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◆◆◆ 恋をする ◆◆◆

 

 

 彼女の心の中心にいるのはいつも彼女自身だった。いささかのぶれもない彼女の描く円の中には入る余地が少しも無くて、いつもその外側から眺めることしかできなかった。

 自分に与えられるものがないと知ったのはいつの頃だっただろう。

 たぶんイチは、他の子供達より少しだけ早く、世界の有り様が見えるようになった。

 狭いアパートの部屋の片隅で膝を抱えながら。

 寒い公園のベンチで冷たく凝る息を眺めながら。 

 誰もいない教室の椅子に座って図書室の本を読みながら。

 イチは、自分と自分を取り巻く世界の在り方を、考えるようになった。

 世界の大半は母親で、その他少しが何度か入れ替わった父親、後のものはすべて壁に掛かった絵に似ていた。眺めることは出来ても触れることは出来ず、一枚を隔てた向こう側にあって自分とは直接関わらないものだ。

 彼女の心を得られるように努力した期間は短かったように思う。あるいは、覚えていないだけなのかも知れない。

 必要のないことを忘れていくのは、イチの身に付いた処世術だった。

 眼を閉じて思い返しても、父親どころか母の顔も浮かんでは来ない。

 母が、たぶん母親というものに対する才能をまったく持っていないのだと気付いたのも早かった。どんなに努力をしても、彼女の興を引く事をして見せても、それは彼女自身と彼女の男を越えるものにはならなかった。

 イチは自分を責めることを諦めた。

 自分のなにかを変えれば母親に好いてもらえるのだと信じることをやめにした。

 今まで壁に掛かった絵だと思っていたものを手に入れ、世界の中心に据えようと足掻いて、それは少しだけ成功した。

 同じ家にいながら他人のように暮らす日々が過ぎていって、そうしてふいと彼女が消えたのはもうすぐ中学を卒業する冬のことだった。

 

 

 

「………母さん?」

 しんと冷えた部屋の中に母親の姿はない。

 母とイチの暮らす1DKのアパートは、いつも母の物でひどく散らかっていた。ばさばさと脱ぎ捨てられた洋服、中途半端に使って投げ出された化粧品、壊れたバッグに読みかけの女性雑誌。

 虫がわくのが厭だったので食べ物だけは綺麗に片づけていたけれど、その他の物にイチが手を触れることはなかった。

 それは彼女の物で、自分が触れる物ではない。

 そうやって境界線を引いて、自分を見ずただ気紛れに時折ちょっかいをかけてくる彼女との暮らしを続けていた。

 雑多なその部屋の中。

 少しだけ物が減ったように見えるのは、気のせいだろうか。

 いつもなら奥の部屋でまだ眠っているはずの母親の姿は見えない。蝉の抜け殻のように形を残して、薄い毛布が盛り上がっていた。

「母さん」

 狭い押入を引っかき回した跡。その中にあった一番大きな鞄が消えていて、服を外したらしいハンガーがそこかしこに散らばっている。

「………」

 一つだけ有る小さな箪笥の、引き出しが中途半端に開いているのを見て、イチはそこへ歩み寄った。

 通帳、印鑑、現金。色々な物がなくなっていて、出ていったのか、とイチは思った。

 母親に新しい男がいたことは知っている。

 何度も何度も男を変えて、その内幾度かは結婚もしたはずなのに、いつも続かなかった。イチが居るせいだと、甲高く喚きながら詰った。

 イチを邪魔に思う男に惚れたのだろう。

 子供が居ないならと囁かれてその気になったのかも知れない、それともイチが居ては駄目だと、自分で、思ったのだろうか。この狭い部屋の中からいるものだけを鞄の中に詰め込んで、男の手を取って、心も残さずに出ていったのだろうか。

