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◆◆◆波乱◆◆◆

 

 三日もたてば、そろそろ限界だ。

 仕事も断り続けるには限度がある。明里やイチは出来る限り二人で出来る仕事を受けていたが、遠くから監視をされているのではストレスも溜まるだろう。

 喜んでいるのはいつでも誰かに遊んでもらえる茶々丸くらいのもので、滅多にない家の中の騒々しさに猫たちも迷惑顔だ。

 元から外に出たがらないさくらはともかく、どこにでも飛んでいく鉄砲玉のような真は特に苛々を募らせていた。

 なにしろ、小学校にさえ行っていない。

 風邪でと電話をかけたのは明里だが、指示をしたのは鴻也だ。

 そんな事はわかりきっているのでまだ父親と仲直りもしていない真は尚更腹が立つらしい。

 自然口数もさらに多くなり、なあなあにあしらってしまう明里や狐原、辛辣なイチではなくさくらに矛先が向いていた。

 大人しい少年は幸いにも真のお喋りが嫌いではないらしく、いつもにこにこと頷いている。

 実際助かるよなと思いながら、狐原はパソコンを立ち上げた。

 さくらが真の相手をしてくれるおかげで、随分と事務仕事がはかどった。

 やらなければと常々思いつつ何年も放置していた過去の仕事のファイル整理も終わったし、埃を被っていた棚の中も片づいた。

 入力もあと少しで終了だ。

 強制的に外に出られないと言うのはストレスが溜まるが、仕事のことを考えればこれはこれで良かったのかも知れない。

 伝票と入金の管理を今きちっとしておけば、来年の税務申告で慌てることもないだろう。

「………十二月だしな。さくらに特別ボーナスでもだすか」

 一人ごちながらクリックしてファイルを開いたとき、甲高い喚き声が聞こえた。

「……なんだ?」

 真の声であることは確かだが、滅多に聞かないような詰る口調だ。折悪しく今は明里とイチが二人で仕事に行っていて、狐原しか残っていない。

 慌てて事務所を出ると、狐原は声の聞こえる方に向かった。

 











 

 少女の話を聞くのは好きだ。

 一緒に暮らしていた懐かしい咲希を思い出させるし、なによりどんな話をしていてもその声は耳に心地よく、生き生きとしたエネルギーに満ちている。

 うるさいだろう、と狐原は呆れたように言うが、誠の話をうるさいと思ったことはなかった。 

 少々気押されることは確かだが。

 ぴったりと障子を閉じた和室の、暖かなカーペットの上で、始終真は喋り続けている。

 さっきまではお付き合いをしていた茶々丸も今は巴とペン太と共に夢の中だ。

「でね、あたしが六つの時に始めてこのうちに来たの!明里とは時々それまでも会ってたけど、キツネと会ったのはその時が初めてだったのよ。でももしかしたら赤ん坊の時に顔は見られてるのかも知れないけどね」

