◆胡蝶亭奇譚・拾◆









     

 

 

     ◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 かごめ かごめ

 かごのなかのとりは、

 いついつでやる

 

 よあけのばんに

 つるとかめがすべった

 

 うしろのしょうめんだあれ

 

 

 

 

 

 

 聞き慣れたわらべうたが耳の奥でずっと鳴り響いていた。

 どこで聞いた歌だっただろうか。

 生まれ育った田舎の村では子供が多く、下も上もみんな集まって神社の広場や畦道、誰かの家の軒先で様々な遊びをした。

 調子に乗りすぎて怒られたことも多いが、思い出せば懐かしい記憶ばかりだ。

 あの頃の遊びの歌だろうか。

 二つ年上の男勝りの少女、いつでも鼻水を垂らして後をついてきた弟分、仲が良かったのに喧嘩も良くした同級生、思い出は数え上げれば切りがないのにそのすべてはなぜか薄暗く仄青いようなベールの向こうにある。

 それは、と思う。

 それは、その思い出のすべてがいまはもう水の底だからだ。

 あの畦道も、学校も、そしてあの神社も、すべては失われた。水の底に沈んで朽ちるのを待つばかりだ。

 少し大人になり、世の中の道理を知り、ちゃんと理解が出来る歳になってもまだわからない。

 あの村はどうして水の底に沈まなければならなかったのだろう。

 下流の村々の水害に備えて作られたはずのダムは度々決壊を起こしている。あの場所に山から来る水のすべてを溜めようなどと、元より無理な話だったのだ。

 ごく、ごくごく一部の誰かの利益の為だけに作られたダムだった。あれは。

 そして村は沈んだのだ。

『憎いだろう』

 声がする。

『奪ったものが、憎いだろう。お前が大切にしたものを踏みにじったものが』

「………っ」

『利己のために多くの人々の大切なものを踏みにじり後のことを放置して流れるままにしているものが、どこかにいるのだよ。……復讐してやりたくはないのかい』

「……そりゃあ……」

 憎い、と言えばいいだろうか。

 あの村を、懐かしい風景を、祖母と祖父と両親の思い出だったはずの場所を、理不尽に奪い去った者たちが許せないといえば。

 何が起きるのだろう。

『憎いだろう』

 満々と水を湛えて空を映したダムを、亡くなる数日前の祖父が老いた眼で見つめていたことを覚えている。

 行人が両手で抱きかかえられるほどに細く、小さく、枯れ木のようになってしまっていた祖父。

 彼は憎んでいただろうか。

 ぎりりと頭の奥が軋るように痛んで、遠いわらべうたがまた聞こえた。ふと、ここはどこだろうと思う。

 村の記憶、ダムの記憶、祖父の記憶に入り混じってちらりと別の人物の顔が閃いた。

 眼鏡を掛けた、やせぎすの、どこか超然とした顔立ち。

 これは、誰だろう。

「………花楽さん?」

 ふっと呟いた時、不意に記憶がいっぺんに蘇ってきた。

「……あっ…」

 そうだ。今日は店に七渡が来たのだった。相変わらず謎めいたことばかりを言って、どうやって気をつけたら良いんだろうと思いながら一日過ごした。

 普段通り午前三時に店をしめて、花楽と甘露におやすみなさいを言って、二階の自分の部屋に引き上げた。

 戸を開けたところまでは覚えている。

「……それから……変な、ものが」

 部屋の中が灰色の霧のようなものに埋め尽くされていた。

 まるでその向こう側だけ全然別の世界になってしまったかのような光景に、思わず某猫型ロボットのどこでもドアを連想してしまったものだ。

 しかし、どう考えてもそんなに可愛らしいものでないこと

 は明らかだったので花楽に相談に行こうと思って

 不意に伸びてきた灰色の霧がからみつき、否応なくあの中に引きずり込まれたのだった。

「そうだ……じゃ、ここは……」

『眠っていればいいものを』

「…ッ!」

 陰鬱な声が響いて、行人はびくりと身体を硬直させた。

 いつの間に目覚めていたのだろう。眼を見開いてもあるのは闇ばかりで、自分がどんな場所にいるかもわからない。

 慌ててまさぐれば手に触れるのは固い地面だった。

『あるいは……憎いと、応えれば、楽にしてやったのに』

「……誰ですか。あなたは」

『お前が知る必要はない』

「必要って何ですか。勝手にオレをさらっといて」

『お前は……花楽様のために、邪魔だ……』

「え……」

『……お前をどうするかは…もうしばらく考えてから決めるとしよう…』

 ふっと気配が消える。

 慌てて行人は暗闇を見回した。

「ちょ…ッ!待ってください!こんな所に置き去りにしていく気ですか!」

 慌てて叫んでも応えはない。

 嘘だろ、と呟いて行人は周囲の闇を見回した。

 そして、手探りで、どこにも綻びのない闇の中を這うように歩き出した。

 






















