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◇ ◇ ◇

 

 庭に干されている二組の布団を見て、ふと鴇はぼんやりしてしまった。自分の布団は時折陽に当てるけれど、二枚並んで干すことなどついぞなかった。

 正しくは、陽が行ってしまってからだ。

「聞いてるんですか。四ノ宮先生」

 苛立った声が向かいから掛けられる。慌てて鴇は意識をテーブルの上に戻した。向かい側では竹岡が顔をしかめている。

「ああ、はいはい。ええと、六月の末までに、だよね?」

「そうです。それが最終〆切なんで、守ってくださいね」

「はい。……努力します」

「努力でなくて、守ってください。……それから、この間の話なんですが」

「この間の話?」

「七月半ばに創刊の、新雑誌の話です」

 ああ、と鴇は思い出す。そう言えば出版社を訪ねたとき、そんな話をされたのだった。

「けれど……あれは、お断りしたよね?」

「だけど、四ノ宮先生。あれは本当にいい話なんですよ。たやすく断ってしまうには勿体ないんです」

 執拗に竹岡は言い募る。

 乗り出した姿勢に湯飲みが倒れてしまうのではないかと鴇は気を揉んだ。

「文芸誌が次々と廃刊に追い込まれている中で、新しい層を獲得するために思い切ったラインナップで打ち出すんです。先生方も有名どころが揃っていますし、四ノ宮先生も幅広い読者層を獲得するチャンスなんですよ!!」

 広角泡を飛ばそうかという勢いでつめよる竹岡に、鴇は苦笑する。

「……もう少しずれた時期だったら良かったと思うのだけれどもね。やっぱり、新刊の書き下ろしをしながら雑誌の原稿も書くことは、私には出来ないんだよ。すまないね、竹岡君」

