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 ゲルダは鳥のくせに肩にとまられると結構重い。

「後に乗ってくれよ、ゲルダ」

「肩が良いんだよ、高くて」

「重いっての」

「けっ。男のくせに情けない」

「デブなんだよ、お前が」

 明星に乗って、ゲルダを共に、山道をのんびりと歩いていく。 夏らしく今日もいい天気だった。山の夏は短いがその分毎日が美しく、木々も空も山々も何もかもが輝いて見える。

 通り過ぎた風を胸一杯に吸い込んで、深呼吸をした。

「気持ちいいなぁ」

「まったくだ」

「お前も夏は好きだもんな」

「ここの夏はな。都のはゴメンだ、暑苦しくて人間がウザイ」

「……いっつも思うけどお前そう言う言葉はどこから覚えてくんの?」

 ぶつぶつ言いつつ森を通り抜け、緩やかなカーブに差しかかる。ここを登り切れば診療所がある。一月ほど無人だった診療所には、先日新しい医師がやってきた。

 歳は若いがいままでここに来た医師達と比べればずいぶんと前向きで勤勉な先生は、たぶんもう起きているはずだ。

 今日からもう勤めを始めると言っていたから、準備中かも知れない。

「センセイの事が気になるんだな。ゼファ」

 ゲルダにからかうような口調で言われて、ゼファは苦笑する。

「まあね。まだ正体がわからないからね」

「それだけじゃないくせに」

「……まあ、そうかもね。可愛いし。あの真面目さは貴重だよねぇ」

 己の仕事に誇りを持っている人間が、ゼファは嫌いではない。

 彼の背景にあるものの事情とは別に、そこはリベルテに好意を持っていい場所だとゼファは思っている。

「まあ、始まってみないとわかんないけどね。鉱山の医師ってものを先生は本当に理解してるのかな」

「さあ」

 ばさっ、とゲルダが羽ばたいてバランスを取る。羽根が頭をかすめてゼファは顔をしかめた。

「やめてくんない。お前の羽根、当たると痛いんだからさ」

「あててないだろ」

 診療所が見えてきた。

 明星から降りて柔らかい草のあるあたりの柵に彼女を繋ぎ、建物に向かう。ノックをする前に何となく手を掛けると、ドアノブは簡単に回り、ギィと音を立てて扉が開く。

「あれ。……リベルテ?」

 最初に眼に飛び込んできたのは、やけに白く丸い肩だった。

 骨張っているのに曲線が柔らかい。へえ、ずいぶん綺麗な肌だなと思って、その曲線が背中から腰、尻から脚へと続いていることにも気付く。

「……リベルテ?」

 声を掛けると、年若い医師が緩慢に顔を上げた。

 ゼファ、とその唇が動き、言葉の代わりに咳を吐き出す。

 ギィッと肩の上でゲルダが鳴いた。

「………すみません。……ちょっと……とりこんでいて……」

 リベルテの声は酷く掠れていた。柔らかそうなセピアの髪はくしゃくしゃにもつれ、肩にべったりと張り付いている。

 眼鏡も見当たらない。

 その白い肌に赤い痕が散っていることにもゼファは気付いた。丸い頬は腫れて、唇に乾いた血がこびり付いていた。

 白い手が、衣服を探して床の上を辿る。ぐしゃぐしゃになった彼の服は診察台の上に放り出されていたけれど、もう着られないだろう。

 後ろ手にドアを閉め、診察台の上にゲルダを置いてゼファはリベルテに近づいた。びくりと震える痩せた背には肩胛骨と背骨がくっきりと浮いている。

 その背に上着を脱いで着せ掛けた。

「リベルテ。怪我は?」

「……そんなには」

 答えが返ってくることにとりあえず安心する。どうやら、自失してはいないようだ。

「顔は?殴られたの」

「多少……でも、酷くは、ないですから」

 とんとん、と肩をつつかれて振り返れば、ゲルダが大きな嘴に重い水差しを加えていた。頷いてそれを受け取る。

「リベルテ。これ」

「……すみません」

 喉を鳴らしてリベルテが水差しから水を飲む。その反った首筋の赤い痕の上を端から零れた水が伝って、ざわりとゼファは胸の奥が鳴るのを聞いた。

