>>> 15 <<<






 

◇◇◇ 海の灯火 ◇◇◇

 

 焦燥と不安に、理由はなかった。

 いいや、原因と名を付けられるものは数限りなくあったけれど、それらはどれか一つを指してどうといえるものではなく、結局何が満ちても欠けてもあの頃はああ言う風にしか居られなかったと鴇は思う。

 存在感の薄い子供だった。

 なんの問題も起こさず、大きな怪我も病気もなく、さりとて特別褒められるほどの秀逸さもなく。

 良い子ねと言われて笑う下で、いつもざらざらとしたものが心を舐めていた。

 主張をせず、反抗をせず、ただ大人しかった鴇を良い子だと頭を撫でる大人は多かったけれど、自分の名をちゃんと覚えてくれた人が一人もいないことも鴇は知っていた。

 聡明な兄達と破天荒な姉達、常に自分を曲げない弟とに挟まれて、六人兄弟の五番目に産まれた鴇は家庭でも学校でもただひっそりと居るのが常だった。

 成績も、運動も、芸術も、なにひとつ兄弟達には及ばず、これと自己を主張できるほどの我の強さもなく。

 誰が悪いわけでもないと鴇は知っている。

 それなのに、その至らなさを両親や兄弟に押しつけようとする自分の心が在ることも充分にわかっていて、鴇はその弱さを憎んだ。

 羨むこと、妬むこと、望むことに疲れていた。

 植物のようだと貴志に笑われたことがある。

 その様に在ろうとしていた。

 声を上げず、誰に見られることもなく、ただ水を得るだけで満足なのだとあの頃は思いこもうとしていたのだ。

 それが間違いだったと気付いたのは、家を離れ寮に入ってからだ。

 鴇は植物などではなかった。

 ちゃんと欲も、情も、痛みもある、一人の人間だった。

 兄弟達の陰からようやく出ることが出来て気付いたその事実は、あまりにも唐突で眩しく、鴇を混乱させた。

 名を呼ばれることがこんなに嬉しいのだと気付いたのは無理矢理生徒会に入れられてからだ。

『鴇、ときか。洒落た良い名前じゃねーか』

『そうだね。これからは篠宮君じゃなくて鴇と呼ぼう』

『鴇君ね。ほんとに良い響き』

 上から順に藍、茜、常盤、浅葱、鴇、菫と兄弟全員色の名を付けられたそれに鴇自身はあまり意味があるとも好きだとも思っていなかったけれど、鴇を認めてくれた三人の口でその名を呼ばれる事は特別な気がして嬉しかった。

 名を、呼ばれることも。

 仕事を褒められることも。

 鴇を、『鴇』として認められるそのすべてが得難く、貴重で、大切だった。

 だから眼が眩んだのだ。

 離れてゆくものを、闇雲に、繋ぎ止めようと抗った。

 

 


























 

 鴇から掛けた電話を、陽はとても喜んでくれた。

 時差を調べて、丁度部屋にいそうな夜にかけると、二回鳴っただけで繋がった。

「いま、大丈夫かな?陽」

『うんうん、平気!全然平気!鴇さんは?原稿、終わったの?』「………努力中だね」

『駄目じゃん!また〆切、遅れてるの?』

「いや、まだ」

 ころころと弾けるような笑い声が受話器の向こうから聞こえる。その声がじわりと胸の奥から暖かな熱を呼び起こして、鴇はほっとため息をついた。

「……陽の声を聞くと安心する」

『……鴇さん。ほんと?』

「とても、落ち着くよ。……やっぱり時々は僕からも電話をしないとね」 

『そうだよ!鴇さん、これが始めてじゃん!』

 オレだってたまには日本語を喋りたいよと、ちょっと弱みを見せた声がそう言った。

「加瀬さんは?」

『ダメダメ。英語のスパルタ教育とか言ってもっぱら英会話』

「……そう。じゃ、きっと上達も早いよ」

『うん。オレね、将来、鴇さんの本を英訳したいんだ』

「え………」

 思いもよらない望みを、陽は語る。

『鴇さんの本を、訳して、イギリスとかアメリカとかいろんな国で紹介したいんだ。……鴇さんの、あの文章の綺麗さを、一番相応しく訳したいんだ』

「……陽」

『頑張るから、オレ。……だから将来、よろしくね?』

 堪らなくなって鴇は声を上げて笑った。

『わ。めずらしい、鴇さんがそんなに笑うなんて。オレ、おかしな事言った?』

「いいや……いいや。陽。嬉しくて、笑ったんだ」

『……ほんと?』

「本当だよ。陽が、そんなことを考えてくれてるなんて思ってもいなくて」

『なんでさー。大体、鴇さんのファン一号はオレだよ?』

 拗ねた声で陽はそう言った。

『オレ、すっごい良く覚えてるもん。鴇さん、昔良く自分の手作りの絵本、読んでくれたじゃん』

「………そうだったね」

『そうだよ。おもしろくって、あれ。オレ、すごく好きで、母さんがうっかり捨てちゃったとき滅茶苦茶泣いて怒ったよ』

「ああ……そんなこともあったっけね」

 新しい絵本を書いてあげるからといっても納得しなくて。

 火がついたように泣き喚いた後、陽は黙って塵処理場まで一人きりで行ってしまった。

 処理場から迷子札を見て電話が来たので、慌てて三人で迎えに行った。どうしても鴇の背が良いと言い張るのでよろけながらも負ぶって。

 その背でまた泣いた陽の涙の切ない熱さをとても良く覚えている。

 眼を瞑って、受話器を持ったまま鴇は柱にもたれかかる。

 陽の成長の傷を刻んだ柱だ。

 十五年、陽は、鴇をどんなに支えてくれただろう。

 長い間彼は鴇の世界の中心だった。

『だからさ。オレ、絶対英語を完璧にマスターするからね!』

「うん……うん。待っているよ」

 胸の奥で、固いしこりの一つが不意に解けた。

 じわりと、まるで太陽にあたった氷のように溶けて胸を満たしたその暖かな熱が零れ出し、頬を伝う。

 遠く離れていても繋がるものがあるのだと、その時、ようやく鴇は知ることが出来た。

『……あ、なんかまたオレのことばっかり話しちゃった。鴇さんは?なんか変わったこととかある?』

 照れ隠しにか陽が不意に話題を変える。

「ああ……うん、少し」

 担当が変わったこと。舞台の初公演があったこと。

 いくつかの近況の変化を陽は喜び、時々茶々をはさみながらも、楽しげに聞いてくれた。

 離れていても良い。

 例え姿が見えなくとも、傍にいられなくとも。

 そして彼の一番大切な人が、鴇でなくともかまわない。

 ようやく心からそう思えたことに、鴇は、安堵した。

 






 16へ


index