◆胡蝶亭奇譚・伍◆









    ◇◇◇◇◇

 

 二つの相反するものの狭間で揺れ続けることは、人の世の業だ。

 どちらでもあり、どちらでもない、寓話の蝙蝠のように。

 

 血。

 民族。

 思想。

 他者。

 生と死。

 

 それらのものからは、命がある限り逃れられない。

 耐え難い選択をした後に、引き裂かれるのは、心だ。

 眼に見えないその傷は、血が流れているか膿み腐っているか、そして癒えたかどうかすら、確とは言えないのだ。

 

 

 















 

 

 

 喫茶『胡蝶亭』には常連客が多い。

 と言うより、客の大半はご近所に住む常連の面々だ。

 通りすがりの客は大抵ここが茶飲み所だとは知らずに路地を通り過ぎてしまうし、この辺りに住んででも居なければ足繁く通うほど魅力的な店というわけでもない。

 自然、客層も決まってくる。

 今日も松のご隠居と商店街の総菜屋の老婦人お藤さんが、差し向かいでのんびりとお茶を飲んでいた。

 

「あの頃、東京は焼け野原でしたっけなぁ。じゃが、この辺

りは奇跡的に空襲で燃えておらんかった。水分〈みくまり〉のお社も無事でなぁ。あれは水の神様じゃから、この辺りをお守り下さったんじゃ」

「そうでしたねぇ、この辺りだけすっぽり焼け残って」

 二人の声が水屋まで届いて、そうかもなぁと行人はこっそり内心で頷いた。二人のこの会話を聞くのはもう数度目だが、聞く度に心の中で相づちを打ってしまう。

 水の神、という存在がこの場所には確かにいるのだ。

 戦火を逃れるくらいの御利益はあるのかもしれない。

 多分この胡蝶亭も、増築はしているかも知れないが元が建てられたのは戦前だろう。

 裏庭に面した勝手口を入ってすぐの所にこの建物の水屋があって、今は花楽が忙しげに作業をしている。

 意外なことに喫茶で出る和菓子はほぼ彼の手作りだ。

 調理師免許及び食品衛生管理者の資格も持っている花楽は、普段の食事は大抵商店街で買ってきた総菜で済ませるくせに和菓子にのみ妙なこだわりを持っている。

 深夜、行人が店番をしている間はこの台所に籠もって翌日の仕込みをしている。

 夜の店番の間に試作品などをもらえることもあって、甘いものが嫌いではない行人にはありがたい話だった。

「ほら。持って行け」

「あ、はい」

 丸い素焼きの皿に載せられた菓子を二つ渡されて、慌てて盆に乗せる。

 甘露が店番をしてくれているので、喫茶が少し混んだりすると行人もこちらに回るようになった。

 と、言うより、花楽は基本的にぐうたららしい。

 やりたいことしかしない、という彼の姿勢がこのところ行人にもよく見えるようになって来た。そして、どうやら接客は、彼に取ってやりたくない部類の仕事らしい。

 なぜこんな店を開いているのか理解に苦しむところだ。

 どうにもおぼつかない手つきで、行人は松のご隠居のテーブルに菓子を運んだ。

 秋らしい穏やかな陽射しに照らされた青天の下の席は、見るからに気持ちが良さそうだ。

「お待たせしました」

「おお、行人君」

「あら、ありがとう」

 会釈をしてまずはお藤さんの前に皿を置く。

 今日の和菓子は秋に相応しく栗の渋皮煮だ。大きな丸い栗を、外の皮だけ剥いて鬼皮ごとことことと時間を掛けて煮込んだ菓子は、花楽の自信作らしい。

 行人も一つもらったが、栗の甘みがそっくりそのまま閉じこめられたような味で確かにとびきり美味しかった。

「あら。渋皮煮ねぇ」

 美味しそう、とお藤さんがしわのよった顔にさらに笑いじわを寄せる。

「儂は秋になるとこれが楽しみでの。ここの店主は口は悪いが和菓子作りの腕はなかなかいいからの」

「恐れ入ります」

 常連というかほとんど近所付き合いの二人は、行人より花楽のことをよほど知っている。

 では、この店のただならぬ副業のことも知っているのだろうか。というよりむしろあっちが本業に近いのだが。

