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   ◆◆◆ 一と夏 ◆◆◆

 

 

 

 夏が近づいてくる度に、まるで怖いものが襲ってくるような錯覚を覚える。

 触れても、見ても、考えてもいけないもの。

 闇雲な恐怖が背を叩いて、耳元で怖ろしい声がして、伸ばした指先が何かに縋ろうと空を掻く。

 空が蒼くなり、気温が高くなり、長い雨の季節が過ぎて、からりと白い太陽が空に掛かる季節。

 毎年、毎年、摂理に従ってやってくるその季節を憎む。

  その憎悪で恐怖を乗り越える。

 

 本当は、わかっていた。

 こわいものは、自分の心の中にしかないのだ。

 

 

 

 















 

 早い朝の太陽は、アスファルトに白い光を投げ掛けている。

 今日も暑くなりそうだ。

 昨夜の雨の余韻など道路脇の側溝に溜まった雨水位しか無く、真夏の気温は徐々に上がり始めている。

 少しだけ怠い腰に眉を顰めながら、イチは空を見上げた。

 蒼穹は高くまで抜けるほどに澄んでいて、そうやって空が夏に向かってゆく度に少しだけ不安定になった友人のことを考えた。

 


 ナツだよ。

 夏に産まれたからね。

 


 そう言うときに少しだけ歪む唇の理由を、イチが知らなかったわけではない。 

 軽く頭を振り、ずきんと疼く痛みに傷の所在を思い出して顔を顰めると、イチはポケットから一枚の名刺をとりだした。

 昨夜、病院の看護婦に、そっと渡された。

『高田夏さんの件で、って伝えてくださいって。背の高い男性だったわ』

 東乃には言わなかった。どうしようかと惑って、けれど今朝、傍らで眠る男を起こす気には結局なれずに、そのまま抜け出してきた。

 起きれば怒るだろう。

 心配するのかも知れない。

 けれどそうやって惜しみなくさらけだされる情にまだ戸惑いが消えないわけではなく、受け取って良いものなのかすら決めかねていて、昨夜あんな風に睦み合ったくせに臆病だなとイチは自分を笑う。

 少しだけ、怖い。

 あの男のくれる、知らないものが。

 一生受け取ることはないだろうとどこかで決めていたような綺麗なものを、東乃は、惜しげもなく差し出してくる。

 さらにいたたまれないことに、それはすべて一欠片の偽りもない真実なのだ。

 また頭を振り、走る痛みでイチは堂々巡りの思考を追い払う。

 手元の名刺を返した裏には、手書きの携帯番号。

 ここに連絡してこいと言うことなのだろう。

 警戒も、疑いもしたけれど、これは彼に繋がる細い糸だ。

 意を決して、イチは、その名刺の裏に書かれた携帯番号へと連絡をするべく公衆電話を探した。

 

 

 













 

「………ひさしぶり」

 掠れた、泣きそうな声がそう呟いた。

「………あぁ」

 記憶にあるのと同じ、色素の薄い顔。けれど今は髪型も服装も、そして立ち居振る舞いすら洗練されていて、この離れていた二月ほどの間に起こった環境の変化を知らせていた。

 イチと同じようにガリガリと細かった身体は少しふっくらしただろうか。

 夏になる度に彼を窶れさせた影が、ようやくつきまとうことをやめたかのようだ。

 この古めかしいヨーロッパ調の屋敷へとイチを案内してきた男は扉の向こうへと消え、ちらりとイチはその背の高い姿を視界の端で追った。

 昨日の夜、クラブでナツを庇ったのはあの男だ。

 もしかしたら以前、キャバクラ嬢がナツと連れ立っているところを見かけたと言ったのも、彼だったのかも知れない。

「あいつは?」

「あいつは…英田って言って、オレの、お目付役…かな」

「お目付役、ねぇ………」

 イチの呟きをどう思ったのか、ナツが慌ててソファセットを指差す。

「イチ、座って。お茶も用意する。怪我は痛まないのか?」

「別に、痛くない。……ナツ。説明してくれるんだろう」

 まるで断罪を受けたかのようにびくりとその肩が震える。

 やれやれと息をついて、イチは、ようやく再会したナツの気を休ませるためにソファへと腰掛けた。

 

