◆胡蝶亭奇譚・拾壱◆









     

 

 

 自分の中で二つの人格が容赦なく鬩〈せめ〉ぎ合っている。

 一人目の行人が、憎い、我慢する事なんて無い、壊してしまえと喚く。

 二人目の行人が、諦めろ、もう何も戻らないのだから新しいなにかを探せと宥める。

 どちらに従えばいいのか、昨日までどちらが本当だったのかも良くわからなくなる。

 長い長い夢の中にいるような気持ちでふと視線を流すと、花楽が部屋の中にいた。

「……花楽さん」

「行人。……眼が覚めたのか」

「はい」

「気分はどうだ」

「………なんだか、すごく、おかしな気分です」

「どういう風に」

「オレが……二人、います。……どっちの言葉を言えば…聞けば、いいのか、わからない」

「……そうか」

 ふと気付けば、花楽の手元は墨を摺〈す〉っていた。

 硬い墨を、なお硬い硯に摺りつける音が懐かしい。

「じいちゃんもよく墨を摺ってました」

 ふと、懐かしい記憶が零れる。

「下手の横好きだって笑ってたけど……大きな筆で、白い紙に大きな字を書いて。あの書も全部水の底だ」

「そうか」

「社に閉じこもって、村と一緒に沈むって言ったじいちゃんを宥めて頼んで、泣いて、無理矢理連れ出すのに必死で……何も持って出られなかった。

……お社の神様と、ばあちゃんと、最後まで一緒にいるって……言ったのに、無理矢理、引っ張り出して」

 ふっ、と思う。

 憎い、憎いと喚くこのもう一人の行人は、本当はあの村の役人もダムの水も諦めてあの場所で暮らす村人達も、誰一人憎んではいなくて。

 本当に、本当に無くしてしまいたいものは、たった一人きりなんじゃないだろうか。

 すっと先の尖った形のいい筆に墨を含ませ、花楽が滑らかな手つきで行人には読めない文字を書く。

「……花楽さん。そこ、畳ですけど」

「うるさい。こうするのが一番確実なんだ」

 ささくれて色の褪せた畳の上に描かれた文字は滲んでいた。

 それから部屋をぐるっと回ってどうやら部屋中の畳に何かを書き付けた花楽が戻ってきて、今度は行人の手を取る。

 鉛のように重くて動かしたくない手に、花楽が何かをまた筆で書き付けたようだった。

「……耳なし芳一だ」

 思わず笑ってしまう。

「うるさい。やらせてるのは誰だと思ってるんだ、しゃきっとしろ。まったく、簡単にあんな化け物の術に取り込まれて」

「芳一の話を聞かせてくれたのも、じいちゃんだったんです。村が、沈んでから……どんどん痩せて、半年も、保ちませんでした」

「そうか」

「それなら……あのまま、村と、一緒にいた方が良かったのかな……」

「オレが知るか」

 花楽らしい言い様に笑う。

 墓は取りだした祖母の骨と一緒にダムの見える小高い丘の上に作った。村の人々が共同で買い取った墓地だった。

 目が回って、行人は眼を閉じる。

 心の中で鬩ぎ合う声は少しだけ小さくなっていた。

 毎日墓に通っていた祖父の横顔、朝焼けに照らされてきらきらと光るダムの水がそれでも美しかったこと、道で行き交うと挨拶を交わした村の人々。

 色々なことを思い出した。

 東京に来てから慌ただしく苦しい生活に紛れてしまい込んでいたたくさんのこと。

「行人。……眠ったのか」

 花楽の声が聞こえる。

 それに安堵して、行人は、彼に取られていた左の手でその指先を強く握った。

 

 