 珍しいことだ。

「誰にされたの」

「……ッ」

「夜のうちか。……アルフェサー?」

「………なんでも、わかるんですねぇ」

 リベルテが濡れた唇で笑った。

 頬は腫れていて、酷く痛々しい。ひとつも正気を失っていないのがなおさら。

「ここに囚人連中が出入りしてるのは知ってたからね。前の先生も嫌がってなかったんでほうっといたけど。何人?」

「……三人」

「ふーん」

 ゼファが掛けた上着をリベルテの手が掻き合わせて、大丈夫です、と彼が言った。

 黙ってゼファはその細い肩を引き寄せる。

「あの…ッ」

「こっちは、切れてない?出血は?」

「あ、あ、あの…ッ!だ、大丈夫です、そこは…ッ」

 尻の丸みを割ってゼファが奥を探ると、今までで一番狼狽した声を上げてリベルテが身を捩る。

「大丈夫じゃないでしょ。ほっとくと痔になるし、中に残ってるんなら出しておかないと」

「ほ、ほんとに…!大丈夫です、あの、そこには入れられてないんで…!!」

「んん?」

 慌てふためくリベルテのくすんだ緑色の眼を覗き込んで、どうやらそれは本当らしいと納得する。

「入れられなかったの?」

「は、はい、あの……」

「ああ、言わなくて良いって。……ふーん、ちょっとは心得た連中だったって事だ」

「……心得た?」

「先生の世話になることがもしかしたらあるかもしれない、って計算したってことさ」

 尻に突っ込まなかったことだけが暴行の免罪符になると思っているのなら、それは甘すぎる考えだと言わざるを得ないが。

 肉のない太股の内側には、固まった白いものがこびりついている。

 赤く腫れた頬も、皮膚のそこら中に残っている指痕、咬み痕も、男達の暴力を物語るには充分だ。

「……先生」

「は、はい……」

「殺してあげようか」

「………え」

「先生に、こんなことした奴らの事。教えてくれれば、殺してあげるよ」

 リベルテの眼が見開かれる。瞳の色はまるで深い森の一番根元に敷きつめられた苔のようだ。ふっくらと丸く、柔らかく、人を安らがせる色だと思う。

「オレ、リベルテのことは結構気に入ったからね。こんなことした奴らのせいで、ここで仕事が出来なくなるくらいなら、オレが殺してあげるよ」

「………」

「簡単だから。アルフェサーには事故が多いし」

 しばらくの間ゼファの眼を見つめてから、やがて、リベルテがゆっくりとかぶりを振った。

 その緑の眼にあるものの正体が推し量れなくて、ゼファはふと不安になる。

「……いいえ。ゼファ」

「なんで」

「いいんです。……すみません、こんな有様を見せて……」

「別にオレはかまわないけどさ。先生、無理しなくていいんだよ?」

「……大丈夫です。本当に」

 俯いてしまったリベルテはそれきり何も言わなかったので、仕方なくゼファはその細い身体をひょいと抱き上げた。

「…ッ」

「座ってて。とりあえず、湯を沸かすから」

 破れた服を敷物にして診察台にリベルテを座らせてから籠に積まれていた毛布を渡し、奥の部屋へ向かう。

 診療所の建物には小さな浴室と便所がついている。

 石で出来た湯船に水を溜めながら、外に回って浴室のための竈に火を点ける。

 良く燃える白樺や松の薪を放り込んでできる限り火力を強くした。

「……強情だなぁ。先生」

 火を焚き付けながらゼファはふと呟く。

 憎いなら憎い、許せないと言ってしまえばいいのに。

 理不尽に与えられた痛みに、屈辱に、復讐をすることは当然の権利だと思う。

 それを肩代わりしても良いと思うくらいには、自分は先生が気に入ったらしい。言ってくれれば、すぐに無かったことのようにしてあげるのに。

 ゼファのその言葉を否定するからこそリベルテになお惹かれるのだということに少しも気付かずに、彼は湯を沸かす為の火を扇いだ。

 





















 

 