「オレ……オレね、イギリスの、大富豪の孫なんだって」

「………へぇ」

 今まで考えた様々な事情の中で一番有り得ないと思ったパターンを教えられて、イチは思わずとても素っ気ない声で相づちを打ってしまった。

「本当だって!信じてないだろ、イチ」

「ああ……いいや、信じるさ。そうでもなきゃ、あんな大がかりな口止め工作なんかできないだろうしな」

「………」

 それを皮肉と取ったのか、ナツは口を噤む。 

 慌てて、イチはそれでと先を促した。

「………金をばらまいて、色々したのは……たぶん、さっきの英田だ。オレの母さんは、イギリス人の爺さんと…日本人の婆さんの間に産まれた三人目の娘で、父さんとの結婚に反対されて駆け落ちしたんだって。捜したって、英田が、言ってた」

 もうそろそろ先もないかという歳になって、その大富豪の老人とやらが、三人目の娘にも財産を残したいと言いだしたのだという。

 時は既に遅く娘は他界した後で、代わりに面差しのそっくりな孫が居た。老人はナツを引き取りたいと、そう言ったのだという。

「オレに……居てほしんだって。そう、言われた」

 俯くナツの、震える肩。

「咲希は?咲希とさくらの事は、どうしたんだ」

「それは……やっぱり、英田が手配したことで。でも頼んだのはオレだ。二人とも、安全でいい家に養子に入ったって。咲希には一度会いに行ったよ。でもさくらには会わせてもらえなかった」

 イチはため息をついた。

 周到な大人のすることだ、ナツなど手玉に捕られて終わりだろう。たぶん、さくらが逃げ出したことも、ナツは知らされていない。

「さくらはいまオレと一緒にいる。その家を出て」

「……そうなんだ」

 奇妙に羨ましげな眼を、ナツはした。置いてきたものに未練を残すような。

「……イチが、攫われて。他の二人も危ないって言うから、安全な所に連れていってくれって、英田に頼んだんだ。イチも、助けてくれって。でもそしたら、イチは、自分で逃げ出してて」

「ああ……オレを攫ったり、狙っていたのは、誰だったんだ?」

「……オレも、良く知らない。英田なら」

「呼んでくれ」

 有無を言わさずそう言ったイチに、ナツは少し怯えたような眼をして、内線を取った。

 十秒とたたないうちに英田が現れて、すぐ隣室に控えていたのかと思う。尖った縁の眼鏡と撫で付けた髪が、秘書だのお目付役だのと言った言葉をすぐさま連想させるような人物だった。歳は、東乃や狐原達と変わらないだろう。