「行人。……眠ったのか」

 返事はなかった。

 代わりに、取っていた左手が花楽の指先を握る。その力も少しずつ弛んで、やがて、また行人が眠りに落ちたことがわかった。

「……まったく……手間を掛けさせるな」

 静かな寝顔には、濃い隈が浮かんでいる。

 無理矢理引きずり出されたものが、彼のうちで暴れているのだろう。

 彼は、忘れようとしていたのだ。

 あるいは諦めようと。

 どんなに許し難く耐え難い事でも、少しずつ薄れていくのは人の常だ。いいや、生きるものはすべからくそう言うものであるべきなのだ。

 そうでなくては許すことは難しい。

 記憶は薄れなくとも感情は少しずつ飼い慣らされ、摩滅して、やがては残滓になるものだ。

 時間だけがそれを可能にしてくれる。

 そうやって少しずつ忘れかけていたものを引きずり出されるのは、想像よりも遙かに辛いことに違いない。

 さっきの行人の言葉からもわかる。

 彼は過去の辛い記憶を、一つずつ呼び覚ましては思い返しているのだ。

「もう少しだ。行人」

 やがて日が暮れる。

 彼に悪夢を見させたものが、ここに現れるだろう。

 薄墨を捕まえることは、もしかしたら行人との別れに繋がるのかも知れないが、それは仕方のないことだ。

 彼を巻き込んでしまったのは花楽なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇

 

「花楽さんて、めずらしい名前ですよね」

 ふっと思いついてそう聞いたら、露骨に嫌そうな顔をされた。

「え、嫌なんですか?綺麗な名前じゃないですか」

「この子はね、名前に花が付いてるから女だって小さい頃散々からかわれたのをまだ根に持ってるのさぁ。まったく、尻の穴の小さいこと」

「下品な言い方をするな」

「うるさいね、男ならもっとどんとしておいで。良い名前じゃないかね、からくちゃん」

「やかましい!」

 べきっとその手の中で煙管がへし折れて、これは相当いやな思いを幼少時にしたのだろうなと想像が付いた。

「あ、あの……」

「ちなみにあたしの甘露って名前も花楽の母親がつけたのさ。いままでいろんな呼び方をされたけどねぇ、甘露なんてしゃれた名前をもらったのは初めてだ。あたしの眼が、飴玉みたいだからって」

「そうだったんですか。確かに、甘露さんの眼は飴玉みたいにまん丸で綺麗ですね」

「やだよ、この子は。嬉しいこと言うじゃないか」

 番台の上で香箱を作った甘露がご満悦と言った表情でぐるぐると喉を鳴らす。

「あんまり世辞を言うとつけあがるぞ」

 つけつけとそう言った花楽をちろりと睨み、ちなみに、と甘露が続ける。

「この子の名前は百人一首からとったのさ。あたしゃね、この子に名が付いた朝も覚えてるよ」

「おい」

「百人一首……」

 花に楽しい、そんな句があっただろうか。

 花楽、からくと呟いてしばし考え、やがてその響きに気が付いた。

「もしかして、からくれない、ですか」

「そうそう。良く知ってるじゃないか」

「………」

「ええと……上の句が思い出せません」

 仏頂面をした花楽がぼそりと呟く。

「ちはやぶる、だ」

「ああ……《ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは》ですね」

「良く知ってるな、百人一首なんて」

「祖父と祖母とよく遊びましたから。実を言うと意味はサッパリです。でも、綺麗な歌だと思います」

「そうだよねえ。母親がせっかく自分の好きな歌からつけてくれたのに。まったく、贅沢だよねこの子は」

 苦々しげな顔で、名前が嫌いなわけじゃない、と花楽がぶつぶつぼやいていた。

 

 

 

 神代の昔にも聞いたことがないほど、紅葉の色が龍田川を紅く染め上げている。 

 そんな歌の解釈を知ったのは古物の勉強のための本を買おうと立ち寄った本屋でだ。

 屏風に描かれた絵を元にして詠んだ歌だと知って感心した。

 そんな風に描かれたものに想像力を働かせて、何百年も残る歌を詠むような人もいるのだ。

 それが花楽の名前だというのは、とても素晴らしいことのような気がした。

 迷った挙げ句結局その本も購入してしまった。

 いずれ、きちんと本棚も買うことになるかも知れない。

 そうやって一つずつ、自分のものが増えていくことに、不思議な感動を覚えた。

 あの場所に、自分の居場所ができる。

 その喜びは、とても言い表すことができない。

 

