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 キスをした。あの男と。

 名前も覚えていない誰かと交わしたことはある。男でも女でも、イチの容姿に惹かれて誘いをかける者は時折いた。

 戯れに、あるいは駆け引きのために、イチはそうやって触れることを許した。

 知り合いのうち幾人かはもっと深く身体を切り売りする者もいた。そうやって金や慰めを求める事をあさましいとは思わなかったけれど、自分が得るものの少なさにも気付いていたので、イチは売春をしたことがない。

 肌を交わすことを慰めだとは思えなかった。

 けれど東乃が、あんな風に唇を重ねて、奪うことも求めることもせずただ柔らかな熱だけを伝えてきたので、少しだけ勘違いをしたのだ。

 大切にされているような気がした。

「………くそ」

 口の中で小さく罵る。

 周囲には煌びやかなネオンサインが踊っている。新宿方面に向かうわけには行かなかったので御苑を抜け、大きく回り込んで渋谷へ来た。ひとまずどこかへ落ち着いて、今後の算段を立てなければならない。

 あの屋敷で安穏と暮らしていたこの十日ほどのことを思うと、心底腹が立ってくる。いつの間にか見ず知らずの男達を信用するようになっていた自分の愚かさに。

 人が溢れかえる渋谷の表通りを真っ直ぐに抜けて、ネオンサインの光量がぐっと落ちた裏通りには、安いラブホテルが乱立している。

 一人でも入れる、オートチェックインのホテルを探そうとした矢先に、向かいから来た男が立ち止まった。

 つい先日と同じ既視感。

 とっさに身を翻して駆け出そうとして、背後にも人影があることに気がつく。宿泊にはまだ少々時間の早い裏通りは、通行人が居ない。とっさに背後に壁を負うと、数人の男達がイチを囲むように路地に立った。

「イチ、だな。悪いようにはしない、私達と一緒に来て欲しい」「…………」

 目の前に立った男は、思いの外丁寧な言葉でそう言う。

 けれど含まれた事務的な硬質さに気付かないわけはなく、彼等はただ仕事としてイチを連れていこうとしているのだろうと察せられた。

 その依頼を、誰がしたのかが問題なのだ。

「………あんた達が、ナツを連れていったのか」

「来ればわかる」

 なにも答える気はないと男は明確に態度で示していて、一瞬イチは逡巡した。

 出来る限り暴れてみるか、あるいは彼等と一緒に行くか。

 来ればわかる、と言ったその言葉は欠片ほどの信頼にも値しないけれど、事態が何らかの方向に動くことは確かだ。

 傾く針の先がどこを指すかは知らない。

 あるいは想像の中の最も悪い方へと動くのかも知れず、そうなったらイチも生きてはいられないだろう。

「さあ」

 けれどそれでも良いかと、一瞬そう思ってしまった隙を縫うように男の手が腕を捕らえる。

 イチが覚悟を決めようとしたその瞬間、薄暗い路地に声が響き渡った。

「イチ!!」  

「……ッ!!」

 弾かれたように向き直った先には、息せき切った見慣れた顔の男が立っていた。

「………東乃」

 男達が一斉に動く。イチを捕らえた男はその身体を引きずるように東乃に背を向けて、残りの男達は東乃の方へ。

「ッ逃げろッ、東乃!!」

 とっさに叫んだイチは、手に持った鞄を思い切り男の顔面へ振り回す。男がそれを払うのを同時に、股間を蹴り上げた。

 たまらず呻いてくずおれたその手から腕を取り戻して、振り返る。

「東乃!」

 狭い路地では、東乃が三人の男を相手にしていた。

 閃いたその拳が先頭の一人を殴り倒し、次いで繰り出された拳をかわして、最後にいた男を腕をとる。

「…ギャ…ッ!!」

 ボキリと言う鈍い音。おかしな方向へねじ曲がった肘を抱いて甲高い悲鳴を上げる男を、東乃が引きずるように二人目へと突き飛ばす。

 その躊躇いの無さにイチは思わず呆然とした。

 こんな風に簡単に人を害する事が出来る男だと思ったことはなかった。いつでも人好きのする笑みを浮かべて、柔らかい喋り方をする穏やかな男だと思っていたのに。

 壁に叩きつけられてふらふらしている二人目の男の腹に、東乃が拳を叩き込む。壁から跳ね返った衝撃に呻いてたちまち男は昏倒した。

「……東乃ッ!もういい!」

 叫んだイチに、東乃がさらに男を蹴りつけようとしていた脚を止めた。

「………逃げよう。さっさと」

「ああ……うん、そうだな」

 瞬きをし、我に返ったように、東乃が頷く。その脇をすり抜けて駆け出すと、後に続く足音。

 腕をへし折られた男の呻き声が、ひどく耳についた。

 









