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◆◆◆ 失踪 ◆◆◆

 

 

 ナツだよ、と彼は言った。

 歪んだ笑みを薄い唇に刻んで、少しだけ首を傾けて、挨拶をするように。

 ナツだよ。夏に産まれたからね。

 

 

 手の中の小さな紙片を、イチはもう一度確かめる。 

 いくら確かめても、渋谷区千駄ヶ谷の後に続くいくつかの数字が示すのは、今イチの真正面にある建物の筈だ。しかし目の前に建っているのは、名刺の名称が示しているとは到底思えないような家だった。

 いいや、屋敷、と言った方が正しいかも知れない。

 ビルの灰色の壁の重なる向こうに御苑の森を望み、新宿の猥雑な喧噪をまだ僅かに引きずるようなこの土地に建つには、実に相応しくない日本家屋だ。

 ぐるりと白い壁に囲まれ、中を窺い見ることも出来ない。

 古びた木の門の脇に掛かっていた表札の掠れた字が名刺と同じものであることに気付き、やはりここで良いのかと思う。

「……ま、違ってても謝ればいいだけだしな」

 小さくひとりごちると、イチはインターフォンを押した。

『はい』

「失礼ですが、こちらに東乃明里〈とうのあかり〉さんはいらっしゃいますか」

『どちらさまで?』

「御在宅なら、イチと伝えていただければおわかりになると思います」

『……少々お待ち下さい』

 ぶっきらぼうな声。この間の男とは違う。

「………使用人かな」

 この屋敷ならば使用人の一人や二人、いてもおかしくはないだろう。

 それでいくとおかしいのはどう考えてもこの一度濡れてくしゃくしゃになった名刺に印刷された名称だ。

 オレの仕事のせいかな、とあの男、東乃は言った。

「なんだよ……『なんでも屋』ってのは」

 不意に、木の門の向こうからカラカラと耳慣れない音。

 一瞬なんの音か良く分からなくて眉を顰めたイチの横、正門ではなくその隣のくぐり戸がバタンと開いた。

「やあ、イチ!来てくれたんだ!」

「…………」

 やけに柔らかい響きを持つ、弾んだ声。

 綺麗さっぱり髭の剃られたその顔がこの間と同じ男のものだとは到底信じられなくて、思わずイチはまじまじと見つめてしまった。

 






「来てくれるとは思わなかったなぁ。嬉しいよ、イチ」

 にこにこしながらそう言う東乃の足元から、カラカラという音。突っかけた下駄が敷石の上でたてるその音はイチには始めて聞くもので、物珍しさに思わず足元に視線を落としてしまう。

「………荒れてるな」

「え?」

「いいや……別に」

 足元には確かに日本家屋に相応しいざらざらした表面の石が敷かれているが、よく見てみればその石は所々罅割れて雑草がその隙間から顔を出している。

 正面玄関へと続く脇にある百日紅の木は伸び放題でちらちらと紅い花を敷石に散らし、本来きっちりと掃かれているべき白い砂利がその合間に進出していた。

 これだけ庭が荒れているのならば、さっきの男は使用人ではないだろう。

 もしかしてこの家の裕福さは外見だけなのかとちらりと男の顔を見上げれば、何がそんなに嬉しいのか理解しがたい笑顔でほほえみかけてくる。

「どうした?」

 綺麗さっぱり髭を剃り落とした男は、どうやら考えていたよりも随分と若いようだった。下手したら二十代前半、どう見積もっても三十より上ではない。

 背はイチより頭一つ分も高く、肩幅も身体の厚みも比べものにならない。
 この間の晩も思ったが、緩やかでも無駄のない動きと締まった体は、何かのスポーツか武道で鍛えられたものなのだろう。