 






















 

 部屋の隅に、きちんと積んであったはずの本が無かった。

 ぼんやりと薄闇の中で眼を見開いて、あれ、と思う。

 ここは自分の部屋じゃないんだろうか。

 天井の木目も襖の柄も布団の感触も覚えがあるのに、積んであったはずの本がない。

 どうしたんだろう。

 瞬きをして、起きていることに今さらに気付く。

「……あれ」

 ゆっくりと起き上がった。

 指先がじんと痺れている気がしたけれど、二、三度握っては開いてを繰り返すとすぐにそんな痺れも取れる。

 寝過ぎただけかも知れない。

「……仕事は」

 今は何時だろう。

 こんなに暗いのだから昼間という事はないだろうが、それにしては寝過ぎてしまったという感覚がおかしい。

 眠る前のことが思い出せないことにも気付いた。

 花楽がいた気がする。

 顔を擦り、頭をふって、どうにか霞がかかったような感覚を追い払おうと勤める。

 そうだ、花楽がいたはずだ。

 この部屋で何かをしていた。

 墨を摺る、懐かしい音がしていて、それから筆で何かを書き付けていた。

「……あれ…?」

 掌には何もない。畳にも。

「夢だったのかな……」

 では、この部屋の本は一体誰が運び出したのだろう。

「憎いだろう」

 不意に、暗い部屋に声が響き渡った。

 途端に頭の中で何かが弾けるような感覚を覚え、それが夢の中で聞いた声だと言うことを思い出した。

 しかも、幾晩も続けて見た夢だ。

「…あ…ッ」

「憎いだろう。お前を、踏みにじったものが」

 鉛のように重い体をどうにか起こす。ここはやはり行人に与えられた胡蝶亭の二階の部屋だった。

 部屋の隅に黒い影が凝っている。

 それは甘露に似ていて、黒猫が座っているのかと最初は思ったが、違うことはすぐにわかった。確かに姿は黒い猫を模している。

 けれどその両眼は炎のように爛々と紅く燃えて、ひたと行人を見据えていた。

 時折、靄のように姿が揺らぐ。

「憎いだろう」

 声が響く。

 その声に、目の前にいる黒猫を模したなにかが、何日も続けて行人に夢を見せていたことに気が付いた。

 それは行人の中のどうにか押し込めようとしていた暗いものを白日にさらけ出す。

 暴かれたものを思って、行人は胸の内で疼く痛みと遣り切れなさに深く息を付いた。

 昼間、花楽に言ったことを覚えている。

 忘れてしまえれば良かったのに。

「………憎いよ」

 そう言った途端、目の前の黒猫が揺らいだことに気付く。

 圧倒的な力のようなものが行人を取り巻いて、けれどそれは夢の中の様に行人を押しつぶしはしなかった。

 ここが現実だからだろうか。

 それとも、一度、その力に絡め取られたことを知っているからか。細い糸のようなものが四肢に巻き付いて、思い通りに行人を操ろうとしている。

 けれどそれの引き出す言葉が、自分の本意でないことも、もうわかっていた。

「憎いよ。……けど、もう、やめたんだ」

「何故」

 焦れたように黒猫が一歩踏み出す。

 その途端、圧力が強くなって四肢が動かなくなった。

「何故。行人。……憎いと、言っただろう?」

 忘れたのかと響く声に、やめたんだと行人は繰り返した。

 焦れてさらに行人に近づいた黒猫の足下の畳に、不意に黒い文字が浮かび上がった。

 それがさっき花楽の書いていた文字だと気付く前に、猫とは到底思えないような唸り声が響く。

 そして黒い姿が崩れた。

「おのれ……!甘露め!こざかしい…!!」

 すらりと廊下へ続く板戸が開く。

 その向こうに影が二つ。

「教えたのはあたしだけどね。書いたのは花楽さ。あんた、もう諦めな」

「大丈夫か。行人」

 聞こえた二人の声に、心底ほっとした。

 そちらを向いて礼を言おうと口を開き、ぎょっと言葉に詰まる。

 そこにいたのは、ぶち猫と、そして。

「……ああ。この姿に、驚いているのか」

 花楽の声でしゃべるそれは、到底人とは見えない姿をしていた。

 釣り上がった金色に光る眼。

 短い毛の生えた白い手。

 ふっさりと三角の耳が生え、白い面にはやはり耳に掛けて白い毛が生えているように見える。

 人と獣の混じり合った、異様な姿だった。

「………花楽、さん…?」

 声だけは彼のものだった。名を呼べば、肩をすくめてみせる、その仕草も。

「そうだ。オレは、混ざりものなのさ」

「その言い方はおやめ」