「うん」

 さっきからの話題は、狐原と明里の過去の話だ。

 二人に興味がないわけではなかったが、直接聞くにはまだ怯えが勝ってしまう。

 全然知らなかったことを、真は片っ端から教えてくれる。

「あたし、それまで大人の男の人って朱雀会の連中しか知らなかったから、キツネがすごーくカッコよく見えたのよー。背も高いし、変な言葉つかわないし、きちっとしてるし」

「うん。狐原さんは、格好良いよね」

 身長こそ明里と鴻也に及ばないものの、スリムで姿勢がいいし、身形にさりげなく気を使っている。

 フレームレスの眼鏡も細面の顔によく似合っていた。

「吊り眼でキツネ顔なんだけどねー。でもすっごくときめいちゃって。十歳の時に将来あたしをお嫁さんにしてよ、ってお願いしたの」

「十歳で?すごいね、大分歳が離れてるのに」

「だってあたしが二十歳になったら三十六じゃない。それくらい、なんてことないわよぅ。でもそしたら、なんて言ったと思う?」

 問われてさくらは首を傾げる。

 狐原が言いそうなことなど想像がつかない。

「わからないよ」

「無理だな、って言われて。どうして無理なの、あたしが大人になるまで待っててよって言ったの。そしたらね!」

「うん」

「オレはお前の父親の情人〈イロ〉だから無理だ、っていうのよ!!酷くない!?」

「そ、それは……」

「十のあたしによ!?いろってなに、って聞いたら懇切丁寧に説明してくれてあたしそのあとショックのあまり父さんを滅茶苦茶罵倒したんだから!!」

「………ううん……」

 興奮して叫ぶ少女に、当時は相当ショックだったのだろうなと推し量れる。

 ばっさりと潔い狐原の嘘の無さに、思わずさくらも呆れた。

「それは……すごいね」

「すごい酷いのよ!!もうちょっと別のごまかしかたもあったと思わない、ねぇ!?」

「ううん……ごまかしたくなかったんじゃないのかなぁ」

 嘘をつけない人間、と言うものが世にいるかどうかはわからないが。

 大切な相手に嘘をつかない人間はいるだろう。

「きっと、もっと後になってショックを受けるよりはと思ったんだよ狐原さんも」

「………そうなのよね」

 取りなすとあっさりと苛立ちを収めて真は頷く。

「わかるんだけど。わかるようになったんだけどもね。キツネ、あたしと父さんには絶対嘘つかないし。でもなんだか狐原にそう言われたんだけどどうなのって父さんに聞いたときのあのちょっと嬉しそうな顔思い出すと尚更腹がたつんだもん!!」

 くやしいー、とじたばた身悶える真に困り果てて、さくらはぽんぽんとその肩を叩く。

 話のころころ変わる少女は行動も唐突で、不意に伸びてきた手がしっかりとさくらのシャツの胸元を握る。

「ね、どうなのさくら!狐原ってやっぱりあたしの父さんが好きなんだと思う!?アイシテるのかな!?」

「ぼ、僕に聞かれても……」

「イチは明里が明里だから兄さんがヤクザでも別に良いって言ったけどそういうことなのかな?狐原はヤクザがあんまり好きじゃないみたいだけど父さんがヤクザでも父さんだから良いって事!?あたしがヤクザの娘でもあたしがあたしだから可愛がってくれてるのかしらっ!?」

