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最初の乾杯の後胃の不調を理由に酒を断り続けたのは、もちろん帰りは送っていこうという意図があったからだ。

 二人切りの食事は結局逆井と一瀬、劇団の団員数名というおまけが付くことになった。

 竹岡は、来なかった。

 鴇になんの挨拶も無しに帰ったらしい。

 後で編集長にねじ込んでおけよと言うと、鴇は困った顔で笑っていた。どうせこの男の事だ、すべて何事もなかったかのように済ましてしまうのだろう。

 鴇のそう言うところが昔からもどかしかったのだと、ふと思い出す。

 笑ったきりすべてを胸一つに仕舞いこんで、彼はなにも言わない。

 だから気付かなかった。

 彼がなにかを、憎んでいたことに。

「逆井。鴇に絡むな」

「いいじゃないですかぁ。大体社長はなんですか、先生と朱鷺とか呼び合う間柄のくせに今日まで黙ってるなんて」

「お前に言う必要があるのか」

「だから冷たいって言うんですよー」

 冷たい美貌の部下は、実は酒に弱い。

 酔っ払いは先刻から正気ではとても口に出来ないような賛辞を鴇に向かって並べ立てていて、さらに一瀬がそれに便乗するものだから、鴇はとても困った顔で笑っている。

「……ぼちぼちお開きにするぞ」

「ええ?」

「もう?まだ早いじゃないかね」

「一瀬団長。明日も舞台でしょう、何を言ってるんですか」

 もう、とは言っても後三十分もすれば日付が変わってしまう。 渋る酔っぱらい達を追い立てるように店を出て、電車があるうちに帰途につかせる。

 鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌な顔で逆井は鴇のサイン入りの本を抱きしめながら帰っていった。

 その素直さがいっそ潔いほどだなと貴志は笑う。

 月曜日からはさんざんネタにしてやろう。

「じゃあ、貴志。僕もこれで」

「ああ、お前はオレと一緒だ」

「え?」

「送る」

「そんな……悪いよ」

「オレが送りたいだけだ。さっさと来い」

 そう言って強引に促すと、戸惑った顔をしながらも鴇は後に付いてくる。

 昔からそうだった。貴志がこうと押し進めることに、彼は形ばかりの抗議しかしない。

 後は諾々と従って、飲み込んだ言葉さえも悟らせない。

 それは今もそうなのかとその表情を伺い見る。

 結構な量を飲んだというのに鴇は涼しい顔で、なにか用かと問うように小首を傾げて見せた。

「………いや。……お前、再会した頃より少し、若返ったな」

「ええ?なに言ってるんだよ」

 おかしな冗談を聞いたように声を上げて鴇が笑う。

「本当だ」

「こんな白髪混じりのおじさんに言う台詞じゃないね」

「お前がおじさんならオレはなんなんだ」

「貴志はあまり変わらないよ。……いや、変わったけど、格好良くなった」

 他愛ない車内の会話は、とても穏やかなものだった。

 直に笑う声も途切れて、貴志は助手席の鴇が眠っていることに気がつく。国道の街灯が流れてはその穏やかな顔を照らし出し、貴志は何故かたまらなく切ない気分になった。

 無くしたものが今ここに在る。

 損なうことが二度と無いようにと、それだけを誓った。

 











 

 

