◆胡蝶亭奇譚・弐◆









◇◇◇ 序章 ◇◇◇

 

 とても、とても寒い日の夜明けだった。

 朝靄に昇り始めたばかりの陽が滲んで、ああこれで、どうにかなると思ったことを覚えている。

 一晩、生き延びることが出来た。

 これでどうにかなる。

 季節を考えれば珍しいほどに気温の下がった夜はかなり厳しく、霧のような雨に打たれてもしかしたら駄目なのかも知れないと本気で思った後だったので、喜びはひとしおだった。

 今日は土木作業の仕事が入っている。

 それが終われば、屋根のある場所で眠ることが出来る。

 どうにかなる。

 歯の根の合わなさも、かっかと熱い頭も、まだ震えの止まらない身体も、すべて夜が明けさえすれば。

「なんだ、お前」

 誰かの声が聞こえたのはその時だった。

「おい。起きろ。……死んでるのか」

 のろのろと顔を上げた。何と言ったのかは良く覚えていない。

 いえ。死んでません。

「なんだ、生きてるのか。どうした」

 ……え?

「酔っぱらって寝てたのか」

 いえ……

「じゃあなんでこんな所にいる。家がないのか」

 はい。すみません、すぐに……夜が、明けたら

「帰れるのか」

 ……仕事に……行くので。そうしたら、どうにか……

「どうにか?」

「はい。……夜が、明けたら、どうにか……なるので」

 大丈夫です。

 そう言った。

 目の前に立っているのが誰かも良くわからない。顔が見えない、なにを着ているかさえ。

 ここが屋根のあるベンチで、繁華街にある口入れ屋まで歩いて行けて、この公園には水道があるからここを寝場所に選んだのだとそんなことばかりをはっきりと思い出すことが出来た。

 水だけ、飲めれば。

 どうにか死ぬことはない。

 食べ物が一昨日パン屋でもらった食パンの耳だけでも、どうにか。

「……なんだお前。いま流行のネットカフェ難民とか言うヤツか」

 その問いに、はは、と思わず笑った。

 世間ではそう言うと聞いたことがないわけでもない。

 ネットカフェで寝たこともある。あそこは糖分のたっぷり入った甘い飲み物が飲み放題で、暖かくて、屋根があって、とてもありがたかった。

 でも流行りでそうなわけじゃない。

「……そうですね」

「ふぅん」

 しばしの沈黙。

 もう誰だかわからない人物は行ってしまったのかとうとうとと眼を閉じる。まだ仕事まで時間はある、もう少し眠れるだろう。

 目が覚めたら具合もいいに違いない。

 そう信じる。

「おい」

「………ん」

「おい。仕事が、欲しいか?」

「……え……?」

「仕事がしたいか?」

「……そりゃ……そうですよ……」

 働きたい。ちゃんと仕事をして、稼いで、自分の場所が欲しい。それだけのことがなんてこの世では難しいのだろう。

「したいです。仕事。ちゃんと」

「そうか。………じゃあ、仕事をやろう」

「………」

「寝る場所と、食事と。……給料はそう高くないが、まあ、喰っていくくらいは多分。多少、まともでない仕事だが」

「………人を傷つけるのは嫌です」

「………」

「麻薬も、恐喝も……暴力も、嫌です。絶対」

 ガタイのせいだろう。

 そういう仕事の誘いを受けることは幾度もあった。その度に断り続けた。

 人を傷つけることが出来ないわけではないが、したくはなかった。

 ははは、と見知らぬ人物が笑った。意外なほど快活な笑い声だった。ぼんやりとしていた視界が一瞬だけクリアになって、目の前の人物が着物を着ていることにふと気付く。

 白い足袋と袴の足下。

『………じいちゃん』

「そんなことはしない。多分な。……まあ、ついてくるもこないも自由だ」

 白い足袋がくるりと踵を返す。

 待って、と声を上げそうになったけれど、喉から出たのは掠れた咳だけだった。

 じいちゃん。待ってくれよ、置いていかないで。

 さっさと来い、と言う声が聞こえた気がしたけれど、そこから先の記憶は途切れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇

 

 古道具屋『胡蝶亭』の開店はたいへん遅い。

 いいや、正しくは遅かった、だ。

 三時開店なんて事もざらだなと店主に言われて、呆れ半分に感心した。よくもそれで商売が成り立つものだ。

 自分が雇われたからには朝からきちんと店を開けようと思ったのだが、表の商店街から細い路地を一本入ったどん詰まりにあるこの店の前を午前中に通りかかるお客などめったに居ないと笑われたので、けっきょく開店は正午ということで落ち着いた。