 勢いにたじたじとなって、さくらはぐいっと顔を寄せてくる真を困り果てて見つめる。

 一体何事が始まったかと犬猫は起き上がって二人を見つめていた。

「ぼ、僕には、わからないよ」

「だってっ!あたしにもわかんないんだもん、一緒に考えてよッ…………あれ?」

 不意に真の声が途切れる。

 シャツを引っ張った彼女がまじまじと見つめているものがなんなのかわかって、さくらは青ざめた。

「なに、これ?病気?発疹?さくら、なんかアレルギーなの?」

「ちょ……はなして」

「それとも怪我なの?なんか、赤くなってる」

 小さいけれど器用な手があっという間にボタンを二つ三つ外してしまう。

 慌ててさくらはその手をどけようと抗った。

「はなして、真。やめてくれ」

「だって病気なら直さなきゃ。呼べばお医者様がすぐ来てくれるから」

 強引な少女にさらに服の下を暴かれそうになって、さくらは慌てて振り払った。

 手加減が出来なくて、華奢な少女は畳の上に転がってしまう。

「きゃぁッ!」

「………あ……ご、ごめん」

「なにするのよ、もうっ!痛いッ!!ひどい、さくら!!」

 真っ赤な顔をして起き上がった少女が喚き立てて、さくらはどうしようもなく固まった。

「ひどいっ!心配しただけなのに、どうして突き飛ばすの!?」

「だ、だって……」

 狼狽えるさくらにますます真がいきり立つ。

 上手く言い訳をすることが出来ない。震える手で胸元を押さえて、さくらは、泣きそうになった。

「どうした」

 その時、立て付けの悪い障子がキシキシと軋みながら開いた。

 困り果てて事態を眺めていた犬猫が、救いが来たとばかりに和室に入ってきた狐原の足元に擦り寄る。

「なにがあった。真、騒ぐな」

「だってっ!さくらが、酷いんだもん!あたしのこと突き飛ばしたのよ!!」

 喚きながら真が狐原にしがみつく。それを受け止めて狐原が眉を寄せた。

「さくらが?」

 視線を向けられてさくらは竦み上がる。

 ぎゅっといっそう強く胸元を押さえて、小さくなって眼を瞑った。

 きっと怒られる。殴られたりもするかもしれない。

 父親は狐原よりも随分と貧相な男だったけれど、殴られるのはすごく痛かった。

 狐原は喧嘩が強いと聞いたし、きっともっと痛いのだろう。

 ため息が聞こえて、ますますさくらは小さくなる。

「真。最初から話せ」

「だからっ!」

「最初から、だ。お前とさくらは、お喋りをしてたんだろう。……まぁ、お前が一方的に喋ってたんだろうが」

 

 

 喚き立てる真と竦み上がったさくらを見て、狐原はこれはまずかったなとため息をついた。

 真は理解が早く聡い子供だが、基本的には周囲に傅かれちやほやと甘やかされたお嬢様だ。

 父親に対する鬱憤が溜まっていた頃に数日間閉じ込められ、苛立ちもピークだっただろう。ちょっとした刺激で爆発してしまうようなそれが、一番近くにいる人間に向けられるのは自然なことだ。

 さくらに丸投げで押しつけてしまったことを後悔する。

 もういまさらだが。

「真。最初から話せ」

「だからっ!」

「最初から、だ。お前とさくらは、お喋りをしてたんだろう。……まぁ、お前が一方的に喋ってたんだろうが」

 さくらは哀れなほどに震えている。

 この場合怖ろしいのは真のわめき声ではなく、おそらく狐原の存在なのだろう。

 ぎゅうっと縮こまる姿を見て、まだ問うたことのない彼が受けていた仕打ちについてちらと考える。

「なんの話をしていた?どうして、さくらがお前を突き飛ばすようなことになったんだ」

 興奮した彼女の話を繋ぎ合わせ、さくらの身体にあったという赤い痕の事を聞いて、狐原は眉を顰める。

「で?お前は、それを無理矢理見ようとしたんだな?」

「だってっ!アレルギーなら大変だもん、お医者様に診せないと!あたし、悪いこと、言ってないもん!!」

「お前が悪い」

 あっさりとそう言った狐原に真が息を呑み、さらに真っ赤な顔をする。

「どうしてッ!?」

「さくらは、やめてくれと言わなかったか?」

「……………」

「言っただろう?さくら」

 まだ固く青ざめた顔でさくらは微かに頷く。

「ほらみろ。相手の話を聞かないで自分の思い込みで暴走したお前が悪い。いつも言ってるな、相手はお前じゃないんだから、考えて行動しろって。お前みたいに一人で良いことだと決め込んで突っ走るのは、独善っていうんだ」

「そんな難しいこと、わかんないッ!!」

 地団駄を踏んで真が暴れる。

「じゃあ言い直してやる。ひとりよがりだ。お前が閉じ込められて苛々してるのはわかるがな、さくらに当たって良いことじゃないだろう。鴻也が来たときなら思う存分喚き立てて良いぞ」「当たったんじゃないもんッ!さ、さくらのこと、心配したんじゃない!!あんなみっともない痣がたくさんあったらたいへんだろうって……」

