◆胡蝶亭奇譚・玖◆









     

 

     ◇◇◇◇◇

 

 奇妙な夢を見た。

 闇の底の底、一筋の光も射さない洞窟の中の様な場所で、誰かが名前を呼んでいる夢だ。

 繰り返し闇に響くそれが、ただの音ではなく、名前だと言うことがわかるのが不思議だった。

 聞き取れもしないくせに。

 誰かが名を呼んでいる。

 間遠に、繰り返し、繰り返し。

 

 応える声は、ついに聞こえなかった。

 

 












 

 のんびりとした昼下がりに思わずふわぁと大きな欠伸をしてしまった。 

「………眠い」

「まあ、でっかい口だこと。あたしが丸飲みできそうだ」

 横から茶目っ気たっぷりの口調でそう言ってよこす甘露に苦笑してから、思わずしいっと指を立てる。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは若い女性だった。どうやら散歩の途中らしい軽装で、店の中をしげしげと見回している。

「お探しのものがございましたらお声をお掛け下さい」

 定番の台詞をかけると、女性はにっこりと笑って会釈した。

「こんにちは。こちらのお店は、なんだかずいぶん綺麗になったわねぇ」

「はい。大掃除をしたので」

「そうなの。いつもは通り過ぎちゃうんだけど、なんだか見やすくなってたから……」

 時代物の飾り棚に並べられた焼き物とガラスの器を、女性はしげしげと見ている。

 細かなもののインテリアは花楽の監修だ。ものが見栄え良く、隣同士で邪魔をしあわないよう上手く並べてある。

 一部の器には花や葉がいけられていた。

 中に落ち葉の漉いてある厚手の和紙を正方形に切り、器の底に敷くのは、甘露の発案である。

 なるほど、什器というものは重要だと痛感させられた。

 なにしろいまだかつてこういった繊細な仕事をしたことがないので、眼から鱗が落ちることばかりだ。

「みんなアンティークなのかしら」

「はい。全部ではないんですが。アンティークを模して作った比較的新しいものには、『新物』というシールが貼ってあります。昭和の初め頃に作られたものが多いですね」

「そうなの。ねえ、ちょっとあれをとっていただける?」

「はい」 

 番台から立ち上がり、女性の隣に並ぶ。彼女が指さしたのは棚の一番上にあったガラスの鉢だ。

 そう古くはない日本のものだが、全体にグラヴィールで花の文様が刻まれている手の込んだ物だ。

「ありがとう。背が高いわね。こういったお店で働くには、便利でしょう」

「そうですね、高いところの物をとるには。ただ、代わりに低い場所の物は見えなくて困ります。うっかり商品を踏みつけそうになったり」

「へえ」

 可笑しそうに笑いながら女性は鉢をためすすがめつし、他の物も幾つか見てから結局最後にそれを買っていった。

「また来るわね。片づいたら、すごく素敵なお店になったわ」

「ありがとうございます」

 店先で女性を送り出してから振り返ると、上がり口には花楽が立っていた。

「あ、おはようございます花楽さん」

「………ふぅん」

 感心したように花楽が唸った。

 その眉間に少ししわがよっていて、あ、これは寝起きで機嫌が悪いのかなと思う。

 気まぐれな花楽の感情の変化を、最近少しずつ読みとれるようになっていた。

「片づけをしただけで客層も変わるもんだな。……まあ、片づけのせいだけじゃないかもしれんが」

「はい。ディスプレイも綺麗になりましたから」

「そう言う意味じゃない。お前が番台に座ってるせいだな」

「……そうですか?」

「そうだろう。気付かなかったとは言わせないぞ」

「はあ、まあ……いい匂いがしましたが」

 なんだかずいぶん近くに立っているなとは思ったのだ。

 それこそほのかな香水の香りがわかるくらいには。

 皿を受け渡すとき手の甲をなぞった指先と意味深な笑みの理由がわからないほど子供ではない。

「女性は嫌いじゃないですが、仕事の場で誘惑されるのはあまりありがたくないので」

「ふぅん」

 鼻先で答えた花楽が何を考えているかは良くわからないが、少なくとも機嫌はまだ直っていないようだ。