 

 

 どうした、と問われて、いえ、なにも、と返した。

「ひどい顔だぞ」

「……そうですか?」

 夢見が悪かったせいだろうか。どこまでも続く暗闇の中を、手探りではい回る夢だった。

 他に誰かの声がした気がするけれど覚えているのはただひたすら出口を探していたことばかりだ。

「ふぅん」

 ひょい、と甘露が顔を近づけてくる。

 その黄色い眼がすがめられて、ひくひくとピンクの鼻がうごめく。可愛いな、と思っておもわずつついてしまった。

「ひゃ。なにすんのさ」

「いや……すみません、つい」

「つい、じゃないよまったく。あんたに変な残り香が無いかどうか確かめてあげようとしたのにさ」

 ひゅん、と尻尾を振る甘露が言葉ほど怒っていない事はすぐわかる。

「すみません、本当に。大丈夫です。ちょっと、夕べの夢見が悪かったので」

「夢見?」

「はい。それだけです」

「……なら、いいが」

「開店準備をしますね」

 いつもは開店の支度が整ってから、あるいは開店してから起きてくる花楽が部屋にいたので、寝過ごしたかと行人は慌ててしまった。

 時間はいつも通りだ。

 花楽がたまたま早起きをしただけだった。

 欠伸を1つして夕べの夢を追い払い、行人は店の前を掃き清めるためにほうきを手に取った。

 
















 

 

「……どう思う。甘露」

「さあてね……ちょっときなくさいが」

 行人の広い背を見送ってから花楽がそう口火を切った。

 夢の中に沈み込むのは薄墨の得意技だ。

 先日、花楽の夢の中にはいるという不躾なことをしでかしてから、薄墨は現れていない。

 来たら充分とっちめてやろうと思っているのに。

「アレを狙う理由があるのか」

「……そんなの、アンタが考えなよ。あたしゃ、ありまくりだと思うけどねぇ。どんだけー、って感じだよまったく」

「……流行言葉を使おうとするな気色悪い」

「ふん」

 徒っぽく流し眼で咎められて、花楽は顔をしかめた。

 理由はあるのかもしれない。

 しかしそれは、薄墨が行人になんらかのちょっかいを出す理由になるようなものだろうか。

「……とりあえず、様子を見よう。甘露、気をつけておけよ」

「はい、はい」

 

 

 

 

 

 

 

 また、同じ夢を見た。

 この夢は、誰かの意図が働いていることを否応なく感じ取れるくらいに巧妙だ。目覚めているときにはただの夢としか思えないのに、こうして同じ夢をまた見ていると夢の中で気付いた途端、これが幾晩も繰り返されていることにも気付く。

 今日はもう、五日目くらいにはなるだろうか。

『憎くはないか』

 誰かの問いかけが響く。

 ざらりと心の内側を舐めるような、暗い記憶を引きずり出すような声。言葉。

「……だから、だれなんです。あなたは」

 問うことにも疲れてきた。

 不思議なもので、目覚めて忘れているときにはまったく気にならないと言うのにこうして夢に立ち戻るととたんにいままで延々と暗闇の中で得体の知れない声と問答を繰り返してきた疲れに気付く。

 ずっと、この闇に閉じこめられている気がする。

 昼間起きている時の事が、朧になる。

 ふと考えてしまう。

 もしかして今も自分は、あの誰もいない一人きりの公園で、ただ寒さに凍えながら夜明けが来るのを待ち続けているんじゃないだろうか。

 夜明けさえ来れば、どうにかなると思っているんじゃないだろうか。

『お前の、生まれ故郷を奪ったもの。祖母の祀っていた神を殺したもの。祖父から生きる気力を潰えたものを、憎く思ったことはないのか。行人』

「………それは、ある、……けど」

『あるのだろう。世界のすべてを憎んだことが』

「………」

 村を出たのは二年前だ。あの、満々と水を湛えたダムの底に、かつて暮らした家と祖母の祀っていた社があると思うことに耐えきれなくなった。

 家は借家で、祖父のものを片付けてしまえば残るものなどいくらもなかった。土地の持ち主が早くうわものを整理してあの場所に新しい施設を建てたがっているのも知っていた。

 ダムのおかげで町になり、財政的に潤った役場には色々と新しい計画があったらしい。

 すべてを置いて、逃げるように行人は都会へ出てきた。

 そうすれば忘れられるものもあると思っていたのに。

 響く声は、微かな喜色を帯びていた。

『……そうだ。忘れてしまえ』

「……なにを」

『なにもかも。……憎しみ以外のすべてを』

「……いやだ」

『もう遅い』

「……………いやだ……」

 ゆっくりと意識が閉ざされる。

 夢の中で眠るなんて馬鹿げてるとふと思ったけれど、夢の中の夢に、行人は落ちていった。

 