 ぺしりと甘露が尻尾で花楽の膝をはたく。

「どういおうと一緒だ。オレは人間の母と狐の父から産まれた。……そして、その父の手下が、そこにいる薄墨だ」

「薄墨……」

 花楽の張った文字に捕らわれている薄暗い霧のような姿を、行人はまじまじと見つめる。紅い眼はそのままに行人を睨んでいた。

「薄墨。なぜ、行人を襲った」

「花楽様……」

「様をつけるなと言ったろう。お前が幾度呼びに来たところで、オレは父の所へ行くつもりはない。応えろ、薄墨。なぜ行人を襲った」

「……それは、あなたが、一番ご存知の筈……」

 ゆらと揺れて、紅い眼が花楽の方を向いた。

「あなたが、ご存知の筈です。花楽様」

 その声に滲んだ嘲笑の色に気付いて、行人は眉をひそめた。

 花楽も不快そうな顔をしている。

「あなたは………あの方の息子だというのに、人に、惹かれている……人の世に、属そうとしている」

「………そうだ」

「無駄なことを。……あなたは、妖〈あやかし〉だ」

「………」

「人の世にはそぐわない……闇と、夜に棲むものだ……なのに、あなたは、この場所にしがみついている……」

「だまれ」

「人の、なにがいいのです?」

「お前にはわからないことだ」

 花楽の言葉に薄墨はしばし沈黙し、やがてまた行人の方を向いた。

「………そう。私にはわからない。けれど、あなたは、行人を傍に置いて……なお人に近くなった」

「………」

「この人間は……あなたの傍にいてはいけない」

 その言葉に花楽が舌を打つ。

「オレの傍に誰を置くかを決めるのはオレだ」

「そんなわけがないでしょう。……あなたは、誰にも、選ばれなかった」

「……なに」

「誰もがこの場所から逃げていった。あなたは、独り切りだ。花楽様」

「………」

 そんなことはない、と思わず言ったのは行人だった。

 落ちた沈黙が耐えられなかった。

「花楽さんには、甘露さんがいます。……それに、あの、僭越ですがオレだって」

「……行人」

「黙っていろ。人間」

「いいえ。黙りません。誰だって、ずっと独り切りなんて事はないんです。……絶対」

 自分に言い聞かせるように強く呟く。

 いつかは、いつかは。そう思いながら行人は生きてきた。

 かつていた場所のような暖かいところに、絶対にいつかは辿り着けるはずだと、そう信じているのだ。

 だから生きて来られた。

「黙っていろ。行人。……お前は、花楽様が信じるような、美しい人間ではない」

「え?」

「憎悪を持っていただろう。生まれ故郷に何のために向かおうとしたか、忘れたわけではないだろう」

「………」

「花楽様の心は、良くわかっている……この方は、信じていたいのだ」

 嘲る調子は、一層強くなった。

 紅い眼が輝きを増し、既に黒猫の原形をとどめない黒い靄がざわざわと沸きたつ。

「人とは、美しいものだと。そして、妖は醜くおぞましいものなのだと。……その狭間で、揺れ続けている」

 愚かな、と言う言葉は、吐き捨てるように強かった。

「人は、醜いものだ。……嘘と欺瞞で、同じ種族どころか己さえも騙そうとする……私は、行人の望みを、叶えてやろうとしただけだ」

「………」

「奪ったもの達が、憎いだろう?」

「……ッ」

 その言葉に頷いてしまいたいという心は確かにあった。

 四肢に絡んだ糸はまだ解けきってはいず、生々しく蘇る記憶が胸の痛みに拍車を掛ける。

 世界のすべてが憎いと思っていた。

 どうして、自分はこんなに苦しいのに、世界は何一つ変わらないのだろう。そう憎んで、呪った夜が幾度あったか。

 けれど。

 その果てに、見つけたものもある。

「……薄墨。オレは、もう、やめたんだ」

「………」

「憎かったよ。本当に。オレから色んなものを奪っていった誰かが」

「ならば」

「けど、オレが一番憎かったのは、じいちゃんを助けられなかったオレだった」

 枯れ木のように痩せた祖父は、行人に謝りながら死んだ。

 何一つ祖父の思うようにさせてあげられなかったのは行人なのに。

「水に沈む村から、じいちゃんを助けた筈だったのに。じいちゃんの心は、あのダムの底だった。オレはじいちゃんが生きるための力になることができなかった」

「………」

「村が……沈んだことも、ばあちゃんの神様がいなくなってしまったことも、じいちゃんが死んでしまったことも、……悲しくて、オレは、憎んだけど、それは仕方のないことなんだ」