 十一時頃から開店の支度にかかる。

 店の前の細い路地をほうきで掃き清め、古風な手桶と柄杓で水を打ち、よろい戸を開けて紺地の暖簾を出した。

 胡蝶亭、と趣のある白文字が翻るそれは、一見すれば高級な料亭のもののようにも見える。

 190ある長身で苦もなくそれを戸の上の引っかけに掛けて、もうそろそろ秋かという青い空を見上げた。

 今日も良く晴れている。

 

「おお、行人くん。おはよう」

「おはようございます」

 ご近所の人が通りかかるのにぺこりと頭を下げる。

 白い髭をたっぷりと蓄えた好々爺は商店街の向こうの大きな松のある屋敷のご隠居で、店主は松の爺さんと呼んでいるらしい。

「今日も早いのぉ」

「早くないですよ」

「早い、早い。あのぐうたら店主に比べたらなぁ」

「……はあ」

 呵々、と笑う松のご隠居に苦笑いする。

 二時三時に比べれば確かに早いが、昼の十二時開店は世間一般に比べたら充分に遅い時間だ。

「どうかねぇ、行人くん。あの鬼店主の下で、続きそうかね」

「はい」

「そうかい。そりゃあ、良かった」

 松のご隠居は、まあつらくなったらうちにでも逃げておいでよとまたいつもと同じ事を言った。

「なにしろ雇い主があんなじゃからなぁ。あんまり我慢ばかりも良くないぞ、行人くん」

「はい」

「あの鬼店主め、この間も儂のことをよいよいのじじい呼ばわりしおって。客商売の風上にもおけん」

「ははははは」

 その通りなのでなにも言えない。

 なにしろ行人が最初にご隠居と出会ったとき、胡蝶亭店主は、いつもうちの店を我が家だと勘違いしてる松の爺さんだ、と紹介してのけた。

 さすがにじいさんはないので行人は松のご隠居、と呼んでいる。

 あの公園で店主に拾われた日からもうそろそろ半月だ。

 日々、胡蝶亭のお得意さまを堂々とじいさん呼ばわりするような店主の太々しさに度肝を抜かれる生活を送っている。

 彼の大雑把と図太さの程は、いままでそれほど折り目正しい生活をしてきたとは言えない行人をして驚愕させるようなものだった。

 なにしろ名を名乗りあったのが松のご隠居が店に来たときだ。

 

『ほお、新しい店員さんかね。また人を雇うことにしたのかね、鬼店主が。今度は何日続くかねえ。で、名前は?』

『名前?……ああ、聞いてなかったなそういえば』

『………』

『お前、名前は?』

『………夏目、行人、〈なつめゆきと〉です』

『行人か。オレは柳原花楽〈やなぎはらからく〉だ、花に楽しい、だな。花楽と呼んで良いぞ』

『………はあ』

 一体どこで出会ったんだね、とはさすがにあきれ果てた松のご隠居の問いだ。

 公園で拾われましたと正直に答えるとふぅんと唸ってぽんぽんと背を叩かれた。

 

 