「行人君、つづいとるのお」

「あ、はいっ」

 松のご隠居の言葉に慌てて返事をする。

「あの鬼店主の下で、なかなか頑張っとる。いままでみんな、さっさと辞めてしまってたんだがな」

「………ははははは」

 辞めたのはおそらく店主の性格のせいではない。

 が、この二人はやはりそのことを知らないのだろう。あれは胡蝶亭の夜の顔だ。

「……花楽さんは、そんなに怖い人じゃありません」

「ほお」

「本当です。厳しいのは、確かですが」

「あらあら」

 顔を見合わせた二人が、にっこりと笑う。

「大丈夫そうじゃの」

「そうですねぇ」

「……ありがとうございます」

 ここに来たときから二人が行人を気遣ってくれていたことは知っている。

 長い間店番が居着かなかったためなのかも知れないが、こんな風に誰かから心配をされるというのは嬉しいものだ。

 二人と談笑をしていると、ふと、視界に動くものが横切った。またお客さんかと慌てて顔を上げる。

「いらっしゃいませ…」

 表からぐるっと回って続いている飛び石の上に立っていたのは、見たことのない客だった。

 男性で、身長は行人と張るほど高い。

 胡蝶亭店主と同じような和装で、茶の着物に濃い灰色の羽織を引っかけている。

 長い髪は後ろで一つにまとめられていて、一瞬歳の程を量りかねるような白髪だった。黒と白がだんだらに入り混じり、松のご隠居ともまったく違う髪の模様を織りなしている。 

 正面から見ていなければ、背の高い老人と間違ったかも知れない。

 見とれてしまうような整った造作の男だった。

 細い切れ長の眼が、行人をまっすぐに見据えている。

 端正な能面のような、一流の絵師に描かれた浮世絵のような、整いすぎた顔。

 常連ではないし、見たこともない。

「……どうぞ。お好きなお席におかけください」

 お決まりの案内をしながら、そこはかとなく行人は気付いていた。

 これは、きっと花楽の客だ。

「ああ。ありがとう」

 声は、耳を疑うような艶やかさだった。するりと動くと風も起こさず、まるで空気が避けているかのようだ。

 松のご隠居とお藤さんの座るテーブルから、一つおいた席に彼が座る。水とおしぼりを持ってゆくとその切れ長の眼がまじまじと行人を見つめた。

 そのせいで、すぐに気付く。

 男の虹彩は焦げ茶ではなく、緑と金の混じった複雑な色をしている。見つめていると吸い込まれそうな色だ。

「……この若者は、意外に遠くからやってきたのだそうだ」

「………は?」

「十年よりもさらに長い一日を、彼は旅してきた。千里の靴を借りもせず、君は一体、どこからやってきたのだろう」

「は……ええっと……」

 これは果たして自分に向けられた問いだろうか。

「え、ええと……生まれは秋田ですが」

「秋田……ああ、水の二十日旅する先か……稲の実り豊かに、冬の冷気と春の陽射しが同居する土地だ」

「……そうですね、確かに」

「かまわなくていいぞ」

 不意に三人目の声が二人に割り込んだ。

 振り返ると、花楽がしかめっつらで立っている。

「七渡〈しちと〉。何の用だ」

「何の用だとはつれないな。せっかく花楽の顔を見に来たのに」

 やはり、花楽の知人のようだ。

 しかめ面をしているが、表情と内心があまり一致しない花楽の事なので本当に迷惑がっているのかどうかは良くわからない。

「じゃあ、もう見ただろう、帰れ」

「おや。胡蝶亭は、遠方からせっかく来た客に茶も出さない店なのかい」

「茶も菓子もいらんだろうが」

 つけつけとした花楽の口調に、慌てて行人は取りなしに入る。

「花楽さん。お客様ですし、お茶くらいは……」

「おお、ありがとう。意外に遠くから来た若者よ」

「え……」

 眼を白黒させていると隣で花楽が舌を打つ。

「いちいちわけの分からない言い方をしてうちの従業員を混乱させるな。行人、気にしなくて良いぞ。谷川俊太郎にかぶれてるだけだ」