「……なぜ」

「だって世界は何一つオレのものなんかじゃない」

 大きな諦めと、哀しみと共に、行人はそのことを受け容れた。

 ダムに朝焼けの映る暁のことだった。

 そしてその翌日に村を出た。

「オレのものだと思ってたのは、ぜんぶ、思い出だけだった。……だからもう、憎むのはやめたんだ。薄墨」

「………」

「まだ記憶は残ってるし……憎いと、思ったことも、覚えてる。でも花楽さんがとめてくれなくてもきっと、オレはあのダムを見たら眼が覚めたよ」

 墨で描かれた文字と文様の上で薄墨がゆらぐ。

 花楽が大きなため息を付く音が聞こえた。

 その獣相に驚かなかったと、何一つ怖くはないと言ったら嘘になる。

 ふと、七渡の言葉を思い出した。彼が言ったのは、彼もまた人と妖の間に産まれた仔だと言うことだったのかも知れない。

「オレは、まだ、この店にいたいし……仕事も、していたい。花楽さんがいいと言ってくれたらだけど。……もう、あなたには操られないよ」 

 悔しげに、紅い眼が瞬いた。

「そう言うことだ。薄墨」

 花楽の声が割ってはいる。

「ついでに、オレももう一度言っておく。お前についていく気は、一切無い」

「……花楽様」

「幾度来ようと無駄だ。……そもそも、もう来られないようにしてやるが」

 甘露がするりと花楽の前に出る。

「まったく、しつこいからそうなるんだよ。大体、あたしのものに手を出そうなんておこがましい」

「……誰が誰のものだ甘露」

「うるさいね、言葉の綾だよ綾。……覚悟をおしよ」

「……甘露、この裏切りものめ」

 薄墨の姿が真ん中に集まり、また猫を模す。

「妖のくせに人をかばうのか」

「妖も人間も大差ないんだよ、まったく頭の固い。だから汗ってこんな間違いをしでかすのさ」

「………」

「子供みたいに、花楽が大切にしているものを壊すような真似はおよし」

「ウルサイ」

 寄り集まって猫の形を取った靄が、一層濃く凝縮する。

 それが弾けたと思った途端、足下に描かれていた墨の文様が四方に飛び散った。

「あっ!馬鹿、花楽!」

 一瞬の間に、薄墨が行人に飛びかかってくる。

 避けようもなくただ反射的に手をあげると、そこにやはり墨で書かれていた文字が浮かんだ。

「ギャ…ッ!!」

「うわ!」

「およし!」

 飛びかかった甘露と薄墨がもつれる。

 その黒い姿がやはり畳に描かれた墨文字に触れて跳ねまわり、部屋中を二つのもつれ合う猫が転がり合う。

「甘露さん!」

 この世のものとは思えない叫び声が響いた。

「……心配することはない」

 ぎょっとして肩を引く。いつの間にか花楽が隣に来ていた。

 引いた行人をどう思ったのか縦の瞳孔を持った金色の眼が軽く見開かれ、それからすがめられた。

「甘露はあれでも歳を経たあやかしだ。薄墨に後れをとるようなことはないさ」

「……そうなんですか」

「ああ」

 もうどこまでが甘露で、どこからが薄墨なのかも良くわからない。

 ただ影のようにもつれる姿を見つめるうちに、すっと花楽が身を引く気配がした。

 闇雲に手を伸ばす。

「……行人」

 握った手首にはやはり毛が生えていた。

 けれどそれは思ったよりも暖かく、柔らかい。

 彼がそれ以上自分から離れていかないようにと、手を握ったまま、その跳ね回る影の戦いを見つめた。

 

 

 

 

 

 