「…ッ」

 抜けかけた箪笥の引き出しを引っ張り出し、がらがらと中のものがこぼれおちるのもかまわずに振り上げて、思い切り畳に叩きつけた。

 バン、と間抜けな音がする。

「……産まなきゃ…良かったんだ」

 イチは選ばれなかった。

 もうなにも期待しない、自分が責めを負うことはないと遠い昔決めたはずなのに、そうして今までで一番傷ついたことはイチが決めたそれに欠片も母が揺らがなかったことだ。

 たぶん彼女は気付いてさえ居ない。

 部屋を片づけることや、食事を作ること、彼女に挨拶をし、機嫌を伺い、楽しげな話題を振るのをやめたことにすら。

 この喪失がただ清々することだ、そう思えたらどんなに良いだろう。

 傷つくことなど、なにもないのだと。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

「実はさー」

 その後に続く言葉を狐原は断固として聞きたくなかった。 

 東乃のこの口調、この台詞はろくな事がない。

 年数にして当に二桁を越す付き合いの中でそれは実証済みで、思わず続きを聞く前に止めてやろうかと傍らに置いてあったガラスの灰皿を掴む。

 残念ながら叶わなかったが。

「オレ、イチに、キスしちゃったんだよね」

「……ッ」

 言葉は止められなかったが手も止められず、掴んだ灰皿を狐原は思いきり投げつける。

「ギャ…ッ!な、なにすんだテメェッ!!」

 間一髪のところで東乃は避け、砕け散った灰皿はひどい音をたてた。けれどそれにかまわず狐原はパソコンの前からゆらりと立ち上がる。

「………何回だ」

「な、なんかい?え?」

「あのクソガキにキスしたんだろう」

「えーとえーと。……さんかい…ぎゃッ!」

 今度は飛んだのは中身入りのマグカップで、しまったと思ったが飛び散ったコーヒーの始末は東乃にさせることに決める。

「了承の上か」

「えーと……まぁ…タイミングを計って」

「隙を見て、というんだそれはッ!日本語は正しく使え、そして成人男性の理性も正しく使用しろ!!使えないとかほざくなら今この場でオレがその口を動かないようにしてやる…!!」

「わぁあッ!!ちょ、ちょっと勘弁…ッ」

 殺気だった形相で狐原が迫ると、だらしなくソファに寝そべっていた東乃が慌ててその背後へと転げ落ちる。その情けなさに思わず深いため息が落ちて、狐原は東乃の息の根を止めてしまおうという衝動をどうにかやり過ごした。

「………で?」

「え?」

「キスをしたがどうした。勢いでもその場の雰囲気でもそれくらいは出来るだろう何しろ減るモンじゃないしキス程度に狼狽えるような歳でもないしあのご面相だ」

「………すげー一息に言ったないま……や、そりゃ勢いとかでも……できるけど、でも」

「言っておくがそれは淫行罪だ」

 断じた狐原にさすがに東乃が厭そうな顔をする。

「歳を考えろ、そのお粗末な理性を働かせろとオレは最初からいったな?覚えていないわけじゃないだろう」

「覚えてるけどさ。言われて、まずいなと思って、それだけじゃとまんないものもあるだろう」

「………下半身と上半身どっちにだ」

「ひどい言われようだなオレ………言っておくけどキス以上はしてないぞ。舌も入れてない」

「あたりまえだ!!」

 また思い切り怒鳴って、のれんに腕押し糠に釘と言った東乃の様子に絶望的なため息を落とす。思えばこの男は昔からこうだった。少し安定の悪い彼の中には確たる則〈のり〉があって、それは認められないものではなかったけれど時折狐原と食い違う。

 東乃のどこを咎めたらいいのかと考えて、結論を出す。

「いいか、明里。どれほど頭が良くてもくそ生意気でも口が達者でも、アレは一応やせっぽちの十七歳のガキだ。体重は一.五倍、体格は倍も違う。くれぐれも、妙な気は起こすな」

「妙な気って?」

「いちいち聞き返すなっ!同意を得ずに押し倒すなっつってんだよ出来ることなら二十歳過ぎるまで手を出すな触るな見るなキスもするなッ!」

「………いや、見るなは無理だろ」

「無理だと!?」

「いやいやいや……落ち着け狐原」

「てめぇが落ち着かなくさせてんだよ!」

 どさりとソファに腰を下ろして、狐原は息を整える。

「………そこが問題なんだよ狐原」

「……………なにがだ」

「キスを……したいなと思ったんだけどもね。それでキスをしたんだけど、イチは、怒りもしないんだ。つーか、なんの反応も返してくれない」

「………オレが知るか」

 あまりと言えばあまりの相談に思わず伸びて、ソファの上で丸まっているペン太に懐く。模様がペンギンに似ているからペン太と身も蓋もない名付けをされたこの猫は基本的に人好きで陽気だが、散々大声を聞かされた今はさすがに迷惑そうな顔をしていた。

「大問題だろ……我慢してるのかな。それともオレ程度のキスじゃ何とも思わないって事か?どう思う、なぁ」

「オレが知るかっつってんだろ!?………明里、テメェが散々聞きたくもないこと聞かせてくれるんだったら、オレにも考えがあるぞ」

 据わった眼でじろりと東乃を睨め付ける。

 あの無愛想な少年の依頼を無理矢理受ける羽目になってから今日でもう十日だ。梅雨も明け、本格的な夏を迎えてクーラーの無い事務所は日々暑く、事件にはなんの進展もなくて、狐原はぼちぼち煮詰まってきている。

 進展しないことそれ自体に、ではなく。

 その掴み所の無さに。

「なんだよ」

「テメェの可愛いイチのことに関してだ。………明里、あいつが語っていることは、すべて真実だと思うか?」

「……どういうことだ」

「ナツ、と言う少年は、本当に実在したのかと聞いてんだ」

 東乃が顔を顰める。その表情に、狐原は彼も一度は 考えたことがあるのだとわかった。

「おかしいだろう。どう考えても。ナツという名を知っているものが誰もいない」

 昔住んでいた家の大家。新宿の顔馴染みだと言っていたキャバクラ嬢。あの界隈に居た少年のグループ。それどころか彼の棲んでいた長屋に出入りしていたという三人の少年の身許を突き止めてすら、ナツという少年の姿は欠片も見えてこなかった。

