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 ただ傷を癒すだけの数日が過ぎた。

 翌日は前の晩よりも痛んで起き上がることさえままならなかった打撲はどうにか癒えて、明里の屋敷の中を自由に歩き回れるくらいにはなっている。

 昨夜、鴻也が一人でやってきた。

 取り敢えずのかたはついたと言いに来たので、ようやく終わったかとほっとしたところだ。

 まだ事後処理が残っているらしく慌ただしく帰ってしまった。

 寝込んでいる内に十二月が来てしまい、そろそろ年末の準備をしないとなと思う。

 毎年、年越しも年始もなくずっと仕事をしていたが、今年は明里がいやがるだろう。

 大晦日と三が日くらいは休みにして、どうしても断れないご近所の仕事だけかわりばんこに行けばいい。三が日の内にはまた真も遊びに来るだろうし、きっと賑やかな正月になるだろう。

 その真は、この数日始終神妙な顔をして狐原の世話をしようと頑張っていたが、そろそろ飽きてきたようだ。今日は朝ご飯のあとから姿が見えない。

 さくらとでも遊んでいるのかと思っていると、当のさくらがやってきた。

「狐原さん……真は」

「いないぞ。……お前と遊んでるんじゃなかったのか?」

「それが……朝ご飯の後から会って無くて。イチも、明里さんも出掛けてるし」

「………おいおい」

 思わず狐原は頭を抱えそうになる。

「どこかの部屋で寝てるとか……そういうことじゃ、ないよな」

「捜してみたんだけど……」

「まったく……」

 ゆっくりと立ち上がると、さくらが慌てて駆け寄ってくる。

「だ、大丈夫、僕が捜すから」

「家の中だけだ。取り敢えず虱潰しに捜してみよう」

「うん」

 不安げな顔をしたさくらが頷く。

 その時、充電器に置いておいた狐原の携帯電話が音楽を奏で始めた。

 慌てて取り上げてフリップを開き、まさかと思う。

「鴻也のとこの佐々木だ」

 さくらに告げて着信に出る。

『あ、狐原さん、あの……』

「真か」

『はいっ!お嬢さんが東乃さんに会いたいと仰るんで、お連れいたしました』

「それならそうと先に言っていけ。いくら片づいたとは言え、こっちが慌てるだろうが」

 ほっと取り敢えず息をついて、さくらに大丈夫だと頷く。

『は、はい。すみません。お嬢様が言ってきたと仰られたのでつい……』

「いちいちあいつの嘘に引っかかるな。だから舐められるんだ」

『は、はい、以後気を付けます姐さん』

「姐さんと呼ぶなと何度言ったらわかるんだテメェは。それじゃ今、真は鴻也の家に帰ったんだな?」

『はい。……あの、ただちょっと……寄った場所があって』

「寄った場所?」 

 いくら片づいたとは言えたった一日ですべての青龍会の組員がなんらかの処置をされたとは思えない。

 ヤクザという縦割り社会の弊害はこんなところにある。上の命令が絶対で、その命令に対して考えると言うことをしない馬鹿が多い。

 もちろん、そうでなければヤクザの手下になどなれないのだろうが、もう少し考えて行動しろと内心で毒づく。

「で、どこに行ったんだ」

『は、はい。お嬢さんが中学受験に必要だと仰るので。区役所に』

「………なに?」

 

 
















 

 今自分は、とても強ばった顔をしているなと思う。

 車の運転をしている佐々木が時折ちらちらとこちらを伺っているのはわかっていたが、何か言ってやる気にもなれず、真は唇を引き結んで正面を睨むように見つめる。

 やがて、住み慣れた家に辿り着いた。

「お嬢さん。どうぞ」

 先に降りた佐々木がドアを開けて、真も降りる。

 久しぶりの家は懐かしかった。

 世間一般の家とは全然違うことは良く分かっていたけれど、それでもここが真のうちだ。

 しょっちゅう出入りする組員達はみな家族のようなものだった。どんなに強面で荒々しい男も、真が怖がるようなことを目の前でしたことは一度もない。

 知らないたくさんのことが影で行われている事を察せられるくらいに真は聡い子供だったけれど、具体的な内容を知るほどに成長してはいなかった。

 たくさん嘘をつかれている、と思う。

 青龍会という、父親の組と仲間の筈の組は丁度学校のクラス分けのようなもので、競争をしあう事があるのだと楠は説明した。

 運動会ではクラスで争うでしょう?