「……さぁて。どうする、花楽」

 白い足先を舐め、丁寧に毛繕いをしながらそれでも眼だけは油断無く薄墨を見張っている甘露が、流し眼を寄越す。

「このまま引き裂いてやって良いかい」

 ことさらに白い爪を出してみせる。

 出し入れ自由なそれは、小さな三日月のようだ。見た目よりも何倍も、何十倍も良く切れる爪だ。

 部屋の隅では黒いものがわだかまっている。

 それはもう猫の姿も留めてはおらず、爛々と紅かった眼は濁っていた。

 弱り果てている。

 いっそ、このまま裂いてちりぢりにし、消滅させてしまおうかとちらりと思う。

 そうすればもう患わされることもない。

 父の遣いだと、薄墨が姿を見せたのは祖母が亡くなってからだ。それ以来年に数度は顔を出し、その度に父の所へ行く気はないかと問うてくる。

 いい加減、飽いていた。

「………そうだな……」

「あの。……もう、いいんじゃないでしょうか」

「ん?」

 隣から行人が口を出してきた。

 花楽の事情に巻きこまれた被害者が、困ったような顔をして畳の上にわだかまっている影を見ている。

「どうするって?」

「だから、もういいんじゃないでしょうか……ぼろぼろみたいだし。オレのことなら、もう」

 まったく人の良いことだ。

 心を操られて不快でないはずはないのに、さっさとそれを忘れようとしている。

「お前は、もう少し、怒れ」

「はい。……でも、オレの分も花楽さんと甘露さんが怒ってくださったので」

 もういいです、と言われて花楽はため息を付いた。

「……だそうだぞ、甘露」

「まあ、行人にそう言われちゃあねぇ」

 仕方ないかねと甘露が言って、尻尾を一振りする。

「さっさといきな。薄墨。行人に感謝するんだね。あたしは、アンタを引き裂いて粉々にして散り散りに放り出してやるつもりだったんだ」

 くわっと開いた甘露の口が紅く耳まで裂けて、その恐ろしさに思わず行人は後ろに引いてしまった。

「アンタは運がいい。またこのうちに姿を見せたらただじゃおかないよ」

 じわりと畳の上に凝った黒い霧が動き、くぐもった声が響いた。

「………花楽様」

「なんだい。往生際の悪い」

「………血を……捨てる、事は、できません……あなたはいずれ、父上に相見える。……今はまだ、眠っておられますが……いずれは」

「……そうだな」

「………いずれ………」 

 ずるりとその姿が畳に融ける。

 わかっているさ、と花楽は苦々しく呟いた。

 この身に流れる血の半分は、見知らぬ父のもの。

 それが堪らなく汚いもののように思えて、苦悶した夜は幾つもあったけれど、もうそろそろ諦めもついた。

 確かにいずれは父に会わなければならないだろう。

「あたしゃ、あれがちゃんといなくなったかどうか見てくるからね」

 そう言って、甘露がすたすたと板戸から出ていった。

 その後ろ姿を見送ってから、掴まれたままの手首を花楽は見下ろす。

「……そろそろ離してもいいんじゃないのか?」

「あっ」

 すっかり忘れていたらしい行人が、慌てた様子でぱっと手を開く。

「あ、ええっと……すみません」

「どうして謝る」

