この世でいちばんの不幸








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◆◆◆ 序章 ◆◆◆

 





 

 この国の子供〈ガキ〉の不幸は、と彼は苛々と爪を噛みながら考える。

 この国の子供〈ガキ〉の最大の不幸は、不幸だからといって死ねないところだ。

 もちろんそれに多くの異論があろうことは知っている。

 けれどそんな事は重々承知で、それでも彼は、不幸というものを発生させる原因のいくつかは確実にそこに在ると思っている。

 苛々と爪を噛んでいると、横合いから声がかかった。

「深爪になるよ」

「……………」

 ちらりとそちらに視線をやる。二メートルほど離れた場所に座り込んだ男は、両足を投げ出して、くつろぎきった姿勢で壁により掛かっていた。

 やたらとむさ苦しい髭が生えた上、いつ散髪したのかと問いたくなるようなぼさぼさの髪が、男の年齢を不詳にしている。

 胡散臭い男だ。

 表情が読めないため、彼がこの状況を一体どう思っているのかは伺い知れない。

 この男が、果たして自分と同じ立場であるのかどうかも。

 男の様子を片目で伺ってから、彼はこの狭い倉庫の中をもう一度ぐるりと見回す。

 打ちっ放しのコンクリートの床、放り出された建材に高い場所にある格子のはまった窓。

 まさかこんな目的で造られた場所ではないのだろうが、ここは立派な牢屋だった。

 少なくとも、人間二人を閉じ込めるには申し分ない。

 中学校の体育倉庫ほどの建物内を隅々まで眺めてから、格子の外の狭い空を見上げた。

「ねえ」

「……………」

「ちょっと。聞いてるか。少年」

「………………」

「こっち向けって」

 男がうるさいので、渋々そちらを向き直れば動くものが視界に入った。

「…っ」

 とっさに避けると、銀の包みが軽い音をたてて壁に跳ね返って落ちる。

「ちゃんと受け取ってくれよ」

「…………なんだよ、これ」

「チョコレート」

「……………」

 まじまじ見れば、確かにそれは真っ二つに折られた板チョコの半分だった。ぺらりとめくれた銀のホイルの包みから、甘そうな褐色の断面が覗いている。

 不覚にも喉が鳴った。

「なんで、こんなもの……」

「内ポケットに入れてあったんだよ。あいつら、鞄はとったけど身体検査はしなかったからね」

 見知らぬ男達に捕まり、この倉庫に押し込められて丸一日経った。今朝方同じようにここに放り込まれたこの男も自分も、それ以来飲み食いはしていない。

 そろそろまずいだろうと思い始めていたので、このチョコレートは相当ありがたいものだったけれど。

「………そっちにしてくれないかな」

「え?」

「同じ半分なら、そっちをくれ」

 覚えず口の中に沸き上がった生唾を飲み込んで、手元に転がったチョコレートを投げ返す。それでもう食べる機会を逃したとしても仕方のないことだ。

 用心はし過ぎるということがない。

 十七年の人生の中で、彼が学んだ一番重要なことだ。

「へぇ。用心深いね」

 もっさりと生えた髭の奥で笑った男が、ほら、ともう一つのチョコレートを投げる。今度は受け止めて、代わりに二回空を飛んだチョコを齧る姿を見届けてから包み紙を剥いた。

 貴重な食糧の半分を自分に分け与える男の意図はどうでもいい。これが薬品入りでないならば、少しでも食べておかなければ体が持たない。

 ひといきで食べてしまいたいという身体の要求をねじ伏せて一欠片を用心深く口の中で溶かしていると、瞬く間に自分の分を食べ終わってしまった男が言う。

「毒なんて入ってないぞ」

「………ゆっくり食った方が満腹感がある。あんたは、せっかちだな」

「そうかな」

 むさ苦しい容貌に似合わない柔らかな声、喋り方。

 長い時間をかけてチョコレートを食べ終わってしまう頃、また男が声を掛けてきた。

「ねえ。名前は」

「…………」

「チョコの礼に教えてよ」

「………自分で投げたくせに、礼をねだるなよ」

 男は髭の奥で、たぶん笑っているのだろう。

 解らない男だ。

「名前は?」

「イチ」

「いち?名字?名前?」

「それが、名前だ。それ以外は無い」

「ふぅん………ああ、オレの名前は」

「いらない」

「………酷いな。聞いてくれても」

「いらない」

 放るようにそう言い捨てて、イチは鉄柵のはまった窓を見上げた。いつの間にか月は中天に掛かっている。

 立ち上がり、外の音に耳を澄ませる。

 風が揺らす梢の音、微かな虫の声、繰り返し打ち寄せる波。

 ちらりと男を見やって、イチは逡巡した。本当なら眠っているうちに、あるいは眠らせて、行動を起こすつもりだったのだけれど。

「………あんたは、ここに閉じ込められたのか」

「そうだよ。見ればわかるだろう」

「何故」

「さあ………オレの、仕事のせいかな」

「仕事?」

「そう。色々と、人間関係が面倒でね」

 ひょいと肩を竦める姿を見やって、イチは決断した。この男が眠るのを待っていては時が過ぎてしまう。眠らせるには、体格差が有りすぎる。

「………音をたてるな。声を出すな。ついてこい……ここから、出たかったら」

「え?」

 男の疑問符には耳を貸さず、イチは猫のように素早く倉庫の一番奥へと移動する。置かれたいくつかの建材を慎重にずらし、その下に有る地下へ続く階段の蓋を開いた。

「へぇ……そんなとこに地下が有るんだ」

「早くしろ」

 男の図体には狭い脱出口かも知れないが、その場所以外に道はない。つっかえたら置いていくまでだ。

 素早く地下に蟠〈わだかま〉る闇の中に滑り込んで、手探りで階段の途中にある通気口を探した。
 ようやく見つけるとはまっていた網を外し、その中に潜り込む。

「ぅわ……せま」

「逃げ出したくないなら戻れば?」

 イチには広い通路も、彼にとってはぎゅうぎゅうらしかった。

 それでも付いてくる気配を後ろに感じながら、風の動きを頼りに、真っ暗闇の通風口の中を進む。やがて呼吸が楽になり、頭上に少し傾いた月が見えた。

 空気の取り込み口の網を、音をたてないようにそうっと持ち上げる。

 出た先は、どうやら閉じ込められていた倉庫の裏手らしかった。間近に港の灯りを照り返す暗い海面が見えて、イチは姿勢を低くしたまま左右を見回す。

 左は壁。

 右はイチを捕まえた男達がいるとおぼしき小屋。明かりは、消えていない。瞬時に決めると、イチは姿勢を低くしたまま海へいざり寄った。

「おい……」

 背後の男の声を無視してコンクリートの端から海を見下ろせば、積まれたテトラポットの陰影が見える。迷ってついてこないかと思った男は、イチの後ろから足場の悪いテトラポットに降り立った。

 大きな図体をして、静かに動く男だ。

 案外それは彼の仕事とやらに関係があることなのかも知れない。けれどそんな面倒な事を詮索する意図は毛頭なく、イチはただ目の前のことにだけ集中して海の中に滑りこんだ。

 もう、七月だ。

 夜の海は冷たいが、我慢できないほどではない。

 水中で蹴飛ばすようにして靴を脱ぎ、堤防伝いに砂浜の方へと泳ぎ出すと、密やかな水音が後に続くのが聞こえた。






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