「かぶれているとは失敬な。リスペクトしているといっておくれ」

「……どこで覚えてくるんだそんな下らない言い回し」

 谷川俊太郎、とは確か詩人だっただろうか。

 小学校の教科書に載っていた気がする。

 抹茶と芋ようかんのセットを頼むよと客人が言って、忌々しげな顔をしながらも花楽が踵を返す。

「さて。遠くから来た若者よ、私と話していってくれるかな」 おもむろに声をかけられて、行人は慌てた。

「……あの。仕事中ですので」

「大丈夫。見たところ喫茶には私とあちらのテーブルのお二人しかいないようだし店の方に客人があれば甘露が呼びに来るだろう」

「………」

「そう警戒せずとも良いとも。私は七渡、花楽の古い……とも言い難いな、私にしてみれば。まあ長い付き合いの知人だ。友人、とも呼べるかも知れない」

 独特の節回しで自己紹介をした七渡に、行人も頭を下げる。「そうですか。…はじめまして、夏目行人です。この間から、胡蝶亭で仕事をさせていただいています」

「知っているとも。行人、先へ進む名前だ。素晴らしい」

 にっこりと七渡が笑う。整いすぎて取っつきにくい顔が、その笑顔でずいぶんと親しみやすくなる。

「実のところ、今日は君の顔を見に来たんだよ。この胡蝶亭に住み込みで居着いた若者の顔をぜひ見たくてね」

「……そうですか」

「うん」

 文字通りまじまじと顔を見つめられて、居心地が悪いことこの上ない。

 やがて、ふぅんと七渡が唸った。

「優しさ、空虚さ、無関心、好奇心、欲と虚無と渇望、愛。

………ねえ行人、人というのは小さく忙しなく慌ただしい」

「………」

「けれどいつも満ちていようとするその姿勢は正しい。もちろん、諦めることなどないさ。行人。この場所は君にはいいと思うよ」

「あの……?」

 行人、と水屋から花楽が呼んだ。

「あ…すみません、失礼します」

「いいとも」

 慌ててウェイターの役を果たすべく勝手口へ戻る。

 花楽から抹茶と芋ようかんの盆をもらって戻ると、七渡の前に置く。

「お待たせいたしました」

「いいや」

 言うなり、ひょいとつまみ上げた芋ようかんをぺろりと一口で七渡は食べてしまった。どう見ても丸飲みだ。

 さらに抹茶も一息で飲み干す。

「………」

 どれだけ綺麗な顔をしていようとやはりこの男は普通の人間ではなさそうだ。口が一瞬耳まで裂けたように見えたのは行人の気のせいだろうか。

「ふむ。面妖な味だ」

「……そうですか」

「やはり私には血の滴る生き餌の方がいいらしい。それでは失礼するよ」

「あ、はい」

 食べるのも話すのもあっと言う間だ。

 せっかちなのだろうか。

 するするとまた空気をまったく感じさせない動作で七渡が立ち上がる。

 その姿が生け垣の向こうに消えてから、ようやく、お代をもらい損ねたことに気付いたが後の祭りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 夜の胡蝶亭にはそうそう客はやってこない。

 当たり前だがこんな時間に路地を歩くような観光客は早々いないし、オフィス街でもないので夜は早い。

 客は来てもせいぜい八時台までだ。

 それ以降に訪れる客の大半は、人ではない。

 番台で帳簿を付けながら、ふぅんと花楽は唸った。

「……なるほど。あからさまだな」

 店を片付けて以来の売り上げだ。以前は土日でもせいぜい2、3点売れればいい方で、平日など売り上げがある日の方が少なかった。

 常連の客が時折してくれる大きな買い物で店が保っていたようなものだ。

 胡蝶亭は骨董にそれなりの知識のあるものが見れば感心するようなものが、あまり利益を考えない価格で揃っている。

「月曜から金曜で十八点、計十七万六千円……アイツに経理の勉強もさせるか」

 練習のためと称して行人が自分で貼った値札のせいもあるだろう。図書館から借りてきた本と首っ引きで値付けをしていたが半分以上は間違っていたのでしかたなく花楽が訂正した。