「……オレより、花楽さんが番台に座ってた方が売れると思いますけど」

「別に世辞なんぞ言わなくていい」

「お世辞じゃないですよ。さっきのお客様より、花楽さんの方が絶対美人ですから」

「………………」

 きゃっはっは、と二人の傍らで甘露が笑い転げた。

「美人!美人だってさぁ、良かったね花楽!いつでも嫁にいけるねぇ」

「………黙れ化け猫。皮剥いで煮るぞ」

「やれるもんならやってごらん。まったく気が短いんだから」

「あ、あの…っ」

 美人というのは適当な誉め言葉では無かっただろうか。

 慌てて行人は口げんかを始めた二人に割り込む。

「すみません、美人って言うか、あの、綺麗って言った方が良かったですか。着物もお似合いですし、女性でも男性でも花楽さんに敵うような人は早々いないと思います!」

「…………」 

 ぎゃはははは、と甘露が女性らしからぬ声を上げていっそう爆笑する。

 どうやらさらに地雷を踏んだらしいと気付いて、行人は、声もなく拳を震わせる花楽にただ狼狽した。

 

 

 綺麗な人だな、と思うことがいつの間にか増えていた。

 始めの頃はそんなことに気づきもしなかったのに、このところ、横顔の通った鼻筋や、眼鏡のレンズの奥にある少し色の薄い茶色の眼、着物を着ているときのしゃんと伸びた背筋、台帳を辿る白い指先などに、ふと眼を奪われる。

 時折、こんなに綺麗な人がこの世にいるんだと感心したりもする。

 珍しくその日はテレビが付いていた。

 母屋のどこかに使わず転がっていると花楽が言ったので行人が店の続きの茶の間に運び込んで、ケーブルを繋いだものだった。

 写りはあまり良くないがまだまだ使える。

 とは言え二人ともあまりテレビを見るという習慣がないので大抵は天気予報とニュースが終われば消してしまうのだが。

 その日は、ニュースの間に短いドキュメンタリーがはさまった。遠い、異国の女性の十何回目かの命日だった。

 画面の中では白い墓に切りもなく花が積まれていて、そのうちその十字のすべてが埋もれてしまいそうだった。

 彼女は異国の地でひたすらに貧しい人々に仕え、その両手で多くの人々を救い、その意志で多くの人々を魅了した。

 次々に積まれてゆく、白い花、白い花、白い花。

 きれいだな、とぼんやり行人は思った。

 この花を積む人々の中で、この女性は、一時たりとも死んではいないのだ。彼女への愛は形をとり、こんなにも大きな花の山になっている。

 すごいな、と卓袱台の向こうで花楽が呟いた。

「ええ、すごいですね。花の山だ」

「……羨ましい」

 一瞬、聞き違いかと思った。

「この女性には、分けられるものが、たくさんあるんだな」

「………」

「それだけ分けても心が痩せないのは、どうしてなんだろうな……」

 独り言だと思ったので、答えは返さなかった。

 けれどそう呟いた花楽の横顔は、それから長く、行人の脳裏から消えなかった。

 

 

 

 

 






 

 

 

「おや。君が店番か、遠くからやって来た若者よ」

「……夏目行人です。いらっしゃいませ」

 音もなく引き戸が開いて、すわ客かと思ったらやって来たのは白髪長身の男だった。

 くるりと店内を見回してふぅんと鼻で唸る。

「これは君が片付けたのかな、行人」

「はい。……少しでも売れるようにしないとと思って」

「うん、うん。それはいいことだ」

 行人が造った獣道を七渡が辿り出す。その足取りはしっかりとして、影もあり、何一つ違和感を感じさせない。

 彼がもののけだとは一見してみれば到底信じがたい。

 やがて七渡は一棹の箪笥の前で脚を止めた。

「おお。無事だったか。ずいぶんと綺麗になったものだな」

「教わったとおりに磨いたので」

「うん、うん」

 それは先日の顔のない女の子の宿る箪笥だった。

 手は出さなくとも口は出す花楽に教わって隅々まで水拭きを繰り返し、金属部分は磨き、オイルステインという薄く色の付いた油性着色剤をまんべんなく塗れば、まるで新品のような箪笥になった。

