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◆◆◆青龍会◆◆◆

 

 遠い昔に約束をした。

 人には、絶対、叶えられるはずもない約束。

 一生という長い時間を考えれば途方もない約束。

 

 そうしなければ壊れそうなものがあったので。

 

 






 

 汚れていたのはソファでなくクッションだった。

 乾いてごわごわになった精液のべったり張り付いたオフホワイトのクッションを新聞紙でくるむと都指定の燃えるゴミの袋に叩き込み、ついでに台所の生ゴミと寝室のくずかごの中身をばさっとあけてぎっちりと口を縛り、玄関脇へ放り出す。

 燃えるゴミの日は明後日だ。

 当然シンクの片づけなどしてあるはずもなく、かろうじて皿が流しに運んでるのが進歩といえないこともない。

「……いや。いやいやいや。これが進歩とか言ったら甘やかしすぎだ、オレ」

 一人淋しく己にツッコミながらもどうにか朝の支度を整えて、狐原は玄関へ向かう。昨夜さんざっぱら鴻也に貪られたせいで、今朝はぎりぎりだ。

 それでも立てなくはならないところがさすがだな、と自画自賛をしながら下に降りると、見慣れた車がマンション前に横付けされていた。

「………楠〈くす〉さん」

 いかにもヤクザ、と主張しているような黒のベンツ。

 まったく形からはいる男だなと初めて見たときにはため息をついた車の横に、やはり見慣れた男が一人。

「お迎えに上がりました」

「……ったく……」

 ちっと舌打ちをしつつも、狐原は大人しく楠があけたベンツの後部座席に乗り込む。

「鴻也がお前を寄越したのか?」

「もちろんです」

「わざわざ側近に言わなくても良いだろうに。あんたも苦労するな」

「この程度のことは苦労ではございません」

 木で鼻を括ったような返事しかしないこの男は、ヤクザには珍しいサラリーマンからの転身組だ。

 いきさつは知らないがいつのまにか鴻也の秘書のような役目をするようになっていた。

 フレームレスの眼鏡も理知的な横顔も、とてもヤクザとは思えない。最も昨今は経済ヤクザというものも増えていることだし、一見だけでわかったものではないのだが。

「ったく……楠さんを寄越すくらいなら無茶苦茶するなっつんだよ……」

 だだっ広い後部座席に一緒に乗り込んだ楠が、狐原の独り言になにか言いたげな顔をする。

「なんだ?」

「いいえ」

 感情の起伏のない男は、なにを考えているのかいまいち良く分からない。

 普通自分の仕えている男に男の情人がいると紹介されればなんらかのリアクションが会って然るべきだと思うのだが、狐原を紹介されたときも楠は顔色一つ変えなかった。

 この鉄面皮は誰かに似ている。

「……あぁ。イチか」

 こちらの方が年季が入っている分頑丈だが。

「はい」

「いや。こっちの話」

 イチのことを思い出したら数珠繋ぎにさくらのこと、そして真のことまで思い出して狐原はげんなりした。今日もさぞかしうるさいだろう。

 イチやさくらは、あのなかなか癖のある少女とうち解けることが出来ただろうか。

「……真様は」

「あ?」

「そちらにおいでだと伺ったのですが」

「ああ、居るよ。明里のうちに。……誰か付けてるのか?」

「おそらく。若頭が直接手配なさったので私は関与しておりませんが」

「そうか。………なにかあるのか」

「念のために、ですよ」

「………ふん」

 昨夜の鴻也もそうだったが、この男も、組内のことはなかなか明かそうとしない。部外者と言えばそれまでだがこちらに火の粉が降りかかりそうなことならば早めに教えておいてもらいたいものだが。

 次に鴻也が来たときに締め上げて吐かせようと決めて、狐原は窓の外を見る。

 もう見慣れた千駄ヶ谷の街並みだったので、降ろしてくれ、と促した。

「ですが」

「もう歩いてすぐだ。こんな車で乗り付けたら、昨夜なにがあったのか真にばれるだろうが」

「……そうですか?」

「真はな、いらん事に聡いんだ」

 思わずため息をつく。

 今時の小学六年生はみんなあんなものなのだろうか。

 ではと楠が運転手に車を止めさせて、後二つほど角を曲がれば明里の屋敷につく道のりを狐原はてくてくと歩いていった。

 

 














 

