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 まったく、と東乃は幾度めかの台詞を頭の中で繰り返す。

 無鉄砲にも程がある。仲間が心配なのも、伝手を見つけたら動かずにはおれない気持ちもわからないではない。

 けれど昨日の今日なのだ。

 新宿のどこで誰が見張っているかわからないし、捕まったらひとたまりもないだろう。いくらイチがあの歳には見合わない頭脳と行動力を持っていたとしても、非力な少年であることに変わりはないのだ。

 何故だか無性に苛々して、足元の石を強く蹴る。

 カン、と音をたてて道路脇の自動販売機にあたって小石が跳ね返るのを見ながら、子供じみたことをやめられない自分にももっと腹が立った。

「………しょうがないな。オレは……」

 ため息を落とし、その自販機で微糖のコーヒーを買って、歩きながら飲む。堪え性がないのは昔からだ。

 これでもずいぶんましになったけれど、十代真ん中辺りの遠い過去など深く深く墓穴を掘って埋めたあげくに地表にコンクリートを流し込んで百階建てビルを建設してやりたいような有様だった。

 あのマイナスの熱情と暗い淵は今もこの胸にあって、けれどそれは決してその他のすべてに優るものではないのだともう知っている。

 自分には何もなく、情を分けてくれる相手も居らず、傷つくこともないのだと、あの時は闇雲に思いこんでいた。

 何故あんなにも愚かになることが出来たのだろう。

 自分に与えられた傷を何倍にもして他人に押しつけて、誰の意図も汲まず、たくさんの人の手を振り払って、ただ一人きりで生きていけると信じ込んで。

 そうやって捨てたもの、傷つけたもの、壊したもののすべての取り返しが付いたとは今も思っていない。過去は触れられるほど近い場所にあって、いつでも東乃を見ている。

 いつかその報いが来るのかも知れないけれど。

「……あぁ…そっか」

 ふと、気付く。

 イチの、あの黒く静かな眼に惹かれるわけに。

 あの時、あの愚かさの中で憧れたすべてを、あの少年は持っているのだ。

 物事の真理を計る明晰な頭脳、自分の言いたいことを他者に伝える言葉、人になにか分け与えることの出来る優しさと、そして独りきりで立つ強さ。

 持つことはないと思っていたすべてのもの。

「………けど」

 薄ら甘いコーヒーを飲み上げて、コンビニの前のゴミ箱に捨てる。

「淋しいだろ……それじゃ」 

 今ならばわかる。あの時憧れたすべては、絵空事だった。

 傷つかない心も、独りきりで立つ脚も、どんなことにも揺らがない強さも、人にはないのだ。

 そう在ろうとすればただ苦しいだけで、そこにどれほどの無理が積もるのかは想像がつかない。

 東乃がかつて憧れただろうイチという少年の強さは、今の自分にはとても切ないものに思える。 そしてそれをどう彼に伝えればいいのかがわからなくて、東乃は、苛々しているのだ。 ようよう頭が冷えて、ため息をつく。

 いつでもこうして自分の心を試すすがめつするだけの時間と余裕が有ればいいのだけれど、現実はそうはいかなくて、取り敢えずみっともない姿を彼に見せることがなければいいと東乃は願った。

「………この辺か?」

 住所から家を割り出すのは、実は思いの外難しい。途中で立ち寄った図書館で住宅地図をコピーしてきたが、細かいマンションの名前までは載っていなかった。

 きょろきょろと見回すと、それらしいベージュのタイルのマンションが目に付く。今時珍しく暗証番号も無く、管理人も居ないエントランスを通り抜けて一階の一番奥の部屋を目指す。

 手書きの表札を確認してチャイムを押せば、やがてぶっきらぼうな声が聞こえた。

『…はい?』

「こんにちは。東乃と申しますが、拓君はおいでですか?」

『………だれ?』

 返る声の幼さに、これが本人かと当たりをつける。

「イチの……友人だ。君の話が聞きたくて来た。拓君かい?」

『……………』

 長い沈黙。答えは返らず、ダメかと思ったときにガチャリとノブの回る音がした。

「………イチの……友達だって?」

 チェーンをかけたまま上目遣いに東乃を伺う眼。警戒を解くためににっこりと笑いかけて、東乃は、平沢拓から情報を引き出すべく話し始めた。

 