 

 駆け通しに駆けて、松濤の高級住宅街を通り抜ける頃にはすっかり息が上がっていた。少しも遅れず着いてきた男は、すぐ後ろでやはり息を荒げている。

「………っ、な、んてタイミング、だよ……あんた、あと、つけてたのか」

「いいや……つけてたら、もっと、早く、出ていったよ」

 馬鹿馬鹿しくて笑い出しそうになった。あれが偶然だとしたらなんて出来すぎなんだろう。そんなドラマのようなことが、現実にあるはずがない。

「嘘は……もっとばれないようにつけよ。まああのタイミングじゃ、どんなに言いつくろっても無理だけどな」

「ほんとに、嘘じゃない。嘘は……一つもついてない、イチ」

「それを信用しろって?」

 住宅街の夜道には人気がない。

 一定の間隔で灯った街灯だけが、白く道を照らし出している。

 歩くうちに息は整って、イチはあの混乱の中でそれでも持ってきた鞄をしっかりと肩に掛け直す。

「イチ」

 けれども駆け出そうと思った気配を察したのか、東乃がその鞄のベルトを取った。

「……離せよ」

「離さないよ。イチ、あんなにタイミングが良かったのは、人手を借りたからだ」

「………人手?」

「そう。事務所で時々アルバイトに来てもらってる学生達と……あと、オレの、兄に」

「兄だって?」

 あの広い屋敷に一人きりで住んでいる東乃にまさか肉親が居たとは思わなくて、思わず振り返る。彼に近しい者は、毎日あそこに出勤してくる狐原のことしか知らなかった。

 問いかけたこともない。

「ああ。えーと………オレの兄は、いわゆるヤクザで」

「………」

「新宿とか、渋谷とかはそれぞれ分割していくつかの組が治めてるんだ……さらにその上に、大きな組があって。ええと、兄は、その大きな組の……まぁ、偉い人でね」

 実に説明しづらそうに東乃が言葉を重ねる。その困ったような顔とヤクザという言葉がまったく不釣り合いで、たぶん不信感一杯に見てしまったのだろう。

 嘘じゃない、と彼はまた繰り返す。

「けど、その大きな組の人は基本的にその下の組のことには嘴を突っ込まないことになっているんだ。だから、新宿のヤクザがイチの仲間達の件に関わっているかどうかも、はっきりとはわからない。……あまり役に立たなくてすまない。でも狐原が言ったように、ナツの事を疑っているわけじゃない。探索もちゃんとしている。………信じてくれないか」

 ふい、とイチは視線を逸らす。

 信じてくれというその顔を見ていると、望まない答えを返してしまいそうだった。狐原と東乃の疑いを聞いて、あんなに憤ったあの熱は、もう通り過ぎてしまった。

 じわじわと腹を灼くものがあっても冷静な思考の妨げにはならない。

 彼等を信用せず、けれど利用して、ナツ達の居所を探すのが最も安全な道だとそう判断する理性を押し潰して、イチは足早に歩いた。

「イチ……怒ってるのか?」

「………」

「それとも……オレが、いやになった?」

「……………あんたが?」

 東乃のらしくもなく落ちた声がして、イチはつい歩調を緩めてしまう。

「さっき………見ただろう。時々、オレは、あんな風にカッとなる」

「………」

「止められないんだ。イチが連れてかれると思ったら、全員……殺してやりたくなった」

「………なんで」

 躊躇ってイチは口を開く。東乃に、そんな風に言われる理由が良く分からない。

「なんで、あんたがそんな事言うんだ。……オレは依頼を取り下げただろ、もう」    

「関係ないよ。イチ。……本当は、もう、料金なんかもらわなく立って良いんだ。……まぁ狐原は怒るだろうけど」

 でも、と東乃は続ける。

「特別な、気がするんだ。イチ、君が。だから……オレが厭でないなら、戻ってきてくれ」

「…………」

「それとも……やっぱりオレが怖い?」

「………誰に言ってるんだ。別に怖くない……暴力なんか」

 殊更に顔を顰めてイチはそう言い捨てる。

 酷く心が揺らいでいた。たぶん彼にとってとても重要なことで、イチを引き止めようとしている東乃に。

 けれど彼の言うように留まるべき理由が上手く見付からなくて、イチは戸惑う。

「イチ」

 さらに東乃が何かを言おうとしたときに、ふいに住宅地の静寂を縫って電子的な音が響き渡った。

「………すまんイチ、オレの携帯だ。ちょっと待って」

 もしもし狐原か、という声がしてイチはそのまま駆け出してしまおうかと思う。

 けれどそれを止める言葉が、東乃の唇から零れた。

「……なんだって?え、イチの仲間が見付かった?」

 

