◆胡蝶亭奇譚・参◆









祖母の顔はあまりよく覚えていない。

 十になるやならずの頃に他界したし、写真の一枚も家には残っていなかった。遺影でさえ、若い頃の小さな集合写真を引き伸ばしたもので、ぼんやりした輪郭から歳を取った時の顔を思い起こすのは難しかった。

 顔よりもむしろ声の方が良く覚えている。

 切れの良い、良く通る張りのある声だった。

『ほら、行人!見てみな、夕焼けが綺麗だよ!』

 小さな社で神主をしていたという祖母は、いつでも元気で威勢が良く、くるくるとよく動きよくしゃべる賑やかな女性だった。

 

 

「……ねぇ、こんくらいでぶっ倒れるなんざ、ちょっとひ弱過ぎるんじゃないのかい」

 歯切れのいい女性の声が聞こえる。

 ちょっとはすっぱで古風な喋り方は、懐かしい祖母を思い出させた。少し掠れた、女性にしては低い、聞き心地の良い声だった。

 この声はもう少し高い。祖母ではない。

 そして、どこかしら違和感を感じさせる声だった。

「図体ばっかりでかくってさぁ、まったくだらしない。こん

なにいあたしにびびって倒れるなんてねぇ」

「うっかり転んだからだろう。……第一お前は小さい以前に色々と問題がある」

「なんだい。かばっちゃってさ。惚れたのかい」

「だからどうしてお前はそっちに話を持って行きたがるんだ」

「いいじゃないか、アンタだって惚れた腫れたの浮き名の一つくらい流して良い頃だ。どうしてもってんなら、あたしも止めるような野暮はしないさぁ。衆道なんざ珍しくもないしねぇ」