「どうしてそう諦めてしまうんですか!」

 苛々と問いつめる竹岡をどうにか宥めて鴇はその話を断り続けた。

 自分の書くスピードには限界があることを良く分かっている。

 迂闊に仕事を引き受けてしまえば、おざなりなものが出来上がるだけだ。

 小説家としてデビューしてまもなくの頃、始めて自分の納得のいかないものを世に出してしまったときのやりきれない気持ちを、鴇はまだ忘れていない。

「すまないね」 

 ただ謝り続けるだけの鴇を竹岡は苛々とした眼で見やる。

 その視線が不意に、鴇の背後の仏壇に止まった。

「……この家は、先生のご友人の家なんですって?」

 不意に話題が変わる。

 鴇の担当になって二月程しか経っていない竹岡は、この家に来た事もまだ数えるほどだ。表札の名字が違う理由は、八木から聞いていたのだろう。

「そう。今は佐々木さんの息子さんの家だけれどね。私は彼が成人するまでの後見人として、お預かりしているだけだよ」

 当たり障りのない事実を鴇は教える。

 竹岡は笑みを浮かべたけれど、それは、気分のいいものではなかった。

「亡くなったご友人のお宅で悠々自適に暮らしていらっしゃるからですか、その余裕は」

「……どういう意味かな?」

「別に。その息子さんとやらもいらっしゃらないことだし、お金に困らないのであれば確かに売名にガツガツしなくとも良いですからね」

 露悪的な言い方に鴇は首を傾げる。

「……もしかして、竹岡君は、怒っているのかな」  

「別に!なんでもないですよ!」

 鴇の問いにカッと顔を赤らめて、竹岡が座布団を蹴るように席を立つ。

「お邪魔いたしました。また改めて」

 早口にそう言って出ていく背を、鴇は玄関まで見送ろうと立ち上がった。ずかずかと振り返りもせず歩いて、さっさと靴を履くと竹岡はがらりと玄関の引き戸を開ける。

「…っおっと」

 その向こうで声が聞こえて、鴇は眼を見開いた。

「失礼しました」

 口先だけでそう言って遠ざかっていく竹岡の背を、玄関先に立った貴志が見送っている。

「……あれは?」

「私の担当の竹岡君だよ」

「随分と苛立った顔をしていたが、なにかあったのか?」

「どうやら怒らせてしまったみたいでね」

 止める間もないまま、貴志は家に上がり込んでくる。

 咎めようとして、けれど言う言葉がないことに鴇は気がついた。彼の、彼らしい、といえる時折傍若無人な行動を責める気持ちなど鴇のどこにも見当たらない。

 ただ戸惑うばかりで。

 奥の部屋に上がり込んだ貴志は、置かれたままの二つの湯飲みを憮然と見やる。

「茶」

「え?」

「喉が渇いた」

 手に持った紙袋を押しつけられて、中身を見てみると駅前の有名な和菓子屋の包みだった。

「……おみやげかい?」

「甘い物が好きだったろう」

「……うん」

 何とはなしに気恥ずかしい。

 二つの湯飲みを下げ、おもたせの包みを開けて新しい茶を淹れてくると、和室には線香の香りが漂っていた。

 仏壇に手を合わせた男が振り返る。

「……頂き物で申し訳ないけれど」

「かまわない。オレも喰おうと思って買ってきたんだ」

「なら、良かった」

 そう言えばこの男も甘い物は嫌いではなかった。

 ふとそんな事を思い出す。放課後の教室や部室、寮で、ケーキや和菓子を食べている姿を何度も見かけたことがある。

 中華まんはあんまんに限ると話していたことも思い出した。

「……何を笑ってる」

「いいや…なんでもないよ」

 不意に思い出した過去の記憶がなんの痛みも伴っていないことに、鴇は驚いた。数珠繋ぎに甦ってきたいくつもの記憶。

 不思議に思う。

 あの過去の果てにあるのが今だと言うことが。

 この男は、どうして今、自分の目の前に座っているのだろう。

「………佐々木は」

 紡がれた名前にふと我に返る。

「佐々木と高瀬は、なぜ死んだんだ」

 晴記と、日向子の旧姓は貴志の唇で紡がれると不思議な懐かしさを伴う。じわりと胸に湧いた学生の頃の記憶は、いっそう美しく、切なかった。

「……うん。もう……四年前、かな。車で買い物に出掛けたんだけれど、飲酒運転の事故に巻き込まれてね」

 あの時の混乱を、鴇はまざまざと思い出すことが出来る。

 四年の歳月は痛みを僅かに和らげ、呼吸を楽にしてくれたけれど、まだそれだけだ。

 国道を走っていた大型トラックが起こした酷い玉突き事故は多くの死傷者を出した。

 家の電話に、連絡をしてきたのは、晴記自身だ。

「びっくりした。事故があったって……晴記が、携帯で家に電話を掛けてきてね。陽はその時学校に行っていて」

 訥々と鴇は話す。

 かつて晴記の親友だったこの男に聞かせるにはむごい話かと思ったけれど、だからこそ最後の姿を知っていて欲しいとも思った。

「陽を学校で拾ってから、急いで病院に駆けつけた。……電話をしてくるくらいだから、大丈夫だと思っていたんだけれど」