 鋭角的な顎、はっきりとした目元、笑顔を浮かべた大きな口も皆バランスがとれていて十分にハンサムの領域に入る。

 けれど人の美醜にあまり興味のないイチは、ふいと視線を逸らした。

 めまぐるしくイチが頭の中で考えを巡らせている間に、開きっぱなしの引き戸を通って広い三和土へと招き入れられる。

「どうぞ、いらっしゃいませ」

「………おじゃまします」

 スリッパを突っかけて案内されたのは、予想に反して立派な洋間だった。

「………畳じゃないんだ」

「ああ、この部屋は後から改築したんだ。事務所にするためにね。狐原〈こはら〉、イチが来てくれたぞ」

 洋間の奥には人が居た。場違いに設えられた事務用のデスクにはデスクトップのパソコンが置かれ、その前に座っていた男がキィと音をたてて椅子を回す。

「それが明里が騒いでたガキか。……たしかにまぁ随分と綺麗な顔をしているな」

「だろう!」

 何が嬉しいのか知らないが弾んだ声を上げる東乃をちらりと見てから、イチは椅子から立ち上がった男に視線を移した。

 東乃と張り合えるほどの背丈に広い肩幅、短めに刈り上げた髪。眼鏡の向こうの黒い眼がイチを仔細に観察している。

 イチの整った造作や、均整のとれた身体、若さに気を惹かれてイチを自分の中で計ろうとする人間は多い。そしてそういった人間の大半が、イチは好きではなかった。

 けれどそんな考えとは裏腹に、にっこりと笑ってみせる。

「はじめまして。イチです」

「ああ……どうぞ。その辺にかけてくれ」

 無造作に手を振った男が扉を抜けて奥に消える。

 どうぞと東乃が指すままにソファに腰を下ろすと、向かいに座ってまじまじとイチを見つめた。

「………なに」

「いや。ほんとに、来てくれるとは思ってなくって。追っかけて名刺を渡した甲斐が有ったよ」

「………」

 腕をつかまれた時はひやりとした。

 そういう事態にならないように、海からあがった途端息も整えず全力で走り出したはずなのに。とっさに振り払おうとした手の中に、東乃は一枚の紙片を押し込んで寄越したのだ。

『助かったよ。……何かもし面倒があったら、そこに連絡してくれ』

 びしょぬれの名刺。

 しっかりと握りしめていたその内容をイチが読むことが出来たのは、全力疾走で喉が酷く痛むのが治まってからだった。

 

 なんでも屋 東乃明里 

 

 そして住所、電話番号。

 酷く胡散臭いと思ったそれをこうして頼らなければならなくなったのは、そうする以外の手段が無くなったからだ。

「………アンタに、聞きたいことがあって来た」

「うん。どうぞ」

「この間は、何故、あんなところにいたんだ?」

 そう問えば、東乃は少し困ったような顔をする。

「仕事で、ちょっと」

「仕事っていうのは、この、なんでも屋の事か?」

「そう。名刺にも書いてあっただろ?なんでも屋、だよ。ペットの捜索から大工仕事、浮気の調査、宅配便から話し相手まで、なんでもする職業。街なかにチラシとかが貼ってあるの、見たこと有るだろ?」

