◆胡蝶亭奇譚・捌◆









     

      ◇◇◇◇◇

 

「万有引力とは引き合う孤独の力である」

 唄うように七渡がそう言ったので、花楽は顔をしかめた。

「……またか。谷川俊太郎フリークめ」

「だが真実だ。そうだろう?」

 七渡がその長い手を空に広げる。どこまでも長いその尾が広がって、ぐるりと空を取り巻いて広がる幻像を見て花楽は眼を細めた。

 彼の眷属は自分の尾を飲んだ無限であり、翼を持ち生贄を望む神であり、雲と雨を呼ぶ水の眷属だ。

 それなのに人を欲する。

 人のいない場所で生きることは出来ない。

 呟く七渡の声は軋み、その淋しさが胸に響くからあまり聞きたくない。

「二十億光年の孤独に、耐えることなど、誰にも出来はしないのだから」

 

 

 

 

 

「育った家は、秋田の田舎です。美味しいお米のたくさん取れる、良いところですよ」

 つい先日花楽と同い年だと判明した男が、甘露の問いに答えて自分のことを語っている。

 台所に立ったまま思わず花楽は耳をそばだててしまった。

 そして、そんな自分に気付いて狼狽する。

「はい。水も、美味かったです。山間の村だったんで、すぐそこに谷川があって。……綺麗なところでした。家族は、ばあちゃんとじいちゃんの二人です」

「両親はどうしたのさ」

「父さんはオレが生まれた頃にはもういなくて、母さんはオレを生んですぐに事故で亡くなったらしいです。遺影もなかったんで、実は顔も知らないんですよ」

「へぇ。そりゃなかなか不幸な生い立ちだこと」

 遠慮の欠片もない甘露の口調に行人が笑う声が聞こえる。

「そんなこと、ないですよ。じいちゃんもばあちゃんも、優しかったです。……ばあちゃんも割と早くに亡くなってしまったんですけど」

「ふうん」

 ごま油をざっと回し掛けてフライパンの中の炒め物に最後の仕上げをし、皿にあける。

「行人」

「はい」

 呼ぶとすぐに甘露との話を中断して行人が飛んできた。

 上背があるので、狭い台所がますます狭くなったように感じられる。

「これで最後ですか?」

「ああ」

「じゃあ、もらった日本酒開けても良いですか」

「先にはじめてていいと言ったろう」

 暖簾をくぐってみれば、どうやら行人はビールだけで花楽を待っていたらしかった。料理にもまだ少ししか手をつけていない。

 甘露はさっさと自分の皿に好きなものだけ取り分けてもらっている。

 床なんて冗談じゃないよと怒られるので、当然、甘露用に二枚重ねて折り畳んだ座布団の席が卓袱台に設えられていた。

 何故こんな事になったのか良くわからないが、今日は三人揃っての食事会、とやらだった。

 先日仕入れをした農家からもらった日本酒を昼間行人に見せたせいかもしれない。

 銘柄を見て、うわっと珍しく声を上げた。

『これ、すっごい美味いんですよ。地元から滅多に外に出ない酒です』

 生産量自体が少ないのだそうだ。

 心底羨ましげな顔をされたので、つい、飲むかと聞いてしまった。

『ホントですか!あ、じゃあ、花楽さんと一緒に飲みたいです。甘露さんも飲みますか?』

『ああ……』

『じゃあ、オレがつまみを買ってきますからみんなで飲みましょう』

 つまみくらいオレが作る、と言ってしまったのは珍しいくらいの笑みを行人が浮かべていたからか。

 無愛想なわけでも無表情なわけでもないが、行人は感情の起伏が顔に出にくい。大きな声を上げることも滅多になく、いつでも落ち着いて見える。

 腰を下ろした花楽の脇で、行人がいそいそと日本酒『千鳥格子』の封を切る。

 用意されていた猪口は、先日行人が店の商品を買い取ったものだ。

 半透明の歪なガラスの底に大きな空気の泡が閉じこめられていて、それがまるで月のようにも見える。一見ただのガラスだが、見立てで空間を作るなかなかの逸品だった。

 大正の頃の日本のものだ。

 初任給で買い物なんて贅沢ですけどと笑っていたが。

「どうぞ」

「……ああ」

 泡の月の上に注がれた酒を一気に飲み干して、なるほどと感心する。キンと冷やされていても香りを失わない、いい酒だ。

「ほら」

 返盃に盃を差し出す。

「オレはこっちでいいです」

「いいから使え。お前が気に入って買ったものだろう」

 問答無用で押しつけて千鳥格子を注ぐ。