 

 

 


















 

 布団に寝かされたさくらは、酷く白い顔をしていた。 

 規則正しい微かな寝息がそれでも彼の眠りが穏やかなものであることを知らせていて、イチは小さくため息を落とす。

 離そうとしない手を、そうっと外す。

 堅く引き結ばれた唇も顔を隠すばさばさと長い髪も皆別れたときと同じなのに、とても痩せてしまっていた。

 イチの顔を見て、声にならない声を上げて飛びついてきた小さな手。細い腕がガタガタと震えて、宥めるためにイチは繰り返し言葉を重ねた。

 大丈夫だから、と

 自分でも信じていない嘘を、イチは上手につくことが出来る。

「………さくらを頼む」

 布団の足元に丸まっていた三毛猫に声をかけて、彼女がにゃあと返事をしてから、イチは縁側へ出た。

 月の見えない晩で、庭の灯籠に灯りが入っていることにふと気がついた。ゆらゆらと揺れる橙の火は本物の炎ではなく、けれどその暖かさと光が僅かに心を慰める。

 まだ早い夏の夜は昼の熱をすっかり忘れたかのように涼しく、御苑から渡る風が木々をそよがせていた。

 腰を下ろして深くため息をつくと、軋んだ足音がする。

 やってきた東乃が暖かなカップを差し出して、イチは甘い香りが立つそれを黙って受け取った。口を付けると、ミルクティーの味がする。

 彼の作る食事を、そういえば最初から食べていたのだとふと思い出す。

 いつの間にこんなに無防備に人が差し出すものを口にするようになったのだろう。

「具合は?」

「寝てる。……明日には、ちゃんと起きられるだろ」

 深く息をつく。閉じた眼裏にちらちらと橙の光が踊って、まいった、と思う。とても疲れていた。

「さくら、だっけ。いい名前だね」

 名字と名前どっちだろうね、と東乃が言うのに笑い、けれどそれは決して心を癒すものではなくて、こみ上げる衝動のままにイチは肩を揺らす。

「イチ?」

「………なぁ、あんたから見て、オレ達は不幸せだろう?」

「…………」

「どんなに、どんなに不遇でも………そう簡単にオレ達は死ねない。腹が減れば道ばたに食べ物は捨ててあるし、寒いなら潜り込める場所がいくらでもある。金とか、食べ物とか、そんなものだけくれて寄越して、生きろって言われる。

 オレ達はただ生きてるだけで、それはあんた達みたいなまともな人間から見たらとても可哀想なガキだってことで、もともともらえなかったものなんか必要だと思ってないはずなのにそうやってオレ達を見るあんたの眼がオレ達には足りないものがあるって言う」

「……………」

「あいつの身体には桜の花びらみたいに赤い痕が散ってる。親に煙草を押しつけられた跡だ」

 たぶんぎらぎらと炯〈ひか〉る眼で、イチは東乃を見ている。

 憎しみは彼に向けたものではなく、けれどこのやりきれなさの何分の一かは彼のためだ。

 この不幸、不遇を、ただそれだけの理由で労られることがイチにはたまらない。それでも生きてきたという矜持、イチがイチを捨てていないと言う、自分達にとってただ一つの誇りを踏みにじられる気がするからだ。 

「………そうだね。イチ」

 酷く真面目な顔で東乃は頷いた。

「オレが……傷つけているなら、ごめん。イチの境遇を、可哀想だと思ってしまって、ごめん。でも」

 夜の闇は優しい。

 白日にはさらけ出せない心を、どうしてもそこに在る傷を、見えないものにする。

「でも、オレは………イチを、とても尊敬する」

「………」

「君の、その強さが、とても好きだよ」

「…………別に、あんたに好いてもらわなくてもいい」

「けれどね」

 優しい口調で、東乃は続ける。

 傍らに、イチと同じところを見て座ったその身体は、ほんの少しだけ遠かった。

 

 

 

