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 長旅でくたびれはてていたせいか夢も見ないくらいぐっすり寝たおかげで、翌朝の目覚めは爽快だった。

 朝陽が昇ると共に起き出して、診療所の水場にある竈に火を熾す。

 夏とはいえ高地の朝は、上着を羽織らなければいられないくらい寒かった。山の暮らしに慣れていないリベルテには始めてのことだらけだ。

「あつ…ッ」

 うっかり竈に置かれた網に手を触れて火傷しながら、水を汲んだ薬缶を火に掛ける。

 驚いたのは、この家に水道が通っていることだった。

 井戸はなく、蛇口を捻れば水が出るようになっている。

 医療のためにはありがたい。

 もしかしたらこの小屋は本当は診療所として作られたものではなく、昔は鉱山で働く人々のための休憩所だったのかも知れない。近くの鉱脈を掘り尽くしてしまったので、より山奥に移ることになったのではないだろうか。

 そんなことを考えながら湯が沸くのを待ち、とりあえず髪と身体を清めることにした。一本一本が細く、柔らかいウェーブのかかったリベルテの髪は、手入れを怠るとあっと言う間にくしゃくしゃに絡んでしまうのだ。

 それなら切ってしまえばいいとも思うのだが、師の教えのせいでそれも出来ない。

「これくらいかな……」

 熱湯を水で割って熱めの湯を作り、まずはタオルで身体を拭う。さっぱりしたら次は髪を湿らせて石鹸で洗った。

 水に濡れると淡いセピア色の髪が少しだけ色濃くなる。

 長い髪を時間を掛けて洗い、きっちりと絞ってタオルで丁寧に乾かし、そのまま纏めた。器用にタオルでくるんでから服を着る。

 水切れも悪いので、放っておくとすぐに着た服の肩口がびしょびしょになってしまうのだ。

 ようやく身支度を整えたところで、玄関のノッカーが音を立てた。はい、と答えて鍵を外す。

「おはようございます」

「おはよ、早起きだね…っと」

 金の髪を朝陽に光らせながらゼファが入ってきた。まだずいぶん朝早いのに、ゼファは口で言うより面倒見が良く勤勉な人らしい。

「あれ?先生?」

「先生は止めてくださいと言ったでしょう」

「ああ、ごめんごめん、リベルテ。……へぇ、眼鏡外して髪上げると、ずいぶん印象が違うんだなぁ」

「そうですか?」

「うんうん。なかなか可愛いと思ってたけど、眼がちゃんと見えるといっそう可愛い」

「……………褒め言葉ですか?」

 どうにもこの男が言うとからかわれているようにしか聞こえない。というかそれは昨日今日会ったばかりの男相手に連発するような台詞だろうか。

「褒めてる褒めてる。眼鏡掛けてるともっと深い色に見えるけど、眼はモスグリーンなんだね」

「レンズが厚いですから。片目の視力がすごく悪くて」

 こうして話している間も、ゼファの顔がぶれて見える。診察台の上に置いてあった眼鏡を掛けると、ようやくその表情がちゃんと見えるようになった。

 すっと、ゼファが片手を上げる。

 その長い指が髪を掻き上げるようにリベルテのこめかみに触れた。

「なんですか?」

「視力が低いのは、これのせいかな」

「……ああ」

 問われてようやく気付いた。日頃は自分でもすっかり忘れているが、左のこめかみには古い傷の痕がある。ふだんは髪に隠れているし、皮膚の色もさほど変わっていないので、気付く人は稀だ。

「そうです。ちょっとした事故で。でも失明しているわけじゃないので、眼鏡を掛ければちゃんと見えますよ」

「ふぅん」

 それ以上は問わず、見えなくならなくって良かったねぇ、と言いながらゼファが手を引く。

 触れられた場所には僅かに疼くような感触が残った。

「そんで、リベルテ。朝飯は?」

「ああ……そうでした。すみません、実は何もないんです」

 夕べはパンで済ませたが、朝起きてよく考えてみたら食料が何もなかった。貯蔵庫も水屋の棚も見事に空で、とりあえず朝は抜くしかないなと思っていたところだ。

「僕は食べなくてもいいんですけれど、ゼファももしかしてまだなんですか?」

「だめだめ。そんなこったろうと思ったよ、アンタ、けっこうそういうところ抜けてそうだよな。ほら、朝飯にしようぜ」

 ゼファが片手に提げていたバッグを掲げてみせる。

「……何から何まですみません」

「面倒見が良いのがオレのいいとこなんだ。さ、じゃあお茶だけ淹れてくれるかなー」

 しらっとしたゼファの台詞に思わず笑ってしまいながら、リベルテは台所に戻った。棚には一通りの食器と茶葉、調味料が揃っていた。カップを二つ取り出し、もしかしてこれを揃えておいてくれたのもゼファなのではないかとふと気付く。

 先任の医師にそんな気遣いがあったとは到底思えない。

 ろくな事が書いていなかった数枚のカルテについて思い返していると、つるっと手が滑った。

「あ…ッ」

 ゴン、という音がしてカップが床に落ちる。

「ああっ」

「大丈夫?」

「だ、大丈夫です…っいたッ」

 慌てて屈み込むと今度は流しの角に頭をぶつける。それをさすりながらカップを拾い上げたら、肘が薬缶に引っかかった。

「あ、あつっ、わ…ッ」

 跳ねた飛沫に火傷をしながら揺れた薬缶を押さえて落とさずに済んだのは良いが、今度は指先が熱さにじんと痺れて、ぱっと離した拍子に机においてあった茶葉の缶を倒した。

 ばさっと褐色の葉が机の上に零れる。

「ああ……」

「……先生。ホントに大丈夫」

「だ、大丈夫です…ッ」

 茶葉を手で集めようとすると寄ってきたゼファが代わりに大きな手でささっと纏めて、ポットに放り込んでくれた。

「あ、ありがとうございます」

「いやー。面白かったけど、正直リベルテに外科治療だけはされたくないわ」

「し、失敬なっ!治療はちゃんと出来ます!」

「すっごい説得力無いよ今の後じゃ……」

 自覚があったので思わずリベルテはぐうと黙り込む。

 ポットに湯を注ぐのは慎重にやったので、零さずに済んだ。

 診療所の方には二人で座れるテーブルがなかったので、促されるままにポットとカップを持って隣の母屋へ移ることにした。

 母屋には部屋が三つある。ベッドのある寝室と、テーブルの置かれた少し広い部屋、そしてソファのある居間だ。

「ほら。好きなの喰って良いから」

 小振りの青い林檎、固く焼かれたナッツの入ったパン、布で包まれたチーズにまっ白な玉子、真っ赤なトマト。

 袋からゼファが次々に食べ物を取りだしていく。

 テーブルの上には瞬く間に小山が出来た。

「こんなに食べられませんよ……」

「当座の食料だ。まあ、今日の午後町に出れば買えるけどさ。最低これくらいあれば、先生だけなら二三日保つでしょ」

 じゃあお代を、とリベルテが言うまもなく、ゼファは先に椅子に座って林檎を選び、さっさと食べ始めてしまう。

「食べたらすぐに鉱山にむかうから。三つ回るんだから、急がないと」

「は、はい!」

 二人分の茶をポットから注いで、慌ててリベルテもパンを手に取った。

 











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