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     ◇◇◇

 

「おい、キツネ」

 乱暴に肩を掴んできた男を驚いて見上げて、狐原はそれが見知った顔であることに気がついた。

 いつの間に教室に入ってきたのだろう。

「なんでしょう東乃先輩。オレの名前は狐原です」

「良いだろうがキツネで。なぁ、明里は?」

「担任に呼び出されてます」

「なんだよ……」

 舌打ちをして露骨に残念そうな顔をする彼は、親友の東乃明里の実の兄だ。

 顔を見たことも、話したことも、数えるほどしかない。

 そのままどっかりと狐原の向かいの机に腰を下ろすのに困惑した。

「先輩?」

「おお」

「待つんですか」

「悪ぃか」

「いいえ」

 馴染みの薄い友人の兄は、近くにいられて居心地が良いわけではないがかといって邪険にするような相手でもない。

 なにより明里は兄のことを大切に思っている。

 職員室から帰ってきて顔を見れば喜ぶだろう。

 黙って予習を続けていると、不意に嗅ぎ慣れた匂いがぷんと鼻先をくすぐった。嗅ぎ慣れた、けれどここでは嗅ぐはずのない匂い。

「………東乃先輩」

「ん?」

「煙草を消してください」

「…………」

「未成年に煙草は厳禁です」

「……んだと?」

 声が不機嫌そうに低くなる。

「テメェ、教師の回しモンか?風紀委員なのか?いちいちうるせぇヤツだな」  

「回し者でも風紀委員でもありませんが煙草は止めることにしています。未成年の喫煙は成人時のガンの発生率を一・五倍、脳卒中と心筋梗塞の割合をほぼ二倍に高めます。ついでに言うと呼吸器も弱くなって成人性の喘息も発症することがありますし、糖尿病の率も高くなり、さらに身長がこれ以上伸びなくなります」 

「…………」

「さらに言わせていただくと副流煙にはそれ以上の害がありますので、オレの前では吸わないでください」

「………つくづく良く回る口だな、テメェ」

 呆れたようにそう言って、ぽいと彼が煙草を投げ捨てる。

 窓の外に。

「消さないと火事になりますよ」

「いちいちうるせってんだよ。黙らせないといけないのか?あぁ?」

 ずい、と長い手が伸びてくる。

 大きな手がシャツの袷を掴んで引くと、腰が浮いた。

「痛いですよ、先輩」

 けれど取り敢えず煙草は捨てたのだ。この場合、一番効果的な言葉は実は背が伸びなくなるの一言だと狐原は経験上知っている。

「やせ我慢しやがって。オレが怖いんじゃねぇのか?あ?明里とつるんでんなら、知ってるだろ」

 低い声で恫喝をする男が、言外になにを言おうとしたのかは知っている。

 けれどそうやって彼が借りようとする虎の威を彼が疎んじていることも、狐原は知っている。

 だから思わず笑った。

「なにが」

 虚をつかれたように鴻也が黙る。

「あんたの、なにが、怖いって言うんだ?」

 

 彼を怖がる理由など、何一つないと思っていた。つまりはあまりにも若く、愚かで、浅薄だったのだ。

 本当に怖いものは彼の使おうとした暴力と権力などでは、なかったのに。

 
















 

 