 既に日向子は昏睡状態だった。晴記は救急病院の白いパイプベッドに横たわったまま、白い顔で医師の回ってくる順番を待っていた。

 あまりにも大規模な事故で手が足りなかったのだという。

「僕に……陽を頼むって、何度も言ってね。それから、陽に、僕を頼むって言って。………最後まで、晴記は、とても………強い人で」

 あんな風に強い人を、鴇は他に知らない。

 自分と日向子の死を覚悟する中で、多くの苦痛に耐えて、ただ最後まで陽と鴇の身を案じていた。

 こんな風に放り出してすまないと苦しい息の下で繰り返し謝られたけれど、本当に謝りたかったのは鴇の方だ。学生時代から、晴記にはどれほどの苦労を掛けたか知れない。

 ほんの僅かの恩も返せないまま彼は逝ってしまった。

 優しく強かった親友の死は陽と鴇に例えようもない痛みをもたらして、その傷で崩れるようとするものを互いに支えるように生きてきた。

「……ちゃんと……陽を、育てるって約束したのに。僕はいつも助けられてばかりで」 

 ふと呟きが零れる。

 あの少年を育てたのは鴇ではなく、彼の両親が置いていったこの家と生命保険だ。衣服も食事も、ちゃんと鴇が気遣えたかと言われればとても是とは言えない。

 晴記と日向子が逝ってしまって、ひたすら泣き続ける陽を鴇は抱きしめたけれど、本当に助けてもらったのは自分の方だ。

「……イギリスには自分の意志で行ったんだろう」

「………え?」

 もの思いに沈んでいた鴇を、不意に貴志の言葉が引き戻す。

「……ぁ……ぁあ、ごめん……ぼうっとして」

「陽は、自分の意志でイギリスに行ったんだろう?」

「ああ、うん。そうだけど」

 理由がなんであれ、選んだのは陽自身だ。頷くと貴志は苦々しいとも何ともつかない顔で湯気の立つ湯飲みを傾けた。

「立派なことだろうが。道を自分の意志で選べるくらいに、お前が育てたんだろう」

「育てたのは僕じゃないよ」

「お前だ。……四年も二人切りで暮らしておいて、その言い草はないだろう。違うと思うなら陽に言ってみろ」

「………」

「で?まだ十一歳の陽が、良くお前の手元に残ったな」

 貴志の言い方に鴇は苦笑する。まったくもってその通りだ。

 まだ大して名の売れていなかった小説家の、しかも友人宅に下宿させてもらっていた鴇の後見人としての立場など、普通は認められないだろう。

「晴記も、日向子さんも……血縁は少なくてね。それに、二人とも、ちゃんと公的な書類を残してくれてて」

「なるほど。佐々木らしい」

 用意周到なことだ、と笑う貴志はかつての親友の抜け目の無さを思い出しているのだろう。

 万が一の時には篠宮鴇を後見人にと両親の正式なサインと印鑑が押され、弁護士に預けられた書類は、陽が鴇の元に留まる理由になってくれた。

「だけどね……本当に陽が僕と暮らせるようになった一番の理由は、陽のおかげだよ」

「ほう」

「晴記と日向子さんの親戚が集まった親族会議でね、僕の傍にいるって、そう言ってくれたんだ」

 渋る様子を隠さないままに、それでも世間体のために陽を引き取ると言った親類の前で、陽は鴇にしがみついたまま泣き喚いた。

 その様子を見て親類達を取りなしてくれた弁護士には今も深く感謝している。

「駄々をこねたというわけだ」

「そう。僕の腕にしがみついて、泣いてね」

「眼に見えるようだな。……なにしろあいつらの子供だ、必要なものを手放すわけがない」

 不意にテーブルの向こうから手が伸びる。

 震えた唇をどう思ったのか、苦笑した貴志が子供にするように鴇の頭を撫でた。

「……どうしたの」

「いや……白髪だらけだなと思って」

「この間も言っただろう」

「一瀬団長が言っていたな。その白髪は苦労を重ねたせいだと」

「別に、苦労なんて……」

 していないとは云わない。けれどそれは誰にでも有り、どこの道端にでも転がっているようなものだ。

 人を不条理に蹴躓《けつまづ》かせるそれを恨んでも始まらない。

 愛しい相手がいるだけで、幸福だと思う。

「……そ、そう言えば、貴志はどうしてあの舞台に関わっているんだい?」

 流れる曖昧な空気に堪えきれなくなって、鴇は質問する。

 この間劇場で会ってから、ずっと疑問に思っていたことだった。あんな風に偶発的に出会うより以前に、貴志は自分の小説のことを知っていて、あの舞台に関わっているのだ。

 鴇にはそれが不思議だった。

 過去の出来事を許せるほどに貴志の心が広くとも、もう一度積極的に関わりあいたいと思えるものだとも思えない。  

 けれど一瀬の弁では、営業を掛けてきたのはウェストエンド・カンパニーの方からだというのだ。

「知らなかったわけじゃないんだろう……私の小説だと言うことを」

「また、戻ったな」

「え?」

「一人称だ。お前は、プライベートとその他の場面で使い分ける」

「え……」

 言われてみればその通りだ。『私』と『僕』は鴇の中で明確な線が引かれている。

