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 右脇にある暖かい身体。

 またか、とイチは夢現で思う。

 寝ている間に小さな身体は布団に滑り込んでくる。それで起きない自分を不思議に思うけれど、気付かない間にいつも彼女は傍らに寄り添う。

 昔はどんな些細なことでもすぐに眼を覚ましていた。

 道を行く大型トラックの音、朝刊を運ぶバイクの音、母親の甲高い声、乱暴に閉まる扉。

布団の中の暗闇で眼を凝らし、聞き耳を立てて、一つの音も逃さないように緊張していた。

 身構えなくて良い存在があるのだと、知ったのはいつのことだったろう。

 少しずつ覚醒する中で、名前を呼ぶ。

「……咲希。一人で寝ろって……言ったろう」

 小さな身体。六月で十二歳になったはずの彼女の発育はとても遅く、どう見ても小学生の低学年にしか見えない。甲高い声で、始終喋り続ける咲希は、眠っている間だけ大人しかった。

 三日に一度はイチの布団に潜り込んでくる彼女の信頼が嬉しくなかったと言えば嘘になる。

 けれど一人で、立たなければならないのだと、そう教えていたのに。

「咲希………」

 ゆるゆるとイチは眼を覚ました。

 傍らの小さな身体を揺り起こそうと手を伸ばし、違和感に眉を顰める。

「咲希?」

 有るべき場所に小さな身体がない。しっかりと眼を開き、彼女の状況を確かめようとした途端、目の前にぽっかりと赤い口が開き、白い牙が閃いた。

「……ぅわぁ…ッ!!!」

 近年滅多に出したことがないような大声をあげて、イチは布団から転がり出る。ばくばくと波打つ心臓を押さえて後ずされば、眠っていた部屋の状況が眼に入った。

 青い畳に、白い障子。高い天井はきれいな木目が浮いて、障子の上の欄間からは朝の白い太陽が射し込んでいる。

 ようやく東乃の屋敷に居ることを思い出して、乱れた息が少し整う。

 十pほど開いた障子の隙間からも朝の光が射し込んでいて、イチは傍らにいたものの正体に気がついた。

「……ッふ、ざけんなよ…ッ」

 悠々と布団に寝そべった三毛猫は、真っ赤な口を開けて大あくびをかましている。一瞬殺意を覚えてイチはずうずうしいその姿を睨みつけた。

 どうにもこのメスの三毛猫には馬鹿にされている気がしてならない。

「イチっ!どうした?」

 ばん、と障子を開け放たれてまた心臓が踊る。

 心配そうな顔をした東乃が部屋を覗き込んで、悲鳴を上げたみっともなさをごまかすようにイチは猫を指差した。

「………そいつ」

「あぁ……巴さん。おはよう」

「…………おはようじゃないだろ…」

「こんなとこに潜り込んでるなんて、よっぽどイチが気に入ったんだなぁ。冬だってオレと一緒には寝てくれないくせに」

 イチの状況が眼に入っていないのか笑いながらそう言う東乃の腕にはまた別の猫が抱えられていて、思わずため息をついた。

「……猫、何匹居るんだ」

「ああ、二匹。あと犬が一匹。こいつはペン太だ、よろしく。あと犬は、茶々丸っていう名前」

 ぴょいと東乃の腕から飛び降りた猫は、黒い身体に胸と口元と四つ足だけ白い。物珍しげに近寄ってくるのに思わずまたつい後ろへいざってしまった。

「………もしかしてイチ、猫が怖い?」

「……怖くない。苦手なだけだ」

「へーぇ。イチにも苦手なものがあるんだな」

 意外だなと笑う東乃はやけに嬉しそうだ。笑顔がしゃくに障ってイチは猫を無視し、さっさと立ち上がる。布団を畳む気配を感じ取ったのか三毛猫ものそのそと起き上がった。

「さ、ペン太、巴さん。御飯にしよう。イチ、洗面所は部屋を出て右に行った扉。支度が出来たら昨日の部屋においで。朝ご飯が出来てる」

「………あぁ」

 じゃあ、といって東乃が出ていく。

「………まったく……朝っぱらから」

 相当驚いたが、目覚めは悪くなかった。初めての場所だというのに思いの外深く眠ってしまったようだ。
仲間達を一度に失い、わけの分からない事態に巻き込まれてぴりぴりと尖っていた神経が少し凪いでいる。

 どんな時にも食べて眠ることは重要だ。

 布団を畳んだら、三毛猫の眠っていた場所だけまだほんの少し暖かかった。

 

 

 