「………人は?」

 含まれなかった項目をイチは問う。イチの想像の通りならば、彼の仕事には人捜しも含まれているはずだった。

「人は、捜さないのか」

「うーん、捜すこともあるけど………でもうちにはあまり、持ち込まれないね。人捜しは本職の探偵や警察に行くことが多いから」

「……………」

 東乃の言葉に嘘があるようには聞こえないが、それが本当だと思いこめるほどこの男の事を知っているわけではない。

 最初の問いの答えを催促するように見つめれば、東乃はあからさまに困って視線を泳がせた。

「………探偵には守秘義務というものがあってだね」

「あんたは探偵じゃないだろう」

「ま、そーなんだけど……でもちょっとね……」

 その少し色の薄い眼、顰めた眉、口元から視線を逸らさないようにしながら、イチは真実に触れようと問いを重ねる。

「ナツ、という名に聞き覚えは?」

「ナツ?………いや、知らないな」

 東乃の表情は揺らがない。これで嘘をついているのならば、この男は大した嘘吐きだ。人の顔色を読むことにかけて、イチは自信があった。 

「………」

 大きな落胆が胸を過ぎる。ここが最後の手がかりだったのだ。

「………その人を、捜してるのか」

 折り返し投げ掛けられた問いに、イチは逡巡しながらも頷いた。

「ナツ。名前?名字?」

「さあ。ナツは、ナツだ」

「………歳は?友達?」

「じゅう…七、か。……あぁ……うん」

 矢継ぎ早な質問にらしくもなく曖昧な答えを返してしまった。ともだち、というのは、とても聞き慣れない言葉だ。

「友達か……同い年?」

「ああ……」

「ふぅん。イチは、十七歳なのか」 

 また東乃が緩んだ笑顔を披露する。どうにも警戒心のないその顔は、けれどこの男にはよく似合っていた。整った顔に開けっぴろげな表情が乗ると、何とも言えない気易い雰囲気になる。

 人に余計な警戒心を抱かせないその雰囲気が、なんでも屋などという胡散臭い仕事に役立っているのかも知れない。

「どこの高校?なんで、友達を捜してるんだい?」

「高校には」

 行っていない、と続けようとしたイチの言葉を、違う声が遮った。

「言っておくがうちでは、未成年の依頼は受けないからな」

「狐原」

 神経質そうな細い指先が、イチのきっちり正面に絵柄が来るように紅茶のカップを置く。続いて東乃の前に、そしてもう一つその隣に。

 流れるような動きで盆を置いた手が、名刺を取りだした。

「ついでに渡しておくが、さっき言ったとおり未成年の依頼は受けんぞ」

「……きつねはら、祐一?」

「こはら、だ」

 厭そうな顔で男が訂正をする。その顔をちらりと見やって、イチはさっきからちくちくと続く狐原の横柄な態度にそれなりの応対をする事に決めた。

「わざわざ訂正するなら、読み仮名をふるくらいはしておけよ」

「何?」

「名刺として手落ちなんじゃないか。仮にも仕事なら、その程度の配慮はしておいたら」

「……口の減らないガキだな」

「ついでに言うと初対面の相手に対して臆面もなくガキガキって連呼する無礼さも猛省するべきだな。それとも、自分より年下の人間には人権も尊厳もないって思ってる病気みたいな視野狭窄が習い性になってるタイプなのかな。だとしたら自分で反省なんて無理だから、さっさと病院に行ってこいよ」

「…………この…ッ」

 立て板に水とばかりにつらつらとまくし立てたイチに狐原が怒りを浮かべる。途端に、あからさまに険悪になった二人の間にのんびりとした声が割り込んだ。

「なんだよ、羨ましいな、狐原。あっという間にイチと仲良くなって」

「………どこをどう聞いてたらそんな台詞が吐けるんだ貴様は!?」

「だってオレの三倍はイチと喋ってるぞ。イチ、オレにもそれくらいたくさん話してくれよ」

「………喋ってりゃ中身はどうでもいいのか貴様は……」

 毒気を抜かれたように狐原がソファの背に寄りかかる。

 イチも脱力しながら、この東乃という男の気の抜け方はわざとか天然かどっちだと思う。

「それで、イチ。どうして、その少年を捜してるんだ?家出か夜逃げでもしたのか?」

「…………」

 改めての問いに、話すべきかとイチは迷う。手がかりがもうここ以外に無いのは確かだが、イチとは別件で東乃があの倉庫に囚われていたのだとしたら話すだけ無駄だ。

 けれど。

「………未成年の依頼は受けないのか?」

「ん?」

「さっき狐原がそう言ってただろう。オレが事情を話して、ナツを捜してくれって言ったら、あんたは受けてくれるのか」

「ああ、良いよ」

「おい、明里!」

 拍子抜けするほど簡単にイチの依頼を受けた東乃に、狐原のが焦った声を上げる。

「いいじゃないか。どうしても狐原が厭だって言うなら、この依頼はオレが個人的に受ける。それならいいだろう?イチには借りがあるんだ、断れないよ」

「………貴様って奴は……」

 呻くような声を上げ、狐原が天井を仰ぐ。

 どうやらこのなんでも屋の長は東乃のようだ。力関係は微妙だが、東乃がどうしてもと押し切ることを蔑ろにすることは出来ないのだろう。

「……で?」

 まだ未練げに纏い付く迷いを、イチは断ち切った。使える手はとても限られている。東乃があの日の倉庫からの脱出を借りだというのならば、それを有り難く利用させてもらおう。

