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◆◆◆ 過ぎ去る ◆◆◆

 

 

 家に連れてきた後も、さくらはずっと泣いていた。

 絶え間なくぽろぽろと零れる涙を止めることはとうに諦めて、狐原は薬缶をコンロにかけるとその隣に座って、ずっと外を眺めていた。

 地上十一階から眺める夜景は雨に滲んでいる。

 夕方から本降りになった雨は、夜半を過ぎても止む気配がない。今夜の雲は夏のくせによほど厚いのかと、花火のように滲む遠い高層マンションの白い光を見ながら狐原は思う。

 しゃくり上げる声。

 手元に持たせたハンドタオルはもうぐしょぐしょになっている。泣くときの引きつるような声は、自分でどうにか出来るものではないと狐原は知っている。

 ケトルがコンロの上で沸騰を知らせて、狐原はソファを立った。

 ティーポットに茶葉を大雑把に放り込み、湯を注いで、紅茶が出来る間に大きな厚手のマグカップにミルクと砂糖をたっぷりと入れた。

「飲め」

 さくらの手元からタオルを取り上げて、代わりにミルクティーのカップを持たせる。

「落とすな。多少は冷めてるが、火傷をするからな」

 忠告をしてから自分の分を淹れる。

 少し長く置きすぎてしまった紅茶は、苦かった。

 ゆっくりと啜りながら、今日起きたことを考える。バーでの乱闘は酷かったと、東乃は言っていた。

 真っ黒な髪の間からは真っ白な包帯が見えて、担ぎ込んだ救急病院で撮ったCTに異常はなかったと言っていたけれど、布団で眼を瞑る慣れない寝顔はとても顔色が悪かった。

 さくらは泣き喚いて、今こうして落ち着いても慰めることも出来ないで居る。

「………イチは死んでないぞ。怪我も、大したことはない。眠っているだけだ」

「……ッひ、っく……ッ」

「疲れたんだろう。明日は、ちゃんと起きられる」

 事実しか言えない口に、狐原は呆れ果てる。自分の不器用さはわかりきったことだが、こうして泣いている一回り年下の少年を慰める術〈すべ〉くらいは有って然るべきだろうに。

 無駄に歳を重ねたかとさくらに聞こえないようにため息をつくと、微かな声が聞こえた。

「……っい、イチは、ね…ッ」

「ああ」

「イチはね、……ッぼ、僕や、…ナツや、さ、咲希が、けが、したり、風邪、ひいたり、する、とね……ッ」

 哀れになるほど枯れた声。しゃくり上げるのの治まらない喉で、たどたどしく、さくらは言葉を綴る。

「や、薬草を……採って、来て、薬を、つくって、くれてね…大丈夫だって、言って、手を、握ってくれて、それで…っ」

「それで?」

「あのね……僕も、な、ナツも、咲希も…ッく、苦しい時とか、痛い、時とか、たすけてって、イチを……ッよ、呼ぶんだ……」

「………ああ」

「た、助けてくれなくっても……っ、どうにも、なんなくっても、いいんだ…呼ぶ、だけで、ちょっとだけ」

 楽になる、と、掠れて、おそらく痛む喉で、さくらが呟く。

 どうしようもないとき、一番苦しいときに呼ぶ名を、たぶん誰もが持っている。

「ああ、そうだな……オレにもある」

「………こ、狐原、さんにも?」

「ああ。あるさ」

「………それなら」

 涙の痕が付いた顔をあげてさくらは狐原を見て、けれどまたその顔が歪む。

「それなら……い、ちは…だ、誰を、呼ぶのかな」

「…………」

「誰、を……呼べるの、かな………」

 その問いの答えを狐原は持たない。震える手から今にも零れそうな危ういマグカップを取り上げて、狐原は戦慄く唇にあてがった。

「飲め」

「…………」

 薄く色を失った唇がまだ温かなミルクティーを少しだけ飲む。幾度か繰り返して、かれの咽せびようが治まったのを見て取って、狐原はさくらの手にカップを移した。

 そしてその細い肩を抱く。

「大丈夫だ」

「……………」

「大丈夫だ、さくら。そうやって呼ぶ名を、人は、持つことが出来る。必ず」

「………ほんとう?」

「ああ。あきらめなければ」

「………そうだと……いいな………」

 イチ、と小さくつぶやいて、さくらはミルクティーに口を付ける。過ぎるほどの重荷を背負ったその細い肩を、暖めるしか狐原は術を持たない。

 窓の外を音もなく降り続く銀の雨を見やって、彼が、彼等が手に入れられる多くのものがどうかこの世界に在るようにと、ただ願った。

 

 
















 

 入院は必要ないとイチが押し切って、連れて帰ってきたけれど、それで本当に良かったかは分からない。血の気の失せた頬を僅かに歪ませて、あんたは心配性だなとイチは呟いた。