「アンタが、英田か」

「始めまして。イチ様」

「ああ。その節はオレ達に挨拶もなくナツを引っさらって、あまつさえさくらや咲希まで世話になったな」

「少々強引な手段だったことはお詫び申し上げます。ただ、イチ様が攫われてしまったので、急いで身柄を保護させて頂かねばと焦りまして」

 平坦な口調の向こう側にはなにもない。

 ナツを大切に思っているかどうかすら伺い知れない。

「まあいい。咲希は、本当に無事なんだろうな?」

「はい。養女先の家庭にも慣れて、お幸せに暮らしていらっしゃると報告を受けています。お望みなら新しいご住所をお教えいたしますが」

「ああ」

 微かな苦さを舌に覚えて、イチは、少し笑った。

 この男の平坦な口調や、どんな熱も感じさせない声は、このところ忘れていたものを思い出させる。イチ達を軽んじようとする世界への憎しみだ。

「それで、オレを攫ったり、昨夜ナツを襲ったりした相手は誰なんだ?」

「……………」

「大方ナツの母親の兄弟とか、そんなとこだろ。もしくはその子供ってとこかな」

「………頭が宜しくていらっしゃる」

「この程度は普通だろう」

 ちらりとナツに視線をやって、その不安げな顔を見る。

「こいつを邪魔だと思うのは、どうせその辺りだろうし」

「はい。……財産分与の取り分を、心配している方々、ということですね」

「………金ね」

 しゃあしゃあとした顔をしている英田を睨んで、ばかばかしい、と小さく呟いた。

「東乃が届けた書類っていうのは?」

「それは、興信所に頼んだあなた方の調書の最後の報告でしょう。そろそろ近づくのもまずいと感じ始めていたらしく、なんでも屋とやらに頼んだようです」

「それでとばっちりを食ったってわけか」

「あなたにとっては幸いなことだったでしょう」

「あんた方にとっては、不運、ってことだな。こうして、ナツとオレを会わせる羽目になった」

 英田が僅かに眼を伏せる。

「………それは夏様のお望みです」

 その伏せた眼の中に、ほんの僅かでも情と呼べるようなものが浮いた気がして、イチは意外に思う。

「………英田。話が終わったなら、出ていってくれ」

「はい。……失礼いたします」

 僅かな間をおいて英田が戸口に立って、そのまま出ていくかと思ったけれど彼はまたイチ様、と呼びかけた。

「なんだ」

「夏様を攫うように連れてきたのは私です。それからあなた方に連絡を取らせなかったのも、夏様が元から居なかったかのように細工をしたのも、すべて」

「それがどうしたって言うんだ」

 ふいに荒い口調で英田を遮り、ナツがそう言った。

「頼んでなくても、止めなかったのはオレだろ。オレは自分の耳で話を聞いて、自分でついてったんだ。英田のせいじゃない、オレが」

 言葉を止め、挑むような、縋るような眼でナツはイチを見る。

「………オレが……イチ達を、捨てたんだ」

「…………ナツ」

「知ってるだろ。イチ。オレ、夏が近づいて来ると、だんだんおかしくなる。怖くてたまらなくなって、逃げ出したくなって、でもどこに逃げたらいいかもわかんないんだ。施設から逃げたときは、イチが、助けてくれて、でもオレはあそこからも逃げ出したくなった」

「…………」

「そしたら……その時、英田が、来てくれて、オレを捜してたって、必要だって………」

 

 あなたが、たいせつだと。

 

 そう言ってくれる誰かを、イチ達はいつも切実に求めている。

 そこにいて良いと、必要だと、そうやって理由をくれるものがいるのならば、振り払うことがどうして出来るだろう。

 望まれているのに。

 夏が、自分の誕生日が近づいてくる度に不安だと、居てもたってもいられないとそう急くナツの闇雲な焦燥はイチにも知れていて、咎めることも出来はしない。

 ただ切なかった。

「………ナツ」

 夏に産まれたからナツ、一月に産まれたからイチと、そんな言葉にどんな願いも想いもこめない名前だけを与えられてこの世に放り出された。

 もっと、もっと何かが欲しいと、いつも餓えて、それなのに怯えて逃げ回るばかりで。

 けれどいつまでもそうしてはいられない。与えられなかった事を嘆くばかりでは、そこに在る別のものを見つけることも出来ない。

 少なくともナツは、最初の一歩を踏み出した。

「………ナツ、オレは、お前を責めてない」

「嘘だ」

「本当だ。………ナツ、オレ達は、家族みたいに暮らしてたけど、家族じゃなかった」

「……………」

 やりきれない哀しみをイチはその言葉にこめる。

 あの壊れかけた廃屋で自分達は寄り添って、ほんの少しの熱を互いに与え合って、一時〈ひととき〉だけ一緒に暮らしたけれど、あの家に住んでいたのは家族ではなかった。

 ただ、淋しい子供が身を寄せ合っていただけだ。

「嘘だった。誰でも良かった。名前を呼んでくれるなら。オレは、オレ達はきっと一生淋しいままでこうして暮らしていくんだと思っていて、みんなを守ろうとしたけれど、一人も守れなかった」

「………そんなこと」

「あるんだよ。ナツ。……オレは、お前達に、どんな救いもあげられなかった」

 いつの間にか英田は姿を消していた。

 二人の間に落ちた沈黙に微かに嗚咽するナツの声が混じる。

「…………っオレは……ッ、い、イチは、いつでも、強いと思ってて……ッ」

「うん。オレも、そうでいたかった」

「つ、強くて、正しく、て……傷つかない、と………」

「………うん。そうでいたかったよ」

「ご、ごめ……ッごめんなさい……ッ」

 零れる彼の嗚咽に眼を閉じて、イチは、ついに自分が酷く、酷く傷ついていることを認めた。

 あの穏やかな家、壊れかけて、雨漏りがして、時折床板が抜けるような、あのぼろぼろの家に、それでも家族に似たものとして身を寄せ合って、諍いもあったけれど暖かくて、笑って過ごした歳月。

