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◇ ◇ ◇

 

「先生。原稿はいかがでしょうか」

 六月末まであと十日ほどという頃、家に現れた竹岡は珍しく神妙な顔をしていた。さすがに劇場での件の後でばつが悪かったのかも知れない。

 結局あのあと編集部からなにかを言ってくることはなく、チケットの件は竹岡が何も報告をしなかったらしかった。

「ああ……うん。今回はまぁ、どうにか」

「どうにかなりそうなんですか?」

「うん……どうにか」

 ついつい曖昧にごまかしてしまうのは習い性だ。

 作家になってからこっち、編集部の要求した〆切に原稿が間にあったことなど片手の数ほどしかない。

「……すみませんが先生、書きかけの原稿を見せていただいて宜しいですか」

 座布団からいざりよってこようかという勢いで竹岡がそう言う。

「う、うん。いいけど……でもまた書き直すかも知れないよ」

 書いたものを消して書き直すことが鴇には多い。

「かまいません」

 竹岡に押されるままについついワープロの電源を入れる。

 この部屋の卓袱台はワープロと資料を置くだけの場所と化していて、積み上がった本や紙類、フロッピーディスクはいつ雪崩れてもおかしくない状態で絶妙のバランスを保っていた。

 机の下には書き途中やまだ話にもならない文章を収めたフロッピーと手書きのメモの山。

 グレーのワープロは鴇が作家とようやく呼ばれ始めた頃から使っているNECのもので、最近調子が悪いので買い換えた方がいいかなと思っている。しかし換えるなら次はパソコンですねと言われて躊躇しているのだ。

「………ねぇ竹岡君。どうして大手電気メーカーはワープロを作るのを止めてしまったんだろうねぇ」

「採算が合わないからに決まってるでしょう。先生もそろそろ取り替えないと取り返しの付かないことが起きますよ。

……ああ、こちらですか」

 ばっさりと言われてため息をつくと、玄関からチャイムの音が聞こえてきた。

「ああ、どうぞ先生。私はちょっと読ませていただいておりますので」

「本当に、書き直すかも知れないからね?」

 念を押してから玄関に向かう。

 顔馴染みの宅配業者が荷物を持ってきていた。

 大きな宅配は国際便で、送り主はもちろん陽だ。

 すぐに中身が見たくなって鴇はついついその場で箱のガムテープを剥いでしまう。箱の半分以上はぎゅうぎゅうの梱包材で、玄関先は真っ白になった。 

 厳重に包まれた最後の包みを解くと、優美な花のような形をしたガラスのオブジェが現れる。

「わぁ……」

 慎重にとりだせば、それはアンティークのランプのようだった。ぼんやりと、奥から滲むような深い色の、青とも灰色とも紫とも付かない不思議なガラスで出来ている。

 付いていた手紙を開くと見慣れた陽の文字。

『イギリスのアンティークのお店で見つけました。鴇さんの『黄昏の国』舞台化記念のお祝いに送ります。なんだかあの本に出てくる海の灯火みたいでしょう?サフィレットグラスっていうアンティークのガラスなんだって。これを部屋に置けば原稿もはかどっちゃうかもね?陽』

 茶目っ気のある言葉で締めくくった手紙を、二回読み直してから鴇はランプにため息を付く。

「……高かっただろうに。まったく」

 そう言う傍から嬉しさで唇が綻ぶのを止められない。

 優美なランプは灯りを灯さずとも美しく、これが光ったらどんなに幻想的だろうと思う。

 なかなか戻ってこない鴇を不審に思ったのか、竹岡が奥から顔を出した。

「あ、竹岡君。見て、陽が送ってくれたんだ」

「ああ、それは良かったですね。先生、私はそろそろお暇いたします」

 おざなりな言葉で鴇の喜びを片づけて、竹岡がそう言う。

「あ、はい」

「原稿は間に合いそうですね。また後日、伺いますので」

「あ、うん……頑張るよ」

 挨拶もそこそこに、竹岡はそそくさと帰ってしまった。

 仕事の連絡でも入ったのかと首を傾げながら、ワープロの電源を切りに部屋に戻る。

 フロッピーが本体から出されていて、おやと思う。

 わざわざ出したのだろうか。

 中身を確認してみると確かに今書いている原稿のものだ。他のフロッピーを見たのだろうかと机の下をちょっと覗いてみたが、もともと乱雑に置かれているのだからわかるわけがない。