「ナツは……オレの、仲間だ」

「仲間?」

「ああ。あんたが思い違いをしているようだから訂正しておく。オレは高校には行っていない。ナツは、オレ達のグループの仲間だ」

「グループっていうと?」

 イチは慎重に言葉を選ぶ。

 この男や、狐原が、どういう人間かはまだわからない。 

 イチの話す内容次第でどう転ぶか知れないのだ。薄氷を踏むような用心深さは、イチの身に付いた習い性だった。

「一緒につるんだり、遊んだり。そういう、仲間だ」

「つまり、不良仲間だろう」 

 憮然とした口調で狐原が口を挟む。

「夜に徘徊したり、つるんで色々悪さをするような仲間なんだろう。もっと具体的に言え。そのナツってのが見付からなければ、お前に都合の悪いことがあるのか」

「……アンタは、もうちょっと考えて言葉を口に出すべきだね」

 いかにも面倒事を片づける調子で言われて、聞き慣れた侮蔑紛いの言葉を流すことが出来なくなった。疲れとストレスのせいで自制のたがが緩んでいるのを頭の片隅で自覚しながら、止められずに続ける。

「ガキはいつだって考え無しで、甘ったれてて、自分ではなにもできないくせに徒党を組んで波風を立てて責任を取ることも知らないって思っているんだろう?自分の想像の範囲内に物事はすべて収まると思いこんでる人間は、狭量って言うんだって知ってるか?」

 一つ息を付き、さらに続けようとしたイチの言葉を東乃が遮った。

「そうだぞ、狐原。今のはイチに失礼だろう。お前も許した以上、イチはお客様なんだからな。お客様には礼儀を尽くせ、はいつもお前が言っていることだろう」

「………ったく……わかった、わかったよ。悪かった。悪かったよ」

 やけにあっさりと、けれど渋面のまま狐原がそう言って、降参というように両手を上げる。

「最近ガキでやな事が続いてたんで、つい口が過ぎた。悪かった、先を続けろよ。イチ」

「……………」

 苦い声だけれどその中に怒りはない。狐原と、そして東乃の意図が掴みきれず、口を噤む。

 戸惑いと躊躇い。

 二人は、イチが今まで知らなかった人種だ。それが信頼に足るものかどうかと言う基準がイチの中にはなく、けれど巡らせた思考の中で出た結論は一つだった。

 たとえ何かがあったとしても、今は一人だ。

 失うようなものは無く、闇雲に怯えなければいけない事も見付からなかった。

 ありのままに話してなんの不都合があるだろうか?

「………ナツは」

 どんなに良く動く口があっても、こんな風に語ることは少ない。どう話せば伝わるのかと思案しながら、イチは、ナツを捜すいきさつを語りだした。

 

 

 











 

 イチの“グループ”は、一言で言うならば親に恵まれなかった子供達の集まりだった。虐待や放置、失踪、事情は様々だが皆それなりのわけを持って、一人では立つ事の出来ない身体を互いに支え合うようにして生きていた。