 出された朝食を綺麗に片づけて、また変装をして出掛けるつもりで居たら、東乃と狐原両方に止められた。

「暫く外には出ない方がいい。イチの顔は知られてるし、昨日で女装もばれてしまったかも知れない」

「そうだな。この家の位置が知られるのも困る。明里、お前もちょっと変装をして行け」

 昨日の今日で出るのは確かに得策ではないと、イチも渋々納得した。東乃はああだこうだといろいろ試した末に、結局髪をくくってサングラスをかけ、スーツを着る程度に落ち着いた。

 まるでホストの客引きだなと思ったけれど、あの界隈では返ってその方が目立たないだろう。

 午前中から働くホストは居ない、と言うことを考えなければだが。

「今日はたぶん遅くなる。心配しないで待っていてくれ」

 知り合いの伝手を辿って、新宿で人身売買の組織が動いていないか探るのだと言っていた。
 狐原は洋間の事務所で仕事をしているようだが、イチは朝食が終わったら何もすることが無くなってしまった。

 仕方なく庭に面した縁側に腰掛けて、こうしてこの事態のことを考えている。

 今日は朝から小雨が降っていた。

 曇った空はけれどその向こうに近い夏の空を孕んで明るく、音もなく霧雨が庭の木々に降りかかっている。
 軒からぽたぽたと落ちる雨垂れが地面に穴を穿って波紋を作るのを、イチは眺めていた。

 何故だかイチのすぐ隣にはまたあの三毛猫が腰を下ろしてせっせと身体を舐めている。
 好かれるようなことをした覚えは全くないのだが、もしかしたら猫に慣れないイチの反応を面白がっているのだろうか。

「………あんまり近くに寄るなよ」

 そう言ったらちらりと黄色い眼が見やって、またすぐに身体を舐める作業に戻ってしまった。

「まったく……飼い主と同じで、やけになれなれしいな…」

 人の手を取るのがクセになっているような、この屋敷の主のことをふと考える。

 傷口に丁寧に膏薬を塗り込んで、大きな絆創膏を張り付けてくれたあの手。

『君が傷ついていると、オレは悲しい』 

 ふざけているのかと思ったのに、東乃はやけに真面目な顔をしていた。

 裏切らない、と言った。

 どうしてあの男は、こんな風にイチに対して真剣なのだろう。

なんの魂胆もなくただ信頼を求めているのだとは、どうしても思えない。

 そんな関係はイチの中にはなかった。

 ふっと何かの気配がして、イチは視線を上げる。

「…っ」

 さすがに今朝のように叫び声こそ上げなかったが、それでも思い切り息を呑んでしまう。手を伸ばせば触れられるほど近くに、だらりと赤い舌を垂らした大きな犬が座っていた。

 最早何の犬種が混じっているのかも良く分からないような雑種で、黒と茶の毛が斑になっている。

 ピンと立った三角の耳に、どこでどう血が入り混じったのかハスキー犬のような青い眼がそこだけ異質だった。

『猫二匹に、犬が一匹』

 そういえば今朝東乃は、そう言っていた。ではこの犬が、茶々丸とやらなのか。
 その可愛らしい名前からは想像もつかない図体にあの男のネーミングセンスはどうなっているのかと思う。
 三毛猫に巴、黒白猫にペン太。そしてシェパードほども有ろうかという茶と黒の汚い柄の犬に茶々丸、だ。

「……どっかに行け。お前にかまってる暇はない」

 でかい図体で可愛らしげに首を傾げる犬の青い眼がじいっと見つめてきて、イチは思わず顔をしかめた。足元にはどうやらくわえてきたらしい汚いテニスボールが転がっていて、犬の要求を如実に物語っている。

 そう言えば猫と犬は喧嘩をするものではなかったかとちらりと隣を見れば、三毛猫は知らぬげにうつらうつらしていた。

 どうやらこの家では猫と犬に休戦協定があるらしい。

「行けよ……さっさと」

 わふっ、と声にならないような息を上げて、犬が再びテニスボールを加える。それを膝頭にぐいぐいと押しつけられて、イチは困惑した。

 どうやら敵意も害意もないようだが、遊び相手に選ばれるのも困る。
 
 ボールを押しつけながらちらちらと上目遣いに見上げる眼に覚える既視感。青い眼は異質で、小さな瞳孔も何を考えているのか良く分からないが、ばっさばさと振られる尻尾が犬の気分を現していた。

 これでは、人の子と同じだ。

 さくらや咲希は、時々こういう顔をしてイチを見た。かまってもらうことを、切実に期待する眼だ。

 ため息をついてイチはボールを受け取った。

「………一度だけだぞ」

 きらきらと光っているような犬の眼を見てそう言って、イチは思い切り庭の奥にボールを投げてやった。たちまち黒い背が雨を裂いて、弾丸のように夏草の向こうに飛んでいく。

 規則正しく植えられた柘植の間をでかい犬が無理矢理抜けていくのが見えて、まずかったかと気付いたが、この荒れ放題の庭ならかまわないだろうと思い直す。

 思いっきり投げたと思ったのに瞬く間に犬はボールを捜してきた。さっきよりもさらにきらきらとした青い眼で見上げられて、思わずイチはまたため息をついてしまった。   

 