 そのすべてがあっけなく失われてしまった事が、イチは哀しかった。

 けれどそれはナツのせいではないのだ。

「………ナツ」

 涙はなく、組んだ手の上にただ震える息だけを落として、イチは望むものを告げた。

「ナツ。……オレはただ、幸せになって欲しいだけだ。お前と、咲希と、さくらに」

「………ッ」

「お前が決めたことだろう。泣くな」

「………っでもっ」 

 ナツが顔をあげる。

 あの家の暮らしていた中で、一番勝ち気なのはナツだった。

 いつでも聞く方が楽しくなるような笑い声をあげて、あの家の空気を明るく染めていた。

 けれど涙でぐしゃぐしゃの顔のナツは、まるで夏を直前に迎えたような憑かれた眼をしている。

「………怖いよ。イチ」

 喘ぐようにナツはそう言った。

「怖い……すごく、怖いんだ。オレ、ただ、じいさんとか……ばあさんとか、いとことか、そんな人が居るなら会いたくて。それだけ、だったのに」

「……………」

 それはナツの選んだものだと、その事実だけを指す残酷な言葉は使えず、イチは惑う。

「イチ。……オレと、ほんとの、家族になってくれない?」

「え?」

「オレと一緒に来てよ。一緒に暮らそう。……イチが居てくれるなら、オレ、怖くない」

「…………ナツ」

 震える指で、声で、ナツは縋るものを捜そうとする。

 彼の望みにそれでも答えることは出来ないと知っていたので、イチは、首を振った。

「いいや。ナツ。オレは、行かない」

「……ッなんで……」

「お前の行く場所はお前のものだ。オレの場所じゃない。……ナツ、オレは、ここにいたいんだ」

 彼の怯えを消せるもの、ナツの心に届く言葉を探そうと、イチは惑う。

 あの男は、恋をしろと云った。

 幸〈さいわい〉や夢や、手が届かないと焦がれるものに、それでも諦めずに、たとえ叶わなくとも終わるとしても。

 そうやって、人は、本当に生きることが出来るのだと。

「………ナツ。お前も、探すんだ」

「……………何を?」

「いままで、オレ達が手に入れることが出来なかったものを。……絶対にもらえないと、諦めてたものを」

「…………」

「いまは、あんなに欲しかったものを見つけて、だからナツはあの場所を出ていったんだろう?オレ達を捨てたんだから、もっと、ちゃんと強欲になれよ」

「………欲?」

「そう。ちゃんと……手に入れるんだ。信じるものを見つけて、愛して、………大切な人を」

 





 

