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 密林の中の空気は、いつでも水の匂いがするようだった。

 水と、湿った土と、植物と、そして動物の匂い。

 その空気を鼻と口から思い切り吸い込んで、身体の内側にまで染みてしまった血の匂いを一時でも追い散らせないかと試してみる。

 無駄だとわかっていてもあの穴から出てくるたびそうせずにはおれない。

 穴の中にあるのは血と死だ。

 前線に行く、と師が言い出したのは何日前だったか、もう覚えていなかった。そもそも今日が何日なのかも曖昧なのだ。

「先生」

 呼ばれて振り返るとリベルテよりよほど年上の兵士が敬礼をしていた。苦笑してかぶりを振る。

「先生、は止めてください」

「いや。しかし、医者の先生ですから」

「医者は僕の先生です。僕はただの助手。どうか、リベルテ、と」

「はい。……リベルテ殿」

 殿、もいらない、と言おうかと思ったけれど結局やめにした。

「どちらへ?」

「水を汲みに行ってきます」

「そんなことは、申しつけてくだされば兵士がやります」

「今は、みんな怪我人です」

 バケツを手に提げて獣道を辿り出すと、兵士はそのまま後をついてきた。

「……見張りのお仕事中ですよね?」

「はい。しかし、もう一人おりますので。水くみの行き帰りは護衛をさせていただきます」

 生真面目な口調にくすりと笑ってしまう。護衛、なんて。

「すぐそこですよ」

「はい」

 この場所は恵まれている。十分ほども歩けば河と小さな滝があって、水に不自由することがない。

 バケツにたっぷり水を汲むと、持ちます、と護衛の筈の兵士がさっさとそれを奪ってしまった。

「あの、大丈夫ですよ。それくらい」

「いいえ、このくらい、させてください。……先生と、リベルテ殿がいらして、ここの連中がどれほど助かっているか」

「………」

「国にも見捨てられたのかと思っていました。本当に」

 従軍医が逃げ出してしまったのはもう二月も前のことだと聞いた。長い間戦乱の無かったこの国で、本当に戦に出ることがあるなどとは思いも寄らなかったのだろう。

 誰も行きたがらない戦場に師が志願したのは半月ほど前のことで、それまで一月以上も彼らは医師無しで戦い続けていたことになる。

 野辺に立てられたいくつもの墓は、埋める余裕があるだけまだましだと言うべきなのだろうか。

「……先生の、尽力ですよ」

 苦笑した兵士がリベルテの肩を叩く。

「リベルテ殿は己をわかっておられない。この戦場に居続けると言うことがどれだけの勇気を必要とするか。ましてや兵士でもなく、ずいぶんとお若いのに。……失礼ですが、お歳は?」

「先日、十四になりました」

「それは……」

 兵士が絶句する。もう少し年嵩だと思っていたのだろうか。

 幼く見られることはあっても年上に見られることはあまりないので、場違いにちょっと嬉しくなった。

「……ずいぶんとお若い。兵士にさえ、その歳で戦場に立つものはいません」

「そうですね」

 この国の徴兵は十六からだ。

「来るか、と師に聞かれたので来ました」

「………」

 兵士がもの問いたげな顔をした。聞かれそうな内容など分かり切っている。

「後悔なんていつもしてます。……戦いも、死も、本当に怖い。親のような歳の方に泣かれることも喚かれることも。治療中に竦んで、先生に怒られることだってしょっちゅうですから」

「……では、どうして?」

「………それよりも、医者でいられなくなる事の方が……医者を、目指せなくなることの方が、僕は怖いからです」

 医、とは。

 常にそれを最も必要とする場所にあるべきだ。

 師はそう言った。

「リベルテ殿、あなたは……」

 何かを問おうとした兵士が不意に口を噤み、道ばたにリベルテを突き倒した。

 そしてほぼ同時に、耳を聾さんばかりの大音響が響き渡る。

 眼を閉じ、兵士の服に爪を立てるようにしがみついてリベルテはその衝撃に耐えた。

「……ッ、ぅ…」

 爆撃だろうか。水場近くは狙われやすいと言うことを思い出してももう遅かった。

 絶え間なく轟音が響き渡る間、ただただ眼を閉じてリベルテは堪えた。

 どれほど時間が過ぎたかもわからないまま、密林が静けさを取り戻して大分経ってからリベルテはそろりと指先をほどく。

「……あの」

 声は酷く掠れていた。舞い上がった土埃をずいぶん吸ってしまったようだ。ようやく視線を動かすと、リベルテに覆い被さった兵士と地面の間の隙間からボロボロになったバケツの残骸が見えた。

「あ、あの……ッだ、大丈夫ですか……怪我は」

 答えはない。

 兵士は、ぴくりとも動かなかった。

 その時点でどうなっているかなど知れたことだったが、一縷の望みを掛けてリベルテは彼の身体の下から這い出る。

「…ひ…ッ」

 振り返って息を呑んだ。

 リベルテに覆い被さっていた兵士の身体は、その背中側半分がごっそりと抉られていた。爆撃に飛ばされてきた何かの破片が削っていったのだろうか。

 尻から背、後頭部までまるで解剖図を見るような死体。

 さっきまでリベルテと話をしていた男はもう物になって、ぴくりとも動かない。ただその断面からにじみ出る血だけが緑の草を塗らしている。

 たまらずリベルテは吐いた。

「……ぅ、ぐぇ……ゲェ、…ッ」

 揺さぶって安否を確かめるような愚かさも許さないほどに、それは死だった。

 それから、どうやって男の死体を引きずって師の所まで戻ったか、リベルテは覚えていない。

 

 結局彼の名も知らなかった。

 彼が最後に問おうとした言葉も聞かなかったと、リベルテが気付いたのは、その戦がとりあえずの終結を迎えてからのことだった。











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