 その後又きちんと貼り直していたようだ。

 気付けば小さな商品の大半に、きちんと値を書いたシールが貼ってあった。 

 一つ一つ磨かれ、毎日はたきを掛けられて、並べ替えをされている商品は以前より百倍も見栄えが良い。

「元に、戻ったみたいだな」

 思わず呟く。

 以前はこの店もこんな風にきちんと客を迎え入れていたときがあった。人間の客しか訪れず、朝は十一時開店で、夜は確か七時が閉店時間だっただろうか。

 商品は美しく並べられて花楽が触る隙がないかのように見えたものだ。

 あれはもう、何年前のことだろう。

 埃と黴の匂いが薄くなり、見通しが良く、整然とものの並べられた店内を花楽は見回した。

 あの図体の大きな男を拾ったとき、自分は、こんな事を望んでいただろうか。

 どうせまた逃げ出すだろうと、そしてこの店の静けさが保たれることを前提にして、人を探してはいなかっただろうか。

「……どうしようもないな」

 自嘲してひとりごちた時、からりと戸が開いた。

 ぽっかりと空いた夜の口から、見覚えのある男がするりと滑り込んでくる。

「来たか。食い逃げ」

「食い逃げとは失敬な。お代を払うのを忘れたのに気付いたから、戻ってきたのだろう?」

「うそつけ。元から金なんか持ってないだろう」

 にやりと七渡が笑った。

 芋ようかんも抹茶も、この男に喰われたのでは気の毒というものだ。どうせ味わう間もなく丸飲みだったのだろう。

 なにも聞かれなかったが行人も感づいていたはずだ。

 七渡は、人ではない。

「で。何の用だ」

「もちろん、お代を払いに来たのさ」

「……きちんと現金で払ってもらいたいもんだがな……」

 ぶつぶつ言いながらも仕方なく花楽は番台から立ち上がる。

「甘露!出かけてくる、留守を頼むぞ!」

 奥に声を掛けてから、七渡について店を出た。

 いつの間にか表には濃い靄が立ちこめていて、路地のアスファルトさえよく見えない。

「水を引いてくるな。見づらい」

「この方が間〈あわい〉の道に入るには都合がいい」

「……どこまで行くつもりなんだ」

 時と時、界と界の狭間の道は人の眼には映らず、当然使うことも出来ない。一歩踏み違えれば出られずに死ぬまで彷徨い続けることになる。

「おい」

「案ずるな。夜明けまでには帰してやろうよ。……心配するものも、いるだろうしな。あれはいなかったようだが、どこかに遣いか?」

 くつくつと七渡が笑う。その笑い方になんとなく揶揄するものを感じて、花楽は顔をしかめた。

「行人か?届け物に行かせている。……あれは、ただの従業員だぞ」

「だが、同じ屋根の下に住んでいるだろう?なかなか面白い青年だ、お前が気に入るのもわかる。

……あれは、空〈す〉いている」

「空く?」

「器はあるくせに、空きばかりだ。求めているものを、お前が与えたのだろう」

「余計な詮索はよせ。物見高いおばさんかお前」

 不躾な言い様に釘を差しつつ、七渡の言いたいことがわからないわけでもなかった。

 あの公園に一人きりでいた行人に、まだ花楽はなにも聞いていない。

 けれどあの男がそう多くのものを持っているとは思えない。

「妙齢のご婦人でなくとも好奇心はあるものだ。……そら」

「は?」

 白い手が差し出される。

 それは彼の顔の造りと同じように奇妙に整ってバランスが良く、霧よりもなお白かった。

「踏み外しては困る。繋いでおけ」

「……そもそもオレはあわいを通りたくないんだが」

「水分の主に礼を通してまでお前に会いに来たのだ。これくらいは都合してくれても、良いだろう」

「オレが頼んだわけじゃないがな」

 ため息をついて、花楽はその手を取った。

 つるりと滑らかで指紋のない手。

「ゆくぞ」

 霧と靄の隙間に七渡が滑り込み、花楽はその後を追う。

 もしかしてこの手を繋がなくとも、自分はこのあわいを歩けるのかも知れない。

 けれどそれはとても嫌な考えだったので、すぐに振り払った。

 