 けれどそう言われるまで、『僕』を使っていたことにも気付かなかった。

「最初会ったとき、違和感を覚えたのはそのせいだな。さっきの口調で気付いた。お前は、学生時代は……ずっと『僕』で通してたからな」

「………」

「まあいい。お前の楽なようにすればいいさ。……あの舞台に関わったのは、あれがお前の小説だからだ」

「……僕の?」

「そうだ。……鴇、オレはお前の本は全部持っている」

「………」

 意外な言葉に眼を瞬く。

 一読者だ、と言われたけれど、あれはあの舞台の原作の本だけだと思っていた。

「全部、カバーを掛けて書棚に並んでいる。一冊残らず」

「……それは……ありがとう」

「お前の本に救われている。いつもだ」

 ふと、真剣な眼を貴志がする。

 ああ、まただと鴇は思う。学生の頃にこんな眼を見せたことはなかった。深く、真摯で、情熱を籠めた眼だ。

 それは傲慢なものでも一時の熱に浮かされたものでもなく、地に足のついた、一途な意志だ。

「あの頃、オレがあれほどに傷つけたのに、お前はちゃんと生きている。……それどころか、あんなに……人の心を揺さぶる文章を書いている」

「……傷つけたのは僕だろう」

「あの本にどれほどオレが救われたかわかるか?」

 滑り落ちた指が鴇の手を取った。骨張った手を包み込むほどに大きな手の持つ熱に、鴇は震える。

「本当は………お前を、愛したかった。大切にして、傷つけずに、守りたかった」

「……………」

「いまさらと思うか?……オレは馬鹿で、支配することが手に入れることだと思っていた。オレの満足をお前の幸せと一緒にした。傲慢だった。お前を……滅茶苦茶にした」

「……そんなことは」

「そうだろう。あの頃のことを思い出すと、オレは……自分が許せなくなる。オレが、お前を踏みにじったんだ」

 もう言葉にも出来ず鴇は緩く首を振る。

 本当に、本当に酷いことをしたのは鴇の方だ。確かにあの頃の貴志の行動は褒められたものではなかったけれど、執着に喜ぶ自分がいたことも確かなのだ。

 その熱がいつ冷めるかと怯えながら。

「すまなかった。いくらでも詫びる。………だから、オレに、もう一度始めさせてくれないか」

「………なにを?」

「お前を愛することを」

 声もなく鴇は息を呑んだ。 

 有り得ない言葉を聞いた、と思う。

 鴇を許せるほどに心の広い男なのだとしても、これでは、自分の身の事を考えていないも同然だ。

「………貴志。僕は、男だよ」

「当たり前だ。……その辺は学生の頃にとっくに解決済みだと思ったがな。オレもお前も、ゲイだろう」

 だからオレなんかに興味を持たれたんだ。そう言って貴志は酷く歪んだ顔で笑う。鴇は首を振った。

「いや……そうじゃ、なくて……それだけじゃなくて。貴志、君は、僕を許しちゃいけない」

「鴇」

「許しちゃいけないんだ」

 頑なな鴇の言葉に、貴志がどういう表情をしたかはよくわからない。居たたまれずに移した視線の先で、外がいつの間にか暗く時雨れていることに気がついた。

「……僕は……弱くて、愚かだから。繰り返すかも知れない。貴志、君が許してしまえば、たやすく忘れて」

「……忘れて良いと、オレが言ってもか?」

「駄目だよ」

 大きなため息。

 それ以上向かい合って座ることが耐えきれなくなって、鴇は立ち上がる。

「ごめん……翳ってきたから、布団を取り込まないと」

「ああ……」

 縁側の窓を開け、沓脱石の上のサンダルを引っかけて庭に出ると千切れた雲が徐々に空を覆い始めていた。

 ふかふかになった布団を叩き、物干し竿から引いて落とす。

「……一昨日オレが泊まった時のか」

「そう。昨日は天気が悪かったから」

 いつの間にか鴇について庭に降りてきた貴志が、もう一枚の布団を抱えて降ろす。

「貴志!お客様がそんなことしなくても」

「オレの使った布団だろう。これくらいはさせろ」

 布団を二枚とも縁側に置いて、今度は毛布に手を掛ける。

 微かな煙草の匂いがして、貴志が後ろで火を点したのだなと思う。晴記も良く日向子に追い出されて、こんな風に外で煙草を吸っていた。

「……鴇。お前は、忘れないよ」

「……………」

「オレが許しても、お前は忘れないだろう。………オレが、もしお前が許してくれても、過去の馬鹿さ加減を忘れられないように」

「……許すなんて。僕は何も怒ってないし……恨んでもいない」

「そんなだから白髪が多くなっちまうんだよ」

 微かに笑いと揶揄の混じった貴志の言葉に鴇は俯くことしかできない。

「まぁいい。気長にやるさ」

「………貴志」

「オレは、諦めないと決めたんだ」

 その声に籠もる優しさに、何故だか酷く申し訳ないような気分になって、鴇は強く眼を瞑った。

 






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