 その説明はわかりやすかったけれどあまりに優しすぎる。

 争うものが一位、二位の順位などでないことはわかりきっているし、多分そこには例えば昼御飯に薬を混ぜたり靴に画鋲を入れたり、そう言う手段が含まれるのだ。

 でなければ狐原があんな怪我をする必要ない。

 追い掛けてきた男達の形相を思い出して、ぞっと背筋が寒くなる。

 狐原が居なければどうなっていただろう。

 さっさと正門の横の木戸をくぐり、玄関をくぐると、お嬢さん、という声がそこかしこから聞こえる。

「真さん!」

 奥から珍しく慌てた様子で飛び出してきた楠が真を押しとどめる。

「なに?」

「どうして帰ってらしたんですか」

 楠の言いようにカッと頭に血が昇る。

「なによ。帰ってきちゃいけないわけ?あたしの家なのに?せっかく決着が付いたって聞いたから戻ってきたのになにが悪いのよ!」

「真さん。悪いわけじゃありません、取り敢えずお部屋の方へ」

「いや。父さんはどこ?」

「今はお客様がおいでです。暫くお待ち下さい」

「父さんに会いたいのよ!」

 押さえきれずに声高になってしまう。

 ポケットの中には折り畳んだ紙が一枚。たった一枚で真に真実を知らせた紙を、見なければ良かったはと思ったけれど、それで眼を瞑れるほど真は弱い子供ではなかった。

「すぐに聞きたいことがあるの!会わせてよ、楠!」

「今はいけません」

「どうして!!」

 眉を顰めた楠がなにかを言いかけた途端、つやつやと磨かれた廊下の端から現れた姿があった。

「騒々しい」

 ずしんと響くような一言で、空気がぴりりと変わる。

 真も思わず口を噤み、現れた人物をまじまじと見つめた。

 白い髪に白い髭を蓄え、着物に身を包んだ老人は、今まで一度も会ったことのない人だった。

「申し訳ありません」

 やはり白い眉の奥で細い糸のような眼が頭を下げた楠と呆然とした真を見つめていて、息を呑む。

 その後ろから鴻也が現れた。

 滅多に見ない父親の凍り付いたような無表情。

 怖いようなそれをさせたのはこの老人なのかと思い、真は二人を見比べる。

「鴻也」

「……なんだ」

「これが、娘か」

「そうだ。なんか文句でもあるか」

「いいや?」

 老人がその細い眼で、真を値踏みするように見つめる。何故だがそれがとてもいやなことに思えて、睨みつけてしまった。

「ふん。父親と同じ眼をしているな。……と、言うのもおかしいが」

「さっさと帰れ。ここはもうあんたの家じゃねぇ」

「帰るとも」

 くつくつと、少しも楽しくない声で老人が笑う。

 最後にもう一度真を見て、鴻也を揶揄するように見やり、老人は出ていった。慌てて楠がその後を見送りに追う。

「………誰。あれ」

「お前のしらねぇやつだ」

「うそ。………あの人、あたしのおじいちゃんなんじゃないの」

 無意識にポケットに手を突っ込んでいた。堪えきれずにくしゃくしゃと紙を握りつぶしてしまう。

「……なんで知ってる」

「聞いたことくらいあるもん。全部隠せるなんて、父さんだって思ってないでしょ」

 何らかの争いが二人の間にあることも真は知っている。

 鴻也は真を決して父親と会わせようとはしなかった。

「まぁいい。帰ってきたんだな?後で明里に電話しとけよ」

「…………父さんがおじいちゃんにあたしを会わせようとしなかったのは、あたしが本当の娘じゃないから?」

「………なに?」

 眼を見開いて、鴻也の嘘を一つも見逃すまいとする。

 けれど顔を顰めた父親がなにを考えているのかは良く分からなくて、さらに言い募る。

「あたしが養女だから会わせないの?」

「何言ってんだ。お前」

 心底呆れたように鴻也がそう言った。

 あまりにも上手に嘘をつかれたのが悔しくて、真はポケットからくしゃくしゃになってしまった紙を引っ張り出す。

