◆胡蝶亭奇譚・漆◆









     

    ◇◇◇◇◇

 

 霧がかかったあわいには、時折影がよぎる。

 狭間から狭間へ、道もわからず彷徨い歩くものの影はもの悲しげに鳴いて、時には走り、時には這いずっている。

 時間も、場所も、ここでは無意味だ。

 どこにでも辿り着く事が出来、どこにもいないことも出来る。

 その中でゆく道を選ぶことが出来るのは、虚と実の双方を見ることが出来る眼を持つもののみだ。

 影に一瞥もくれずにすり抜けたもう一つの影が、どこかの場所へと滑り出る。

 暗い場所だった。

 天も地も、なにも見えない。

「………様」

 殷々と響く声が誰かの名を呼んだ。

「…………様」

 答えるものはない。

 代わりに、地響きのような長い長い轟きが聞こえた。

 いったん止んで、時間を置いて繰り返すその音は、良く聞いてみればまるでなにかが呼吸をしているかのようだ。

「まだ……お目覚めになりませんか」

 呟く声。

 重なって響く轟き。

「………様……」

 繰り返す地響き。

 あわいのすぐ隣にあるその場所で動くものは、影だけだった。

 

 

 

 胡蝶亭店がある建物の二階には、部屋が二つある。

 一部屋は行人がもらった畳の六畳間、もう一部屋は二部屋分をぶち抜いたらしい広い納戸で、物置として店に置ききれない商品が納められている。

 階段の途中と納戸の前には読めない文字が書いてある札が貼られ、この部屋にも四隅に不可思議な文様が描いてある。

 そのおかげなのか下の店で頻繁に起こる怪奇現象も行人の部屋では起こらない。

 布団の中で、行人は窓を見ていた。

 もしくは、窓の向こうの空を。

 三時に店を閉め、片づけをして、風呂に入れば眠るのは四時近くになる。

 最近はすっかり日も短くなってまだ空は暗い。

 月はちょうど半分で、もう少し経てばお月見がやってくる。

 季節の行事を欠かしたことがなかった昔のことをふと思い出した。産まれ育った家は前に田圃、後ろに小高い山のある平屋で、お月見には縁側に三方に盛った団子を山と出した。

 月が出てくるまでの時間を、やきもきしながら待ったことを覚えている。

 懐かしい思い出だ。

 昨日は水曜の定休日で、先日買い取った品物を花楽と二人で引き取りに行った。

 車で行くと高速をつかって二時間ほどの道のりだった。

 一番大きな品物はあの女の子が座っていた頑丈そうな箪笥で、果たして二人で車に積むことが出来るのかと危ぶんだがそれはまったくの杞憂だった。

 軽々と箪笥の片側を持ち上げて見せた花楽には驚いた。

 重労働は大抵行人にさせていたのは、やはり単なる無精らしい。

 あの痩せた身体のどこにそんな力があるかは不明だが、胡蝶亭店主には色々と不可思議なことが多い。 

 詮索するつもりもないが、近くにいれば見えてしまうものだ。

「……まあ、別に。いいんだけど」

 雇用主として、彼は決して悪い人物ではない。

 先日、始めての給料をもらった。明細も手書きのそれは一月分としては相当な高給で、驚いた。

 

 

「あ、あの。……多いと、思うんですが」

「……少ないと文句を言う奴はいると思うが多いと文句を言われたのは初めてだな」

「あ、いえ、文句とかじゃなくて……あの、これ、下宿代とかは」

「別に良い。空き部屋を使わせているだけだ。こっちに都合がいいこともあるしな。食事が付いているわけでもなし」

「でも……台所とかは使わせてもらっていますし」

「光熱費は引いてあるぞ。一日の拘束時間が長い上、深夜手当ても付いたらそんなものだろう」

「でも」

「行人」

 厳しい声で呼ばれて、思わず背筋が伸びた。

「自分を安売りするのに慣れるんじゃない」

 ぴしりと言われた言葉に、眼を見開く。

「………え」

「お前の鈍さはある意味特殊技能だ。この店に長居できる店員がいなかったことを思えばな」

「………褒められてるんですか?」

「当然だろう。お前は、なかなか貴重な人材だ。そう思えばその給料も高くないだろう」

「………ありがとうございます」

 

 

