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 夕方から降り出した雨はたちまちのうちに本降りになり、長い梅雨がまだ去りきらないことを教えている。灰色のアスファルトからは特有の濡れた匂いがして、暖かな雨はいっそ心地よいとさえ言えるものだった。

「ひゃー。降られた降られた」

 イチの手を引いてばたばたと三和土に駆け込み、東乃は奥に向かって狐原を呼ばわる。

「おーい、タオル!タオル持ってきてくれよ、狐原!」

「やかましい!少し待て、電話中だ」

 待ちきれなくて自分で取りに行こうかと奥を伺っていると、隣から声が掛かった。

「………そろそろ離せ」

「え?あ、ああ、ごめんごめん」

 慌てて握りしめていた手をぱっと離す。そこだけじんわりと温かかった手が、不意に冷えた。握られていたのとは反対側の手で帽子を取ったイチは、憮然とした顔をしている。

 そういえばこの少年の笑顔をまだ見ていない。

 彼の置かれた状況を考えればとても笑ってなどいられないだろうが、それでも残念だった。こんなに綺麗なのだから、笑えばもっと素敵だろうに。

 イチの顔がただ綺麗と言うにはきつすぎ、笑顔どころか愛想の欠片も見あたらないという事実は、東乃にとってかなりどうでもいいことだった。

 ショールを被っても濡れてしまった毛先を弾く姿は、もう口紅も剥げてしまって、女性には見えない。黒い瞳は思案げに伏せられていて、長いまつげが頬に陰を落とした。

「……やぁ……これはちょっとホントにやばいかもなー」

「なにがだ?」

「あ、いやいや。……今回の事件が」

 慌ててごまかせばイチが微かに眉を顰める。本当にやばいのは事件もさることながらどんどんイチに傾倒していく自分の心の方だが、東乃の慌てようをイチは別のことに受け取ったようだった。

「………降りるのか」

「え?」

「手を引くか。それならオレは、もう出ていく」

 荷物も下ろさずさっさと踵を返す細い肩を、慌てて東乃は止めた。

「いやいや、降りない降りない。そう慌てるなって、イチ。まだ始まったばっかりだろう」

「……あれだけでもう手を出すにはまずいと判断するには十分なんじゃないか?」

「大丈夫だって、オレ達にだってそれなりの伝手はある。ここまで踏み込んだんだ、放り出したりしない」

 探るように真っ直ぐ東乃を見上げていたイチの眼が、ふっと弱る。確かめる前にそれは瞬く間に消えて、またいつも通りの表情に戻っていた。

「……なら、いい。報酬は払う。出来る限りの事もする。……ナツを、見つけてくれ」

「ナツだけでいいの?他の子達は?」

「……他の奴等は、ナツが見付かれば、行き先が知れるだろう。……きっと」

 感情の起伏の少ない表情、言葉からは、イチが共に暮らしていた仲間達をどう思っているのかが上手く伺い知れない。けれどこうして身を粉にして彼等を捜すその行動こそが彼の胸の内を伝えている。

「必ず見つけるよ。イチ」

 思わずもう一度その手を取って、東乃はそう約束した。

 イチの黒い眼が少し見開かれて、やがてその紅をさしていなくても紅い唇が微かに曲線を描く。

 初めての笑顔に見惚れたら、あんたが人の手を取るのはクセなんだな、と皮肉とも何とも言えない口調でそう言われた。

 

 

 







 

 

 頭からバスタオルを被ってイチはぽたぽたと毛先から垂れる雫を拭う。
 髪を濡らしているのは梅雨の雨ではなく、暖かな湯気の上がる湯だ。

 シャンプーの微かな花の香りが鼻先をくすぐって、馴染みの無さに薄い笑いが零れた。

 日本家屋の風呂場は、やはり相応しく広かった。

 どうやらこの屋敷は人が生活する空間だけはきっちりと掃除されていて、後は野放しのようだ。イチにあてがわれた部屋は座布団と小卓の他はなにもない六畳間の和室で、イチが風呂に入っていた間に東乃がばたばたと埃を払ったらしい。

 食事になったら呼ぶからと言われたのはともかく、その後に続いた台詞と行動は頂けない。
 部屋の隅に積まれた座布団にどっかりと腰を下ろしたものをちらりと見やって、イチはため息をついた。

『ああ、暇だったらこいつと遊んでてくれ。大丈夫、巴〈ともえ〉さんは引っ掻いたり噛みついたりはしないから』

 いらない、と抗議する間もなくご立派な名前の三毛猫がぽいと部屋に放り込まれた。遊んでてくれと言われた三毛猫は大儀そうに欠伸を一つすると、のっそり座布団に丸まったきりぴくりともしない。