「うそつき!知ってるんだから!こないだ、変な男達に追っかけられたとき、あたしが養女だって誰かが言ってたのよ!!だからちゃんと確かめに行ったんだからね!!」」

 震える手で開いて突きつけると、父親はそれを取り上げてしかめ面のまま眺めた。

「なんだこりゃ。戸籍謄本?こんなものお前、良く取ってきたな。ガキのくせに」

「私立受験に必要って言ったらすぐくれたわよ!」

「色々手続がいるんじゃねぇのか?」 

「はんこは明里のがあったし、あたしだって住所氏名くらい書けるに決まってるでしょ!!そこに書いてあるじゃないちゃんと!!」

 ちっとも慌てない父親の態度がますます苛立たしくて、真は地団駄を踏みながら半泣きで怒鳴る。

「そこに書いてあるじゃない、養女って!どういうこと、あたし、父さんの娘じゃないの!?」

 声高に叫んだところで楠が戻ってきた。何事かと眉を顰めているのに、鴻也が命令する。

「おい。オレはこれから出掛けなきゃならん。真を部屋に連れて行ってくれ」

「ちょっと、父さん!!」

「お前は間違いなくオレの子供だ。詳しいことは、帰ってから話してやる」

「今聞きたいのよ!!」

「すまんが、後だ。おとなしくしてろよ」

「ちょっと……ッ!」

 楠が真の肩をやんわりと抱く。振り払おうとしたけれど優男に見える楠の手は、ちっとも動かせない。

「ちょっと、父さんったら!」

 叫んでも鴻也は振り返らずにさっさと行ってしまう。

 その背に思いつく限りの罵詈雑言を投げつけるうちに、楠の優しいけれど断固とした手で、自分の部屋に連れ戻されてしまった。

 










 

 

「まいったな」

 くしゃくしゃになった紙切れを目の前にかざす。

 戸籍謄本、と書かれたぺらぺらの紙には間違いなく娘の名前の所に養女と記してある。

「いつの間にこんなに小賢しくなりやがった?普通小学生が証拠固めに戸籍見に行くか。なぁ」

 運転席の楠に話しかけると何とも言い難い沈黙が少しだけ落ちる。

「………真さんは聡明な方ですから」

「そうだよなぁ。オレに似て。……楠」

「はい」

「口止めしとけ。一言でもどっかに洩れたら、想像も出来ないような目に合わせてやる、とな」

「ええ。もう、言ってきました。……けれどあの屋敷に居るのはあなたに忠実な者ばかりです。真さんの事も大切にしている。、大丈夫でしょう」

「そうとも言ってられねぇだろうよ」

 ふん、と鴻也は鼻で笑う。

「どうして真が明里の家にいることがばれた?そして脱走したことも、だ」

「……………」

「因果な商売だよなぁ?抜けたくなったか」

「………いいえ」

「抜けさせねぇけどな」

 くつくつと鴻也は笑う。楠は、その能力と頭脳に眼を付けて、鴻也が買い取った男だ。

 白虎会が借金のかたにばらして内臓を売り飛ばす所だったのを、一億で話を付けた。家族の所在は遠いが、鴻也の手の届かない場所でもない。

「………貴方は」

「ん?なんだ」

「いいえ。なんでもありません。……もうすぐつきます」

「おお」

 聞かれそうなことには見当がついたが、素知らぬ顔をして鴻也は頷く。ほんの数名の例外を除いて、確たる保証がない限り鴻也は人を信じない。

 その有り様があの父を受け継いだものだと、鴻也自身が誰よりも良く知っていた。

 疎ましい、逃れ難いその血の軛〈くびき〉。

 けれどその息苦しさに、失望に、憎悪に我を忘れそうになるたびに鴻也を容赦なく呼び止めるものがこの世にはあった。

 常に顔をあげてしゃんと立つ、あの潔い背。

 真実しかないあの声。

 眼を閉じると、父さん、と声高く呼び止めた真の泣きそうな幼い顔が瞼に浮かぶ。その面差しによく似た顔を遠い過去に探すうちに、楠の声が名を呼んだ。

 眼を開け、このごたごたに最後のけりを付けるべく、鴻也は車を降りた。






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