 何度もボールを投げているうちに、いつのまにか雨は上がっていた。けれど雲はまだ厚く、いつ降ってもおかしくはない空模様だ。

 乞われるままにまたボールを投げながらイチは幾度もこの数日の出来事を考え直し、なにか見落としはないかと洗い直す。 そのうちふと、あの場所に通ってきていた三人はどうしたかと思う。

「………そうだ」

 その可能性に思い至って、慌てて立ち上がる。

 今まで気付かなかったなんて、本当にどうかしていた。何日とあけずあの長屋を避難場所として逃げ込んできていた三人の、本名はもちろん知らない。住まいも。

 けれど一回だけ、その住所を使ったことがあったはずだ。

「終わりだ、もう」

 ボールをくわえて物欲しげに寄ってきた犬を放って、慌ててイチは部屋に戻る。昨日の帽子からコサージュを外して被ると、暫し迷ってからそうっと玄関に向かう。

 洋間の扉はきっちりと閉じられている。外出は当然狐原に止められるだろう。玄関からこっそり靴をとって庭に回り、イチは黙って出掛けることにした。

 

 










 

 

 

 女装をしていくわけには行かなかったので、途中の洋品店で大きなフード付きのレインコートを買った。折良くまた雨がぱらぱらと降りだしてきて、傘の群れの中を俯いたままイチは小走りで抜ける。

 馴染みの新宿の図書館に昼前に着くことが出来た。

 雨の日の図書館には人が少ない。新宿をうろついているホームレスの溜まり場になることを知っているからだ。

 平日の午前中なので顔馴染みの女性の司書が一人でカウンターに座っていて、イチを見るとにっこり笑いかけてきた。

「おはよう平沢君。今日はさぼりなの?」

 自分のものではない名前を呼ばれたイチも、挨拶をして笑顔を返す。

「おはようございます。今日は、開校記念日なんですよ」

「嘘ばっかり。まあいいわ、なんてほんとは言っちゃいけないんだけど。図書館で勉強してるんだから良いわよねぇ」

「ええ。僕、成績はいいんですよ」

「ほんとに?」 

 新宿区に住む平沢拓という少年の名で、イチは図書館を利用していた。図書館では顔写真を確認しなくとも住所と名前のわかるものさえあればカードを作ることが出来る。

 その記録が、コンピューターに残っている筈なのだ。

「すみません。今僕が借りてる本は、有りますか?」

「ちょっと待ってね」

 カードを出し、バーコードを読みとってもらう。

「借りている本は、無いみたい」

「そうですか。それじゃあちょっとこの本が見たいんですけど」

 あらかじめ用意して置いたメモを司書に手渡す。以前、奥の閉架書庫から出してもらったことのある資料だ。検索をしてもらうと、案の定少々お待ち下さい、と言われた。

 彼女が奥へ去った途端、イチはさりげない動きでコンピューターのモニターを回転させる。画面をざっと見て、『利用者詳細』と書かれたボタンを引き寄せたマウスでクリックした。

