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◆◆◆血の証明◆◆◆

 






 騒がしい人の声が聞こえる。

 ざわざわとうるさいそれは耳の奥でザァザァ鳴る音と入り混じって、まるで雨の中で人の声を聞くようだった。

 冷たい雨が全身を叩いている。

 どこがが酷く痛んで、耳鳴りが入り混じり、頭痛を呼ぶ。

 あの雨の日。

 春の最初だというのに霙〈みぞれ〉混じりの冷たい雨は春雷を呼んで、薫り高く咲き誇っていた梅の花を滅茶苦茶にした。

 早い夕暮れ。

 どんよりと重い雲。

 痛む頭で、冷え切った身体で、絞り出すような苦痛と哀惜に満ちた声が耳元で聞こえた。

 空を裂く稲妻。

 今居るのはあの日だろうか。

 ぼんやりとした頭で考えて、否と結論を出す。痛みで軋んだ身体は、けれど暖かい。

 少し指先を動かせば柔らかいものの中にくるまれているのがわかる。

 叫んでいるのはあの男ではなく、甲高い少女の声だ。

「…………鴻也」

 言葉が零れた途端、はっきりと意識が覚醒した。

 途端に飛びこんでくる見慣れない色。眼を瞬いて眇め、近眼の視力にもようやくそれが木目の浮いた天井であることが見分けられる。

「………痛ぇ」

 声を出しただけで身体が軋んだ。それどころか渇いた喉に軽い咳までしてしまって、痛みに狐原は呻く。

「………ちくしょ……無茶苦茶……しやがって」

 じわりと指先を動かせばさらに痛んだが、右手、左手、右脚、左脚と堪えて一つずつ確かめる。

 どうやら折れている箇所はないようだった。

 深く息をすれば肋骨は軋むが、こちらもどうやら無事のようだ。狐原の受け方が上手かったからか、それとも男達が暴力になれていたせいか。

「………どっちもだな」

 甲高い声は続いている。

 内容は良くは聞こえないが、大方、真が鴻也を詰っているのだろう。

 狐原も罵倒してやりたい気分だった。

 怪我の原因の1割くらいは自分達に悪いところもないではないが、残り9割は鴻也のせいだ。痛い思いをするのが自分だけでは割に合わない。

「……取り敢えず、治ったら殴る」

 ひとりごちて、そろそろと狐原は腕に力をこめる。案の定酷く痛んだが、我慢できないほどでもない。

 全身の打撲に、熱を持った右手首の捻挫と言ったところだろうか。ようよう起き上がって見れば、右手には包帯が巻かれている。チリチリ痛む感覚からすると裂傷も出来ているかもしれない。

「ったく……鈍ってるな」

 起き上がって廊下に出る。明里の家の、客間に寝かされていた。甲高い真の声は事務所からのようだ。

 もう陽は暮れていて、一体どのくらい寝ていたのかと思う。

「だからっ!なんでキツネはあんな怪我しなきゃいけないのッ!?」

 地団駄を踏んでいるような真の声に思わず笑う。

 鴻也の激しい気性をそのまま受け継いだような少女は、いつでも一途で懸命だ。

「大体三日も迎えに来ないし、出ちゃいけないって言うし、学校にも行けないし、もう、父さんなんか…ッ」

 事務所の扉を開く。

 間近にいた真が言いかけていた言葉を飲み込んで、眼を丸くして狐原を見た。

「真。いくら怒っていても、言って良いことと悪いことがあるだろう」

「……狐原ッ!」

 泣きそうな顔をした少女が飛びつこうとするのを、危うく首根っこをひっ捕まえた鴻也が止める。

「真。狐原は怪我人だ。……起きて平気なのか」

「一応な」

 しかめ面をした鴻也が脇に立ってソファに座るのに手を貸してくれた。

 背を預けた途端、思わず深い息が洩れる。

「寝てりゃいいのによ」

「声が聞こえたもんでな」

 ソファの隣に立っていた明里が、狐原、と声を掛けるのに一つ頷く。

「大丈夫だ。イチとさくらは?」

「もう部屋に行かせた。……さくらが、ちょっとショックを受けてたから」

「しょうがないな………全部この男のせいだって言ってやったか?」

「おい………」

 鴻也が情けない顔をするのを無視して、明里に笑う。

「言ってやれよ。真が飛び出したのもオレがぼこぼこにされたのもさくらのせいじゃなく、全部このろくでなしのせいだってな。大体、怪我はそう大したことじゃない。医者に診せたんだろうどうせオレが寝てる内に」

「診せたけど。たいしたことなくもないだろ、狐原」

「なんだそりゃ。骨も折れてないんだ、すぐ治る。いいから、行ってやれ。くれぐれも、なにもかもすべてありとあらゆる事がこのどうしようもないヤクザのせいだって言うことを念入りに伝えておけよ」