「なんか、久しぶりに怒られた」

 花楽の台詞が胸に刺さったのは、あれが本当に、行人のための言葉だったからだ。

 仕事の最中に怒られたことは幾度もある。 

 日雇いの仕事など毎日が新しい仕事、新しい現場で慣れない事を繰り返すと言うことで、ミスをすれば怒鳴られるどころか拳が飛んでくることも多かった。

 けれどそれは、自分の失敗への怒りだ。

 反省はしても身につまされる事はない。

 行人のために叱ってくれる人をもう随分前に全員亡くして、仕事も家もないままにその日暮らしを続けているうちに、自分は少し卑屈になっていただろうか。

 情けない話だ。

 ごろりと転がって上をを見上げる。

 木目の浮いた天井は生まれ育った家を思い出させて懐かしい。明るい月の光が作る光と影を見ながら、少しうとうととした時だった。

 なにかが琴線に触れて、ふと眼が冴える。

「……なに」

 胸騒ぎとでも言うのだろうか。動いているわけでも、音を立てているわけでもないのに何かがざわめいている。

 起き上がって、行人は耳を澄ませた。

 息を殺しているうちにその感覚が来る方向がわかって、振り返る。

「……物置?」

 昨日買ってきた商品をいったん納めた部屋の方から、ざわざわとした気配が伝わってきた。

「………ううん……」

 別に入るなと言われているわけではない。

 物置には店に置ききれない商品の他に、まだ手入れがしておらず商品として売れないものも多く収めてある。

 有り体に言えば、なにがいるかわからない。

「……この間の女の子は……いるんだよなぁ」

 箪笥と共にやって来た、というかあの箪笥に憑いているのかもしれない。

 箪笥の精といえば可愛いような気がしなくもないが、こんな夜中に一人きりで会いたい相手ではない。

「ううん……」

 悩んで、結局行人は布団から出た。

 正直怖いがこのまま眠れるとは思えない。ざらざら、ざわざわと胸が波立つのは呼ばれているからだ。

 部屋の電気と廊下の電気を点けて隣へ向かう。一呼吸してから、木の板戸を引き開けた。

 ガラガラ、という重い音。中は当然の如く真っ暗闇だった。

「……もしもーし」

 間抜けだなぁと思いながら声を掛ける。 

 ざわ、と闇が波打つような気配がして一瞬首の後ろの毛が逆立った。

「うわ……」

 どうにか踏みとどまって、深呼吸をし、部屋に足を踏み入れる。この部屋にも電気はあるはずだが、探っても見つけることが出来なかった。

 ぐるりと広い室内を見回して、昨日運び込んだ箪笥の所で視線が止まる。

「……呼んだのは、君かな」

 のっぺらぼうかと見紛うような顔の少女が、やはり箪笥の上に座っていた。闇の中でその姿ばかりが眼に映る。

 やはり呼んでいたのは彼女のようだ。

「ええと……箪笥は、明日綺麗にする予定なんだけど。まだあまり上手くは出来ないんだけど、花楽さんにちゃんと教わってるから、大丈夫」

 きれいにして、陽に当てるというのは花楽の約束だ。

 もしや納戸に収められたのを怒っているのかと慌てて説明をする。

「明日はお天気らしいから、ちゃんと陽にもあたれるし。錆びてるところも磨いて、良いお客さんに買ってもらえるように努力するよ」

「………」

 少女は黙っている。

 そもそもこういった存在は話すと言うことが出来るのだろうか。

「ええっと……」

 後は何を言ったらいいのだろう。困った行人が黙ると、不意に彼女がすっと白い手をあげた。

 細い糸のような眼が行人から外され、横を見る。指先は物置の奥を指していた。

「………?なにかあるのかい」

 懸命に目を凝らしても、この暗闇では何も見えない。

 じれたように指先が揺れる。

「ええと……この先にあるものを取って来いってことかな。違う?」

 しばし考えて、ふと、その壁のさらに向こう側にあるものが母屋だと言うことに気が付いた。

「……花楽さん?」

 微かに少女が頷いて、ひゅるりと掻き消えた。細い一本の煙のようなものが箪笥に飲み込まれていく。

「……花楽さんに、何かあったって事か?」

 半信半疑で呟きながらも慌てて踵を返す。

 数日前から甘露が姿を消していて、今母屋には花楽一人だ。 心配をしたらただの飼い猫じゃあるまいしするだけ無駄だと馬鹿にされたのは夕方のことだった。 

 慌てて階段を駆け下り、水屋の脇から続く渡り廊下へ向かう。渡り廊下は両端に板戸があるが、それが閉ざされたことはない。

 早足で廊下を抜けて、一階にある花楽の部屋を目指す。

「花楽さん?真夜中にすみません、入りますよ」

 しんと静まりかえった部屋に杞憂だったかと一瞬思ったけれど、板戸の取っ手に手を掛けるとそれはあり得ないほどに冷えていた。

「花楽さん?」