 家がある者も無い者もいて、けれど共通していたのは皆帰る場所がないということだ。

 塒〈ねぐら〉は新宿区と中野区の丁度境あたり、神田川の畔で、都の再開発地区と称して放置された無人の長屋だった。

 一方を川に、後の三方をやはり空き家と立ち入りを禁止するための壁、廃材の山に囲まれたその古い長屋は、子供達にはちょうど良い隠れ場所だったのだ。

 そこを住まいにしていたのは四人。

 避難場所にしていたのは三人。

 計七人が、イチのグループの仲間だった。

 六月の末、急に失踪したのは、その仲間のうちの一人、ナツ、と呼ばれていた少年だった。


















「さて……どうしたもんか」

 聞き出せる限りの情報を書き留めたルーズリーフを前に、狐原は難しい顔をしている。けれどそんな狐原の仏頂面も気にならないほど、東乃は有頂天だった。

 何しろ今このポケットの中には、あの少年の連絡先がある。

 名刺を押し込み、手を離した途端に脱兎のごとく駆け去っていく背を幾度も思い返して、なぜ電話番号くらい聞いておかなかったのかと繰り返し後悔したのだ。

 それがプリペイド式携帯電話のすぐに切れてしまうような細い糸であっても、掴めただけ上等だった。

「なんでそんなにごきげんなんだ。あぁこら、明里!テメェのせいだぞこの面倒は!」

 二人でいるときにしか使わない荒い口調で狐原が言って、行儀悪く靴裏で東乃の膝頭を蹴る。

「いやぁ、イチはかわいかったなー」

「九官鳥かテメェは!さっきからなんべん同じ事言ってやがんだ、頭沸いてンのか!しかもあの小生意気なガキが可愛いのか、眼も腐ってるな」

「ううん、確かに。『かわいい』じゃないか。綺麗、って言った方がいいな。頭良いな狐原!!」

「………もういい。言ってろ一人で何百万べんでも。オレは降りた」

 彼が書き留めたルーズリーフをさっさと押しつけてソファから立ち上がろうとするのを、東乃は服の端を引っ張って引き止める。

「やっぱり新宿界隈の聞き込みからはじめるのが良いよな?」

「………オレに頼るな」

「なわばりは決まってないって事だったけど……二丁目と歌舞伎町、どっちから行くのがいいと思う?」

「テメェが一人でやるっつったんだろ!?」

「狐原だって良いって言ったろ!」

「言ってねぇよ一言も!!」

 侃々諤々〈かんかんがくがく〉と実に大人げない論争がひとしきり繰り広げられ、やがて諦めた狐原がどさりとソファに座り直す。

「……ったくよ……しかし、実際問題お手上げだぜ。聞き込みくらいしかする事がないが、それにしたって写真の一枚もないんじゃな」

 身長170位。細身の茶髪で、肌の色も白い。クォーターなのだという。

「………顔にクォーターって貼ってあるわけでなし……こんなガキなら、新宿にごまんといるだろ」

 身許も、本名も、なにもわからず、写真すらない。かろうじてわかるのは、かつて彼が住んでいた場所くらい。

 そういったイチは、さすがに少しばつが悪そうだった。

 その場所には明日、イチと一緒に行くと言うことで話が付いている。取り敢えずの事を話し、依頼を終えて、イチは帰っていった。

 彼の住む場所も結局聞き出せないままだ。

 彼の属していた“グループ”の詳しい事も、彼自身のことも。

「………お前、なんでそんなにあのガキが気に入ったんだ?」

 不意に問われて、東乃は言葉に詰まる。

 実に納得し難いという顔をして狐原が睨〈ね〉め付けてくるのに、ううんと唸りながら東乃はどう答えればいいのかを探した。

「そりゃちったぁ小綺麗な顔してるし、借りがあるってのも嘘じゃないだろ。お前がいなくなったときにはオレも焦ったし、多少はイチに感謝してる」

「………とてもそうとは思えない応対だったけどな」

「うるせ。……礼は明日ちゃんと言う。言いそびれただけだっつの。けど、それだけじゃないだろ、お前」

「うぅん……なんていうか」

 気に入っている、のは、確かだ。けれどそれ以上に。

「気に掛かる……んだよな」

「あのガキのどこが?」

「うぅん………」

 そう問われてすぐに浮かぶのは、あの黒目がちな眼だ。

 酷くぱっきりとした強い光を浮かべるあの眼には、惑うということがない。チョコレートを投げ返した時にも、あの倉庫から脱出をした時にも、迷いなく夜の海へ滑り込んだ時にも。

