やさしい支配





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   ◇◇◇ 陽 ◇◇◇

 

 彼は暗い和室に座っていた。

 この家で一番良く陽のあたるこの部屋の正面には、大きな黒い仏壇がある。位牌は二つ。

 まるで人に対するようにその前に正座して、彼は、もう遠い友人の顔を思い浮かべた。

 強く、強く眼を閉じて、その友人の顔に縋るように。

 軋む胸は堪えきれないほどに傷むけれど、噛み締めた歯の奥に留まる言葉が零れないようにと願って。

 誰の信頼も裏切りたくはない。

 誰の脚も留めたくはない。

 こんな自分のためには。

「………大丈夫……」

 だから喉の奥に言葉を押し込めて、きりきりと刺すように痛む胸を自分の両手で庇って、望むことを繰り返す。

「大丈夫……大丈夫、だ………」

 

 ひとりでも。

 生きていける、筈なのだ。

 

 























 

「鴇《とき》さん」

 名を呼ばれてふと彼は顔をあげる。

 まだ白いものがうずたかく積まれたまま残るアスファルトの道を踏みしめて、何回見ても見飽きることのない愛しい顔が笑い、大きく手を振った。

「おかえり、陽《よう》」

「ただいま」

 白い息を吐いて彼が笑う。朝に跳ねた寝癖がそのままで、思わず鴇は忍び笑った。

「なに笑ってンの」

「いいや」

 やわらかな猫っ毛を指先で梳かしつければすぐにわけが知れたようで、まだ子供の柔らかさを残した唇が尖る。

「なおんなかったんだよ」

「そうだね。陽の髪は癖がつきやすい」

 大きな黒目がちの眼と少し色の薄いやわらかな髪を母に、整った顔の造りそのものを父に譲られて生まれてきた彼は、時折中学三年生には見えないような大人びた表情を見せる。

 けれど今鴇に見えるのは、小さな子供の頃と同じ甘えた表情だ。

「なにしてたの、鴇さん」

「掃除だよ。ほうきを持ってダンスでもしてたと思うかい?」

「……別に汚れてないじゃん」

 まだ残雪の積まれた道路には、当然の事ながら枯葉一枚落ちてはいない。いかにも言い訳のように手にある竹箒と、ばつの悪げな鴇の顔を交互に眺めやって、陽がため息を落とした。

「……また詰まってんの」

「………う…ッ」

「ちょっとでも進めとかなくていいの?八木さん、きっとまた隈つくってくるぜ」

「ううう……で、でもね、陽……」

「はいはい」

 この先出る言い訳に慣れきっている陽は肩を竦め、鴇の骨張った手からさっさと箒を奪い取った。

「寒いから入ろうよ。もう陽も暮れるしさ」

「そうだね」

 少しずつ夕闇の気配が押し迫ってくる。

 陽が傾いて、冬特有の冴えたグラデーションを描く空を名残惜しげに眺めると、鴇は陽の後に続く。

 彼の首元にしっかりと捲かれた深いグリーンのマフラーがいつの間にかすっかり痩せていることに気付いて、そうだ、マフラーを編んであげようと思いつく。

 時間はもうそう多くはない。

 今も仕事部屋で鴇の帰りを待ちわびているワープロのことはすっかり忘れて、毛糸のあてを思案しだした。

 

 











 