 慌てて引き開けようとすると、ずしりとした重みがかかる。まるで板戸自体が開けられるのを拒んでいるようだ。

「く…ッ」

 満身の力を込めて板戸を開ける。途端、霧とも靄とも付かない冷気がどっと部屋から溢れ出してきた。

「花楽さん!?」

 慌てて部屋へ踏み込む。部屋の中は一見なんの変わったところもなかった。入ったのは初めてだったが、文机と布団しかない簡素さでは見間違いようがない。

 部屋の中央には布団が敷かれている。

「花楽さん?」

 微かなうめき声が聞こえた。

 もしや具合が悪いのかと慌てて近づいたが、すぐにただの病や何かではないことに気が付いた。

「……やめろ…ッ、……ぅ……う」

 酷く魘されていた。部屋から溢れ出してきた冷気が、花楽の周りを取り巻いている。

 慌てて行人は手を伸ばし、その肩を揺さぶった。

「花楽さん!花楽さん!?」

 細い肩も冷えて、行人の手をふりほどこうと細い手が手首を掴む。

「やめろ……ッ、オレは……行かない……ッ」

「起きて下さい、花楽さん!」

「行かない、行かないッ!…ッお、オレは……人で、いたいんだ…っ」

「花楽さん!」

 布団から起こすような勢いで肩を引き、強く揺さぶった。

 大きく呻いた花楽が、ぱっと眼を開く。

 その瞳孔がぎらりと金色に光り、思わず行人は支えていた肩を取り落とした。

 途端、がくんと落ちた頭をぶつけて花楽が呻く。

「うわっ!花楽さん!」

「……ッ、つぅ……ッ」

「す、すみませんッ!大丈夫ですか!」

 今度は痛みにうなり声をあげた花楽が、ようやく眼を開く。

「………痛い。……行人?」

「は、はい。すみません、オレがつい手を離して……」

「どこだここは……」

 起き上がってきょろきょろと周囲を見回した花楽が、やがて大きなため息を付いた。

「部屋か」

「そうです。……あの、箪笥の女の子が……花楽さんに何か起こってるっていうんで」

「………ああ。……薄墨め……」

「うすずみ?」

「なんでもない」

 軽く手を振って否定を示した花楽の指先が、細かく震えていることに行人は気が付いた。思わず、その夜目にも白い手を取ってしまう。

 冷え切っていた。

「……なんだ」

「いえ。…冷えてるので」

「低血圧なんだ」

「そうですね。朝も昼も弱いですからね花楽さん」

「……言うようになったなお前も」

 微かに花楽が笑ったので、ほっとした。

 寝汗で長い髪がべっとりと頬に張り付いている。もう夏でもないのに、一体どんな夢を見ていたのだろう。

「……あの」

「………」

「大したこと出来ませんけど……悪い夢を見たときに、起こすくらいは出来るんで」

「……ああ」

「なにかあったら、呼んで下さい」

 微かに花楽が頷いて、大きなため息がその唇から零れた。

 俯いた額が、行人の肩に体重をあずける。

「………一つ、聞く」

「はい」

「………オレは、まだ……」

 長い沈黙が部屋に落ちた。

 ふと気付けばこの部屋には時計すらない。

 本当に最低限のものしかないこの部屋で、花楽は、一体どのくらいの時間を過ごしてきたのだろう。

 まだ夜の部屋には暗がりばかりがある。闇の中でもこれだけものがないのだから、明ければ部屋の広さが目に付かないだろうか。

「そう言えば、花楽さんて幾つなんですか?」

 彼の問いを待つより前に、ついぽろっと疑問が口をついて出てしまった。

「……は?」

「いや。年齢不詳だなぁとずっと思ってて…つい」

 花楽がしかめ面をして顔を上げる。

「お前に言われたくない。……二十三だ」

「ええ!?」

「………なんだその驚きは」

「……いえ。同い年だとは全然思って無くて。三十位なのかなと」

「なにげに失礼だな。オレもお前が二十三だとは到底思えないぞ」

「………ははは。あいこって事で」

「なにがだ」 

 花楽が苦笑する。その指先がようやく暖まってきて、行人はゆっくりと手を離した。

「大丈夫ですか?」

「ああ。……もう、来ないだろう」

「来ない?」

「悪い夢だ。……お前も、戻って良い」

「はい」

「明日は2時間ばかり遅く開店してもかまわないぞ」

「はい。起きられなかったら、そうします」

 障子にはもう朝の光が映っている。

 勢いよく開けたせいで外れ掛けていた板戸を元に戻して、行人は花楽の部屋を後にした。

 結局聞かれなかった問いの中身は、わかるような気がした。

 魘された寝言の中で、花楽は、人でいたいと言っていたのだ。

 その言葉も、暗がりで光った眼も、みんな知らないことにしておこうと思う。

 花楽が自分から口にするまでは。

 掴まれていた手首には紅い痣が残り、じんと痛んでいるが、これも明日には消えるだろう。

 大きな欠伸を一つして、行人は自分の部屋へ帰るため渡り廊下を渡った。