 どうにも耳にも眼にも心にも痛い夢を見たので狐原はその日珍しく寝不足だった。

 もちろん直接の原因は日付が変わるまで格闘した数字だ。

 たかだか0から9までの十の文字だというのにどうして時折ああも難解になるのか。

「………ま、それがそこに人間の思惑が絡んでるってことなんだがな……」

 呼び鈴を押すまでもない。

 明里の屋敷よりさらに厳めしい門構えの前に立った途端、脇の木戸が押し開かれた。

「姐さん!お久しぶりッス」

「………お前らには脳味噌がないのか。姐さん、とかいう戯けた呼び方を使うなと何度言ったらわかる」

 寝不足の機嫌の悪さも手伝って不穏に低くなる狐原の声に朱雀会の下っ端は慌てて頭を下げる。

「へ、へいっ!狐原さん、ようこそいらっしゃいました!どうぞ、中へ」

「ったく……」

 教育の行き届きすぎるのも考え物だ。

 隠そうとしない、というよりおおっぴらにしたがる鴻也のせいで、狐原はすっかり朱雀組の姐さんの位置に据えられている。

 最も隠そうとしないのは狐原も同じ事なのだが。

 飛び石を渡って直接庭へと回れば、縁側に着物姿の男が座っていた。

「若頭。狐原さんをお連れいたしました」

「よぉ。珍しいじゃねぇか、こっちに来るとはよ」

 袖の中で腕を組んだ姿は若干三十一歳のくせに実にふてぶてしい。だからこの男の本当の姿を知らないヤツは騙されるんだなと狐原は胸中で呟いた。

「珍しいな。着物とは」

「おう。お客さんが来てたからよ」

「客?」

「それ」

 狐原が持つ鞄を示す。

「その中身に関係あるお歴々よ。お前、昨日ごっそりお持ち帰りしたんだろう。たかが会計士風情がと文句良いにきやがった」

「話は通してあると思ったんだがな」

「聞くと実際にやられるとは大違い、ってことだろ。で?」

「人払いを」

 簡潔に告げるとふん、と鴻也が顎をさする。

「オレぁ数字にうとくてなあ。楠がいてもいいか?」

「お前が信用しているならな」

「ああ、平気だ平気。おい、楠を呼んでこい」

 はっ、と言って控えていた若い男が急いで去っていく。

「良い御身分だな。人くらい自分で呼べよ」

「オレもそうしたいとこだがなぁ。なんでもかでもオレがやっちまうと、若いモンのやることがなくなっちまうからよ」

「ものは言いようだな」

 縁側に上がるとこれみよがしに鴻也が腰に手を回してくる。

 べしっと払うと鴻也はにやにや笑った。

「こないだは平気だったか?」

「おかげさまで」

「立てなくなるかと思ったがな。ちゃんと時間通りに降りてきたそうじゃねぇか」

「楠さんから聞いてるならわざわざ確認するな」

「ちゃんと聞きてぇじゃねぇか、恋人の口から」

「誰が恋人だ」

 適当に鴻也をあしらっていると楠がやって来た。

 庭に面した和室で卓を囲む。

 開け放した障子にちらりと狐原は眼をやった。庭では、咲き初めの山茶花の花が鮮やかな色を見せている。

 冬には冬なりの風情を見せるこの庭は、同じような景観でも明里の所とは比べものにならないくらい丹精に手入れがされていた。

「開けておいて平気なのか」

「開けといた方が誰が来てもわかるだろうが。いまんとこ、声の聞こえる範囲には誰もいやしねぇよ」

「ならいいがな」

 持ってきた書類と伝票、領収書を机の上に広げる。これらはすべてコピーだ。本物は、すべて終わったように処理をして今朝のうちに青龍会に届けてある。

「結論から言うと、こちらの伝票の店はもう存在しない。納品も売り上げも、すべてでたらめだ」

「なんだと?」

「おそらく今回の監査が急だったから、銀行の振り込みと辻褄を合わせたんだろう。振り込みも相手先が不審なものが数カ所ある。お粗末な取り繕いかただな」

「ああ……本当ですね」

 通帳と振り込みの記録を見た楠が眉を顰める。

「こっちの店には電話をかけてみたが、すべて新規に代わっていた。たぶん、ミカジメも鳳組に収めているわけじゃないな」

 鴻也が顔を顰める。

「………昨日一日でやったのか」

「イチの手も借りたからな。報酬を上乗せしておいてくれ」

「ああ、わかったわかった」

 どうやら大切な弟をかっさらったイチは鴻也の中であまりいい位置にいないらしい。

 けれど新宿に精通した昨日のイチの活躍を見れば、鴻也も舌を巻くだろう。

 彼は一人で、歌舞伎町界隈のこれだけの店を調べ上げた。

「この後はお前らの仕事だ、鴻也。何らかの不正が行われている。………察しはついていると思うから、オレは手を引くぞ」

「ああ、十分だ。助かった、祐一」

「礼は報酬でしてくれ」

 きな臭い匂いを感じていたからこそ、わざわざ信用できる狐原に監査などと言う仕事を押しつけてきたのだろう。

 楠にやらせればいいものをとちらと思うが、多分この男の補佐で楠も精一杯だ。