「……あぁ……寝てしまったのか。悪かったね」

「いいや。寝顔も、可愛かったからな」

「………君って人はどうしてそう……」

 呆れたような鴇の言葉はため息で途切れる。

「……とにかく上がってくれ。もう遅い、泊まっていってくれても良いよ」

 車を空いたきりらしい駐車のスペースに止めて、促されるままに貴志は玄関をくぐる。

 けれど三和土の所で、ぴたりと脚は止まった。

「貴志?」

「………鴇。お前はもう少し、自分を大事にした方がいい」

「え?」

 不意に思い出した。

 記憶は混乱と暗闇に紛れて曖昧でも、確かに、この手は熱を覚えている。

 あそこにあったのは過去だなどという言い訳は出来ない。 「この間オレが何をしたか忘れたのか」

「………それは」

「……じゃあな」

 踵を返す。

 この暗闇の中に二人切りで居ては、何をするかわからないと言う怖れがあった。

 自分の中にある鴇への欲をはっきりと自覚する。

 腕に、指に良く馴染むその身体をもう一度征服したいという本能の声が聞こえる。

「……待って!」

 それを振り切ろうとしたのに、伸びた手が貴志の腕を掴んだ。「………鴇。離せ」

「駄目だよ。貴志。……君はこの間のことを、すべて自分のせいだと思ってる」

「その通りだろう。混乱していたお前を掴まえて、無理矢理」

「違うよ。………混乱していたのはその通りだけど。でも……思い出していた。昔のことを」

「鴇。離せ」

「昔、君に抱かれていた頃のことを。……誘ったのは多分僕だ、貴志」

 強く、縋るように指が、腕に食い込む。

「違う」

「違わないよ……君は、気付いていないかも知れないけど、僕が本当にセックスをいやがったのは初めの一度きりだ」

「鴇」

「君が、自分のせいだなんて……思う必要はないんだよ。貴志」

 愛しかった。

 けれどその愛しさと共に例えようもなくもどかしい。

 何故そんなにも何もかもを許そうとするのだろう。

 こみ上げる衝動を押し殺して、強く掌に爪を立てたとき、不意に暗闇を裂いて電子音が鳴った。

 びくりと、鴇が肩を振るわせる。

 遅れて貴志もそれがこの家の電話のベルだと気がついた。

「………鴇」

「………」

「出なくて良いのか」

「黙って」

 なにかに怯えるように鴇が息を潜める。ぷつっと、電話が留守電に切り替わる音がした。少年の声で吹き込まれた留守録の後に甲高いピーッという音。

『……夜分に失礼いたします。加瀬です。陽から、篠宮さんは夜中に起きていることの方が多いと聞いたのでこの時間にお電話させていただきました。就寝中でしたら、申し訳在りません』