 誰もがそんな名は知らないと言い、少年達はあの壊れかけた長屋に住んでいたのは三人だと言った。

「イチのところに出入りしていたという三人だけならともかく、新宿のありとあらゆる人物に口止めするような手間を誰がかけられるって言うんだ?」

 たかだなつ、と言う名前は新宿どころか周辺のどの区の区役所でも見付からない。

 わざわざ出向いて虱潰しに調べたというのに。

「………実は大層な金持ちがからんでるのかもな」

「ふざけんな」

「ふざけてなんかいないさ。金と脅しをばらまいて口止めをして回ったんじゃないと、どうして言える?」

 東乃の言葉に眉を顰める。

「オレは真剣に話しているんだがな。明里」

「オレだって真剣だよ。狐原」

「…………ナツが居なかったとしたら、この事件はすべて違う方向に話が転がる。それが分かっていても、か?」

 意地の悪い質問を重ねる。

 そしてそれに東乃が答える前に、違う声が部屋に響いた。

「へぇ。なんでも屋ってのは、依頼人を疑うことから始めるんだな。知らなかった」

 ひどく皮肉な笑みを浮かべた少年が、廊下に立っていた。

 



 

 胸の奥にどろどろと熱が渦巻いている。

 目眩がするような興奮に捕らえられながら、それでも半分は冷えた頭の中でそう思った。

 いつもこうだ。

 いっそなにもかもわからなくなって、滅茶苦茶にしてしまうならば、もう少し楽だと思えるのに。

 ぐちゃぐちゃに壊してなにを償うことになっても、今この胸の内にある塊を抱え続けるよりは楽だろう。

 吐き出してしまいたくてイチは足掻く。

 けれどどんな酷い言葉、人を嘲り、貶〈おとし〉め、傷つける言葉でも、この塊は溶けない。

「へぇ。なんでも屋ってのは、依頼人を疑うことから始めるんだな。知らなかった」

 ソファから立ち上がった二人に笑いかける。

「そう言うことならオレは出ていくよ。依頼料は払わないけど良いよな?あんた達はオレを疑って、端からまともな調査をしていなかったと、そう思って良いんだろう?」

「イチ。そんな事は」

「うそつきだな」

 酷く憤〈いきどお〉ろしかった。

 吐き出すことも上手く出来ずに、イチは、ただ静かに言葉を重ねる。

 ナツはいたのに。

 どんな嘘もついてはいないのに。

 それでも彼等に、真実だと伝わる言葉はないのだ。

 母親に受け入れられるものがなかったように。

 そんな事でたやすく傷つく弱さをイチは憎んだ。

「さようなら」

「イチ!待てって……」

 踵を返し、ほんの十日ほどで慣れた廊下を駆け抜けて、あてがわれた部屋に置いてあった鞄を掴む。一つ切りで身の回りのものすべてが詰め込んである鞄。

 これさえ持てばもうイチはこの場所を出ていくことが出来てしまうのだ。

 びっくりしたように見開いた座布団の上の三毛猫の黄色い眼をちらりとみて、バイバイ、という。

 もうそんなに嫌いではなかった。

 柔らかな毛皮は手触りが良かった。

 眠っている間に擦り寄って、暖めてくれる体温も。  

 けれどそれらはすべてイチのものではない。

「イチ!」

 駆け込んできた東乃の脇をすり抜ける。庭に置いてあった靴を突っかけ、敷石の上を駆けていこうとして、腕を掴まれた。

「イチ…!ごめん、あんな事を聞かせて。けど、本気でそう思っているわけじゃない。あいつも、もちろんオレも」

「…………」

「ホントだ。手なんか抜いてない」

「…………でも、一度は考えただろう?」

 自分が今どんな顔をしているかが良く分からなかった。

 笑っているといい。

 こんな事はなんでもないと、そういう風に。

「…ッ」

 これ以上彼に言う言葉が見付からない。罵りでも、嘲りでも、あとなにか一つでも言葉を口にしたら、それと一緒に知りたくもないことがこぼれ落ちてきそうで。

 掴まれた手をくるりと返して、イチは東乃の手首を捕まえ、思い切り引いた。

「イチッ!?」

 体制の崩れたその腹に、思い切り膝を叩き込む。イチがそんな事をするわけはないと思っていたのだろう、それはまともにみぞおちに入って彼の手を緩ませた。

「バイバイ」

 その手を擦り抜けて駆け出す。行くあてはないけれど、ただ少しも脚を緩めないことだけが、今この怖れから逃げ出す唯一の方法だった。







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