 浴室で一度だけ吐いた。

 歯にこびり付いた男の精の味が生々しく舌を嬲って、堪えきれなかった。

 出てきたのは胃液だけで、その厭な味がなお吐き気を呼ぶのを堪えて湯で口の中をくまなく濯ぎ、飽きたらずに指を突っ込んで磨く。

 水の味以外何もしなくなって、ようやくぐったりとリベルテは石で出来た浴槽の縁にもたれて眼を瞑る。

 瞼の裏で赤や白の光がぐるぐると回った。

「……大丈夫」

 酷いことなどいくらでも見てきた。自分の上にはそれが降りかからないと思うことなど、ただの傲慢だ。

「……大丈夫……大丈夫」

 暴力でねじ伏せられることも。

 道具のようにこの身体を使われたことも。

 リベルテの意志を、誇りを、存在を踏みにじられたことも。

 何一つ自分の為すべき事を損ないはしない。しないはずだ。

 なのになんで、こんなに自分は惨めで、怒っていて、憎んでいて、情けなくて、消えてしまいたいような気持ちでいるんだろう。

 ざぶんと湯に潜ってしまえば、夕べ自分を蹂躙した男達の感触など跡形もなくなってしまうのに。

 ちらちらと脳裏に閃く男達の笑い声や嬲る言葉や指先も、月日が経てばすぐに薄れる。いままでに起きたどんな怖いことも哀しいことも、もう過去であるように。

 乗り越えてしまえば終わったことで、なにが損なわれたわけでもない。リベルテは五体満足で、眼も耳も鼻も口も正常だ。

 大丈夫、ともう一度呟く。

 暴力は通り過ぎたのだ。

「リベルテ」

「は、はいっ」

 浴室の外からゼファが呼んだ。彼にもずいぶん申し訳ないことをさせてしまった、とようやく思う。

 ゼファが来てくれなければ、たぶんもっと長く自失していただろう。

 眼が覚めて、診療所の床に起き上がったのはいいが、何をしなければならないかわからなくなって呆然としていたところだった。

「タオルおいとく。ゆっくりつかってていいから」

「……はい。ありがとうございます、ゼファ」

「いえいえ」

 とぼけた口調がふとおかしくなって笑みを零す。

 けれどすぐに、殺してあげようか、といった彼の言葉が耳に返った。

 あそこでリベルテがハイと言えば、多分微塵の躊躇いもなくゼファは昨日の男達を殺してしまっただろう。それを疑うこともさせず納得させてしまうような声だった。

「……ゼファ」

 どういう男なのだろう。

 ふざけていて、面倒見が良くて、貴族で、人をからかうのが好きで、この莫大な利益を生む鉱山の町の監察官で、そして人を殺せる男。

 髪の一本一本を湯の中で解きほぐし、夕べの寒さで強ばった身体が芯まで温まってから、ようやくリベルテは湯船を上がった。浴室のすぐ外の籠にはリベルテの衣服が一式入っていて、体を拭いて身に付けるとようやく人心地がつく。

「ゼファ」

 礼を言おうと探すと、彼は診療所の待合室にいた。

 巨大な青い鳥もその肩に止まっていて、リベルテを見るとクァッと鳴き声を上げる。

「あ、上がった。こっちこっち」

「はい。ありがとうございました……」

 小さなテーブルの上に温かな紅茶と果物が用意されていた。

 顔を近づけてよくよく見ると、イチゴの柔らかな赤味が籠に山と盛られていて、リベルテは驚く。都では滅多にお目にかかれない果物だ。

「どうぞ」

「どうしたんです、こんなに…」

「もらいもの。都じゃ珍しいけどね、この辺の農家はみんな作ってるんだよ」

「そうなんですか?」

 進められるままに手を伸ばして口に放り込むと、爽やかな酸味と甘さが口いっぱいに広がった。

「美味しいです、すごく」

「そりゃ良かった。あ、はい、これ」

 手渡された眼鏡をかけて、ようやく視界がいっぺんに開けた。

 思わず安堵の息をつく。世界のすべてがぼやけて見えるというのは、知らず知らずのうちに緊張するものだ。

「診察台の下に転がってたよ。割れなくて良かったね」

「本当です……」

 デルフィカでは新しいレンズを手に入れるのにも苦労することだろう。どうせなら割れる前にスペアを作っておくのが良いかも知れない。

 自分もイチゴを口に放り込んだゼファが、うんうまい、と呟く。その言葉につられるようにリベルテがまた手を伸ばすと、ゼファの肩の上から身を乗り出したゲルダが鳴いた。

「ん?…欲しいの?」

「ギィッ」

「はい」

 鋭い嘴の前にイチゴを差し出すと、ゲルダは器用につまみ取った。そして脚で掴んで、ついばみ出す。体はずいぶん大きいのに仕草は鳥そのもので、そこはかとないおかしさに思わずリベルテは笑ってしまう。