「やだ、絶対ついてくったらついてくーっ!」

「我が儘言うな、真。オレは仕事に行くんだ」

「おとなしくしてるもんっ!昨夜は父さんにキツネを譲ったげたんだから昼間くらい良いじゃないっ!!」

「…………」

 事務所で喚かれて思わず狐原は沈黙する。

 何故知っているのか、と問うのは愚問極まりない。鴻也は実にわかりやすい男で、行動パターンがほぼ決まっている。

 明里がやれやれという苦笑を浮かべているのが視界の隅っこに入った。

 この男は姪っ子に甘い。

 こうなってしまったら次に来る台詞は決まっている。

「良いじゃないか、狐原。今日行くのは青龍会だろう?真の事も知ってるから、大目に見てくれると思うよ」

「………テメェがそうやって甘やかすからつけあがるんだぞこいつは」

 離されてなるものかとコアラのように腕にしがみつく真に、ついに狐原も白旗を掲げた。

「待ってられるか」

「うん」

「騒がないな?」

「うん」

「一言も喋るな」

「………うん」

 嘘をつけ、と思うがこれくらい脅しておけば暴れたりはしないだろう。騒がしくしたらすぐ追い返すからなと最後に一言付け加え、狐原は今日の仕事に真を伴うことを承知した。

「やった!ありがと、キツネ!」

「キツネじゃない」

「ありがと、狐原!」

「……まったく、イチとさくらと仲良くなったんなら一緒に遊んでればいいだろうが」

「だってイチは仕事に行くって言うんだもん。さくらとは、帰ってきたら遊ぶ」

 傍若無人な少女はあっさり二人に馴染んだようだった。

 懐かれればそれはそれで苦労だが、二人とも年上なのだし、適当にあしらってくれよと内心で思う。

「じゃあ、明里。行ってくる」

「行ってきまーす!」

 今日は明里が留守番、そしてたまった報告書の片づけだ。

 仕事の仔細な内容を記入するそれを、明里は一週間ほどお留守にしている。記憶は薄くなるものだから終わったら即書けと言っているのに、なかなか守ろうとしない。

 困ったものだ。

「おでかけおでかけ」

 いまにもスキップでも始めそうな浮かれた真に、こちらも困ったものだと狐原は眉を寄せた。



















 

「出掛けたのか。真は」

 ひょいとイチが事務所の扉から顔を覗かせた。

「うん。今、狐原と」

「……仕事じゃなかったのか?」

「仕事だけどね。鳳組系列の青龍会の会計監査だからさ、真を連れてっても知っている顔も多いし」

「………公私混同って言うんじゃないのかそれは……」

 今日のイチの服装はスリムなブラックジーンズにアッシュグレイのパーカーだ。なんということもない服装だけれど、よく似合っている。

「イチはなにを着ても美人だよな」

「………男に言う台詞じゃないな」

 苦笑したイチを手招いて、ソファに座らせる。

「出掛ける前にお茶を飲む時間くらいあるだろ?」

「ああ……少しなら」

「じゃあすぐ淹れるよ」

 紅茶を淹れ、ソファに持っていくとイチはこれから明里が書こうとしていた書類を見ていた。何度かは、イチ自身も書いたことのある事後報告書だ。

 依頼者毎にわけてファイルしてあるこれは、次の仕事が回ってきたときに役立つ。

「………あんたの所は、あの兄貴絡みの仕事が多いな」

「そうかな?……ううん、他のなんでも屋に比べたら確かにヤクザ絡みの事が多いかもな。でも、全体の三分の一にもならないと思うけど」

「それだけあれば十分だろう。厄介事に巻き込まれたりしないのか?」

「兄さんも気を付けて仕事を回してくれてるみたいでね。

……いっそ厄介事にしてしまえばオレを巻き込めると思うんだけど」

 そう言うことはしないんだ、と明里は笑ってみせる。

 鴻也はもう随分長いこと、明里を手元に置きたがっている。

 それはもちろん兄自身の気持ちでもあるのだろうけれど、それよりも二人の父親に対しての拘りなのだと思う。

 あの枷は、まだ兄の足元から解けない。

「……でもあんたは、ヤクザになる気はないんだろう?」

「うん。……兄さんには悪いけどね」

「その方が良い」

 カップを揺らして微かにイチが俯く。

「その方が良い……」

「うん。……ところで真とは仲良くなれた?」

 問うと、イチは微かに眉を顰める。

「……まだ仲良くなるほど話してない」

「そうかな。なかなか賑やかな子だからね、邪険にしないでやってくれると嬉しいけど、あんまり我が儘だったら叱ってやってくれ」

「………あんたの兄貴が甘やかしたんじゃないのか」

「ううん……そうかも」

 そうかも、と言いつつ自分も甘やかしまくった自覚が明里にはある。なにしろ姪っ子だ、眼に入れても痛くないほど可愛い。

「……子供の扱いには慣れてる。平気だろう」

「うん。よろしく、イチ」

 絹糸のように細い黒髪を撫でれば、イチが怪訝な顔をして明里を振り仰ぐ。

「なんだよ」

「いや、イチが真を可愛がってくれるならオレがイチを可愛がろうかなと思って」

「……馬鹿か、あんたは」

「いやいや。本気」

 可愛い可愛い、と言ってぎゅうっと抱きしめるとやめろとイチが焦った声を上げる。

 可愛いばかりではない少年を、思い切り甘やかしたいなぁとなかなかままならない望みをこっそり明里は胸中で呟いた。

 