 はぁ、という花楽のため息。けらけらと甲高く笑う聞き覚えのない女性の声。

 ぎゅう、と一度固く眼を瞑ってから、こうしていても埒があかないので行人は恐る恐る開けた。覚悟はしていたが、飛び込んできた光景にはやはり心底びびった。

「おや。起きたのかい」

「お前が転んだせいで商品が滅茶苦茶だ。後で片付けておけよ」

「…………はい……」

 ぶち猫と花楽、それぞれの言葉に蚊が鳴くような声で応える。

 寝かされているのはどうやら店から上がってすぐの六畳間らしい。

 思わず猫から天井の木目に視線を泳がせてしまう。

 ふぅん、と唸った猫が不意に覗き込んできて、思わず行人はざっと寝かされていた座布団からずれた。

「なんだ。あたしが、怖いのかい」

 くっ、くっ、くっ、と喉の奥で忍び笑う猫が怖くない一般人など居るだろうか。

「………あの。……ええと。……花楽さん」

 進退窮まって店主に助けを求める。

「ああ。そいつは、甘露だ。まあ見ての通り猫だな」

「いや……猫だなとかそうあっさり言われても……」

「まあ、上手くやれ。口うるさいが」

 どうしろというのか。

「あんたらの言葉でわかりやすく言ってやると、猫又、もしくは化け猫ってことさね。まぁ、よろしくねえ」

「………はあ。よろしく。……あの、祟らないでください」

「はっはぁ。アンタがおいたをしなきゃね」

 祟らないさぁ、と笑う猫のぱっかり開いた口からのぞく鋭い牙が今はかなり怖ろしい。

 ようやく畳から起き上がって、じんじんと痛む後頭部を撫でながら、あの、と行人は口を開いた。

「……あの。どういう店なんですか。ここ」

「ん?」

「幽霊が来たり……色々不思議なことが起こったり。……化け猫がいたりとか……普通の骨董屋じゃ、ないでしょう」

 それが普通とか言われてしまったら今まで自分が住んできた世界はなんだというのか。

 行人の困惑した顔を甘露が覗き込む。

「なんだ、あんた。そんなことも聞かずに雇われてたのかい。ちょっと鈍いんじゃないのかね」

 呆れた声で猫に言われて、思わずへこむ。

 確かに聞くのが遅すぎた。

 いくら金や住むところや仕事に困っていて藁にもすがる思いだったからと言って、最低限聞いておいた方がいいことはあるはずだ。

 それで仕事の好き嫌いをする余裕がなかったとしても、心構えくらいはできる。

「まったく。雇われるところがどんな仕事してるかくらいきちんと聞いとかないといけないよ。最近の若いモンはなってないねぇ」

「………」

 さらに追い討ちを掛けられた。

 まだうまく信じられないが、猫又と言うからにはこのぶち猫は自分よりも長く生きているのだろう。

 若造呼ばわりされても仕方がない、のかも知れない。

「それからね、そう言ったのはあたしだけど化け猫呼ばわりはよしとくれ。あたしには甘露って名前があるんだよ。アンタだって人間って呼ばれたくないだろう、行人」

「……は。それはそうですね。すみません、甘露さん」

 畳みかけるように祖母に似た喋り方で道理を説かれて、思わず行人は謝った。

 猫相手におかしなものだが、同じ言葉を話す職場の先輩と思えば礼を尽くすのも当たり前だ。

「失礼しました。動転していたもので。……あの、よろしくお願いします。甘露さん。こういった仕事は始めてで、わからないことだらけですが、頑張りますので」

 畳に手をついて頭を下げると、ふぅん、とまんざらでもなさげな声が聞こえた。

「……まあ、良いじゃないか。花楽。馬鹿でも素直な分ましだねぇ」

「……馬鹿というか素直というか図太いというか。まあ、なかなかの逸材な事は確かだな」

 呆れたような花楽の声。

 顔を上げると何とも言い難いしかめっ面をした花楽が甘露の前で手をついた行人を眺めていた。

「そこまですぐ慣れて良いのかという気もするが。……まあいいか。どうだ、行人。続きそうか」

「え?」

「『普通』の仕事じゃないだろう。続けられそうか」

「…はい!」

 花楽の問いに、慌てて大きく頷く。

 まあ、確かに、世間一般で言うところの『普通』ではない。

 幽霊も物の怪も九十九神も妖怪も、この分ではあなたの知らない世界を隅から隅まで満喫できそうだ。

 怖くない、と言ったら嘘になるが。

「……あの、慣れるまでは……ちょっと時間がいるかも知れませんが。でも、使っていただければ、嬉しいです」

「…………」

「仕事が、無いのに比べたら……ぜんぜん」

 どこにも行き場所がないことに比べたら、この程度の怖さや驚きなど物の数ではない。

 本当に、本当に怖いことは、誰にもなににも必要とされないことだ。

 いてもいなくても良いのだと、思い知らされることだ。

「この店で、働かせていただければ、嬉しいです」

「ふぅん」

 にやり、と花楽が笑った。

 整った顔が浮かべる笑みに何となく不吉なものを感じて一歩引いてしまいそうになったが、危うく踏みとどまる。

 この、どことなく得体の知れない店主に慣れないようでは到底この店では務まらない。

「良く言った。後から撤回はナシだぞ。じゃあ早速今から、届け物に行って来い」

「え?今から?」

 慌てて時計をふり仰ぐ。

 店から上がってすぐの部屋は畳の六畳間で、家具は箪笥とちゃぶ台、古い柱時計しかない。時刻はもうすぐ三時半になるところだった。

 もちろん、朝方の、だ。

「あの……こんな時間に?」

「夜明けが良いんだ。ほら、この包みを持って行ってこい。商店街を抜けた公園の噴水の前だ」

「……ええ?」

「さっさと行け」

「は、はい」

 示された風呂敷包みを持って慌てて立ち上がる。

 小さな包みはずっしりと意外なほど重く、上には一通の手紙が置かれていた。どうやら花楽の直筆らしく、半紙に書かれて折り畳まれている。

「ええと……商店街を右に抜けた所にある、水分〈みくまり〉公園の噴水前、ですね?」

「そうだ。急げよ」

「はい!」

 慌てて店へ下りて靴を突っかける。

 花楽が言った通り、行人が転んだ場所では店の商品が散乱していた。骨董なので今にも崩壊寸前という商品も中にはあるし、破損してしまったものもあるかもしれない。

 弁償だったら給料からさっ引かれてしまう。

「……あれ」

 ふと、気付いた。

 長いこと不摂生をしていたので行人の体重は見かけほどには重くないが、それでもそれなりの重量だ。

 店の土間から引っ張り上げるには結構な力が必要なはずだ。

 やせぎすの花楽に到底そんな力があるとは思えないが。

「………だからって猫に出来るわけないし」

 一体どうやったんだろうなぁと首を傾げながら、街灯の灯った人っ子一人居ない夜道を行人は駆けていった。

 

 

 