「え、いや、勝手に手を掴んじゃって」

「………」

 花楽の沈黙をどうとったか、行人が困ったような顔をした。

 獣相はもう消えているはずだ。

 妖の力を使うときには否応もなく現れるあの姿は、昔はもっと御しがたかった。

 獣の仔だと祖母を怒らせ、怯えさせもした。

「……祖母は、あの姿を嫌がった。オレを、人だと言い聞かせた」

「……」

「殊更にしつけが厳しかったのもそのせいだろうな。オレの中にはまだ、人と、妖に対する、根強い偏見と思いこみが残ってる」

 ため息を付く。

 そんな思いこみで行人を引いてきたつもりはなかったが、人を傷つけることは嫌だとあんな独りきりの姿でそう言った行人に、人の美しい場所ばかりを見てはいなかったと言えば嘘になる。

 穏やかさや、聡明さや、優しさや、そんなものばかりで人間は出来上がってはいない。

 彼にも、憎しみや汚濁を、美徳と同じように抱える権利はある。

 その両方を持つのが人だと言うことを花楽はいつも忘れてしまう。

「………出ていってもいいぞ。行人」

「え」

「仕事は、ちゃんと世話してやろう。オレの伝手でも、人しかいない場所はある。今の仕事が気に入ったなら、同じような商売をしている知人に頼んでやる」

「……ちょっと、花楽さん」

「いままでの給料もちゃんと支払う。明日にでも……」

「花楽さん!」

 珍しく大きな声を上げた行人が、再び花楽の手を取った。

「なんだ」

「……花楽さんの欠点は言いにくいことをずけずけ言い過ぎるところかと思ってましたけど、違いました。人の話を聞かないところですね」

 無遠慮な言い様に顔をしかめる。

「なに?」

「オレ、言ったでしょう。さっき。聞いてなかったんですか」

 けれどその倍も不機嫌そうなしかめ面で、行人が花楽を見ている。

「ここで、働きたいっていいました。花楽さんの傍にいるって。……聞いてなかったんですか」

「……それは」

 確かに聞いたけれど。

 どう取ればいいのか良くわからなくて、花楽は惑う。

「……仕事はちゃんとみつけてやるが」

「だから、そう言う事じゃありません。……花楽さんは、たぶん、自分が半分しか人じゃないって事をものすごく気にしてるんですよね」

「………ずけずけ言い過ぎるのはお前の方だと思うが」

「だって言わなくちゃわからないじゃないですか……オレはね、花楽さん、花楽さんが気にするほどそんなことは気にしてないんです」

「………」

「驚いたし……怖いと思ったことだって本当です。半分人間で半分妖だって人なんて、始めて見ましたから。もし、そちらの姿を最初に見てたら、オレだって逃げたかも知れません」

「………」

 行人にそう言われる事に、予想以上に動揺したことに気が付いた。心臓が早くなり、掴まれた手が痛い。

 化け物だと罵られることは怖い。

「でも、それより前に、オレは花楽さんに会ってましたから」

「……どういう意味だ」

「だから……花楽さんなら、怖くないって、言ってるんです」

 本当ですよ。

 いつもの倍も饒舌に、行人が言い募る。

 どう答えればいいのかわからなくて、花楽は掴まれた手をふりほどくこともできなかった。

 

 