 なかなか切り替わらない画面をじりじりと待つ。

 出てきた住所、電話番号を頭に叩き込むと、すぐに画面を直し、モニタの向きを戻す。危ういところで司書の女性が奥から帰ってきた。

 幸いマウスの位置が変わっていることは気づかれなかったようだ。

「お待たせしました。はい、これ」

「ありがとうございます。借りても良いですか?」

「良いわよ」

 もう中身を知っている本を濡れないようレインコートの下で抱え、フードを目深に被るとイチは急ぎ足で図書館を出た。

 忘れないように住所と電話番号を頭の中で繰り返し、しっかりと脳裏にメモをする。

 その住所へ、このまま行ってみるかどうか思案しながら通りを歩いていると、ふいに腕を掴まれた。

「イチだな?」

 知らない男の声。

 とっさにレインコートの下に抱えていたハードカバーの本を掴み直し、思い切り男の顔面に叩きつける。

「うわ…ッ」

 緩んだ手から腕を取り戻すと、後ろを見ずに全力で駆け出した。

「逃げたぞ!」

 バラバラと聞こえた足音。少なくとも一人ではない。簡単に捕まえられると思ってこんな白昼堂々と行動を起こしたのだろうが、そんな思惑に乗ってやる気は毛頭なかった。

 全力疾走しながら、自分の今居る位置を考える。

 スピードを落とし、ちらりと後ろを向くと、逃げられて状況にかまっていられなくなったのか三人ほどの男達が追いかけてきていた。

 ヤクザじゃないかも知れない、と言った昨日の東乃の言葉を思い出す。確かに、このやり方はあまりにも素人くさい。

 公園を突っ切って走るとすぐに目当てのものが見付かった。

「お巡りさん!助けて、助けてくださいッ!」

 甲高い声を上げ、顔を歪ませて駆け込むと、交番にいた二人の警官が飛び上がった。

「ど、どうした!?」

「へ、変な男の人が…ッ、きゅうに、腕を掴んできて…!な、何人かいて、ぼく、さらわれそうに……」

 整った造作も、線の細い身体も、こんな時にはとても便利だ。

 案の定警官達は色めき立って交番を飛び出していく。

「待て、お前等!」

 いくつかの叫び声が混じり合い、遠ざかる。警官が男達を捕まえてくれるならば幸いだが、交番に飛びこんだところは見られたはずだし、早々都合のいいことにはならないだろう。

 素早く周囲を見回して男達が誰も残っていないことを確認すると、フードを深く被り直し、水たまりを跳ねかしてイチは反対側へと駆け出した。

 

 
















 

 念のため幾つも電車を乗り換えて大きく迂回をし、ようやく東乃の家に帰り着いたときには、陽が傾いていた。

 夏至は当に過ぎたが、夏に向かおうとする日はまだ長い。

 すぐ東乃に連絡を取れば覚えてきた住所へ行ってもらえるだろうかと思いながら裏木戸を通り、飛び石を渡ってあてがわれた部屋へと庭を突っ切って向かうと、急いていた背にふいにどかんと衝撃が走った。

「うわ……ッ!やめろ犬!」

 突き倒す勢いで飛びかかってきた犬に、噛まれるかととっさに振り払ったのに、犬はまったく気にしない。それどころかしりもちをついた上にのしかかられてべろべろと顔中をなめ回された。

「や、やめろって…」

「この馬鹿ッ!どこに行ってた!」

「ええ?」

 大声に顔を上げれば、犬以上の勢いで狐原が駆けてくるところだった。イチにのし掛かっていた茶々丸を片手でぽいとどかし、引きずり上げるように立たせる。

「一言も言わずに外出するなんて、どういうつもりなんだ!お前、自分が危険だって自覚があるのか?!」

 まくし立てられても何とも応えられないうちに、ずるずると家へ引きずって行かれる。。

「まったく………だから厭だったんだガキの依頼を受けるのなんて!ろくなことしやがらねぇ。……もしもし、おうオレだ。帰ってきたぞクソガキが」

 屋根の下に入るなり狐原は携帯電話で話し始めた。

 相手は東乃だろう。

「オレはガキのお守りはごめんだっていったろう。ったく、人が言うことなんざ聞きゃしねぇ。危険だから出るなって言ったのは今朝の筈だがな。都合の悪いこたみんなデリートするキーでもついてんじゃないのか」

 ちらりとこちらを見ながら嫌味を言う男に眉を顰め、けれどイチは狐原の携帯に手を伸ばす。

「ああ?」

「それ。貸して」

『もしもし?狐原、それでイチはなんともないのか?』

 耳に付けた途端に東乃の大きな声が飛びこんできて、イチは顔をしかめる。どう反応して良いのかわからない、その内容のためだったかも知れないけれど。

「……なんともない。あんたは、心配性だな」

『イチ!イチか?ダメだろう、黙っていなくなるなんて!心配するじゃないか!』

 叱りつける口調にどう答えようかと少し惑って、結局言わなければならないことに逃げた。

「平気だって言ってるだろう。それより、あんた、今どこに居るんだ?」

『オレ?歌舞伎町の辺りだけど……』

「それなら、寄って欲しいところがあるんだけど」

 覚えてきた住所、電話番号を伝える。平沢拓、と言う名前と彼がよくあの壊された長屋に出入りしていたことについて。

「親が居るあいつなら、失踪はしていないかも知れない。身長はオレと同じくらい、髪は短くて、茶色に染めてる」

『ああ……わかった。寄っていく。けどイチ、今夜は説教だからな!いいか、もう外に出るなよ!』

 ぶつっと電話が切れる。

 なんの説教だとため息をついて携帯電話を狐原に返しレインコートを脱げば、タオルが降ってきた。

「さっさと濡れたところを拭け。それから風呂に入って暖まれ。飯は?」

「………食べてないけど」

「馬鹿かお前は。もう何時だと思ってるんだ、暖まったら事務所へ来い」

 言いたい放題に言って、さっさと狐原は先に家へあがってしまう。

 季節は夏の手前だ。

 風呂に入らなければいけないほどに冷えてはいないし、レインコートのせいで濡れてもいない。

 東乃のあんな台詞も狐原のこんな扱いもどうにも納得できないと居心地の悪さを味わいながら脚を拭いて縁側に上がったら、まるで待ちかまえていたように廊下に座った三毛猫がにゃうと鳴いた。







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