 自然に手が上がっていた。

 パン、という鋭い音がする。

 真の呆然とした顔と、瞬く間に赤くなった頬を見て、ああやってしまったなと思う。手加減はきちんとしていただろうか。「真。さくらに謝りなさい」

「………ッ」

「謝りなさい。自分が言ったことをちゃんと考えろ」

「………あたしっ」

 形のいい眼に見る見る涙が盛り上がる。

「あ、あ、あたしっ、なんにも悪いことなんか言ってないもんッ!狐原の馬鹿、ぶつなんて最低ッ!!だいっきらいッ!!」

 わめき声と涙を思う様振りまいた真が、部屋から飛び出していく。とっさに追うと小さな背は縁側から飛び降りて、突っかけを履いて駆け出してしまう。

「おいっ!塀の向こうのヤツ、真を捕まえとけ!!」

 終日見張りをしているだろう鴻也の部下に大声で呼び掛けてから、狐原は部屋に戻る。

 こちらも泣きそうな顔をしたさくらが、震えをようやく治めていた。

「ま、ま、真は………」

「飛び出して行きやがった。まぁ、塀の向こうに鴻也の部下が居るから捕まえてくれるだろう」

「……っ、ご、ご、ごめんなさい……っ」

「謝らなくて良い。さくら」

 近づいて屈むと、さくらが少し後ずさる。

 心配げな顔をした茶々丸がぴったりと彼に寄り添って、保護者然とした姿に思わず笑う。いつでもかまってくれるさくらに茶々丸はすっかり懐いていた。

「悪いのは真だ。悪かったな」

「……う、ううん………ぼ、僕が、突き飛ばしたり、しちゃったから……」 

「厭なことをされそうになったら抵抗するのは当然だろう」

 すいと手を伸ばすと、さくらがびくりと震えて眼を瞑る。

 その茶がかった猫っ毛を狐原はくしゃくしゃと乱暴に撫でた。おそるおそるさくらが眼を開く。

「さくら。これはお前を傷つけない手だ」

「……………」

「オレは乱暴者で短気だから慣れるには時間がかかるだろうけどな。まぁ、ゆっくり慣れてくれ」

「………は、はい」

「最も、悪いことをしたら叱るぞ」

「はい……」

「じゃあ、真を迎えに行ってくる。心細かったら明里に電話をしてイチに帰ってきてもらえ」

「う、ううん。仕事中だから……」

「そうか。じゃあ茶々、頼むな」

 大きな犬の頭もついでに撫でてから、狐原は立ち上がる。

 あの我が儘娘を迎えに行かなくてはいけない。

 玄関で靴を突っかけてから庭に回り、裏木戸を出て左右を見回す。人影は見えない。

「……おかしいな」

 どこまで真を追いかけていったのかと思って、念のためと鴻也に教えられていた番号に携帯で電話をかける。明里の家の見張りの責任者を任されていた、佐々木という鴻也の手下だ。

『は、はいっ』

 電話の向こうで息せき切った若い声に尋ねる。

「真は」

『あ、あの、それが……っ』

 厭な予感。たいていの場合そういうものは当たると相場が決まっている。

『に、に、逃げられてしまってッ!い、いま三丁目の公園当たりで………』

「……っこの…ッ無能がっ!」

『す、す、スミマセン……姐さんッ』

 罵詈雑言を投げつけようかと思ったがそれよりも真を見つける方が先だ。

 状況を聞くには、いったん捕まえたくせに泣き顔に絆されて手を緩めたところを股間を蹴り上げられ、大人には到底入れない塀と塀の隙間に逃げてしまったらしい。

「わかった。オレも捜す。見つけたら連絡を寄越せ」

『は、はいっ』 

 ほっとしたような声で男は電話を切る。報復は後でだと内心で決めて、狐原は携帯を握ったまま駆けだした。

 

 

 

 ひっぱたかれた頬がじんじんと痛む。

 かっかとまだ頭に血を昇らせたまま、真はずんずん歩いていた。ぐしゃぐしゃに涙を拭った頬はうら若き乙女としては人に見られたくないものだったが、それよりも早く見付からないところまで逃げなければいけない。