 
















 

 椅子に座った少女はそろそろそわそわし始めている。

 視界の片隅にそれを見つけて、狐原は内心でやっぱりとため息を落とす。さっきまではお茶だのお菓子だのをもらって大人しくしていたが、遊び相手の一人もいない事務所でそう何杯も茶を飲んでいられるわけもない。

 計算機と領収書、納品書、伝票と出納帳とを首っ引きで見比べている狐原に相手が出来るはずもない。

「………ねぇ狐原、なにしてるの?」

 やがて耐えかねた真が沈黙を破る。

「一言も喋るなと言わなかったか?」

「仕事の質問だもん、いいじゃない」

 ああいえばこう言う。まったく口から先に生まれてきたとはこういうことを言うんだろうなと狐原は思う。

「会見監査だ」

「かいけいかんさ?」

「………金の流れに不正がないかチェックするんだ」

「………ここ、父さんと同じ組の事務所なんでしょ?それなのに組の人じゃない狐原がチェックするの?」

 真はなかなか鋭い。

「会計士の資格があるからな」

「ふーん。難しいの?かんさって」

「まぁ……程ほどに」

 金の流れを追うだけならば簡単だ。けれどそこに不正がないかを見破るのは難しい。

 ここ青龍会は、主に新宿からの店のミカジメ料で収入を得ている。ミカジメ料というものは縄張りの中にある店から月々収められる上納金の事だ。

 新宿という特殊な場所ではそれはさらに保険も兼ねる。

 店に対しての用心棒代、なにかその店でトラブルがあったときに組の保護を受けられるようにするための約束の金、ということだ。

 もちろんトラブルが実際に発生したときにはさらに別途収入が入る。

 新宿という場所の特異さは、このミカジメ料が、早い者勝ちだと言うところにある。

 ヤクザというものは土地土地で縄張りが決まっている。

 その縄張りの中の後ろ暗い所のある店からミカジメ料を得るのが収入源の一つなのだが、新宿の場合は、新規開店の店とより早く契約を結んだ組がミカジメ料をせしめるのだ。

 自然、隣り合った店で別々の保護者を持つことになる。

 そしてこの決まりを破って長く存在できる店は、新宿に一軒たりとも無い。

 この仕事を請け負ってまだ数ヶ月だが、狐原の手元にある伝票は毎月代わる。

 浮き沈みの激しい新宿では月ごとに何百件と店が潰れ、また新しく出来る。

 店が特定できないことも難関の一つだ。もう一つは、暴対法以前の幹部がこの青龍会に多いことも上げられる。

 時代の流れ、というものが存在することをわかっていない化石のような頭の持ち主は、領収書や伝票というものがこの世に存在する事も知らないに違いないと狐原は確信している。