 おかげで座布団も使えず、イチは直接畳に座っている。

 猫はあまり好きではない。

 さくらや咲希はあの長屋に時折来る野良猫を可愛がっていたが、あの昼と夜で変わる眼がイチはどうにも苦手だった。

 かといって邪険にしたり苛めるほどの関心があったわけでもなく、要するに動物の類はイチの生活の中ではどうでも良いものだったのだ。

 三毛猫は無視することに決めて、イチは鞄を開ける。朝この屋敷へ来る前に、必要なもの以外はすべて渋谷のコインロッカーに預けてあった。

 イチの長屋へ寄った後、ずいぶん遠回りをして尾行を撒いたことを確信してから、寄って取ってきたのだ。

 取り敢えずはこの屋敷で暮らせばいいと、東乃は言った。

 指先は作業を続けながら、イチはこの数日のことを一つ一つ考えていく。ナツはどこへ行ったのか。そして仲間達は。自分が攫われた理由はなんなのか。そして、東乃のことを本当に信用していいのか。

 最後の問いに答えはいつも無い。

 指先で色の濃いつややかな椿の葉をくしゃくしゃにする。

 庭から採ってきた椿の葉はぱきぱきと堅く、どう細かくしても感触が悪い。花があったら良かったと思うのだけれど、あいにく時期が違う。

 屋敷と同じく純日本風の庭は外壁から想像したようにとても広く、枯山水というのか白砂が撒いてある中にいくつかの飛び石が見て取れてかつての姿を彷彿とさせた。

 今は見る影もなく夏の草が生い茂り、バランスを考えて配置された木々も思う様伸びている。けれど整ってはいなくてもそこは不思議な生命力に溢れていて、イチはその庭が気に入った。

 ふともの思いから立ち返る。

 視線を感じて振り返れば、いつの間にか起き上がった猫がイチの所作を眺めていた。

「………なんだよ」

 黄色い眼に細い瞳孔が苦手で、つい眉を顰める。

 椿の匂いが気になるのだろうか。

 暫くイチと見つめ合った後、大きな欠伸を一つして、猫は立ち上がった。どうするのかと見ていると、障子に手をかけてがらりと開けてしまう。

 さっさと出ていく後ろ姿を唖然と見送っていると、廊下から足音が聞こえた。

「あ、なんだよ巴さん。オレの代わりにイチをもてなしててくれっていっただろ。なんで放ってきちまうんだ」

 なぅん、という鳴き声。

 猫にもてなされてたまるかと抗議したい気分になる。

「イチ、食事の前にお茶でも……」

 三毛猫の開けた障子を更に引き開けて、東乃が顔を覗かせた。

 
















 

 

「無かった?」

「ああ。正確には、取り壊し中だった」

 東乃の報告を聞いて、狐原が顔をしかめる。

 洋間には、庭木を叩く雨の音が微かに響いていた。雨の音というものは、始終響いているくせにどうしてこう静寂を感じるさせるのだろうなとちらりと東乃は思う。

 ソファの向かいに座った狐原が思案げに口を開いた。 

「………空き家だったといったな」

「そう。神田川の河川工事の予定地なんじゃないか?都の再開発地区として、そこら辺一帯に空き家が集中していたんだ。イチ達は、その内一軒で暮らしてたらしい」

「ふぅん………」 

 複雑な表情で狐原が顎を撫でる。

 ぶっきらぼうで口が悪いが、狐原は基本的には優しい男だ。イチの置かれていた状況がだんだんと知れてきて、何とも言えない気分になっているのだろう。

 けれど同情がそう簡単に人に渡して良いものではないと、狐原も東乃も知っている。

「で?他の子等も行方不明、と」

「ああ。イチの他に三人、そこで暮らしていたらしい。ナツと、さくらと、咲希という名だったと聞いた。後三人、その家を避難場所にしていたと」

「そっちの三人には自分の家があるわけだな?」

「ああ」

 十七歳が二人、十五歳が一人、十二歳が一人。

 二十歳まで、オレ達には人権がない。そうぽつりとイチは呟いた。

 どんな風に暮らしていたのだろう。

 彼等の親達は、どこへ行ったのだろう。

 そうして一歩彼に踏み込むことをイチは決して許してはくれず、時折見せるぴりぴりした眼がまだ東乃を信用していないのだと語っている。

 彼がこの屋敷に留まることを決めたのは、単純に、それ以外に道がないからだ。少年には過ぎた判断力も、潔さも、頭脳も、仲間達を助ける縁〈よすが〉にはならないとイチは知っているのだ。