 公園を抜け、線路を越え、ふと気付くと代々木公園がすぐそこに見えるところまで来ていた。狐原や明里とたまに遊びに来る道を、無意識に辿ってしまったのだろう。

「……ここまでは来ないわよね」

 呟くと何だか急に疲れて、真はビルの周りを囲う生け垣の花壇に腰を下ろした。頬がもっと痛くなった気がする。

「キツネの馬鹿力っ!痛いじゃないよ……」

 むっと唇を尖らせて涙を堪える。悪いのは、断じて自分ではない。さくらの心配をしただけなのに、突き飛ばされたのはこっちなのだ。謝るのだってさくらの方だ。

 きっとこうしていれば父さんが探して迎えに来てくれる。

 そうしたらさくらと狐原を叱ってくれるはずだ。

 つきとばしてごめんと、言ってくれたら真だってさくらを許してあげる。

 そうやって座って考え込む内に、ひやりと冬も間近な風が背中を撫でていった。

「………寒い」

 迎えに来てくれなかったらどうしよう、と不意に不安になる。

 家の中にいなさいと行ったのに勝手に飛び出すような悪い子はもう帰ってこなくていい、と言われたら。

「………でも、悪いのは、さくらなんだし」

『お前が悪い』

 不意にはっきりと耳元で声が聞こえて、真は飛び上がった。

 本当に狐原が居るのかと思わずぐるぐる見回してしまう。

「……ああびっくりした。なんなのよ、もう」

 当然その声が聞こえたのは真の頭の中でのことだ。お前が悪い、と狐原が断じた声が耳の奥に残っている。

「………悪くないもん」

『相手はお前じゃないんだから、考えて行動しろ』

「そんなのわかってるもん」

 手にさくらのシャツの柔らかい感触がまだ感じられるようで、無闇にジーンズに擦りつけてしまう。

 そしてふと気付いた。

 もしかして、あたしにシャツの下を見られることが、さくらにとってはすごく厭なことだったのかもしれない。

 絶対に人の居るところでは着替えない、と言って体育のたび体操服をトイレに持ち込んでいるクラスメイトの事をふと思い出した。

 彼女は夏でも冬でもジャージを着て、ファスナーを喉まできっちり上げている。

「……でも。さくら、男の子なのに」

 真っ赤な痕がたくさん散っていた。

 丁度喉の斜め下の骨の上にある、白い皮膚の上の赤い痕がくっきりと見えて、びっくりしてしまったのだ。

 だから病気なのかなと思って、もっとたくさん痕があるのか見ようとした。

 はなして、と確かにさくらは言っていた。

 恥ずかしがっているだけだと思っていたのに。

 よくよく思い返すとあの痕は、転んで怪我が出来た後の新しいつるつるした皮膚に良く似ていた。

「怪我のあとだったのかな………あんなにたくさん?」

 外したボタンの下にはもっとあったと思う。

 何故だかそわそわしてきて真は立ち上がった。

 無闇に歩き回り、結局公園への道を選ぶ。

 謝りなさい、と狐原は言った。

『自分の言ったことを良く考えろ』

 激情に駆られて言った言葉は、実はよく覚えていない。

 けれど狐原が自分の味方をしてくれないのがくやしくて、あまり良くないことを言った気がする。

 闇雲になにを喚いたかを、じんと冷たい風の沁みた頬の痛みと共に思い出す。

「…………みっともないって」

 痣のようだった。発疹にも似ていた。あんな痕がたくさん肌の上にあったら、すごく厭だろうなと思ったのだ。

「みっともないって、言った。あたし」

 思い出したらとても居たたまれなくなって、真はくるりと踵を返した。

『お前が悪い』

 突き飛ばされたのはやっぱり腹が立つし狐原にひっぱたかれたのもまだ怒っている。

 けれどやっぱり狐原の言ったことは正しかった。

 始めにちゃんとさくらに、この赤い痕はどうしたの、と聞くべきだったのだ。見られたくないものを無理矢理見られそうになったら、真だって暴れるだろう。

「ご、ごめんなさいって……言わなきゃ」

 何だかとても不安になって、真は闇雲に駆ける。

 さっきは堪えた涙がぽろっと目尻から落ちた。真が悪いのなら、早く謝らないと、さくらに嫌われてしまうかも知れない。

 せっかくできた友達なのにそれだけは厭だった。

 山手線の踏切を越えたところで不意に腕を掴まれ、びっくりしてきゃあと叫んでしまう。

「お嬢さんッ!オレ、オレですよ!」

 真の腕を掴んでそういう若い男は、見覚えのない顔だった。

 不信感たっぷりに見てしまったのだろう、困ったような顔で笑う。

「覚えていらっしゃいませんか。青龍会のもんです」

「青龍会……?」

 それなら覚えている。ついこの間、狐原と行った父親と同じ系列の組だ。

「覚えてないけど、知ってるわ」

「そりゃ良かった。お嬢さんが飛び出したんで、組のモンみんなで探してるんですよ。さ、お送りします。あちらに車があるんで、乗ってください」

「…………」

「あの家が厭なら、若頭の所にお連れしますが」

「ううん。家でいいんだけど……」

 何故丁度良く車があるのだろう。微かな違和感を覚えつつ、それでも男に促されてつい真は脚を進めてしまう。

 後部座席に乗り込もうとしたときだった。

「真っ!」

 振り返って真は眼を丸くする。

 息せき切った狐原が、いつでも整った髪を珍しくぐしゃぐしゃにして立っていた。

「キツネ」

「ったく……どれだけ心配かけりゃ気が済むんだ!!」

 