「あの、迷いがない……というか、潔すぎるとこが、かな……」

「ふぅん?」

 素足で夜の中に駆け出していったあの背中。

 この向かいのソファに腰掛けて、十七歳だと言った彼は、いままで一体どんな生活をしてきたのだろう。

  想像することは難しく、イチにも失礼な気がして、東乃は彼の素性を考えることをやめる。

「………ま、いい。頂く料金分の事はするさ。未成年とは言え、きっちり定額払ってもらうからな」

「お前、ほんと金にうるさいよな………」

「オレがうるさくしなかったらこの事務所はとっくに潰れてる」

 ごもっとも、だ。

 金銭に関していささかルーズだという自覚のある東乃は結局黙って、手始めに聞き込みから行ってくるかと調査を始めるべく腰を上げた。

 

 

 











 

 

 誰一人、残っていなかった。

 

 六月の末に急に消えてしまったナツを探して、イチは方々に聞いて歩いた。とは言ってもナツのことを尋ねられる場所などそう多くはなく、一番想像できることは彼がトラブルに巻き込まれたという事態だった。

 新宿では喧嘩や犯罪など日常茶飯事だ。

 あの猥雑の中、様々な手段で生活に必要なものを手に入れているイチ達にとって、危険は常に紙一重の場所にある。

 けれど新宿内の交番をすべて尋ね歩いてもナツのような少年が補導された、あるいは騒動に巻き込まれたという記録はなく、中野や渋谷まで脚を伸ばしてもそれは同じだった。

 唯一手に入れたのは、ナツが背の高い男性と連れだって歩いていたという話だ。

『なっちゃん、荒いけどよく見れば綺麗じゃなぁい?あらついにウリ始めちゃったのかしらってあたし、思わずじぃっと見送っちゃったのよぉう』

 顔馴染みのキャバクラ嬢はけたけたとシンナーに酔った声で甲高く笑った。それが本当にナツが失踪した日だったのかどうかも定かではない。

 けれどそれでも辛抱強くナツの行方を尋ね歩いていたある日に、イチは見ず知らずの男達に連れ去られた上に、海辺の倉庫に監禁されるはめになったのだ。

 一つも暴力を受けなかったのは幸いだったが、男達の目的は結局わからないままだ。ナツは、なにかとんでもなく面倒な事に巻き込まれているのかもしれない。

 そしてどうにか住み慣れた中野の長屋まで辿り着いたイチの眼に映ったのは、誰一人として残っていないがらんとした廃屋だった。

 



「………ナツ!さくら、咲希〈さき〉!……誰もいないのか…?」

 ここを常時塒にしている三人、そして避難場所としていつも逃げ込んできている三人も。
 電気のない、薄暗い部屋の中には、誰一人いなかった。
 それどころか帰った気配もない。部屋は一昨日の朝、イチが出ていったときのままだ。

 いってらっしゃい、と。

 あの朝そう言ってくれたのは誰だったろう。

「………まさか、オレと同じ……」

 厭な想像が頭を過ぎる。イチが攫われたのと同じように、他の子供らも皆どこかへ連れて行かれたのだろうか。

 ぞっと背筋を寒気が走って、恐怖がじわじわと胸元を掴んだ。

 頭を一つ振ってその闇雲な怖れを振り払い、イチは取り敢えず自分の部屋にしていた一番端の部屋へと向かう。

 ひっ掴んだ鞄には身の回りのものがすべていれてある。

 いつ逃げ出さなければならなくなるかわからない生活では、当たり前のことだった。

 一昨日の朝可能な限り身につけておく筈のこの鞄を置いていったのは、ナツが見付からない焦りに気を取られていたからではなく、なにがしかの予感があったからだろうか。

 おそらくこの長屋の場所はもう知られているのだろう。敵がどんな相手なのかは皆目分からないが、いまこうしていられることが既に僥倖だ。

 資材の脇をすり抜けるいつもの通り道ではなく、薄汚れた神田川の縁へと滑り降りて、イチは駆け出した。

 捕まるわけにはいかない。

 なんとしてもナツを見つけだして、この不意に襲った災難の根を探り、仲間達の安否を確かめるのだ。

 闇雲に背を叩く焦燥に押されて、イチは、ただ暗く淀んだ川の縁を疾走した。







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