 図体の大きな新入りが出ていった途端、部屋の中はしんと静かになった。

 虫の声すらも聞こえない、今は夜の夜。

 夜明け前の一番深い闇の中。

「……まったく。承知した途端これとは、アンタも意地の悪い男だねぇ」

 足音が遠ざかった途端、甘露がそう口火を切る。

「そうか?さっさと教えてやった方が親切だと思うがな」

「言質をとってから、かい。あたしゃ、そんな根性曲がりを育てた覚えはないけどね」

「オレはお前に育てられた覚えはないぞ」

「何いってるんだい。あたしのお乳を飲んだくせにさぁ」

「知るか」

 物心すらついていなかった頃のことを言われても知ったことではない。

 時代箪笥の下の小さな戸棚から煙草道具一式を引っ張り出

し、煙管に葉をつめて燐寸で火を灯す。

 青白い煙が部屋に渦を巻いた。

「どうだ?甘露」

「んん?」

「なかなかだろう」

「まぁねぇ。アンタが今まで拾ってきた中じゃ、一番だ。何しろ慣れるのが早いねえ、あたしに手をついて、甘露さん、だってさぁ」

 くっくっと甘露が喉を鳴らして笑う。

「いいじゃないかね。アンタ、気に入ったんだろう」

「ああ。あいつの、見えるくせに鈍いところは、まあ、悪くないな」

「へぇ」

 なにもかもお見通し、とでも言うように甘露の飴玉のような金色の眼が細められた。

「それで、家にまで上げて、部屋をやったのかい」

「行くところがないと言ったからな」

「まったく、危ない真似もいいかげんにおしよ。居直られて強盗でも働かれたらどうするんだい」

「あいつが?」

 想像して、思わず花楽はくつくつと笑う。

 骨格は太いくせに背ばかりが高く、不摂生な生活のせいか割とひょろっとした体格の行人は、いつでもあまり表情を崩さない。

 怒りや憎しみという負の感情の似合わない、まるで子供の絵本に描かれているのっぽなキリンのような男だと思う。

 あの鈍さはどちらかというと恐竜っぽいが。

「強盗か。似合わないことこの上ないが、それはそれで見物かもな」

「まったく……で。どうするのさ」

 ちらりと甘露が店先へ視線を流す。そうだなぁと言って花楽はふわりと煙を吐いた。

 なかなか珍しい人種だ、と思う。

 朝焼けの公園で声を掛けたのはただの気まぐれだ。

 一月ほど前に十何人目かの店番に逃げられて、なるほど普通の人間にこの仕事は厳しいらしいとつくづく思い知ったばかりだった。

 九割方は、一週間で音を上げてしまう。危害を加えるような力があるものは早々いないと言ってやっても同じだった。

 骨董には人の因縁を引きずったものが多い。

 あるいはこの店が引き寄せ、力を与えてしまうのかも知れない。もともと感じない鈍い人間にもこの世ならざるものものを見せてしまう力がこの場にはあって、大抵の人間はその恐ろしさに耐えられない。

 俯いた客を見ただけで泡を吹いてひっくり返ってしまった者もいる。

 その臆病さにほとほと呆れたので、次はもう少し胆力のある人間を選ぼうと思っていたのだ。

 夏が行ったばかりだというのにひどく冷え込んだ朝に、公園で一人きりで座っていた男は、どう見てもそこで一晩を越したようだった。

 薄汚れた服に似つかわしくない穏やかな容貌で、ガタイも良く、そうだ、こういう人間ならもうちょっと保つかも知れないと思わせたのだ。

 他にどこにも行くあてがないような人間。

 切実に場所と金を必要としているような人間なら、もう少しマシかも知れない。

 行人は期待を裏切らなかった。

 胡蝶亭に来てもう半月、それなりの怪異を眼にしているというのにさほど怖がっている様子も見せず踏みとどまっている。

 それがただ鈍いだけなのか、それとも怪異自体に慣れているのか、肝が据わっているからなのかはまだいささか判じかねるところだが。

 先程の驚愕の顔を思い出して思わず笑ってしまう。

 さすがに動じない男も、しゃべる猫には相当驚いたようだった。

「なに笑ってんのさ。のんびりしてて、いいのかい」

「ああ」

 ぽん、と煙草盆に吸い終えた灰を落とす。

「一服終わったな。……そろそろ行くか」

「まったく……」

 ようやく重い腰を花楽が上げようとした時。ガラガラッという聞き慣れた音が聞こえた。

 ぴくっと甘露が耳を震わせる。

 へぇ、と花楽は感心した。

「おや、ま」

「ご帰還だ」

 頭から爪先まで、全身びっしょりと濡れそぼった男が肩で息をしながら立っていた。

 そのくせ、顔にはさほど表情が浮かんでいないのが妙に可笑しい。

「おかえり」 

 にっこりと笑って言ってやる。

「……ただいま戻りました」

 いささか引きつった笑いを浮かべた行人が、それでもそう返して寄越した。

 