 行人の前にあった杯は避けて、花楽も自分の盃を茶箪笥の中からとりだした。

「……なんかおかしいですね、こんな所で酒盛りも」

 思わずといった風に行人が笑う。

 店の続きの六畳間からは胡蝶亭の店内がよく見える。当然、客が来たら丸見えだ。

「客が来たらお前が出ろ」

「はい」

「大丈夫、あたしが出てあげるからさぁ」

 甘露が口を挟んだ。

「だからあたしにも注いでちょうだいよ」

「あ、すみません」

 慌てて行人が甘露の前に置いてあった盃に酒を注ぐ。

 美味そうに甘露がそれを舐めた。

「……妖怪丸出しだな。油は舐めるなよ」

「なにいってんのさ、行灯もないくせに」

「行灯があったら舐める気だな……」

「しょうがないから、酒で我慢してあげるよ。ほら、おかわり」

「あ、はい」

 甘露に二杯目を注いでから、ようやく行人が食事に箸を伸ばした。花楽はさっさと自分の料理の味見をしている。

 きのこの炊き込みご飯、鶏と里芋の煮付け、水菜と大根のサラダ、秋鮭の焼き物、もやしと椎茸の炒め物に醤油漬けのいくら、きのこ汁。

 秋らしい素材をふんだんに使った料理ばかりだ。

「花楽さん、料理も出来たんですね」

 思わずといった風に行人が呟く。

「どういう意味だ。喫茶の和菓子を誰が作ってると思ってる」

「あ、いえ、あの………お菓子しか作らないのかと思ってたんで」

「和菓子はあらゆる料理の頂点だ。不満なら喰わなくて良いぞ」

「いいえ、とんでもない!いただきます」

 慌てて行人が箸を伸ばす。

 一番手近にあった鶏の手羽先と里芋の煮付けを取り皿に盛ってから口に運ぶ。

「……っ、うまいです…」

「そうか」

「すごく、うまいです。こんなにうまい煮物、久しぶりに食べました」

「へえ」

 行人の言葉に適当に相槌をうちながら、花楽も里芋を口に運ぶ。今年は芋の出来が良く、確かにいい味だった。

 鶏の旨味も良く浸みている。

「料理は、しないのか」

「オレは、全然。……じいちゃんが生きてた頃は、作ってもらってたんで。その後は総菜屋かコンビニばっかりです」

 かつかつと次から次へ料理を食べていた行人が、ふと箸をとめる。

「……じいちゃんに作ってもらったの以来です。こんな美味しいご飯」

「ろくなモンを喰ってこなかったんだな」

「花楽さんの料理が、美味しいんですよ」

「……そりゃどーも」

 さらりとこんな台詞を言えるこの男は、職業を選べば意外に大成していたかも知れない。

 それで、と花楽の料理に舌鼓を打っていた甘露が言った。

「じいさんと仲良く田舎で暮らしてたはずが、なんで東京の公園で花楽に拾われる羽目になったんだい?」

「甘露」

 無遠慮すぎる言葉をさすがに咎める。

「良いじゃないか。アンタが聞かないから、あたしが聞いてやってんだよ。というより、雇用主としてそれっくらいのことは雇う前にきいとくのが常識だと思うけどねぇ」

「………」

 まさか化け猫に常識を諭されるとは思わなかった。

 が、言われてみれば確かにその通りなのでなにも反論が出来ない。

「そうですね」 

 挙げ句行人にまで同意された。

「なにも聞かないで雇ってもらえたのは、オレはありがたかったですけど……花楽さんはもう少し用心深くなった方がいいと思いますよ」

「お前に言われたくない。何も聞かなかったのは同じだろうが」

「そうですけど。……でもオレは、ちゃんとした仕事が欲しくて、必死でしたから」

 ぱくりと鮭の身を口に放り込んでから、行人が盃を干す。

 注ごうかと思ったけれど行人はさっさと手酌で注いで、少なくなっていた甘露と花楽の盃にも酒を満たす。

「オレの家は、ダムの底です」

 ふと、何でもないことのように行人がそう言った。

「ばあちゃんが守っていたお社も。ダムのすぐ脇に新しい村が出来たけれど、あの新しい神社には何も……誰も、たぶん、いません」

「………」

「じいちゃんはそれからすぐ亡くなって……村にいられなくなって、東京に出てきました。ここなら仕事があるんじゃないかと思って」

 盃を揺らして、また行人が杯を干す。

「でも、一人だとちゃんとした住まいが借りられないんです。保証人になってくれる人がいなかったので。そうすると、自然と出来る仕事も限られてきて……そのうち、カプセルホテルとかに泊まることも出来なくなったんで、夏は公園で過ごすようになりました。日雇いの仕事をしながら」