 イチの言うことが良く分からなかった。

 そんなものを手に入れられるなんて、考えたこともなかった。

 血縁が居るというそれだけで十分だと思ったのに、イチはもっともっと強欲になれと言う。

「………それでも」

 ふと、イチの声が落ちる。

「それでも、どうしても、駄目だったら」

 彼の手がポケットを探り、一枚の名刺を取りだした。

「ここに、連絡を寄越せ。何か困ったことがあるなら、すぐに行ってやるから。………ただし、頑張って頑張って、もうどうにもならないと思ったらだからな」

「………どこ?ここ」

 白いカードには、知らない住所と知らない名前が印刷されていた。なんでも屋、と実に怪しい商売の名前も。

「オレが……今、住んでるところだ」

「住んでる?イチが?」

 そう言えばと思い出す。最初、イチが攫われたときに、とばっちりを喰ったなんでも屋の男がいたと。

「イチは……これから、ここに住むのか?」

「いいや。………それは、わからないけど」

 いつでも綺麗で、焦った表情など浮かべたこともないイチの整った顔が、少し惑う色を乗せる。

「それは、わからないけれど」

 らしくもなく伏せられた眼に、彼がその場所に持つ情が知れた。少しだけ、嫉妬する。

「でも、もしそこに住むことがなくなっても………連絡を取りたいと、そう、思う場所だ」

「…………そう」

 けれどその理不尽な嫉妬を、ナツは、飲み下した。

「そっか」

「ああ」

 イチは最後の糸をくれたのだ。頼って良いと、逃げてきて良いと。それだけで満足しなければいけない。

「淋しくなったら連絡して良い?」

「だからそうならないよう努力しろって言ってるだろ」

「たまに。さくらにも会いたいし」

「………たまにならな」

 イチの言葉にナツは笑って、その時ノックの音が響いた。

「お話中失礼いたしますが」

「……なんだよ。英田」

「イチ様にお客様がおいでです」

「オレに?」

「はい」

 いつでも眼鏡の向こうで冷静な英田が、珍しく苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「たいそう興奮して居られるご様子で。東乃様と仰られて降りますが、こちらにご案内して宜しいですか」

「東乃が!?」

 滅多に見られないほど慌てて、イチが立ち上がる。

 彼が戸口に向かう間もなく、廊下の向こうから大きな声が響いてきた。

「だから素直に通せって言ってるだろ!」

「お待ち下さい…ッ」

 戸口に立った英田を強引に押し退けて、彼と張り合うほど大柄な男が入ってきた。イチが彼の名前を呼ぶ。

「東乃ッ」

「イチ!心配しただろう!」

「だからって他人の家に勝手に上がり込むなよ!」

 東乃と呼ばれた男の手がイチに触れて、これがなんでも屋なのかとナツは気付いた。そしてさっきの名刺の人物だ。

 立ち上がって、二人に近づいて、ナツはそっとイチの袖を引いた。

「イチ」

「ああ、君がナツか。始めまして、この一月ばかりひたすら君の行方を追っていた東乃だ」

「………はじめまして」

 陽気な声の調子には、少しばかり棘がある。

 英田がナツと東乃に割って入って、険のある眼を彼に向けた。

「ご用件が終わりならば、さっさと帰っていただきたいのですが。不法侵入で警察を呼びますよ」

「随分な態度だな、こちとらあんたらに振り回されて右往左往だったって言うのに」

「頼んだわけではありませんからね」

 どうやら水と油らしい二人の間に火花が散って、それ以上どちらかが口を開く前にイチが行こう、と言った。

「イチ。いいのか。なんなら、外で終わるまで待ってるぞ」

「もういい。用事は済んだから」

 元気で、とイチが言う。

 慌ててその手を取って、イチ、とナツは呼びかけた。

 どうしても言っておかなければいけないことがある。

「イチ。あのさ、オレ達をどんな風にも救えなかったってお前言ったけど、あれ、まちがいだからな」

「え?」

「オレも、さくらも、咲希も。たくさん助けられた。オレきっと、イチが声を掛けてくれなかったら、あのままあそこで死んでて、何も楽しいことなんかないままだったよ」

 たった一人の肉親だった父親がアル中で死んで、入れられた施設を耐えかねて逃げ出した冬の日。新宿の隅っこで膝を抱えて、きっとこのままここにいれば凍死する、そうしたら楽になれると思っていたのに、イチは目の前で立ち止まった。

「………楽しかったのか?」

「うん。オレ、あの時死ななくて良かった。あの家で、初めて、人が好きだって思えたよ」

 この先どんなことがあっても。たぶん、一番つらいときに思い出すのは、あの場所のあの暖かさだ。

 とても拙〈つたな〉いけれど、それでも確かに愛情と呼ぶものがあの家にはあった。

 イチの顔が奇妙に歪む。

「………元気で」

 けれどその頬を伝う涙はなくて、そう言うとイチは、身を翻して戸口を出ていった。

「イチ!」

 イチしか眼に入っていないような大男が、慌ててその後を追う。ナツはため息をついて、傍らの男を見上げると、ありがとうと言った。

「いいえ。………よろしかったのですか」

「なにが?」

「一緒に来て欲しかったのでしょう」

 微かにナツは笑う。 

 一緒にいたかったけれど、それはただイチに保護者を求めているだけだ。

「………オレもちょっと、大人にならないと」

 嘆くばかりでは。

 餓えてばかりでは、駄目なのだ。

 ナツ、といういつまでもつきまとう空っぽの名前に怯えないで、ちゃんと、その上に、積み重ねるものを。

「…………」

「これから、どうぞ、よろしくお願いします」

 そう言って、丁寧に英田に頭を下げたら、こちらこそと照れたような声が上から降ってきた。







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