 少々同情をして狐原が集めた記録を繰る楠を見やっていると、徐に鴻也が口を開いた。

「……あのな、祐一」

「……………なんだ」

 この男のこの口調はろくな事がない。既に眉を顰めて狐原は眼鏡の奥から鴻也を睨みつける。

「暫くこの家に越してこい」

「ごめんこうむる」

 即却下した。朱雀会本部、と看板を掲げているようなこの屋敷で日がな一日姐さんと傅かれるなど言語道断だ。

 ちっ、と鴻也が舌を打つ。

「言うと思ったぜ……そしたら、明里の屋敷で寝泊まりしろ。あそこならまとめて警備が出来るからよ」

 きりきりと狐原は眉を吊り上げる。

 素知らぬ顔で明後日の方を向く楠と、実に気まずげな顔をした鴻也を交互に見て、つまり、と低い声を出す。

「テメェは……オレを巻き添えにするつもりでこの仕事を頼んだわけだな?」

「いや……そういうつもりじゃ」

「そういうつもりもどういうつもりもない」 

 すくっと立ち上がり、既に腰を上げている楠を見やる。

「すみませんが」

「はい、席を外させていただきます。……済みませんが今夜は会食があるのでお手柔らかに」

「それはこの男によります」

「ちょ、ちょっと待て楠…ッ」

 助けを求めてももう遅い。その襟首を掴み上げて、いっそう低い唸るような声で狐原は、さぁ説明してもらおうかと鴻也に迫った。

 

 

 

「念のため、だろ、なぁ。狐原」

「………ああ」

「だったらそうぶすくれた顔するなって」

 明里が取りなしても、渋面はどうにも解けない。さくらが少し怯えた顔をして遠巻きにしているのはわかっているが、どうにもならないものはどうにもならない。

「ほら、その辺に座ってテレビでも見てろよ」

 夕飯の支度に忙しい明里に追いやられて仕方なく食卓の椅子に腰を下ろしてテレビを付けたが、どうにも苛立ちが収まらずに結局立ち上がった。

 からりと庭に出るガラス戸を開けて、下駄を突っかける。

 ひやりとした空気が頬に触れたけれど、もうすぐ十二月を迎えるにしては暖かい日だった。

 からころと音をたてて飛び石を渡る。

 庭石の一つに腰を下ろし、ポケットからライターとマイルドセブンを取り出した。

 火を付ければ、慣れた苦い味が舌に広がる。

「………ったく……」

 腹いせに叩きのめしては来たが、鴻也の言い分もわからなくはない。青龍会の悪事は早急に暴かなければならないものだったのだろうし、信用できる人材がいなかったのだと言われれば頷ける。

 なにが腹立たしいのかと言えば。

「………最初っから言わなかったことだよな」

 そう言って依頼してくれたのならば、書類を持ち帰って確認するような荒技はしなかった。もう少し穏便に、秘密裏に事を運んだのに。

 かえってネズミ共が騒ぎ出して良いなどと鴻也は言っていたが、それはヤクザの言い分だ。

 身内の誰にも、危害が及ぶような事態を、狐原は呼びたくなかった。

「……狐原?」

 名前を呼ばれて横を向くと、裏木戸から帰ってきたイチが立っていた。

「………よぉ」

 まずいところを見られた。禁煙をしていると言っていたのに、これでは元も子もない。

 イチは、表情の読めない顔で狐原を見ている。

 なかなか笑顔を見せてくれない少年は顔立ちだけはまるで日本人形のように丹精で、時折それが尚更に痛々しいと思う。

「明里が夕飯作ってるぞ。もうすぐ出来上がるだろ、早く入れ。寒いから」

 促すとイチは一歩狐原に近づく。

 まるで野良猫のように狐原の手のぎりぎり届かない距離から、一歩だけ。

「………あんた」

「ん?」

「いつも、こんな所で吸ってるのか」

「禁煙中だって言ってるだろう。……ちと苛々することがあったんでな、一本だけだ。大目に見ろよ」

「………」

 微かにイチの眼が揺れる。

「どうした?」

「………さくらの身体にあるのが煙草の痕だって知ってるんだろう。狐原」

「………………」

「ありがとう」

 ふいと耳慣れない言葉を落とした少年が身を翻して、あっけにとられて狐原はその背を見送る。

 気付かれているとは思わなかった。

 灰皿も叩き割ってしまったことだし、丁度良い機会だなと思っただけなのに。

「………やっぱ禁煙だ」

 まだ半分残っている煙草を石に擦りつけて消す。

 火口に灯った橙の灯火は闇に明るかったけれど、消してしまえばそれよりもなお明るい光が台所から零れていた。

「……良い相手を見つけたなぁ。明里」

 二昔を数えようかという付き合いの幼なじみの幸運を笑って、狐原も、美味しい夕食にありつくために歩き出す。

 苛立ちは形を潜めて、他愛ない自分に少しだけ笑った。

 






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