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    ◇◇◇

 

「獣め。実の叔母と通じたか」

「そうだろうとも。あんたの息子だからな」

 声高にせせら笑う。

 ありったけの憎悪をこめた声に、けれど小揺るぎもしない父を憎む。

 憎むことでいっそう強く縒り合わされる絆があるとわかっているのに、その鎖は解けないままだ。

 血、という鎖。

「あんたに許してもらう必要はない。口出しもさせない」

「ふん。どうやってだ?」

「いくらでも手段はあるさ。……オレを舐めるなよ、親父」

「ふん」

 ざらりと神経を舐める笑い声。

「まぁ、いいわ。儂はなんの口出しもせんでおこう。お前が獣の所業の果てに産ませた子供を、それでも育てると言うならな」

「ああ、それがいい。黙っておけよ。命が惜しいなら」

「命だと。なんの惜しくもあるものか」

 殷々〈いんいん〉とした笑い声。

「せいぜい励むが良いよ。この血の裔〈すえ〉に業を背負って産まれた子供が、それでもお前の元で健やかに暮らせると、そう思うのならばな

 
















     ◇◇◇

 

 

「……いなくなった?」

 明里の声に狐原は顔をあげる。電話は楠からのようだ。

「来てないよ。ああ。……佐々木?いない」

 徐々にその顔が険しくなるのを見て取って、一難去ってまた一難かと思う。ようやく動いてもあまり身体が痛まなくなったので、事務所で仕事をしていた所だ。

 向かいに腰掛けたイチも、顔をあげて明里を見ている。

「ああ。わかった、こっちも捜す……いいって?どうしてだよ」

 ちらりと明里がこちらを伺うのに、貸せ、と手を伸ばす。

「楠か」

『狐原さん。……真さんが、失踪しました』

「ああ……聞いてた。佐々木も居ないのか」

『はい。拉致されたと思われます』

「ったく……ぼんくら揃いだな」

『いいえ。大丈夫ですよ』

 微かな笑いの気配。その奥にひやりとするものを感じ取って、こいつもヤクザの水に馴染んできたなと思う。

 元より素養のある男だったのだろう。

「大丈夫?」

『ええ。すぐに片が付きます。申し訳ありませんが、明里さんと狐原さんはそちらでお待ち下さい』

「……鴻也に代われ」

「……………」

「居るんだろう。さっさと代われ」

 語気強く言うと、携帯の向こうで微かな気配がする。随分と待たされた後、大股で歩く足音が聞こえてきた。

『祐一か』

「ああ。真がいなくなったって?」

『そうだ。帰ってきて、部屋に閉じ込めといたんだが、見張りの若いのをだまくらかして浴室の窓から抜けだしやがった。まったく、悪知恵が働くのはお前に似やがって』

「……別に血が繋がってるわけじゃないがな」

『母親みてぇなモンだろうが』

「殴るぞ」

 くつくつと笑う鴻也の声に、これはそう大事でもないらしいと察しを付ける。大方、もう連れて行かれた先はわかっているのだろう。

「なんで閉じ込めた」

『………見つけたらすぐ顔見せに連れてくからよ。取り敢えずお前も、まだ明里の家にいろよ』

「おい!」

 通話は唐突に切れる。

 耳障りな電子音を伝えてくる電話に、狐原は思いきり渋面をして、馬鹿がと吐き捨てた。

「狐原。真は」

 明里が心配そうな顔をして聞いてくる。イチもその後ろで腰を浮かせかけていた。

「捜しに行くか?」

「いや……どうやら平気らしい。見つけたら、連れてくると言ってた」

「じゃあ」

「もう居る場所もわかってるんじゃないのか」

 放り出すようにそう言って、狐原はソファにどさりと身体を投げ出す。

 仰向いて眼を瞑ると蛍光灯の光が瞼の裏の赤い血を空かして見せた。

 どっと疲れが出て身体が軋んだ気がしたが、取り敢えず真の無事な姿を見るまで眠るわけにはいかない。

 こうして待つことを強要するのだからほんの少しでも不本意な結果に終わったら許さないぞと胸中で罵って、続きの仕事をするべく、眼を開ける。

 手につくかどうかは解らなかったが。

 

 

 

 

 

 

 

 






 

     ◇◇◇

 

 あの女性の眼差しを、狐原はもう十数年が過ぎた今でもはっきりと思い出すことが出来る。あまり話したことはなかった。

 鴻也の、見たこともない母親の妹は、あまり彼の住む屋敷には寄りつかなかった。当然と言えば当然だろう。

 普通に暮らしていてヤクザと関わり合いを持ちたいという人間はそうはいない。ただ明里の母親とは仲が良いようで、時折、彼の家で姿を見かけることはあった。

 いつでもからりとした笑顔を浮かべる、芯の強い女性だったように思う。

 けれど狐原が一番鮮明に覚えているのは、白いベッドに横たわった彼女の姿だ。

「あの子は鴻也の子供じゃないのよ」

 そんな風に彼女は話を切りだした。思いもかけないことを言われて狐原は眼を丸くする。

 そんな話は鴻也に聞いたことも疑ったこともなかったが、そう言われてみればこの場所に子供の父親が居ないのは確かに不自然だ。

「………何でオレにそんな事」

「言っておかなくちゃいけないと思ったから」

 祈るように胸の上で組まれていた指が解ける。

「ねぇ。鴻也をお願いね」

 骨の浮いた細い指が狐原の腕を掴んむ。

 その気になればたやすく振り払ってしまえるような小さな手は、けれどその時抗いがたい力で狐原を縛めた。

「鴻也をお願いね。あなたしかいないの」

「……なんで」

 絞り出した声は掠れていた。

「なんで、オレなんですか。……明里とか、明里の母さんとか。いるでしょう」

 なにが怖ろしいのか、あの時はわからなかった。 

 暴力にも孤独にも慣れた賢しい少年だと己のことを自負していたのに、あの場所に満ちた圧倒的な力は理解がし難かった。

 結局自分その時自分は思うほどに賢くも強くもなかったと言うことなのだろう。

「いいえ。駄目なのよ、あなたでなくちゃ」

 病院の、病の匂いの染みついたようなベッドに横たわった、白い顔をした女性が微かな笑みを浮かべる。

 あの時狐原が心底怖ろしいと思ったのは、あの女性が纏う死の気配だった。

 人であるならば決して逃れられない終末の気配、それが確実なものとして手に触れられるほど近くに準備されている彼女を、心底怖ろしいと思った。

 けれどそうして死の気配を纏いながらそれでも笑える彼女が、怖ろしく美しかったことも覚えている。

 風呂に入れず油とフケで乱れた髪も、どんな栄養を留めることも出来ず痩けた頬も、死出の装束かと見紛う病院の寝間着も、何一つ

その美しさを損なうことは出来なかった。

「お願いよ。鴻也を、頼むわね」

 彼女の月足らずの子供は保育器に入れられている。一緒に、ガラス張りの遠くからその小さな小さな姿を見た鴻也は、固く強ばった顔で唇を引き結んでいた。

 鴻也がなにを思って、あの場所に狐原を連れて行ったのかは知らない。

「お願い」

 微かな笑顔と共に渡されたその言葉と同時に、ガチャリと、後ろで病室のドアが開く音がした。

「ったく……真理さん、オレに花瓶の水取り替えさせるのなんかあんたくらいだぜ」

「あら。男の子だってそう言うことが出来なくちゃ、もてないのよ」

 ぽんぽんと言い合う、姉と弟の様な姿を見つめながら狐原は一歩下がる。その空気に、もっと親しげなものが混ざっているのではないかと、そう思った。






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