 ワープロに向かうと世界が閉じる。

 一番調子のいいときにだけ訪れるその感覚に全てを委ねていると、時間は意味を無くす。

 ふっつりとなにかが途切れたとき、鴇はようやく顔をあげて、なにが集中を乱したのかと思う。

「………ぁあ……石油が」

 背に背負っていたストーブが、いつの間にか炎を収めている。 

 気付いた途端、じんわりと寒さが骨に染み入って来て鴇は身震いした。

 半纏を着ていても、毛糸の靴下を履いていても、まだ真冬の寒さは実の薄い体に堪える。

「歳だなぁ……ほんと」

 三十路を超えてから急に寒さに弱くなった気がする。

 ガシャンと石油のタンクを持ち上げて廊下に出て、部屋よりもいっそう低い温度に身震いすると台所を目指す。

 石油のポリ容器は勝手口の三和土に置いてあるのだ。

 春はまだなのかな、と呟きながら台所にかかっているカレンダーを眺め、丸のついている日にちに思わず首を振る。

「やっぱり来なくていい……春なんて」

 けれどもう足音が聞こえるほどすぐそこに春は来ている。

 一気に重い気分になりながらタンクを抱えて、鴇は冷たい廊下を歩く。ふと、廊下の一番奥の右側の部屋から、明かりが漏れていることに気がついた。

 鴇の部屋から漏れる明かりしかない、暗い廊下の引き戸の隙間から、まるで白い線を引いたように見える明かりが零れている。

 電気をつけたまま寝てしまったのかと鴇は廊下の奥へ向かう。ちゃんとベッドに入っていればいいが、こたつでそのまま眠ってしまっては風邪をひく。

 今まで何度もあったことなのでやれやれと小さく笑いながら奥へ向かうと、笑い声が聞こえてきた。

「……ね、だから……ってば」

 誰かと話している。

 携帯電話だろう。

 その相手が誰だかも知れて、笑いは苦くなる。こんな深夜におおっぴらに話せる相手などそうは居ないだろう。

 一瞬躊躇ってから石油タンクを片手に持ち替え、こぶしを作る。

 

 コン コン

 

「陽。そろそろ切り上げなさい。もう遅いよ」

 はぁい、という慌てた声。

 それを背で聞いて、鴇はまた両手にタンクを抱えてゆっくりと歩き出す。

 ごめんね、またね。

 おやすみなさい。

 そう言って陽は電話を切るだろうか。

 もう少ししたら、いつでも会えるんだから、そう言って。

 掛けた声に、行動に、僅かでも嫉妬が滲んでいないことだけを願って、鴇は深いため息をついた。

 

 

 夜明け前に家を出た。

 あれきり一睡も出来なかったからだ。

 寒くなって我に返るまですっぽりと落ち込んでいた文章の国は遠く何処かへと去ってしまい、戻っては来なかった。

 書いては消し、書いては消し、約束したページの半分までは来ただろうか。

 どうにもならなくなったので嫌気がさして、半纏にマフラーを巻くと勝手口から外へ出た。

 しんと冷えた冬の空気がまとわりついてぶるりと一瞬震える。飛び石を渡り、裏木戸を押し開けると、まだ暗く沈むアスファルトを規則正しく並んだ白い街灯が照らし出している。

 その光を辿るように鴇は歩き出した。

 つっかけたサンダルがアスファルトを擦る音と、小さな自分の呼吸の音だけが耳につく。

 夜明け前の、一番深い闇。

 白い街灯の小さな光が、払っても払っても拭いきれない闇の中を鴇は歩く。

 やがて、ふと顔をあげると、並んだ街並みの一部がくっきりと影のように切り取られているのが見て取れた。

 夜が明けだしたのだ。

 長い坂道を降る階段の天辺で、鴇は足を止める。

「………あぁ」

 小さな、吐息のような声が白い息と共に零れ出す。

 家々と、その向こうの薄い山の稜線を染めて、冬の朝日が昇ろうとしている。

 空の色が変わっていく。

 白い呼吸の度に明けていく夜の闇を惜しんで、鴇は密やかに息をする。

 その背に、微かな音が届いた。

「……鴇さん!」

「陽?」

 ぱたぱたと地面を叩く運動靴の音。

 白い息を思い切り吐いて、真っ赤な頬をして駆けてきた陽が、鴇の左腕にしがみつく。

「……どうしたの?」

「……っ、それは、こっちのセリフ……ッ」

 思えば昔から、創作に煮詰まる度に時間も状況も考えずふらふらとさまよい歩く鴇を、こうして見つけだすのは陽が多かった。

 どんな時でもその小さな手にしがみつかれたら、それ以外のことは他愛なく思えた。

 幸福な時間はなんて短いのだろう。

「もぅっ!目が覚めたら、鴇さんいないし、勝手口は開いてるしさ……」

「ああ……ごめんね。閉め忘れたかな……」

「まったくこんなに寒いのに!鴇さん、下はパジャマ一枚じゃないか」

「毛糸の靴下履いてるよ」

「それは靴下であってズボンじゃないでしょ」  

 かえろ、と呟いて陽が鴇の袖を引く。

「ごらんよ。陽」

「え?」

「陽が昇るよ」

 山の端に朝陽がかかった瞬間、世界はその色を鮮やかに染め変える。

 眼を細めて鴇はその空を見つめた。すごい、と呟く陽の声に唇を緩める。

「ああ。きれいだね」

 たっぷりとした、橙の、丸い炎が地平で燃えている。

 鮮やかな朝の始まりを世界で一番愛しい人と見ている。

 穏やかに胸に満ちる幸いが、それでも消えない淋しさを内側にくるみこんでいるものだと、鴇は当に知っていた。

 










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