「………」

 息を潜めて鴇はその声を聞いている。闇に俯く顔が見えなくて、貴志はついその肩に手を回した。

 誰なのだろう。この男は。

『陽が、あなたの電話を待っています。……急かして申し訳ないのですが……よろしくお願いいたします』

 暫しの沈黙。躊躇いが、電話の向こうから伝わる。

『………貴方の元から陽を連れて行ったことを……とても、申し訳なく思っています』

 手の下で鴇の肩が震える。

『……いえ。失礼しました。……陽のことは、大切にします。これからも、ずっと。……では』

 電話が切れる。沈黙はいっそうひやりと冷たく、夜の闇は深くなった気がした。

「………鴇。今のは、誰だ」

「……加瀬さん」

「そうじゃなく」

 大きなため息が落ちる。腕を引かれて貴志は鴇を見下ろす。

「入ってくれ。もう遅い」

「………」

「早く」

 俯いた鴇に、帰ると言い出すことはもう出来なかった。

 鴇の部屋に入ると、白い電気が皓々とつけられる。

 敷きっぱなしの布団、卓袱台におかれたワープロ、そして本と資料の山がその脇に積み上げられている。本棚がその隣にあったが、当に容量は超えているようだった。

「お茶でも」

「いらん。……加瀬ってのは、誰なんだ」

「………陽の、大事な人」

 ため息のように鴇がそう言った。

「イギリスに、陽と一緒に居るんだよ。陽は彼について行ったんだ」

「男だったな」

「………そう言うところばっかり、僕に似たみたいだよ」

 自嘲のような笑いが鴇の唇から零れる。崩れるように座った彼の前に、貴志も膝をついた。

 手を取って、その指先が冷え切っていることに気がつく。

 問おうと思って幾度かは堪えた問いが、零れてしまう。

「………鴇。お前は、陽を愛してたのか?」

「……え?」

「陽に……恋をしてたのか」

 何を言われたかわからないと言うように鴇が眼を瞬く。やがて、笑みがその唇に刻まれた。

「僕が?陽を愛してたかって?」

「ああ」

「もちろん、愛してたよ……いいや、今でも愛している」

「……………」

「君には、わからないだろう」

 責めるでもなく、まるで愛しい言葉を紡ぐように甘い口調で鴇は話す。

「僕に……いいや、僕達にとって、陽がどれほど大切だったか。あの子は、本当に、僕達の太陽だった」

「………」

「愛しかったよ……傍にいるだけで良かった。陽の望むことならなんでもしようと思ってた」

「………そうか」

「うん。……本当は僕は、こんなに長く、晴記の所に居るはずじゃなかったんだ。すぐに、出ていこうと思っていた」

 鴇の笑みは儚い。

 まるで遠い昔の夢を見ているように。

「でも、陽がいて……泣いて。僕に、ここにいる理由をくれて」

「この家に?」

「そう。僕を、家族だって言ってくれて」

「…………」

「どれだけ………どれほど、陽が、大切だったか」

 声に、軋るような嗚咽が混じる。堪らなくなって貴志はその両腕に鴇を抱きしめた。

「……そう、君が言うように……陽が、僕に抱くことか抱かれることを望んだら……きっとそれも出来ただろう」

「………」

「大事だったよ……大切だった。けど、陽が望むのは、あの男の傍にいることなんだ」

「……鴇」

「ちゃんと知っているんだ。陽が、僕を家族だと思っていること。大事にしてくれていること」

「ああ」

「なのに……僕は弱いから、あの子が、あの男の傍で幸せなことを、ただ喜んでやれないんだ………」

 強く爪を立てて細い指がしがみつく。

 無性に切なくて、貴志はただ彼の震える薄い背を抱く両腕に力をこめた。

「……鴇、それは……嫉妬だろう」

「………そうだよ。とても……醜い」

「違う」

 耳元に囁く。この言葉の本当が、彼に届けばいいと願って。

「当たり前のことだ。本当に……当たり前の。誰にでもあることだ。……大事なものが、他の誰かにとられたら……誰だってそんな風に思うんだ」

「……………」

「それでもお前は、陽の幸せを一番に、願ってるだろう」

 零れた涙が熱くシャツの胸元を濡らす。暫く泣いた後、鴇は、熱い息の中で呟いた。

「そう……そうだね………昔、君に恋をしていた時のような」

「……ッ」

「あの滅茶苦茶な思いと……陽に向ける心は、違う」

「………」

「幸せになって欲しいんだ………」

 堪えきれなくなって、キスをした。

 嗚咽の零れる唇を、苦しくないように何度も離しては塞いで、繰り返し、彼を傷つけない優しいキスを。

「……鴇」

「……っ、は、ぁっ……」

「鴇。……お前を愛している」

「……なに……」

「お前に、恋をしている。今度こそ、ちゃんと」

「なに、を」

「抱いて良いか」

 問うと鴇の視線は揺れる。

「お前にしたことは消えない。……けれど、お前が許してくれるなら、オレはまたちゃんと始めたい」

「……なにを?」

「言っただろう」

 腕の中に囲って熱を分け合う。冷えた身体が、少しでも暖まるようにと願いながら。

「お前を、愛することをだ」

「………貴志」

「許して欲しいのはオレだ。鴇。……お前を、抱いて良いか」

 震える息。

 震える体。

 けれど、吐息のように小さく零された声を、貴志は聞き逃さなかった。それが弱さや、夜や、淋しさに押し流されたものだったとしても、今はかまわなかった。

 











 