「また後で寄せてもらうからの」

「はい。ありがとうございます」

 ひらひらと手を振った松のご隠居が道の向こうに去って行くのを見送ってから、行人は暖簾をくぐって店の中に入った。

 途端に空気が変わる。

 シンと冷えた土の匂い、黴と埃の匂い、降り積もった歳月の匂いが混ざり合って鼻を突く。

 目が慣れるまで少し立ち止まる。

 店の中は薄暗く、一見ガラクタにしか見えないたくさんの古道具が所狭しと並べられているので、歩くにも注意が必要なのだ。

 胡蝶亭、という優美な名の古めかしい店は、家具や食器、ガラス器、その他諸々の古道具を取り扱う骨董屋である。

 その胡蝶亭の店番が、行人に与えられた仕事だった。

 細い路地に面した薄暗い店の中には、行人にはまだ価値が良くわからない品々がひしめきあっている。

 徐々に薄暗がりに慣れてくると入って右手にある箪笥の陰になにかが揺らぐような気がする。

 あんまり物が多いので錯覚を起こすのだろう。

 一歩を踏み出すとガラスの貼られた卓、古備前というふれこみの大きな瓶、立て掛けてある柱時計、その他様々な骨董品が光と影を揺らがせる。

 ふと視線を彷徨わせると、名を呼ばれた。

「行人」

「……花楽さん」

 珍しいことに、まだ昼を少し回ったくらいの時間だというのに胡蝶亭店主が起きて来ていた。

 敷地内にはこの店と花楽の暮らす母屋があって、二つの建物は渡り廊下で繋がっている。行人が与えられた部屋は、この店の建物の二階だった。

 店から居間の上がりかまちにしゃがみ込み、眼鏡もかけないままぼさぼさの髪をくしゃくしゃと掻きまわして、花楽がふわあと大あくびをする。

 髪を梳かし、眼鏡を掛けて澄ましていれば、端正とさえ言える品のいい造作が台無しだ。

 カマキリのようにやせぎすの長い腕を思い切り伸ばしてのびをする姿は到底仕事をしに起きたようには思えない。

 なにしろ浴衣のままだ。

「おはようございます」

「ああ。おはよう。……なんかいたか?」

「え?」

「いや、別に。特になにもないか?」

「はい。松のご隠居さんが、後でいらっしゃるそうです」

「またか。じじいめ、ここを自宅だと思ってやがる」

 立ち上がってふわあ、とまた欠伸をする花楽が、乱暴な言葉ほどご隠居の来訪を嫌っているわけではないことはわかっている。そのものいいは花楽の性なのだ。

 胡蝶亭は実のところ古道具屋の他にささやかな茶飲所にもなっていて、薄暗い店内に入らずに茶所という看板が下がった右手の石畳を辿って裏に回ると、軒先と四阿、庭に置かれたいくつかのテーブル席がある。

 飲み物は常時抹茶と紅茶とコーヒーの三種類、甘味も3種類しかないというやる気のない茶飲み所だが、路地散策の一休みには丁度いいのだろう。

 オフィス街から少し離れたこの辺りはまだ昭和の町並みや古い神社、社の杜などが残っていて、公園や美術館と合わせてちょっとした観光コースにもなっている。

 路地を抜ければやはり歴史と活気の両方がバランス良く揃った商店街なので、季節によってはそこそこ客も入るようだった。

 茶飲み所の軒先と縁側には、店内と同じように所狭しと骨董品が転がされている。

「まあ、なにかあったら、呼べ」

「はい。……また寝るんですか」

「ああ」

「……お休みなさい」

「うん」

 だるそうに返事をした花楽が奥の部屋へ引っ込む。

 浴衣姿だったのでそうだろうなとは思っていたが、やはり二度寝を決め込むらしい。宵っ張りの店主は朝が弱い、というか昼にも徹底的に弱い。

 いま寝たら起きてくるのは一時過ぎから二時くらいだろう。

 そしてこの店は、なんと夜中の三時過ぎまで開いていたりするのだ。

 別にそれが悪いとは言わないが正直商売にはなっていないのじゃないかと思う。

 思わず心配をしてしまうのは、雇われて半月の自分に店を丸投げで任せる店主のずぼらさだ。

 売り上げやめぼしい物をもって逃げられたらいったいどうするつもりかと思いつつ、そもそもどの商品に価値があるのかも行人はまだ良くわからない。

 さすが骨董屋と言うだけあって店内は一見ガラクタの山だ。

「………頑張らないとなあ」

 この店をちゃんと商売にするために雇われたのならば、成果を上げなければ、きっとすぐにクビになってしまうだろう。

 小さい店だ、人を一人雇う余裕がそうそうあるとは思えない。

 接客だの営業だのにはいままでとんと縁のない人生だったし、商品の価値などは今のところサッパリわからないのでどこまで出来るかは謎だが、せめて商品が綺麗に見えるようにと行人は店内の掃除を始めた。

 一つ一つから埃を払い落とし、ものによってはふきんで磨いてゆく。

 綺麗になれば店の棚はそれなりに見られる商品が揃っている。

 それに気をよくして、行人は一層拭き掃除にせいを出した。

 

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇

 