「ほら、喰うならオレの肩の上から降りてくれよ、ゲルダ……そんで」

 ソファの背もたれに鳥を下ろし、ゼファがリベルテに向き直る。

「はい?」

「アルフェサーの男共は、なんで先生の所に来たの」

「……薬目当てです」

「へえ。薬」

「……薬品には、麻薬になるものもあるんです」

 ふぅん、と鼻でゼファが唸って、慌ててリベルテは付け加える。

「渡してませんから」

「薬?」

「はい」

 温かな紅茶を一口飲む。リベルテの分には砂糖とミルクが入れられていて、やわらかな口当たりが荒れた喉から胃にじんわりと染み通っていく。

「渡しちゃえば良かったのに」

「……はい?」

「そうすりゃ、多分引き上げたでしょ。収容所の中にもそういうの役目のヤツはいるだろうし、先生に手出しするリスクくらい心得てる連中だろうからさ」

 リベルテはかぶりを振った。もう気付いていたことだが、ゼファと自分の間には絶対的な価値観の差がある。

「出来ません。……いや、しません。麻薬ですよ?依存して、すぐ廃人です」

「いーじゃん。別に。囚人だよ?麻薬に溺れるのなんて自業自得でしょ」

「それはその人の問題です。薬を渡すか渡さないかは僕自身のことです」

「……へーえ。明日の命も知れない相手でも?」

 たとえば、とリベルテはいった。

「決して治ることのない死病を持った方の、僕が主治医で、眠るように死にたいと望まれたら、叶えるかも知れません。それは僕が医師だからです。けれど昨日欲しいと言われた薬はそう言うものではありませんから」

「そんな目にあっても」

 呆れた、とゼファが呟く。

 彼の考え方や立場からすれば、リベルテの言うことは到底理解しがたいのだろう。

 それはゼファの中に確たる人間の優劣があるからだ。

 それ以上は言わず、リベルテは暖かな紅茶を飲む。彼の淹れたそれは優しく柔らかく、人を癒す味だ。

 コンコン、と不意に診療所の扉を叩く音が響いた。

 リベルテが立ちあがるよりよほど素早くゼファが扉を開けに行く。

「おじゃましまー…あらぁ?ゼファ」

「ああ、ミレイか。おはよう。お久しぶり、ミリネア。具合はどう?……ああそう、それはちょっと大変だねぇ……でも、あのさ、今日は先生はちょっと……」

 ゼファが何を言おうとしているかわかって、リベルテはソファから立ちあがる。その拍子にイチゴが転げて、慌てて拾い集めながら声を上げた。

「ゼファ!診療ならします」

「ええ?……大丈夫、先生?」

「大丈夫です。着替えてきますので、すみませんが少々こちらでお待ちいただいてください」

 イチゴを一個口に放り込みながら、リベルテは駆け出す。

 白衣を着て、医師として仕事を始めなければ。

 あんまり慌てていたせいで診療所と母屋の境のドアが開ききらない前に出ようとし、ゴン、という痛々しい音が部屋中に響き渡った。

「……せんせいー。ホントにだいじょぶ?」

「だ、大丈夫です…ッ」

 赤く腫れ上がっているだろう額を押さえながら母屋のベッドルームに戻って、リベルテは、どうにかこうにか初仕事のために白衣に着替えた。











 

 

「ちょっとぉ。ゼファ」

 ソファに座ったミレイが横目で睨みつける。切れ長な彼女の眼はそうして眇められると実に色っぽい。

「先生になにしたのぉ。だめじゃない、あんなカワイイ人に悪さしちゃあ」

「なんにもしてないよ」

「どうだか。……怠け者のあなたがこんな早くから来ちゃって、なんにも下心が無いって言ったって信じられないわよぉ」

「色々面倒見てるから早く来ただけだって。それにもう昼近いだろ」

 どうにも納得しかねる、と言う風にふぅんと唸ってミレイが黙る。ソファの隣ではミレニアがイチゴをつまみながらくすくすと笑っている。

 ミレニアは『柘榴亭』の女主人だ。鉱山からやってくる荒々しい男達相手に商売をしているとは思えないような小柄で細身の女性だが、いまでも奥で厨房を取り仕切っている。

「まだちゃんとお会いしてないけど、ずいぶんお若い先生だねぇ」

「そうなのよぉ。えーと、幾つだったっけ?十五?」

「聞いてないのに適当なこと言うのやめなよ、ミレイ……リベルテが泣くよ。十九。あれでも」

「ゼファの方が酷いと思うわあ」

 ばたばたと足音が聞こえてくる。母屋との境の扉が開いて、リベルテが戻ってきた。

「お、お待たせしました…」

 案の定その額は真っ赤になっている。白衣を着ていて、そうすると少し大人びて見えた。

「へえ。先生、様になってるじゃん」

「……そうですか?」

「そうそう。医者らしいよ」

「………医者なんです」

 はは、と笑うゼファをじろりと見てからリベルテはミレニアを隣の診察室へ招き入れる。

 そのしっかりと伸びた背筋を見送りながら、案外タフだなぁ、先生、とゼファは呟いた。











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