……散らかっていて。でも、あの中にちゃんと書き上げた原稿は、無かった筈なんだ」

 呟くような鴇の言葉。

「全部、書いてあるのは……ひとつきりで」

 伏せた顔の表情は見えない。

 少し伸びすぎた白髪まじりの髪を掻き回すように撫でると、きょとんとした顔で貴志を見上げる。

「……着いていてやるから」

「うん。……ありがとう」

 強ばった顔のまま鴇は笑う。

 その黒い眼の中に炎のように閃いた意志を見て、貴志は、ふと背筋に悪寒が走るのを感じた。 

 いつか見た、彼の眼も。

 こんな色をしていた。






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