「……おい。おい」

 軽く肩を揺さぶられて、ゆっくりと眼を開く。

 瞼が石のように重かった。

「おい。飲め」

 口元に堅いストローのような物があてられて、じわりと唇が湿った。ああ、吸い飲みだなと気付いて安心した。

 なんだ。ここは家だ。

 丈夫な子供だったので寝込むことなどめったになかったが、それでも高熱を出したときなどはいつでも隣で誰かが見てくれていた。

 珍しく風邪を引いたのかも知れない。

 もう小さな子供ではないのに、面倒を掛けて悪いなぁと思う。

 ごめん、じいちゃん、ばあちゃん。

「……ッ、ゴホ…ッ」

「…っと、気管に入ったか」

 小さく舌打ちの音。

「ゴホ、ゲホ…ッ」

「ったく……慣れてないんだ、こっちは。さっさと元気になれ」

 誰かの指先が口元を拭う。

 潤って少しだけ喉の痛みが薄くなった。

『……ばあちゃん、じゃない……?誰だろ……』

 微かに聞こえてくる子守歌のような歌声は、祖母のものではない。

 けれど不思議と耳に馴染んで、熱の苦しさの中でもすぐに眠りにつくことが出来た。

 

 








 

 実のところ胡蝶亭がまともな店ではないと行人が気付いたのは結構早かった。

 拾われた日は熱を出して一日寝込み、床上げできたのは翌日の昼だ。

 店を冷やかしに来た松のご隠居のおかげでようやく自分の名前を聞かれ、雇い主の名前を聞き、与えられた服に着替えて仕事の内容などを説明された。

 一階に店のある仕舞た屋の上に一室を与えられて、そこまでは良かった。

 

「……あの、どうしてこんなにして下さるんですか」

「ん?」

 とりあえずの生活用品だ、と服だのタオルだのの細々した物を渡され、さらに給料の前払い分だと幾ばくかの現金まで渡されて、行人は困惑した。

 親切と言えば聞こえは良いが、さすがに不気味だ。

 ここ数日で知ったが、胡蝶亭店主の性格は到底博愛主義とは言い難い。

「なんだ。逃げるつもりか」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「まあ、逃げられたら困るからそれなりにしてやってるんだが」

「……?」

「金を盗んで逃げたいならそれでもいいぞ。……まあ、無事にはすまないだろうが」

「……は?」

 ふ、と花楽が笑った。

「………おいおい、わかるさ」

 品のよい顔立ちに花楽が浮かべたその微かな笑みに、行人は、一瞬ぞっと寒気を覚えた。

 

 

 

 

 花楽の遠慮も容赦もない言い様といっそ潔いと言っていいくらいのぐうたらさに到底似つかわしくない親切を危ぶみながらも、二日くらいは普通に過ごした。

 そして、三日目の晩。

 真夜中過ぎ、まだ開いている胡蝶亭の店先で骨董品についての大雑把な説明を聞いているとき、不意に頬をひやりとした風が撫でた。

「あ、いら…っ」

 こんな夜中に客が来たのかと顔を上げて挨拶しかけた行人の口を、不意に花楽の手が塞いだ。

「…っ」

「シッ」

 ひやり。ひやり。

 頬と、鼻先を、冷たい風が撫でる。いつ開け閉めをしたのかわからなかったが、入り口には客が一人、入って来ていた。

 木の枠に填め込まれた曇りガラスが夜を映し、蛍光灯の白い光を少し暗く見せている。

 店内には所狭しと古道具が置かれ、入り口からまるで獣道のように細い通路が番台まで続いていて、その向こうに客は立っていた。

 挨拶をしなくて良いのだろうか。

 けれど口を塞いだ花楽の手はまるで石のように重く感じられて、呼吸も上手くできないくらいだ。

 ゆら、と人影が動いた。

 女性のようだ。長い髪に白い手足、暗いせいかよく見えないが着ているのは灰色のスカートだろうか。

 俯いて足元を見ていて、店内の品物に目をやる様子もない。

『………この人は』

 気付いたと同時に、行人の背筋を氷が滑り落ちた。

 ゆらと揺れる彼女の姿はまるでそこだけ蛍光灯の光が避けているかのように薄暗い。

 そして、女性の足も、手も、少しも動いていない。

 それなのに近づいてくる。

 俯いたままで。

「……ッ」

 口を塞いだ花楽の手はびくともしない。

 ちらりと目をやったその横顔がまるで何事が起きているのか知りもしないと言うように涼しげなのを見て、ようやく少し落ち着くことが出来た。

 俯いた女性は、俯いたまま二人の横を通り過ぎて、振り返ったときにはもういなかった。

 口から手が外される。

「……っ、あの、いまの……っ」

「俯いた客には声を掛けるな」

「……え」

「なにも買っていかないからな」

「そういう問題ですか…!?」

 その夜はしれっとした顔でそのまま話を切り上げられてしまった。

 その晩以来、行人は確信している。

 胡蝶亭に従業員が居着かないのはこのせいに違いない。

 盛り塩がしてあったり、行人には読めない字で書かれたお札が貼られていたり、かと思うと仏壇でもないところに榊の枝が刺されていたりする母屋と店の二階は何ともないのだが、店の方には数日に一度は通常でない事態が起きている。