 
















 

 商店街を抜けた所にある水分公園までは、走れば五分ほどだ。一番奥に古い社が祀られた公園には大きな木々も多く、夜目にも鬱蒼としている。

 当然人影はない。

 薄暗い街灯の二つ三つ灯った公園に、行人は足を踏み入れた。たっぷりした夜の闇の中で、その白い灯りはいかにも頼りない。

 公園の中程にある丸い池の噴水は、夜のうちは止められている。

「……こんな所で待ち合わせ?」

 きょろきょろと見回しても、人影はない。

 街灯の落とす自分の暗い影があるばかりだ。

 暗い木々や奥の社を透かし見ても、動くものはなにもなかった。

「しかも時間もいいかげんだったしなぁ……」

 もしや夜明けまで待てとでも言うのだろうか。

 仕方ないのでこの辺りで腰掛けて待つかと決めて、円形の噴水の端に歩み寄る。

 人工の池は周囲が十メートルそこそこで、腰を下ろしやすいコンクリートの壁でもわかるようにそう深くもない。

 夜空を映して黒い水面に、白い街灯の光が反射している。

 不意に、その水が、たぷんと揺れた。

「え……」

 まるで魚が跳ねたかのように水飛沫が上がる。

 思わず一歩後ずさった行人の前でざぶんと噴水からなにかが現れた。

「………ッ」

 喉の奥で思わず呻いて、さらに後ろに跳び退る。

 それは一見人の手のような形に見えた。

 けれど人の手にしては奇妙に大きく、指が足りず、そして水掻きがある。

 そして、人にはあり得ないほど、腕が長かった。

 水面からにょっきりと突き出された見たこともないほど長い腕と手が、行人に向かって伸ばされている。

 ぱたぱたとその手から雫の垂れる音が、奇妙に大きく響いた。

「…………」

 今夜はもうこれ以上驚くことなどないと思っていたのに。

 畳みかけるように次から次へと怪異を並べられて、もはやどれにどう驚けば良いやらよくわからない。

 息とつばを何度も呑んでようやく出てきたのは、ええっと、という間抜けな言葉だった。

「ええと………あの。……も、もしかして、これを待ってましたか」

 風呂敷包みを持ち上げてみせる。

 そうだ、と言うように三本しかない指がゆっくりと握って開いた。

 その滑らかな動きにもぞっとする。

「じゃあ……胡蝶亭の、花楽さんからの、お届け物です……」

 一歩を踏み出すには途方もない勇気が要ったが、どうにか足を踏みしめる。なるべく近づかずにすむよう精一杯腕を伸ばして、その長い手の上に風呂敷を落とした。

 ぎゅうとそれを握りしめた手がひゅるっと水面に引っ込むのを見て喉の奥で変な音が鳴った。

 正直、悲鳴を上げていないのが不思議なほどだ。

 胡蝶亭はおかしな店だとは思っていたが、こんな人外ともお付き合いがあるとまでは知らなかった。というか知っていたらもう少し勤めるかどうかを悩んだかも知れない。

 まだ波紋を残した水面の下がどうなっているかなど考えるのも怖ろしい。

 昼間この公園に来たことがあるが、確か子供が入って遊べるくらいの深さだったはずだ。

「……じゃあ、あの……お届け物は終わったんで……」

 呟いて、そろそろと踵を返そうとする。

 途端、どこからともなくくぐもった声が響いた。

『……ぬしは、花楽の、身内か』

 思わず跳ね上がってしまう。なるほど、マンガとかでびっくりしたとき垂直に飛び上がるのは正しいんだなーとこの場にまったく似つかわしくない考えがふと脳裏をよぎった。

「は、ええと、あの………身内?」

『ぬしは、花楽の、身内なのかえ』

「は、あの、身内というか……胡蝶亭の新しい従業員の、夏目行人です!どうぞよろしくお願いします!」

 思わず腰を折ってぴしっと挨拶をしてしまう。

 三つ子の魂百までとは良く言ったもので、祖母と祖父に叩き込まれた礼儀作法は未だ健在だ。

『……ほう』

「え、ええと……お届け物になにか不手際でも」

『………よい、よい。覚えておいてやろうよ』

「は……」

 バシャッ、と噴水の中で大きな水音がした。