「へぇ。外で寝るのなんか猫には日常茶飯事だけど、毛皮のないあんた達にはつらそうだね」

「そうですね。風邪を引きやすくて、困りました。段ボールとか意外と暖かくて良かったですけど。とりあえずお金を貯めて、住む場所を探さないとと思ってたんですけど………やっぱり、貯まらないんですよ。外で生活してても色々と物いりで」

 それはそうだろう。その状況で健康保険に入っていたとは思えないし、仕事でうっかり怪我でもしようものなら医療費は全額負担だ。

「でも……一番つらかったのは、家がないとか、お金がないとか言うことじゃ……ありませんでした」

 ふと、行人が声を落とす。

「……つらかったのは、オレの名前を呼んでくれる人が誰もいなかったことです。どこで寝ていても、起きていても、何も変わらない。……生きていても、きっと、死んでいても」

「………」

「オレには、技術も技能も、才能も、なにもありません。花楽さんが言ってくれた特別だってことは……きっと、オレになにもなかったからです」

「………」

「何も持っていなかったから何も怖くなかった。花楽さん、あなたが声を掛けてくれたとき、オレには、大事なものが、何一つなかったんです」

 酷く空虚な言葉だと思った。

 何一つ大切なもののない人生。大切なものをすべて過去に否応なく置いてきたということ。

 けれど、と思う。

 それは、彼の、行人だけのことだろうか?

「誰も、オレのことを知らないときに……自分を大事だと思うことはすごく難しいと、思います」

「……ああ」

「だからきっと大丈夫だったんです」 

 そうか、と言う以外になかった。

 行人には確かに他の人間にはない希有な才能があると思う。

 自分の知らない世界を垣間見ても逃避することも否定することもない強さはその一つで、けれどそれは、自分で見つけ出さなければ多分意味がないのだ。

 いていると、七渡が言った理由がわかる。

 彼は大切なものをすべてなくして、流れるようにこの場所へ辿り着いたのだ。

 彼の空になった盃に酒を注ぐ。

「ありがとうございます」

「……胡蝶、という言葉を知っているか」

「昆虫の蝶のことじゃないんですか?」

 行人の問いに頷いてみせる。

「まあ、字面としてはそうだな。……胡蝶の夢、という中国の故事がある」

 その物語がこの店の名の由来だった。

「荘子とかいう夢と現実の区別もつかないじじいの戯言だ。うたた寝の夢の中で胡蝶になってひらひら楽しく飛んでいたが、眼が覚めてしまって、自分が人間だか蝶だかわからなくなったとかいう話だ。もう呆けてたのかもな」

「……なんかものすごく身も蓋もない言い方なんですけど花楽さん……」

 呆れたように呟くのを無視する。

「転じて、自己と他者の間に差別、区別のない境地のことを指すらしい。ぼんくらの戯言かもしれんが。………お前は、それだな」

「………褒められてるのかけなされてるのかわからないんですけど」

「胡蝶亭の店員としては、まあまあの人材だと思うぞ」

「……ありがとうございます」

 いつも通りの顔になった行人が、照れた顔で笑った。

 そうだよ、と甘露が同意する。

「少なくともあたしの声が聞こえた人間はいままで花楽が呼んできた中にはいなかったからねぇ。まったく、どんだけ人を見る眼がないのかと思ったよ」

「うるさい」

「あんたには長くいてもらわなきゃ。花楽が苛めたらあたしにお言いよ、とっちめてやるから」

「……ホントにお前は一言も二言も多いな……」

 行人が声を上げて笑う。

 その笑顔にほっとして、花楽も美味い酒を味わう。

 この店は自分だけのものだった。一人きりで閉じて、他に何も要らなかった。

 けれど。

 もう一人くらい、誰かがいても、良いのではないだろうか。

「店の名前は花楽さんのおばあさんがつけたんですか?」

「ああ」

「厳しいばあさんだったんだよ、あたしにも良く怒ってさぁ。食卓のものをちょいといただくくらい見逃したっていいじゃないの」

「良くない」

「なにさ、ケチ」

 二人のやり取りに笑ってから行人が炊き込みご飯をほおばって、美味い、とまた嬉しそうに声を上げる。

 二人と一匹の晩餐は、夜が更けるまで続いた。