 荒々しい口調で怒鳴って、狐原は二人にずかずかと近づく。

 真の肩に腕を回した男は、あからさまにまずいという顔をしている。ちらりと見た限りでは、運転席に一人、助手席に一人。

 周囲にまだいるだろうか。

「ほら、来い真。帰るぞ」

 散々走り回って探した後では、そう優しい口調にもなれない。

 真が口を開くより先に男がずいと前に出た。

「すみませんが、会計士サン。お嬢さんはオレらが大事に若頭のとこに送り届けますんでね」

「真が今寝泊まりしてるのはうちだ。そんな事も知らないのか」「お嬢さんがあんたんとこに帰るのは厭だって仰ってるんだよ」 がらりと口調を変えて男がすごむ。

 これだからヤクザは厭なんだ、と狐原は内心で吐き捨てた。

 暴力に訴えれば大抵のことは片が付くと思っているし、そこでまたついてしまうところが許し難い。

「とっとと帰れや、会計士。テメェの出る幕じゃねぇ」

「真。そうなのか」

 無視してその後ろの少女に呼び掛ければ、いっそう怒気を強くした男が手を伸ばしてくる。 

 肩に伸ばされたそれを避けて、もう一度名前を呼ぶ。

「真。鴻也の所に帰るのか」

「………っ帰んない」

「そう言ってるぞ。三下。もう良いからお前は帰れ」

「んだと?お嬢さん、こんなお嬢さんを泣かせるようなヤツのとこに帰るこたぁないですよ。さ、先に乗ってください。無事東乃さんのところまでお送りしますんで」

 がらりと猫なで声になるところが見事と言うよりいっそ気味が悪い。

「もうさくらにもイチにも会いたくないなら良いがな。真。このまま逃げて帰るか?」

「…っ帰んないって言ってるじゃないっ!!歳くって耳まで弱くなったわけ、キツネのくせに!!」

 カッとして甲高い声で喚く真をちらと視線で示し、狐原は冷笑を浮かべる。 

「そう言うことだ。真はオレが連れて帰る。帰んな、青龍会の三浦」

 名を呼ばれて男が眼を見開く。

「テメェ……ッ」

「親分達がおおわらわだろう?手伝ってやらなくて良いのか」

「ふざけんな、たかが会計士風情の優男が!テメェなんぞが出しゃばる幕じゃねぇ……ッ」

 右手を振り上げた男が言葉を言い終える前に、がくっと姿勢を崩す。

「さっきから会計士会計士ってなによっ!狐原を馬鹿にしないでよ、あんたなんかだいっきらい!!会計士の資格も持ってないくせに!!」

「真!」

 どうやら膝の真後ろを真が思い切りけっ飛ばしたらしい。

 男がしりもちをつく脇を真がさっと回り、狐原の腰にしがみつく。

「もう良いから、あんた、帰ってよ!狐原を馬鹿にするヤツが父さんの部下だなんて信じらんない、言いつけてやるから!」

「このクソガキ……!!」

 本性を現した男が真の腕を掴もうと手を伸ばす。

 それを払い落として踏みつけて、ついでに顎を蹴り上げると、げふっと言うおかしな音を上げて男がのたうち回る。

「逃げるぞ、真!」

「ええ?」

 情勢を見て取って車に乗っていた男達が降りてくる。向こうの角から駆けてくるのも仲間だろう。

 折悪しく人影がおらず、警察に通報もしてもらえそうにない。

「逃がすな!」

「東乃のガキだ、捕まえろ!!」

 男達の声にちっと狐原は舌を打つ。こうなる前にさっさと片づければ良かったものを、三日も放置してあの男は一体なにをやっているのだろう。

「な、なんで逃げるの?青龍会って父さんの仲間なんじゃないの!?」