 いちいち欠けたところのあるそれを確認していると、一日くらいはあっという間に過ぎてしまう。

「ねぇねぇ狐原、あたしにも出来る?」

「無理だ」

 簡潔に切り捨てて、狐原は伝票に見切りを付ける。

 このままここで作業をしていてもおそらく片づかない。

 今回は特に未処理の伝票が溜まっていて、いっそ組の若い者を誰か一人会計の専門学校に放り込むよう鴻也に進言してやろうかと思う。

 それは既にヤクザではない気もするが、暴力団対策法が施行されて以来のヤクザなどほとんど会社組織と同意義語だ。

 暴力、という+アルファがあるかどうかの違いしかないと狐原は思っている。

「帰るぞ。真」

「ええ?もう?」

「ああ。このまま居ても埒があかない。お前はうるさいし」

「………そんなにうるさくしてないわよ」

 小分けにした伝票や領収書、店の一覧などを分別してクリアファイルに綴じ込み、狐原はソファを立つ。

 扉を開けると青龍会の若い男がぎょっとした顔をして椅子を立った。どうやら見張り役だったらしい。

「帰る」

「え、ええッ?も、もう終わったんすか」

「終わってない。今回は未処理のものが多すぎて埒があかない。今晩一晩かけて整理してくるから、そう伝えとけ」

「ええっ!ちょ、困りますよ、待って下さいよ……」

「話は通っているはずだ」

 若者が追いすがるのを無視して、さっさと狐原は組の事務所を出る。大元締めの鳳組の下には朱雀、青龍、白虎、玄武と四つの組があるが、その中にもヒエラルキーがある。

 二番目の青龍会は朱雀会の若頭の言うことには逆らえないようになっている。要するに体育会系の縦割り社会なのだ。

 外に出ると冷たい風が頬をなぶっていった。

 後数日で師走だ。

「ね、狐原。あたし、お腹空いた」

「………事務所に帰ればなにかあるだろう」

「たまには二人で食べようよ」

「…………」

 ね、とせがむ真の様子に、どうやら二人で居たいらしいと察して、仕方なく狐原は頷いた。

「わかった。何が喰いたい」

「やった!」

 手を打ち鳴らして真は喜ぶ。

 鴻也と、明里、そして狐原の三人だけに真はこういう子供子供した姿を見せた。

「じゃあね、あたし、ブルーベリーのベーグルサンドが食べたい!」

「またか。お前こないだもそこじゃなかったか?」

「いいじゃない、美味しいんだもん!」

 新宿の地下街にあるこぢんまりとした店は、いつ行ってもほとんど満席で、確かに美味いというのはわからないでもない。

「しかし……腹に溜まらないんだよな……」

「いいから、早く!」

 真に腕を引かれて、伊勢丹近くの地下街への入口を狐原は仕方なく降りていった。

 











 海老とアボガド、レタスにチーズ、胡椒を利かせたベーグルが真のお気に入りだ。サラダにデザートのチーズケーキもつけて、ごきげんでかぶりついている。

 狐原はサーモンとチーズ、ケッパーのサンド、それに店の名物のブルーベリーベーグルにクリームチーズ。

 ベーグルは美味いがどうにも腹一杯になる気がしないのでついつい二つ頼んでしまう。

「デザートも美味しいんだよ」

「あとでな」

 窓際の席だ。コーヒーを啜りながら行き交う人々を眺めていると、真が上目遣いに狐原を伺っていることに気がついた。

「なんだ」

「………あのねー」

 珍しく思案するような口調。

「あのね………イチがね」

「ああ。仲良くなったのか」

「もちろん!」

 イチの意見はまた別かも知れないが、取り敢えず狐原は頷いておく。

「良かったな。で?」

「あのね、イチがね。……明里が、明里だから良いって言うの」

「………そりゃまた大層な惚気だな」

「それでね、あたしの父さんがヤクザって言うのは関係ないのって聞いたら、関係なくないけど兄さんがヤクザでも大変なことがあっても明里だから良いんだって」

「それはそれは」

 どう聞いても惚気だが、それがイチの真実なのだろう。

 瀬戸際で生きてきた少年は無闇に取り繕うと言うことをしない。どんな衒いも生きるためには必要ないと、思っているのだろう。

「……でも大人はそういうわけには行かなくてなぁ」

「なに?狐原」

「いや。こっちの話」

「ふぅん。……ね、あたしにも、そんな人が出来るかな」

 身を乗り出すようにして真が問うてくる。その可愛らしさに狐原は苦笑した。

「口数を半分に減らせばな」

「ひどーい。良く喋る女の子の方が可愛いって言うじゃない」

「程度による」

「……他には?」

 なにか直すところはないの、言外に問う真にどうせ直らないだろうにと笑う。

「諦めないことだな」

「諦めない?」

「そうだ。探すことや、出会うことや、人を」

「………よくわかんない」

「まぁ、また誰か好きな相手を見つけろってことだ。お前のうるささを我慢してくれる相手をな」

「ひどいー」

 ふくれながら真はベーグルを齧る。

 食事の間にも止まらない話に聞くには、失恋の相手は最近学校に来た転校生だったらしい。

 背が高くて格好良くてサッカーが巧かったの、と語る内容は本当に少女の恋に恋する片恋だ。

 すぐさま告白に行くところが一線を画しているが。

「でもね、親がヤクザだと駄目なんだって。ゴメンって言ってくれたけどなんだか逃げ腰だったわ」

「まぁ、小学生にヤクザの娘とのお付き合いを求めるのも不憫ってモンだ。暫く我慢しとけ」

「………中学に上がったらいい?」

「………それもな……」 

 なまじ多少歳が上の分だけ何かのアヤマチがあったら今度こそ鴻也に東京湾に沈められそうな気がする。

 恋多き少女の前途は多難だ。

「………ま、しばらくは、イチとさくらと遊んで我慢しておけ」

「………んー」

 ベーグルの最後の一口を飲み込んで、真は不満げな返事を返した。

 







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