 











 

 珍しくいつもより行人の目覚めが遅かったので、おやと思った。

 開店は十二時、間に1時間ほどの休みの時間は取るし、花楽との交代時間はあるものの、明け方の三時まで思えば十五時間開きっぱなしの店に拘束されている。

 労働管理局にでも訴えられれば即指導ものの働かせようだが、行人は文句の一つも言ったことがない。

 それどころか楽しそうだ。 

 しかしいくらなんでも甘え過ぎだったかと内心ではこっそり反省し、店番の時間をちゃんと決めて、行人に午後から夕飯に掛けて何時間かはまとめての休憩を作ろうと思う。

 今のままでは休みの日でもなければ買い物をすることもままならないだろう。

 なにしろ長く人を使ったことがないので、花楽の方もまだ勝手が掴めていなかった。

 しかしそろそろそう言ったこともちゃんとするべきだと思う。

 これからも長く勤めてもらうのならば。

 ぎしぎしと階段の軋む音が聞こえた。水屋との境の暖簾をくぐって、行人が現れる。

「遅かったな」

「……花楽さん」

 行人はすっかり身支度を整えていて、おやと思う。

 現れた行人が不意に花楽の前に座り込んで手を付いた。

「すみません、花楽さん。今日でここを辞めさせていただきます」

 畳についた手がずいぶん大きいなとふと馬鹿なことを思う。

「オレの都合なので、今までの給料はいりません。本当にお世話になりました、ありがとうございます」

「……待て」

「なんのご恩も返せず、本当にすみません。ありがとうございます」

「待て、行人」

 言いたいだけ言って、さっさと行人は立ち上がってしまう。

 その服の袖を掴み損ねて、慌てて花楽も立ち上がった。

 行人はもう靴を突っかけ、店の土間へと下りている。

「おい!」

「すみません。本当に。……オレは、田舎へ帰らなきゃ……」

 掴んだ袖を振り払われる。

 こちらを見ようとしないその横顔に、かっと頭に血が昇った。

 無言でもう一度腕を掴まえる。

 今度は振り払おうとしても払えない強さで。

「花楽さん……オレは、帰らなきゃ」

「うるさい」

 穏やかな言葉とは裏腹な強さと強引さで花楽を払おうとした腕を逆手に取り、軽く引く。

「…ッ!」

 あっというまにふわりと浮いた行人の身体が、店の品物を巻き込みつつ土間に叩きつけられた。

 店の前を丁度通る人がいたら何事かと覗き込んでいきそうな酷い破壊音が響き渡る。

「……ああ。気に入ってたのにな、あの緑のグラス」

「すぐに腕力に訴えようとするアンタがいけないんだろう」

 いつの間にかひなたぼっこの定位置からひらりと下りてきた甘露が、仰向けに受け身も取れず叩きつけられた行人の胸の上にひょいと飛び乗る。

 その黄色い飴玉のような眼を行人の視線にひたりと合わせて、行人、動くなと鳴いた。

 途端、暴れ掛けていた行人がそのまま止まる。

「まったく。アンタも大概暴力的だね」

「うるさい。こいつが勝手に出ていこうとしたのが悪い。

……どうだ、甘露」

「まだよくわからないねぇ……」

 動かなくなったまま、眼だけは天井を見上げている行人をこのままにして置くわけにはいくまい。 

 甘露の言葉が解ければまたすぐに出ていこうとするだろう。

「……とりあえず部屋に運ぶか」

「あたしゃ、嫌だよ」

「………」

 しかめ面のまま、花楽は仰向けに転がった行人の身体の両脇に手を差し入れて引きずり上げる。

 これくらいならば一人で運ぶのに何の支障もない。

 それは明らかに花楽の外見から計れる力を逸脱しているので、あまり人前にさらしたいものではないが。

 行人の意識が無いといい。

 ちらとそう思いながら、とりあえずその大きな体を六畳間に転がす。

「甘露。しゃべれるようにしろ」

「はいよ。……話して良いよ、行人」

 甘露がそう言った途端、急いた様子で行人が口を開く。

「花楽さん。オレは、帰らないと」

「やかましい。朝になって突然出て行こうとは、虫が良すぎる。辞表は最低一月前だ、常識だろう」

「そ、それはすみませんでした……でも、オレ」