「鴻也にも色々事情があるってことだ!」

 その一言で片づけて、真の足に合わせていては埒があかないと狐原は真を肩に抱え上げる。

「きゃあっ!」

「おとなしくしてろ!」

 男達の声はすぐ後ろを追ってくるが、人目のある場所にさえ出てしまえばおおっぴらなことは出来ない。

 耳障りな声で男達が喚く。

「ガキを捕まえるんだ、あの男はどうでもいい!」

「まて、アレはあの男のイロだ、あっちの方が役に立つかもしれんぞ!娘は所詮養女だ!!」

 びく、と抱え上げた真の体が震える。

 駆けていく正面を向いたまま、狐原はギリリと歯噛みをした。 今の発言をした男も殺してやりたいが、この事態を招いた鴻也をもっと殺してやりたい。

 ぎゅうっと少女の爪が肩に食い込むのがわかる。

「キツネ」

「喋るな。舌噛むぞ」

「ねぇ、狐原ってば…!!」

 相当動揺していたらしかった。一本曲がった道の最後がどん詰まりなことに気がつく。引き返している時間はない。

「狐原ってば!!」

「いいか。どうにもならなくなったらどこかの家に駆け込んで警察を呼んでもらえ」

「狐原!!」

「まぁ、鴻也の手下が探してるからな。もうそろそろ来る頃だろうが」

 行き止まりの家の、高い塀の上に思い切り真を押し上げる。

「狐原!」

「良いからさっさと行け!誰か味方を見つけたらオレがここにいることを言えよ。さすがにあの人数じゃ分が悪い」

「う、うん」

 塀の上から追ってきた男達を見て、気丈な真が少し怯えた顔をする。罵声を上げる男が投げつけたものが、ガンと真の足元にぶつかって跳ね返った。

「きゃ…ッ」

「行け!!」

 強ばった顔で頷いた真が塀の向こうに消えて、どさりと降りた音がする。がさがさと遠ざかる音にひとまずほっとして、くるりと狐原は十名足らずの男達に向き直った。

「ったく………あんなガキ一匹に大の男がこんなに集まりやがって」

 見知った顔が幾人か。どれも、青龍会に行ったとき見かけた顔だ。こうまであからさまになるとは思わなかったが、それだけ切羽詰まっているのだろう。

「よお。朱雀会の会計士サン」

 圧倒的優位を確信してにやけた笑いを頬に張り付けた男が、じわりと迫る。

「あんた、東乃のイロだってのは本当か?男のくせにもう十年来の恋女房だってなぁ。ならあんなガキよりもよっぽど役に立つかもな」

「………気色悪い」

 恋女房だの姐さんだのと、ヤクザの言語中枢というものは一

体どうなっているのかいっぺん解剖して中身をに見てやりたい。その場合執刀はもちろん狐原ではなく外科医の友人なわけだが。

「……一つ聞くが」

「なんだい?」

 脳内で勝手に友人をヤクザの担当医に指定しつつ、狐原はじわりと移動して角を背に取る。

「さっき真を養女だなんだと叫んだのはどこのどいつだ?」

「ああ?養女?さっきのガキのことか。こいつが調べてきたのさ、情報通でね」

 隣にいた平ぺったい顔の男がにやにやと笑う。

「青龍会の……辻、だったか」

「良く知ってンなぁ。あんた」

「人の顔と名を覚えるのは得意なもんでな。………お前だけは、半殺しにしてやる」

 じわりと声が低くなる。本気で怒ったときの癖だ。

「抜かせ」

 そう言って笑った男の顔に、狐原は、最初の拳を叩き込んだ。






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