 そしてこの小さな噴水ではあり得ないほどの水が夜空へ弾け跳び、どうっと行人の頭上から降り注ぐ。

「うわ……ッ」

 水は驚くくらい冷たく、痛いほどだった。狙ったように行人を叩き流れ落ちてゆく。

 スコールのような激しい水音が止んだ途端、公園は静まりかえった。

 もはや噴水の水面は揺れてもいず、そして水量が減った風でもない。さっきまで居た声の主は消え去っていた。

「…………」

 無言で行人は踵を返す。

 落ち着いて歩いているつもりでいたが、いつの間にか一散に走り出していた。

 全速力で暗い商店街の上り坂を駆け抜けて、路地を曲がり、一軒だけ灯りの灯っている店先へ戸口を引き開けるのももどかしく飛び込む。

 蛍光灯に照らされていても心なしか薄暗い店内は、今は眼に眩しいほどに明るい。

 所狭しと置かれた数々の骨董、その向こうのお茶の間。

 花楽と猫が座っている。

 ずぶぬれのまま飛び込んできて無言でぜいぜいと呼吸をする行人に、煙管を持ったまま花楽がにっこりと微笑んだ。

「おかえり」

 この有様の自分におかえりか、と思ったけれどそう聞いた途端波打っていた心臓がすっと落ち着いた。

 その、ごくごく普通の言葉が不思議と懐かしく耳に響いて、そういえばずいぶんと長い間そんな言葉を聞いていなかったことに気付いた。

「……ただいま戻りました」

 そう言うと花楽が声を上げて笑い、行人を差し招く。

「良く自力で戻ってきたじゃないか。あれは、あの社に祀られてるこの辺りの水の主だ」

「……………」

「礼を逸したら喰われてもおかしくなかったんだがな」

「………………喰わせるつもりだったんですか」

 本気か冗談か良くわからない。

 が、あの噴水から伸びてきた手、奇妙に殷々と響く声を思い出せばなるほど確かに人の一人や二人はぺろっと喰いそうだ。

「ほら。お拭きよ」

「……あ。ありがとうございます」

 甘露がくわえてきたタオルをありがたく受け取る。

 ふーんと花楽が唸った。

「もう甘露に慣れたのか」

「………慣れたというか。あんな社の主に比べたら甘露さんくらいは……」

 まだまし、というかいっそ普通に思えてくるから不思議だ。

 呆れたように花楽が肩をすくめた。

「そこは比較対象か迷うところだが。まあ、その大雑把すぎるカテゴライズがお前の長所と言えば長所だな」

「大雑把とか花楽さんに言われたくありません……」

 ささやかな抗議をしつつ髪と顔を拭う。

「まあいい。無事に戻って来られて良かったな」

「まったくです」

「わかったと思うが、うちは古道具の商いの他にああいった仕事もしている。一言で言えば人外の頼み事をできる限り聞くこと、だな」

 あっさり言われて、思わず目眩を覚える。

 

『寝る場所と、食事と。……給料はそう高くないが、まあ、喰っていくくらいは多分。多少、まともでない仕事だが』

 

 最初に言われた言葉をふと思い出した。

 なるほど、まともではない。多少、は付けなくていいと思う。

「………あんまりわかりたくないんですが」

「いまさら辞めるとか言わないだろう?これでお前も、立派な胡蝶亭の従業員だ」

 ではこれが試験というわけか。

 逃げ出さなかった行人には資格があると言うことだろうが、さっき水面を割って出てきたあの手の不気味さを思い出すと思わず引いてしまう。

「………誠心誠意、勤めさせていただきます」

 けれど結局行人はそう答えた。

 二つの怖さを天秤に掛けて、こっちの方がマシ、という結論に達したからだ。あの誰もいない公園で空咳を繰り返しながら目覚める空虚さに比べたら、人ではないモノの世界を垣間見る事の方がよほど良いと思える。

「……怖くないと言えば嘘になりますが。でも……どきどきも、するので」

「どきどき?」

「好奇心ですね。……花楽さんが、どんな世界を見ているのかがとても気になります」

 一番の理由はそう言うことなのかも知れない。

 正直にそう言うと、胡蝶亭の主は、いままで行人の見たことのない顔でにんまりと笑ってみせた。