「だいたい昨日までは何も言っていなかったくせに、辞表の前には上司に意向を伝えておくのも常識だ」

「そ、そうなんですか。ほんとにすみません、オレ、ちゃんとした務めをしたことが無くて」

 ずれてるよ、と呆れた声で呟いて甘露がちょんちょんと前脚で花楽をつつく。

「うるさい、わかってる。……だがこれは、間違いなく行人だろうな」

「そうだねぇ。でなけりゃこの状況でこんな間抜けな応え、しないよ」

 で、と花楽は先を続けた。

「どうして、急に田舎に帰るなんて言いだしたんだ。お前の家は、もう無いんだろう」

「………はい」

 ふ、と暗い色がその眼に兆す。

 ざわりと胸の内が騒いだ。

「ありません。なにも。……祖母と祖父の家も、祖母の守った社も、オレのいた場所は、全部」

 すべてあの水の底です。

 見たこともないような小暗い表情で行人はそう呟いた。

「村が、水の底に消えて、じいちゃんが亡くなって、それから一年だけどうにか村から町になったあの場所で過ごしました。でも、どうしても、駄目だった」

「………」

「あの水の底に今までの全部があると思うとやりきれない気持ちになりました。オレが生まれ育った家も、ばあちゃんが守っていた社の神様も、思い出も、全部。……オレだけじゃなくて、みんなそう思っていたと思う。けど、オレは、我慢しきることができなくて、あの場所を出ました」

 甘露の呪〈じゅ〉で動けないはずの爪が畳を掻いた。

「忘れようとしました。でも、駄目でした」

「なにが?」

「夜明けの度に……オレは、あのダムの湖に行って、あの朝焼けの美しさに、太陽に照らされた水に、全部流してしまえないだろうかと思ってました。でもどうしても捨てきれないものばっかりがあった。東京に来ても、朝焼けの度に思い出します。あのダムのほとりで一人でいた時のことを」

「………」

「夜さえ、明ければ。……どうにかなると思っていたのに」

 呟く声は掠れていた。

 どうしても捨てきれないものを抱えたまま、流れ流れてこの場所へたどり着いた人間の、苦痛がその声にはあった。

 涙さえ浮かばない眼には暗い影が澱む。

「それで?生まれた村へ戻って、お前は、どうするつもりなんだ」

「………どうしましょう。どうすれば、いいんでしょう。ねえ、花楽さん」

「オレが知るか」

 顔をしかめて花楽は吐き捨てる。

 彼の哀しみは彼一人のものだ。花楽が触れられるものではない。

「最初は……あのダムの建設に関わった役員を、一人ずつ、殺していけば気が済むのかと思ってました。村の財政と自分たちの私腹を肥やすためにダムを誘致した人々を」

「………」

「けど、それじゃ、あのダムは消えません。村も戻ってこない」

「そうだな」

「じゃあ……あのダムを爆破とか、すれば良いんでしょうか。あの水を流してしまえば、村はもう一度姿を見せるはずなんです」

「………」

「どうするか……どうしようか。村に行くまでに、考えようと、思っていて」

 花楽は深いため息を付いた。

「甘露」

「はいよ」

 また行人の胸に飛び乗った甘露が、飴玉のようだと花楽の母にもてはやされた黄色い眼を合わせて、行人、もう眠りなと優しい声で呟く。

 天井を見据えていた眼が、ゆっくりと閉じられた。

「………薄墨め」

「引き裂いて、ばらばらにして、二度と戻れないようにしてやろうよ、花楽」

 天井を睨む。

 甘露の言葉通り、バラバラにしてやっても飽き足りない気がする。

 彼の胸の奥に凝っていたやりきれないものに無遠慮に手を突っ込み、引きずり出してさらけだすこのやり方は、薄墨の得意とするところだ。

 花楽の夢に現れたように。

「……どうすれば解ける?」

「さあてね……薄墨に聞くのが一番手っ取り早いが」

「行人が出ていかなければ、薄墨はまた現れると思うか」

「そうだね。夕べ手中に落ちたと思っているはずだ、今夜は確かめに来るかも知れない」

「じゃあ、それを待とう」

 急く気持ちを押し殺して、花楽はそう言った。



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