 骨董、といういかにも曰く付きの物を商っているせいなのかも知れない。

 なるほど、自分のような素性の知れない人間を雇う意味もこんなところにあるのだなとようやく腑に落ちた。

 どうしてもそう言ったものと相容れない人間ならば、三日と保たないだろう。 

「……まあ、オレだって怖いんだけどさ……」

 思わず深夜の店先で呟いてしまう。

 声がやけに響く真夜中の店番にもこのところようやく慣れてきた。

 朝は何時でも構わない、というのは店主の弁だが、夜だけは午前三時まで必ず空けておくのが決まりだ。

 もちろん、不可思議な事態は夜の方が起こりやすい。

 物の位置が変わること、壁にあり得ない影が映ること、どこからか聞こえてくる物音。

 初めのうちは戦々恐々としていたが、案外早く慣れてきてしまった。

 最初に見た女性ほど怖いものは早々出てこないと言うことがわかったし、元よりまったく免疫がなかったわけでもない。 少なくとも行人は、人ではない、人が知るところの生き物でもないものがこの世界に存在すると言うことくらいは知っていた。

「……どうにか、やっていけそうだなあ」

 そう行人が一人ごちたときだった。

 ガラ、というここしばらくで耳に慣れた戸が開く音が聞こえて、慌てて店先に視線をやる。

 今日は白壁に人影も映らないし、どこからか鐘の音も聞こえてこないし、品物が不意に落下することもなくてこのまま終わると思っていたのに。

「いらっしゃ……あれ」

 すきま風が吹いた。

 出入り口の引き戸が十pほど開いている。客の姿は見あたらず、行人は首を傾げた。新手の怪奇現象だろうか。

「……まあ、このくらいなら」

 怖がるようなことでもない。そう思って戸を閉めようと番台の椅子から立ち上がったとき、声がした。

「にゃあ」

「……あれ?」

 番台から出入り口に続く細い獣道に、猫が一匹座っていた。

「……開けたの、もしかしてお前か?」

「にぁ」

 白地に黒いブチのとんだ、典型的な日本の猫だ。

 眼はくっきりとした色の濃い黄色で、丸い瞳孔が行人をじっと見つめている。

「見たこと無いけど……もしかしてここの猫なのか?でも、花楽さんなにもいってなかったけどな……」

「甘露」

「え?」

 振り向くと、いつの間にか上がりかまちに奥に引っ込んでいたはずの花楽が立っていた。

「あ、花楽さん。あの、この猫は……」

「同居人だ。甘露、久しぶりだな」

「カンロ……」

 飴だろうか。

 と、聞こうとしたとき別の声が割り込んだ。

「ああ、ちょいと野暮用で遠出しててねぇ。それにしてもアンタ、あたしのいないうちにまた男引っ張り込んで、しょうがない子だねぇ。誰だい、この坊やは」

「……え?」

 女性の声だった。

 けれど店の中には当然行人と花楽以外誰もいない。あまりにはっきりした声だが、もしやこれもいつもの不思議な現象のうちの一つだろうか。

「人聞きの悪いことを言うな、新しい従業員だ。夏目行人。まあまあ、良さそうだぞ」

「どうだかねぇ」

「……ええ?」

 ぐるりと店の中を一周見てから、おそるおそる下の方へと視線を落とす。

 いつの間にかぶち猫は彼のすぐ足下に座っていた。

 かぱっと猫が紅い口を開く。

 にやりと笑っているように口の端が釣り上がって、白い牙がのぞく。

「おやま。もしかして、聞こえてるのかい」

「どうやら、そのようだな」

「あら、まあ」

「……ええ…ッ」

 ここ半月、出会った怪異は指折り数えて片手に余る。

 俯いた客にもびびったし、歳月を重ねて罅の入った店の白壁に映る影は不気味そのものだった。動いていない売り物の柱時計が時を打ったり、店の前の路地をなにかを引きずって歩く音が聞こえたり、正直怖くないと言えば嘘になる。

 けれど、これは、怖いとか怖くないとか言うよりも。

「…ッ」

 思わず無意識のうちに後ずさっていたようだった。

 足下になにかを踏んだ感触。

「…ッうわ…!!」

 気付いたときにはふわりと身体が浮いて、したたかに背と頭を打ちつけた衝撃が最後に感じたものだった。