「……まぁ、いいか」

 他の小説の進み具合でも確認したのかも知れない。

 勝手に人のものを触るのはあまり良いことではないだろうが、担当なのだし、小説くらいはかまわないだろう。

 それより、と鴇は陽からもらったランプをどこに置こうかと考える。

 この乱雑な部屋にはいくらなんでも似合わない。

 片づけるには時間がないし、第一鴇以外ほとんど立ち入るもののいないここに押し込めてしまうのはもったいなさ過ぎる。

「………そうだ」

 暫し考えた後ふと良いことを思いついて、鴇は早速電話に手を伸ばした。

 

 





















 

「いらっしゃい」

 玄関先で出迎えると、貴志は驚いた顔をした。

「……留守かと思ったぞ。真っ暗にして」

「暗くしないと駄目なんだよ」

「なんでだ」

 貴志の言葉には笑って応えず、入って、と言って薄暗い廊下を先に立つ。

「……お前から電話をくれたのは始めてだな」

「そうだったっけ」

「ああ」

 廊下の一番奥の左側の部屋。晴記と日向子の仏壇のある部屋の障子を、すらりと鴇は開いた。

「どうぞ」

「あぁ……これは」

 部屋に一歩入り、小さく感嘆の声を上げる貴志に満足して鴇も部屋に入り、障子を閉める。

 ぼんやりとした光が、畳の部屋を照らし出していた。

 庭に面した窓を開け放ち、その縁側に置いた優美なランプが光源で、青とも紫とも灰色とも付かない不思議な光が揺らめいている。

 炎ではなく電気の光なのだから揺らぐはずはないのだけれど、ガラスの色彩によって起きる変化はまるで海の底にいるようだった。

「今日、陽から届いたんだ」

「……アンティークのランプか?」

「そう。貴志の所も取り扱ってるのかな、そう言えば」

「ああ。……だがこれは、珍しいな。サフィレットグラスか」

「良く知ってるねぇ」

 さすが、と感心する。ランプの隣に二人して腰を下ろし、鴇は用意しておいた透明の切り子グラスを差し出した。

「ああ。酒は?」

「日本酒だけど」

「オレもワインを持ってきた」

「じゃあそれは、次でね」

 バケツに氷を放り込んだだけの簡易ワインクーラーとそこに入った一升瓶を見て、貴志が呆れた顔をする。けれどキンキンに冷やしておいた大吟醸は、貴志の口にもあったようだった。

 ランプの光の中で、黙って、二人で酒を傾ける。

 遠くから時折聞こえる電車の音と風の揺らす梢の音が、BGMだった。

「『あれにみえるは海の灯火。仄白く、蒼々と、揺れては灯り、人を誘《いざな》う、魂の火』」

 貴志が不意に口ずさんだ一説に鴇は眼を見張り、やがてくっくっと肩を揺らして笑った。舞台の上で中谷章が客席の遙か遠くを指差して語ったワンシーンだ。

「良く覚えてるね……貴志。君、役者になった方が良かったんじゃないかな」

「あいにく、記憶力は良くても演技力はさっぱりだ」

「そうかな。……陽も、手紙に書いていたよ」

「なにを?」

「このランプの火は、海の灯火みたいだって」

 見るものによって魂であったり、思い出であったり、怨嗟であったりするその蒼白い灯火には、どれだけ船を漕いでも辿り着けない。

「……佐々木と高瀬に化けて出られるのはゴメンだぞ」

「二人とも潔かったから、とうに成仏してるよ」

「どうだか。お前と陽が心配で、まだこの家をうろうろしてるんじゃないのか」

「まさか」

 呆れたような貴志の言葉が、何故だかおかしい。

 くつくつと笑っていると、空けたグラスに貴志が手酌でまた酒を注ぐ。ついで鴇のグラスにも零れるほどに注ぎ、いい日本酒特有の丸く馥郁《ふくいく》とした香りが立ち上った。