「………知らない?」

「うん」

 上目遣いにおどおどと少年は東乃を見上げる。

「もう一度聞くよ。ナツ、と言う少年が、あの長屋にいたんだろう?六月末頃に居なくなったと聞いたんだが」

「だ、だから……知らない、いなかったよ」

「いなかった…?」

「そう。あ、あの場所にいたのは……イチと、さくらと、咲希だけだよ………」

 眉を顰めた東乃に、びくりと少年は後ずさる。助けを求めるように部屋を振り返ったけれど、中に人の居る気配はなかった。

「そんなに怯えなくて良い。なにもしないよ。……君は、平沢拓君なんだよね?間違いなく?イチに、図書館の名前を貸した」

「そうだよ。お、オレの名前でカード、作ってもらったんだ」

 平沢拓の顔に、僅かに誇らしげな色がのる。 

 イチのために何かしたことがある、と言うのが彼のささやかな自慢なのだろう。平沢拓の中で、そして彼等の小さなグループの中でイチがどういった位置に居たのかが伺い知れた。

「週に何日かは通っていた?」

「う、うん………」

「それで、ナツという少年には、会ったことがないのかい?」

「会ったことがないんじゃなくて……いなかったよ。あの家に暮らしてたのは、イチと、さくらと、咲希の、三人だけだよ」

 

 

 

 


















 

 

 

 今夜の月は丸かった。満月に少し足りない月は、けれど天上のすべての星を集めて光らせたように皓々と白い。

 その白い光が庭の木々をくっきりと照らし出しているのを眼で追いながら、東乃は、今日の話を切りだした。

「……知らない、だって?」

「ああ。平沢拓は、そう言った。あの場所に、ナツという少年はいなかったと」

「……………」

 東乃の隣で縁側に腰を下ろしたイチが、思案げに眉を顰めた。

 今夜は庭の照明も部屋の灯りも全部消してある。冴えた月光の白い光が、まるで海の底のように蒼く屋敷と二人を照らし出していた。

 キリ、とイチが爪を噛む。その仕草をどこかで見たと思って、始めに出会った倉庫の中でだと思い出す。

「深爪になるよ」

「………拓は」

 東乃の言葉に耳を貸さず、イチが言葉を投げる。

「嘘を言っている。様子がおかしくはなかったか?」

「ああ……とても、怯えていたけど。知らない大人が自分宛に尋ねてきたから…だけじゃ、ない、と思うけれど」

「あいつは、元からビビリだけどな。………ナツが、いなかった、か。ふん」

 きりきりと爪を噛む白い歯が微かに月に光る。彼の手の爪が当にぼろぼろなことに気がついて、東乃はその手に触れた。

「………なんだ。また、手を握りたくなったのか?あんたは、ちょっとそのクセを控えた方がいい」 

「癖じゃない。イチ、それ以上齧ると血が出るよ」

「放っておいてくれ。……東乃、明日はオレが拓に会いに行く」「駄目だ」

 言い出すだろうと思っていたので間髪入れずに返すと、イチは綺麗な弧を描く眉を僅かに顰めた。整った、けれどただ美しいと言うにはきつく鋭い色を常にのせた顔が、東乃を振り仰ぐ。「駄目だ。イチ。今日の昼間だって襲われたんだろう?相手は、どう変装をしても君を見逃さないと思った方がいい。ここから出るのは危険だ」

「かまわない」

「イチ」

「かまわない、と言ったろう。拓はオレが行かないと口を割らないだろう。金をもらったか、脅しを受けている。……あるいはその両方か」

「それは平沢拓から、君のことが相手に知れる可能性もあるって言うことだろう」

「そうだな」

 仲間の裏切りを、たやすくイチは口にする。当然というその顔がもどかしくて東乃は彼を止める言葉を探す。

「イチ。捜査は、オレと狐原がしているだろう。君はここで暫くじっとしててくれ。ほとぼりが冷めるまで」

「冷めないよ。どれだけ待てって言うんだ。……あんた達は、あんた達の仕事をしてくれればいい。オレは、オレの方法で捜すよ。ナツを」

「イチ」

 揺らがない黒い眼。

 人になにも任せきることの出来ない弱さ。

 自分で負う強さ。

 彼は独りきりで立っている、今この場所に眠り、食事をし、留まり、話をしていても。

 その事がとてももどかしく、東乃は指先を伸ばす。新宿で彼がまた襲われたと聞いて、もう過ぎたことなのにこんなに波立つ胸の内を伝える術〈すべ〉はないだろうか。

 たとえそれが彼にとってなんの意味も持たないものだとしても、教えたいと思う強欲さを留めることが出来ない。

「イチ。君が心配なんだ」

 そう言った東乃をちらりと見やる眼。変わらない表情になにを考えているかを読みとれず、言葉を重ねる。

「巻き込まれているのはオレ達じゃなく、イチ、君だ。わかっているだろう」

「そうだな。オレだ。そしてナツと、さくらと、咲希だ」

「…………」

 動かない表情。揺らがない声。

 黒曜石のような眼が庭の月光を映している。

「イチ」

 もしかしたらただ振り向かせたかったのかも知れない。

 その細い肩に手をかけて、衝動のまま、東乃は彼の薄い唇の端に小さなキスを落とした。







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