 言葉を選ぶことは出来なかった。

 本当のことしか、彼に伝わらないともう知っていた。

「イチ。……一人で生きることは、出来ないよ」

「え?」

「一人きりで立ち続けることも、生きることも、時を過ごすことも……人には、できないよ。どんなに、強くとも」

「……………」

「君は聡明だ。頭が良く、行動力があって、人に分け与えることも守ることも知っている。それならもう気付いているだろう?そうやって君が往く道の先には何もないことに」

 残酷な言葉だろうか。

 無遠慮で、無神経で、無責任な、彼を責めるだけの。

 けれどその言葉を留めることが出来ないほどには、東乃は、イチを知りたいと思っていた。

 その傷や、痛みや、哀しみや、イチが晒すことも出来ないでいる隠された場所を少しだけ暖めて、そしてそんな風に傷を増やすことはないのだと言いたかった。

「………できるさ」イチの、掠れた低い声。

「一人きりで生きる事なんて、簡単だ。何を無くしてもかまわないと思えばいい。元々何も持ってないんだから、元の場所に帰るだけだ」

「イチ。それなら何故、君はここにいる」

「…………」

「どうして、ナツを捜しているんだい」

「寝覚めが悪いからだ」

 明瞭な答えはどこにも嘘があるようには聞こえない。

「こんな風に唐突に消えられて、オレの縄張りを荒らされてだまっていられるわけがないだろう。……相手の正体が知れたら、やめるかどうか考える」

 彼の眼が真っ直ぐに東乃を見て、まるで真実のように揺るぎなく、語るからだ。

 

 

 一人きりで生きることは簡単だ。

 自分には何もいらないと、一人で立っているのだと、ただそう思いこめばいい。

 その言葉は薄い壁になり、外界と心を遮断する。鈍った感覚は痛まなくなる。

 そうやって少しだけ自分をごまかして生きることを、イチはずいぶん幼い頃に覚えた。

「………できるさ」

 聡明だと言った東乃の言葉はちっとも嬉しくない。彼の顔が悲しげで、たぶん美徳にあたるはずのイチのそう言った場所を少しも喜んでいないことが知れるからだろうか。

「一人きりで生きる事なんて、簡単だ。何を無くしてもかまわないと思えばいい。元々何も持ってないんだから、元の場所に帰るだけだ」

 何もない、何も手に入れられない。

 東乃の言葉は酷く露骨だ。

 どんなオブラートにもくるまれてはおらず、たぶんそれが真実だから、真実だと東乃が信じているから残酷だ。

 こんな風に心を掴まれたことはなかった。

「イチ。それなら何故、君はここにいる」

「…………」

「どうして、ナツを捜しているんだい」

「寝覚めが悪いからだ」

 それは本当だった。

 昨日まで共に暮らしていた相手に失踪されて、何らかの事件に巻き込まれて、すべてを放り捨てて逃げ出す事が出来るほどイチのプライドは低くはない。

「こんな風に唐突に消えられて、オレの縄張りを荒らされてだまっていられるわけがないだろう。……相手の正体が知れたら、やめるかどうか考える」

 そして真実と少しだけしか違わない重さの嘘をつく。

 嘘をつく一番の方法は、嘘が嘘だと知れるその瞬間まで、自分を騙し続けることだ。

 だから真っ直ぐに東乃を見て、ナツが居なくなったこともさくらと咲希が攫われたことも拓が裏切ったことも何一つ自分を傷付けはしないのだと彼に言う。

 この背後の部屋でやせ細ったさくらが眠っている、そのことすら。

 東乃の薄茶の眼が月光を湛えて濡れた。

 造り物のように綺麗な涙が綺麗な曲線を描いて滴って、ただイチはそれを見ていた。

「イチ」

「………なに」

「イチ。この世でいちばん不幸なことが何か、知っているかい」

「不幸?」

 そんなものはたくさんある。

 誰の足元にも転がっていて、不条理に人を蹴躓かせる。

 世の中は不公平で不安定で不合理で、とにかく不のつく言葉など枚挙に暇がない。
 いちばん、など。考えたこともない。

「………さあ。腹が減ることかな」

「そうだな。腹が減るのは、不幸だな」 

 涙の筋をつけたまま東乃が微かに笑って、イチ、ともう一度東乃が名を呼んだ。

「イチ。この世でいちばん不幸なことは、愛するものがないことだよ」

「…………」

「誰にも何にも心を渡さず、受け取ることもしないで、一生を終える以上に不幸なことは、なにもないんだ。……イチ、恋をしなさい」

「……ずいぶんな……きれいごとだ」

「恋をしなさい。ひとに、ものに、夢に、幸〈さいわい〉や希望や、憧れるものすべてに。叶わなくとも、終わるものでも」

「…………」

「それだけが、人を ---------- 本当に、生かすんだ」

 綺麗事だと笑うことも出来た。イチが生きてきた場所のどこにもそんな言葉はなく、しがみついた生はいつでも生々しい感情と欲に満ちていて、付けられる傷は痛い。

 けれど月を映した東乃の眼はひたすらにその綺麗事を信じている。

「イチ」

 少しだけ、揺らいだ。

 そんな風に闇雲に信じることが出来る綺麗なものを、イチは知らない。

 そして労りや慰めのようにそうっと触れた唇を、イチは避けることが出来なかった。 

 







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