「陽は、僕の部屋に置けば仕事がはかどるかも、って書いてくれたんだけれどね。こんなに綺麗なんだ、僕一人で見るのは勿体ないだろう。ここの部屋に置いておけば晴記と日向子さんもきっと見てくれる」

「そうだな……ついでにオレも、か」

「そう」

 笑って、鴇はまたグラスを空ける。今度は自分で注ぐと、お返しのように貴志の杯も満たした。  

「……確かに。今のお前なら、幽霊になってまで心配しなくてもいいかもな」

 不意に、貴志がそう呟く。

「昔のお前は……もっと、余裕がなかった」

「そうだね」

「笑っているくせに、少しも本心が見えなかった。いつも、なにかを怖がっているようにも思えて」

「……………」

「そのくせ、誰にも立ち入らせない。……オレと関係を持つようになっても、そうだったな」

「……うん」

「植物にみたいだと……最初は、思ってたが」

「うん。……きっとそれは、そういうものでいたいと、僕が思ってたからだよ」

 鴇がそう言うと、貴志は苦笑した。

「……まぁいいさ。お前も、オレも、変わった。すくなくともお前は……」

 ちらりと貴志がバケツに眼をやる。

「こんな大雑把なことをするヤツじゃなかったからな」

 声にからかう色が混じっているのは気のせいではないだろう。バケツに氷はそんなにおかしなことだったかと首を傾げると、いいさ、と言って貴志は残りの大吟醸を開ける。

「鴇。コルク抜きを持ってきてくれ。そろそろワインを開けよう」

「ああ、うん」

 コルク抜きをとってくると、貴志が慣れた仕草で開けてくれる。冷えた白ワインはやはり大吟醸に負けないほど味が良く、舌を楽しませてくれた。

「ところで、お前、こんな悠長にしていて良いのか?」

「え……」

「六月末が〆切だと言ってなかったか。余裕があるな」

「よ、余裕は……あるような無いような無いようなあるような」

「どっちだ」

 昼間竹岡に見せた文章の半分以上を消してしまったことなど今はとても考える気になれない。

 思わず唸って頭を抱えると低い笑い声が降ってきた。

「……まぁ、いいさ。お前の満足するものを書けば」

「う、ううん……でも〆切はそう言うわけにいかなくてね……僕は書くのが遅いから、いつも一つの仕事で手一杯なんだ。今回の新刊の書き下ろしのために、出版社が力を入れている新創刊の雑誌の依頼を断ってしまったくらいで」

「………大丈夫なのか?それは」

「仕方ないよ……書けないんだもん」

 我ながら子供じみた口調だと思ったが、案の定、貴志は遠慮無く爆笑してくれる。

 貴志の仕事の話も、始めて色々聞いた。彼がどんな風に会社を興し、それを大きくしてきたか。

 話題は尽きず、静かな酒盛りは夜が更けるまで続いた。

 蒼く幻想的な光の中で、遠い過去の事はまだ時折胸を過ぎったけれどすべて終わったことだとも思えた。

 十七年、という時間をまざまざと感じる。

 だから不意に貴志の指先が伸びて、鴇の頬に添えられた時も、止める気持ちにはならなかった。

 穏やかなキスは、二人でまた新しい関係を始めることが出来るかも知れないと、そう思わせてくれるのに充分だった。






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