「……わかったよ」

 狐原の口調に笑った明里が、兄にも苦笑を向けてから部屋を出る。手の掛かる、と狐原はため息をついて頭をソファの背に預けた。

「大丈夫か?」

「平気と思うか?」

 睨め付ければ鴻也がいっそう苦々しい顔をして、狐原の髪を梳く。

 真が泣きそうな顔で狐原を見ている事に気付いて、それ以上鴻也を責めることを取り敢えずやめにした。 

「悪いと思ってるなら、さっさと決着を付けやがれ」

「もちろんだ。……すまなかった。本当に」

 狐原の髪に指を通したまま、不意に鴻也が身を屈めてくる。

 おい、と咎める間もなく唇が重なった。

 きゃあ、と微かに聞こえる真の恥ずかしがるようなどこか面白がるような声。

 ただ柔らかく重なってそれ以上狐原に無理を強いない唇が、痛みの中で見ていた遠い過去を不意に思い出させる。

 あの時の鴻也はこんなに優しくはなかった。

 無様で、猛々しく、どんな手段を用いても狐原を捕まえようとする独善に満ちていた。

 けれどその延長線上にあるものはこの熱だ。

 唇が、触れていたときと同じように唐突に離れる。

 どんな近眼でも焦点を結べるような近くに、ぎらぎらと強い光を宿した鴻也の眼があった。

「………あいつら、みんな、半殺しにしてやる」

「………何人かはオレがしておいたはずだがな」

「足りないに決まってるだろう」

 傲然とした声がそう決めつけ、おとなしくしていろよと囁いて踵を返す。

 すぐに消えた背を扉の向こうに追ってから狐原は傍らに立っている少女の方を省みた。

 真っ赤な顔をした彼女が、上目遣いに狐原を見る。

「どうした」

「……どうした、じゃないでしょ!もうっ!!」

 刺激が強すぎたのか、茹で蛸のような顔で真が怒鳴る。

「もうもうっ!!し、心配したんだからね!!」

「ああ、悪かったな。………最も最初は、お前が飛び出したからだと思うが」

「…………うん」

 真が泣きそうな顔をする。

「あの………あのね。………ごめんなさい」

「なんでだ?」

「………と、飛び出して、ごめんなさい………」

 唇を噛んで、真が俯く。鴻也に噛みついていたときの勢いはどこ吹く風と消えて、泣きそうな顔をしたまま真が言い募る。

「あの、あのね。……さくらに、ちゃんと、謝ったから」

「そうか」

「ご、ごめんなさいって……言ったから」

「なにが悪かったか、わかってるな?」

「う、うん。……服の下を見ようとしてごめんなさいって。あ、あとみっともないなんてうそだから、うそついてごめんなさいって言った」

 それはまた直球だ。思わず狐原は苦笑する。

 あれ以上、さくらが傷ついていないと良いがと考えて、イチと明里がついているのならば平気だろうなと思い直す。

「あのね」

 小さな真の手がそうっと狐原に触れる。

 どんな言葉も発せない赤ん坊の頃から、今まで、健やかに成長するのを見守ってきた手だ。

 桜貝のような爪が狐原の服を掴んで震える。

「ごめんなさい」

「なにが?」

「だ、大嫌いなんて、うそだから」

「………」

「う、うそだから。……うそついて、ごめんなさい。あのね、大好きよ、キツネ」

「……キツネじゃないだろう」

「うん」

 キツネ、と面白半分に狐原を呼んでいた彼女の父親のことを思い出す。

 この親子は本当に似ている。

「もういい。……さくらは、許してくれたか」

「うん。……突き飛ばしてごめんなさいって、言ってくれた」

「そうか」

 くしゃくしゃとそのやわらかな黒い髪を掻き回す。

「良かったな」

「うん」

 神妙な顔をして真が頷く。

 じわじわと忍び寄ってきた疲れに霞む眼を細めて、狐原も謝罪する。

「じゃあオレも、ひっぱたいて悪かった。……ただし悪いことをしたら、またするけどな」

「………痛かった」

 ぷっとふくれた少女の顔の愛しさに、ふと笑う。

 廊下から足音が聞こえてくる。

 顔を出した明里に手を貸してもらって、また寝に行くために狐原はようようソファから立ち上がった。

 

 
















 

 灼けつくような怒りがふつふつと沸き上がる。

 代わりに、頭の芯が凍り付いていた。冷えたその中心にあるのは、真を腕に抱いて駆けつけた先で見た光景だ。

 ごろごろと転がって呻く男達の中に、指先一つでもそれとわかるくらいに知った身体。

 狐原、と叫んだかもしれない。

 振り返って驚愕した顔をした数名の男達など取るに足らない。どうやって排除したのか覚えてすら居なかった。

 ただ、足元に倒れた狐原の姿だけが鮮明だ。

 狐原に殴り倒されて昏倒した男達を蹴り飛ばしてどかし、慌てて抱え上げると呼吸を確かめた。

 指先に感じる呼吸と顰めた顔に、心底安堵した。

「……東乃さん」

 名を呼ばれてうっそりと顔をあげる。

「どうしますか」

「………決まってんだろ」

 愚問だ、と楠に笑い返す。

 飢えた獣のような表情を浮かべているなと思った。

 けれど自分の一番大切なものに手を出した連中に、かける情けなど一欠片たりとも持ち合わせてはいない。

 組の面子を考えて秘密裏に行動していたのが裏目に出た。

 何故早くに手っ取り早く片づけなかったのかと、それだけを鴻也は後悔した。

 しばらくは起きあがれないかも知れません、と難しい顔をして言った馴染みの医者。

 白い顔をしてそれでも笑って見せた狐原。

 大事に至らなかったのはただ幸運のためだけではなく、狐原が、鴻也の近くにいるために常に強くあろうとしてくれていたからだ。

「潰す」

「はい」

「青龍会には……来年の朝陽を迎えるこたぁさせねぇ」 

「はい」

 忠実な楠が肯定を返す。

 くつくつと笑いながら、鴻也は、決して視線を逸らさない狐原の眼差しを思い返していた。






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