 ぎりぎりの取捨選択で彼はこの家に来た。

「で?」

「ん?」

「どうする。……オレの考え通りなら、これはかなり……まずい事態だが」

「まずいって?」

「決まっているだろう。中国や韓国から流れてきた狡っ辛い犯罪者共や、あの辺りにたむろしてるガキ共にこんな真似が出来ると思うか?イチやその仲間達を引っさらう程度ならともかく、お前たちを昼日中からつけた手口は明らかにプロだし、再開発地区の工事に到っては個人の範疇を越えてる」

「プロって程でもないなぁ。オレに気付かれたくらいだし」

「明里。ごまかすな」

 追求されて、東乃は苦笑する。何と言われてももう答えは決まっているのだ。

「約束したんだ。必ず、見つけてみせるって」

「……………」

「話を聞いて、狐原は今さら放り出せるって言うのか?

……大丈夫、どうしようもなくなったら最後の手段に頼るさ」

 狐原が眼を見開く。唇が何かを言おうと動いて、結局そこから洩れたのはため息だった。

「……お前……ホントにあのガキが気に入ったんだな」

「ああ。………それに、頼らなくても済むかもしれないしな。狐原、これがヤクザの仕業だと決めつけるにはまだ早い」

「言っておくがお前はもう成人して六年、おじさんとすら呼ばれて良いような年頃だ。くれぐれも理性的な判断と自制を持てよ。あのガキはまだ高校生と同い年だって事を忘れるな。

……で、何がまだ早いって?」

「お前……一体なにを一番心配してるんだよ。だから、ヤクザの仕業じゃないかもって」

「オレが心配なのはお前の理性だ。根拠は」

 掛け合い漫才のような台詞をかわしながら、狐原の言葉が八割方本気なことを東乃は知っている。彼には昔から、さんざっぱら東乃のしでかした事態の後始末をさせたものだ。

 二つ年上の幼なじみはどれだけ悪態をついても東乃を見捨てなかった。

 感謝している。

「ああ……ホントにヤクザで、イチ達を邪魔だと思ってるなら、当に殺されてるってこと」

「…………」

「逃がすようなへまはしないだろう。オレ達を監禁した男達だって、ヤクザじゃなかった」

「ふぅん………」

「手段が甘いんだよ。傷つける意図は無い、ような……」

「何か目的があってのことかも知れないぞ?聞き出さないといけない秘密をイチが持っているとか」

「それなら、それこそ丸一日も放っておくことはしないだろう。仮にナツの方が秘密を持っているとしても、ただ閉じ込めておく様なことも」

「………他の子供達を使ったとしたら?」

 狐原の示唆した可能性に気付いて、東乃は言葉を詰まらせる。

 例えば一番最初に失踪したナツが、何らかの秘密を持っていたとして。それが彼を痛めつけても聞き出せないものだとしたら、次にどんな手段をとるだろうか。

「………十五歳と十二歳の子供だろう。年上の順から始めるのが、心理だと思うがな」

「わからんだろ。……年下から始めるのが手っ取り早い場合もある」

 仲間達を目の前で拷問されて、どれだけの子供が秘密を隠しきれるというのだろう。厭な想像が頭を過ぎって、東乃は堪えきれずにため息を落とした。 

「………まぁ、そうとは限らないがな。これは、予想する中の……ほぼ最悪の事態だ」

「そうだな。……取り敢えず調査は続ける。いいな?」

「ったく……わかった、付き合ってやるよ。毒をくらわば皿まで、だ。最悪の事態にならん事を祈るぜ……ところで晩飯は」

「喰ってくのか?」

「当たり前だろう。お前の持ち込んだ面倒に乗ってやろうって言うんだ、それくらいのサービスはしろよ。メニューは?」

 当然、という顔で促す狐原に笑って、東乃は思案する。

「そうだなぁ。……昨日買った豚のロース肉があるから、ショウガ焼きかな。あとめかぶとオクラのワサビ和えと、ジャガイモのみそ汁。ああ、豆腐もあったな。冷や奴に……なにか煮物を作るか」