 

 

 














 

 

「おかえりなさい」

 心底ほっとしたという顔でそう迎えられて、思わず戸口で立ち止まった。

 てっきり灯りを点けっぱなしで甘露が寝てしまったのだと思っていたのに。

「……何で起きてるんだ」

 番台から立ち上がった行人が、物の間を縫って花楽の前まで歩いてくる。近づくと、やはりずいぶんと大きな男だ。

 花楽の背が低いわけではないのに、頭一つ分も違う。

「花楽さんが帰ってこなかったので」

「あたしゃ、心配ないっていったんだけどねぇ」

 商品の上で香箱を作った甘露がそう言ってふわぁと欠伸をする。

「帰ってくるまで待つって言ってさ。まったくアンタに引けを取らない強情っぱりなんじゃないのかいもしかして」

「…………」

「……すみません。あんな夜中に留守をするなんて初めてだったので、つい」

「しかも迎えに来たのが七渡だってあたしが言ったからねぇ」

 からかうように甘露がそう言う。

「心配しちゃってさ。まああれは、見目がいいからね」

「……五千歩譲ってもアレとどうにかなろうという気はないが」

「だからと言って妬くのはまた別物さ。ねぇ、行人」

「は。…あ、いえ、妬くとか妬かないとかでなく……ええと」

 行人が気まずげに視線を彷徨わせる。

 らしくなく言いよどんだ。

「ええと……あの。花楽さんの、ご友人に失礼かとも思ったんですが」

「なんだ」

「……七渡さんは……人らしくなかったので。ちょっと、心配になって」

 思わず鼻で笑ってしまう。

「なにをいまさら。甘露も人じゃないぞ」

「あれ。……そうですね」

「人なら安心、というものでもないな」

「そうですね。……じゃ、ええと、オレの知らない人だったので、かな」

 困った顔で行人がそう言った。

「メモくらい、置いていってください。心配します」

「……」

 一瞬、言葉を無くしてしまった。少し眉をひそめた行人の表情が、本当に花楽を心配してのものだとわかったからだ。

「………お前がオレを心配するのは、百年早いぞ」

「はい。すみません」

「さっさと寝ろ。もう夜明けだ」

 あわいの道を通っても、帰り着いたのは空が白々としてからだった。

 閉めた障子にはもう太陽の光が映っている。

「はい。お疲れ様でした、花楽さん」

「ああ」

 軽く頭を下げた行人が背を向ける。その広い背につい、声を掛けた。

「それから」

「はい」

「明日は、臨時休業だ。出かける。お前もだ」

「わかりました」

 首を傾げたがなにも問わず、行人はそのまま二階へと昇ってゆく。

 かわりに番台にどさりと腰を下ろして、花楽はため息を付いた。

「……なんだ。甘露」

 物言いたげな猫の視線が面倒臭い。

 ひゅん、とその長い尻尾を振って、珍しいこともあるもんだねと甘露が呟いた。

「七渡は、なんの用事だったのさ。と反りが合わないせいで、ここには滅多に来ないくせに」

「……アレの顔を見に来たらしいぞ」

 顎で二階をしゃくってみせる。

 あわいの道を通ってまでの頼み事は花楽でなくても構わないような些細なことで、それよりは確かに代金代わりの情報の方が大きかった。

 けれどそれも、伝言で構わないようなことだ。

 本当に、行人の顔を見に来たのだろう。

「甘露。……アレは、いままでオレが雇った男達と、違うか」

「はぁ?」

「ただの人じゃ、無いのか。お前や七渡が気にするような相手なのか」

「………馬鹿だね。あんた」

 ふっと甘露の声が柔らかくなる。

 頑是ない子供をあやすような口調で言われては怒る気も起きない。

「そんなの、あんたが一番良くわかってる事じゃないのかね」

「………」

 外ではすずめが鳴き騒ぎ、太陽は徐々に高くなっていく。

 眠るために、花楽も重い体を椅子から立ち上げた。