 骨の浮いた身体を辿るように唇を這わせる。

 いつか、隅々まで知り尽くしたと思っていた鴇の身体はまるで始めて触れるもののようだった。

「……っぅ」

 掠れた声。

 熱い息。

 敷きっぱなしだった布団を笑って押し倒せば、微かに羞恥の浮いた顔を見せた。

「このあいだ干してただろう」

「………それは、そうだけど……でも、何だか悪いよ」

「かまわない」

 首筋に舌を這わせ、耳朶を噛むと微かな声が上がる。それがいっそう熱を煽った。

 いつかの暗闇の中でのことなど覚えていない。

 十七年ぶりに触れるように大切に、貴志は鴇の身体に触れた。

 痩せた身体は、けれど少年の頃とは比べものにならないほどしっかりとしている。強く抱きしめれば骨が折れてしまいそうなほど華奢だった少年はもうどこにもいない。

 その事が少し悔しく、そして安堵して、貴志は少しずつ彼の身体を暴いていく。

 舌で、指で辿るたび上がる微かな声を楽しんだ。

「……鴇」

「なに……」

「お前……この間みたいな所に、良く行くのか」

「この間……?」

「新宿で、会っただろう。口の悪いガキを連れてた」

「ああ………」

 上がった息に混ざる苦笑の気配。

「……病気は、持ってないはずだけど。他の男と寝た身体がいやだったら……」

「馬鹿。いまさら純潔にこだわるような歳か」

 仕置きのように取り上げた手を噛む。指先に強く歯をたてると、もう一方の手を置いた胸が大きく喘いだ。

「とは言っても……妬けるな。鴇、二度とあんな所に行くな」

「………」

「淋しくなったら連絡を寄越せ。いつでも、来るから」

「………はは」

 そうする以外にどうしようもないと言う顔で鴇が笑うから、本気だと教えるように唇を重ねる。薄く、柔らかい唇の感触は昔と変わらなかった。

 変わったものと変わらないもの。

 知っていたものと知るもの。

 一つ一つを確かめるように貴志は鴇を丁寧に辿った。

「……ァア…ッ、た、貴志、ちょっと……ッ」

 削げた腹を辿った手をそのまま彼の雄に滑らせると声を上げて鴇が身動ぐ。

「なんだ。いまさら」

「い、いいよ、そんな風に触らなくても……」

 紅潮した顔は羞恥のせいか、それとも丁寧な愛撫に慣れていないのだろうか。抗議を無視して擦り上げるようにじっくりと嬲ると、涙で赤くなった眼が恨めしげに見上げてくる。

「……ぅっん……ッ、だ、だめ……っ」

「くそ……ッ、色っぽいな、鴇……」

「そんな馬鹿な事言うの、君だけだよ……」

「本当だ」

 憎まれ口をたたく唇の端にキスを落とす。

 熱を追い上げ、濡れた指先で後ろを辿ると爪を立てて鴇が肩にしがみつく。他の男との行為を重ねたとは到底思えないような狭い場所を、ゆっくりと指を増やして慣らしていく。

「……た、貴志、もう、いいって……」

「まだだ。……オレのは、でかいからな」

 それに、お前の中は狭いし。たっぷりと濡れた声で耳元で囁いてやれば、さらに鴇の顔が紅潮する。

「平気だよ……さんざんしたじゃないか」

「……あの頃と同じだと思うなよ」

「もう……!」

 子供じみた仕草で鴇が貴志の肩に噛みつく。ざわりと身体の中を舐める炎がいっそう猛って、貴志は低く呻いた。

「もう、いいから……ッ」

「……力、抜いてろよ」

 骨張った脚を抱え上げる。すっかり猛っていた自分のものを慣らすように入口に擦りつけると、鴇が堪らなく艶めいた喘ぎ声をもらす。

「……ぅん、ぁあッ!」

「……ッ」

 ずるりと、狭い肉の輪の中に滑り込む。暖かな粘膜に押し包まれる感触は例えようもなく、貴志は低く呻いた。

 もう何度抱いたかわからない、けれど始めてのような身体。

 無理をさせないよう、少しずつ押し広げて、最後まで入り込んだ時にはため息が零れた。

「……ぅん……は…ッ」

「鴇……痛いか?」

「う、ううん……ッ、へ、へいき……」

「……本当か?」

「ほ、ほんとだよ……っ」

 身体を屈める。その動きに感じたのか、また鴇が声を上げた。 目尻に溜まった涙を舌で拭って、痛くないか、ともう一度貴志は聞いた。

「いたく、ない……どうして」

「お前の平気も大丈夫も、あまりあてにならない」

「……なんで?」

「………いいや。すまん。オレが鈍いからだな」

「え………?」

 涙で霞んだ眼で鴇が貴志を見上げる。その頬に、額に、鼻先に、幾つもキスを落としながら貴志は苦く笑う。

「……お前が……あの頃、色々なものを憎んでいたことに、オレは気付かなかった」

「…………」

「お前の苦しみも、つらさも、一つも理解しようとしなかった。……オレはただオレの都合にお前を付き合わせただけだ」

「なに言ってるの……貴志」

 熱く、荒れた息で、鴇が笑う。その細い腕が上がってぎゅっと貴志の背を抱いた。

「あの頃……僕は、僕の憎しみを、とても醜いものだと思ってた。もし君にそれを知られていたら、その場で死んでしまったかも知れない」

「鴇………」

「隠してたんだよ。必死で。……君に、晴記に、日向子さんにも……知られ無くて良かった…知ってほしくなかった」 

 無駄だったけれどね、と微かな声。

「鴇。そんなことは」

「それより……早く、動いて。もう慣れた……つらいよ」

 行為の続きを急かす声。

 貴志もせき止められた熱に限界を覚えていて、それでも鴇を壊さないようにとゆるゆる動き出す。

 高く甘い声と、二つの身体の擦れる音、押さえた喘ぎが部屋の空気に甘く渦巻いた。

 


























 

 鴇を腕に抱く男の胸元を指先で辿る。

 不思議だと思った。もう二度とこの男に触れることはないと、遠い昔に確信していたのに。

 そんなものはいつの間にか霧散して、夢のように頼りない。

 許されるつもりも、その筈も、なかったのに。

「……しでかしたことは全部、自分に返ってきたって言った」

「ああ……」

「でも……違ったみたいだ。僕は君の痛みを知らない」

「……………」

「君がどんな苦しみを味わったか……知らない」

 不意に貴志が動く。長い腕が、守るように鴇の薄い身体を胸元に深く抱き込んだ。

「………貴志」

「………知らなくて良い。オレも、お前の苦しみを、知らない」

「そんなこと」

「オレだけの……お前だけのものだ。痛みも、傷も」

「………」

「だから二度と繰り返さないと誓える」

 貴志の声は優しかった。震えるほど。

 その言葉に、心にどう答えればいいのかまだわからない。

 指先でその胸に触れながら、鴇は、やがて眠りに落ちた。

 






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