「じゃ、さっさとしろよ。腹が減った。……あのガキも空いてるだろう、先に茶菓子でも出したらどうだ」

「ああ、そうだな。呼んでこよう」

 こう言うときには東乃よりも狐原の方がよほど気がつく。

 笑って東乃はソファを立ち、廊下の奥にある客間へと向かった。
 平屋建てだが面積ばかりがやたらあるこの家には、管理しきれないほど部屋がある。

 慌てて掃除した客間をイチが気に入ってくれていればいいなと思いながら角を曲がると、三毛猫が澄ました顔で座っていた。

「あ、なんだよ巴さん。オレの代わりにイチをもてなしててくれっていっただろ。なんで放ってきちまうんだ」

 なぅん、と三毛猫が鳴く。しらないわよ、と言ったのかも知れない。

 もう何歳なのか指を折って数えなければいけないような歳の彼女は、時折猫とは思えない。ちらりと自力で出てきたらしい障子の隙間を振り返り、前脚を舐め始める。

「イチ」

 障子の隙間に手をかけて開けば、座布団と卓以外何もない畳敷きの部屋の真ん中にイチが座り込んでいた。

「……なにしてるんだ?」

 前屈みにまるまった姿勢に、立てた右膝。足に触れている指先には緑色のものが乗っている。

 ばつの悪そうな顔に気付かず、慌てて東乃はイチの前に寄った。屈んでよく見れば、無惨に剥けた皮膚。

「うわ……どうしたんだイチ、これ」

「………靴擦れだ。慣れない靴だったから」

 両足の踵の上、それに小指や甲も擦れている。特に踵の上が酷く、べろりと皮が剥けて血が滲んでいた。

「……どうして言わないんだ!あんなに歩いたんだ、ずいぶん痛んだだろう!」

「………言うような事じゃないだろ。歩けたんだ、大したことはない。今治療してるから、すぐ治る」

 戸惑ったようなイチの顔がやりきれないものに思えて、東乃は顔をしかめる。責められていると思ったのかイチがふいと視線を逸らした。

「それは?」

「え?」

「その緑の。薬か?」

「ああ……椿の葉だ。切り傷に効く。……勝手に毟ったのは悪かったよ」

 どうにもたまらなくなって、東乃は白いその手を取った。

 彼が揉んで柔らかくした葉の緑色が指先について、ぱらぱらと畳に落ちる。

 手を取っても今度は笑わずに、イチは困惑した顔をしていた。その眼を覗き込んで彼に伝わる言葉を探す。

 彼の信頼が欲しい。

 痛切に、そう思った。

「イチ。………痛い事や、困ったことや……他にも、なにかあったら、オレに言ってくれ。こんな風に傷を作る前に」

「………別に、そんなに痛まない」

「それでもだ」

 じわりと血の滲む傷。靴を脱いで風呂に入って、かなり時間が経っているのにまだこんなに出血しているのなら、あの黒い靴下はかなりの血で濡れているのかも知れない。

 気付かなかったことを東乃は悔やんだ。

「イチ。頼むよ。うちには傷薬も包帯もある。他の薬も、絆創膏も、色々揃ってる。他にも必要なものがあれば言ってくれればいい」

「………なんで」

 逸らされた眼が惑う。掴まれた手を引かないまま、イチが居心地悪げに身動ぎをした。

「なんで、あんたが、そんな事を言うんだよ。……オレは依頼人だろう。ここに泊めるのだって過ぎたサービスの筈だ。その他は、放っておいてくれれば」

「ほっとけるわけがないだろ」

 彼に伝わる言葉はないだろうか。

 その薄情さ、無関心さが酷く気に掛かるのだと。
 いらないものをさくさくと削ぎ落としてついには何もその手の中に残さないようなその潔さが彼を損なうことがないかと案じているのだと、どう言えば伝わるのだろう。

 最初から彼は依頼人などではない。

 あの倉庫の夜に、躊躇い無く暗い海にすべりこんだイチは、東乃の心のどこか柔らかい場所を捕まえている。

 それはただ彼が幼いこと、その歳には過ぎたものを負っていること、彼の境遇が不遇である事に対する憐れみだけではなく。

 それがなんと呼び慣わすものかは良く分からずに、けれど東乃は彼に向けた情のままに言葉を重ねた。

「イチ。君が傷ついているとオレは悲しい。痛むのなら治してやりたいと思うし、困っているなら助けたいと思う。………イチ、オレは、裏切らないよ」

「……………」

 困惑した顔。

「裏切らないよ、イチ。約束したろう、必ず、ナツを見つけてみせる」

 再びイチが視線を逸らしたのを見て、東乃はその手を解いた。

「今傷薬と包帯を持ってくる。少し待っててくれ」







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