 けれどよく見れば細かな傷や独特の色合いがどっしりと時代を感じさせる風合いを作り出している。

 いい箪笥だった。

 満足げにその表面をてのひらで撫でてから、七渡が行人に向き直る。

「これに宿っていたのはずいぶんと古くにこの樹に住んでいた私の眷属だ。もう、薄くなり、この箪笥の何代目かの持ち主と入り混じって自我も消えてしまったが、穴蔵に捕らわれているのは不憫だったからな。良くしてくれたな、行人」

「いえ。買い取ったのは花楽さんです。……それに、また誰かに買われてしまいます。いいんですか?」

「良い、良い。あんな暗い中に閉じこめられているよりは。太陽は、私たちにとって恵みだ」

「それなら、いいんですけれど」

 眼の合った七渡に頷く。

「なるべく、いい人に買われるようにがんばります」

 そう言うと彼は笑った。

「ここは花楽の店だ、心配はしておらなんだが。行人にもそう言ってもらえると心強いな」

「がんばります」

「頼むとも。……さて」 

 すっと七渡が番台に近づいてくる。

 その動きにはただ素早いと言うだけではない滑らかさがあって、どことなく人をぞっとさせるものだった。

「行人。……このところ、不審なことはないか」

「不審?」

「この店や、あるいはお前、花楽の身に」

 そう言われてとっさに思い出したのは箪笥の女の子に教えてもらった夜のことだった。

 悪い夢だと花楽は言ったが、それではあの冷気の説明が付かない。

 しばし迷ったけれど、結局行人はそのことを七渡に言うのを止めた。必要ならば花楽が教えるだろう。

「……いえ。特には」

「ふぅん」

「花楽さんにも聞いてみたらいかがですか」

「あのひねくれ者はなかなか本当のことを言わないのでな。同じ場所に属するものとして気に掛けてやっているのに、まったく素直でない」

 同じ場所、と行人が呟くと七渡の眼が細められる。

 剣呑な表情を作るとその白い整った顔にはぞっとするほどの凄みがあった。

「七渡、という名の意味がわかるか、行人」

「……いいえ」

「七つまでは渡れるものの名だ。八つ目には、決して辿り着くことのないものの名だ」

 ざわ、と空気が揺れて、不意に店の中が暗くなったかのようだった。前に立つ七渡からじわじわと滲むような圧迫感を覚えて、下がりそうになるのを慌てて踏みとどまる。

「八は、私には許されない。そう言う名だ」

「………すみません。オレには、正直良くわからないんですけれど」

 口を開くのも躊躇われるような空気に、それでも行人は抗った。

「七って数も、そんなに悪い事じゃないと思いますけど……どうしても八でないといけないことでもあるんですか」

「………」

 しばしの沈黙。

 やがて七渡のため息と共にふっと重圧が軽くなった。

「……失礼。大人げない真似をしたようだ」

「あ、いいえ。誰にでも気に障ることはあると思います。こちらこそ、すみませんでした」

「………ふふ」

 七渡が笑った。静かな、自嘲するような笑みだった。

「我らは、人に惹かれる」

「え?」

「どうしようもなく。そこに炎があれば蛾が飛び込むように。応えが返ることは少ないというのに、それでも」

「……七渡さん」

「願わくは、人々の祈りの部分がもっと強くあるように。

人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように、祈ろう」

 唄うように呟かれた言葉の引用は、やはり、谷川俊太郎なのだろうか。

「それでは、じゃまをした。行人。くれぐれも気をつけるように、この辺りの空気は不穏だ」

「え……」

「隙を見せないことだ」

「は、はい」

 行人が返事をするのを待たずにくるりと踵を返し、七渡が引き戸を音もなく開ける。

 ありがとうございました、とその背に声を掛けたけれど消えてしまえばまるで夢幻のようだった。

 あんな容姿と存在感を持っているというのに目の前からいなくなっただけでその存在を疑うような心地になるのは、彼が、もののけだからだろうか。

 だとしたら彼らはなんて淋しいのだろう。

 七渡が去った戸口を見つめながら、彼が花楽を同族だと言った意味を、行人はずっと考えていた。