 顔も見たことのない花楽の祖母が、少しだけ嫌いだと思った。

 彼に自分の半分を否定させ、そしてこの胡蝶亭の時間を止めたのは、おそらく彼女なのだろう。

「………花楽さんは、人間にばっかり綺麗なところがあると思ってるのかも知れないけど、それは、違います」

「……」

「オレは、甘露さんのことも好きですよ。甘露さんはすごく優しいじゃないですか」

「……それは」

「オレにだって優しくしてくれました。……誰だって、心を持ってたら、一緒です。良いところも悪いところも、同じように持ってるんです」

 人を美しいものの様に見ていると、そう言った薄墨の言葉を思い出す。そして、いつか二人で見ていたテレビに映った、多くの人を救った老女の姿を。

 あれが彼の望む理想であれば、その頂は遠すぎる。

「花楽さんが言っている、人ってものがどんな風なのかはわかりませんけれど……人間って、そんな優しいばかりじゃなくていいと思います」

「………」

「………オレは、人の、一番大事なことは、ホントはただ自分の隣の人にちょっとだけ優しくするって事だけなんだと思います」

 それは綺麗事なのかも知れないが、それでも、誰もが自分の隣人に少しだけ心を分けることが出来れば、それが一番素晴らしいことなのじゃないかと行人は思う。

「花楽さんは、オレを助けてくれました。花楽さんが人間でも、妖でも、たとえハーフでも、それは絶対に変わらないんです」

 驚いたような花楽の手を、一層強く握る。

 先刻の獣と人が半々に入り混じった顔をその面に描いても、怖ろしいとも不気味だとももう思わなかった。

 花楽だとわかっているからだ。

「オレは、花楽さんが、好きなんです」

「なにを」

「ほんとうですよ。花楽さんが好きなんです」

 口に出すと、その響きはなんて豊かなのだろう。

 彼が、自分を、この場所に連れてきてくれたことに心の底から感謝する。

 この心は花楽がくれたものだ。

「オレは……なにもかも諦めて、何一つ持たないままあの村を出て。働いて、自分の場所が欲しいと思ったけど……それも、本当は自分のものじゃないってわかってました」

「……そうか」

「はい。この世界には、一つも、自分のものなんかない。花楽さんに会わなければずっとそう思いこんだままだったと思います」

 花楽が身じろいだので、掴んだままだった手をそっと離す。

「ありがとうございます、花楽さん」

「オレは何もしていない」

「胡蝶亭に連れてきてくれて。オレは、この心と、思い出だけは昔も今もずっとオレのものだって思い出しました」

 たったそれだけだ。

 けれどそれは一番大切なものなのだ。

 他の何にも代え難く、この命のある限り取り落とすことはない。

「いつか、それだけじゃないものも、オレは、持てるのかも知れません。けどいまはそれを思い出せただけで充分です」

「……オレは、なにも、していない」

 そう応える花楽に行人は笑う。

 与えられたものは行人だけのものだ。花楽と、甘露と、胡蝶亭が愛しいと思う、その心は。

 そしてそれだけで諦めてはいけない。

 行人の懇願に負けて生きることを選んでくれた祖父が、あの日あの小さな社の中で思っていたものも、いつかは手にすることが出来るかも知れない。

 その記憶は痛みと後悔ばかりだ。

 けれど一度は、祖父が行人と生きようとしてくれたことも確かなのだ。

 結局その重さは祖父を掴まえたけれど。

 彼が沈んでゆくあの村に残ろうとしたように、命と天秤に掛けてそれでもなお重いものを、いつかはこの心に持つことができるだろう。

「ここで、働いて良いですか。花楽さん」

「………」

「人間以外の存在には大分慣れました。妖怪にも、幽霊にも」

「………」

「勿論、甘露さんにも……花楽さんの人使いの荒さと口の悪さにも大分慣れましたよ。オレ、結構いい従業員だと思うんですけれど」

「……自画自賛か」

「はい」

 ため息を付いて、花楽が顔を上げる。

 その頬がわずかに赤いかもと思ったのは気のせいだろうか。

「わかった。使ってやる」

「ありがとうございます」

「いまさら、取り消しは聞かないぞ」

「言いません。絶対」

「………後悔するなよ」

 いつも通りの顔で花楽がにやりと笑った。

 その笑みにいささかうそ寒いものを感じつつも、はい、と行人は笑って答えた。

 


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