『この程度の怪我なら心配ない。別に脳内で出血してるわけじゃないしな』

 表に傷があるなら、大丈夫だ。

 そう言ったイチがやるせなくて、東乃はただその手を握ることしか出来なかった。

 一応CTを撮り、頭の右脇に出来た裂傷を二針縫って、包帯を巻くとイチは帰るといった。一晩くらいは入院してもと薦めたのだけれど、必要ないとイチは言い切った。

「それに、保険証のないオレが一晩入院したら一体いくらになると思ってるんだ?治療費で既に嵩んでるのに、そんな余裕はないよ」

 それくらいは出すと言おうとして、結局出来なかった。

 黒い眼の鋭さがその言葉を拒んでいて、うまい言い様が東乃には見付からなかった。もっと口が立てば、あるいはイチよりも利口な頭があったら、彼を納得させることが出来るのだろうか。これだけはと呼んだ帰りのタクシーの中で沈黙していた東乃に、イチは微かに閉じていた眼を開いた。

「………あんたが、そうやってオレを尊重してくれるから、オレはあんた達を信じることが出来るんだ」

「…………」

「忘れないでくれ」

 








 

 そうしてイチは眠っている。

 彼にあてがった場所は一番上等の客間だった部屋で、障子を開けば縁側越しに庭の風景がよく見える。庭師を呼ばないようになって久しいのでぼさぼさに荒れ果てた庭を、イチは、好きだと言った。

 巴やペン太、茶々丸達の喜ぶこの荒れようを、好きだと言ってくれたのはイチが最初だ。

 けれど今日は夜の雨が降っていて、過ぎる風は夏とは思えないほどに涼しい。身体に障るからと障子を閉め切って、東乃は、布団に寝かせたイチをずっと見守っている。

 少しでも痛がる様子はないか。

 夜中に、眼を覚ましはしないかと。  

 雨の沈黙が部屋には満ちて、今日は巴もペン太もやってこない。部屋に漂う緊張を感じ取っているのだろう。

 微かにイチが呻いて、慌てて東乃は布団に近寄った。

「イチ……イチ」

 そうっと呼んで、汗で張り付いた髪を避け、まるで壊れやすいものに触るようにその白い包帯を辿る。

 少し潜めたその眉の奥にあるものは伺い知れない。

 タオルケットから出た細い指先を握って、東乃は、たまらなく自分が情けなかった。

 

 








 雨は嫌いではなかった。  

 まともな家を持っているわけでもない生活の中で雨はとてもありがたくないもので、雲が出始めると仲間達は皆鬱陶しそうな顔をしたけれど、イチは雨が嫌いではなかった。

 凍えるほど冷たいのはさすがに厭だけれど、春の小雨や夏の夕立は気持ちいいとすら言えた。

 おかしなことだ。

 一番旧い雨の記憶は家を追い出された公園のベンチで、その次は母親の出ていった夜なのに。それともそうやって雨を厭っていないことが、そんなのは大したことでは無いという証なのだろうか。

 そんな事を考えながら耳の奥で雨の音を聞いている。

 微かにその音に紛れて、イチは自分の名前を呼ぶ声を聞いた。 母さんが迎えに来た。

 そう思い、いいやと打ち消して、今まで一度も有り得なかったそんな事を昔どれほど望んでいたのかをふと思い出す。

 堅く唇を引き結び、いつでも情の強い顔をしてと近所の老人に憐れまれたその顔で、イチは母親が来るのを待っていた。

 陽が暮れても、月が照っても。

 当に捨てたそんな頃がすぐそこに帰ってきて、イチはその微かに軋む胸と淡い痛みに驚き、それが確かに自分の中に残っていること、そして通り過ぎたことなのだと知る。

 決して取り出さないように蓋をした過去は、もう本当に過去だった。

 泣き喚くことも縋ることもしないで置いてきたのだから、触れればどんな風に暴れるか知れないといつも怯えていたそれは、いつの間にか少しずつ薄れて消えることはなくとも淡い残像になっていた。

 現実はもう別の場所にある。

 イチがそこにいて良いと、そう言ってくれる人がいた。

『イチ』

 呼ぶ声は母の声ではなく、目覚めなくてはと、今度こそはっきりと思った。

 

 














 

「イチ」

 なかなか焦点が合わない。ぼうっと天井を眺めていると、徐々に天井の板の木目がはっきりと見えてきて、尖ったその先端がはさみのようだなと思う。

 視界の端に動くものがあって、ゆっくりと頭を動かした。

 引きつれる痛みは耐えられないようなものではない。

 ようやく視界の正面に入った男の方が、よほど、痛そうな顔をしている。

「………なんて……顔、してるんだよ。アンタ」

「イチ。痛くないか?熱は?痛み止めとか、飲むか」

「いらない……」

「喉は?水が良いか、それともジュース?お茶?」

「………お茶」

 矢継ぎ早な問いに思わず笑いそうになって、そう答えると、ゆっくりと布団の上に身体を起こした。

「イチ。起きない方が」

「起きないでどうやって飲むんだよ。アンタ、ほんとに、心配しすぎだ」

 東乃が差し出した茶を受け取って口を付けると、本当に喉が渇いていたようで一息で飲み干してしまう。次いで注がれた二杯目も飲みあげて、湯飲みを置いた。

 ため息をつくと、東乃がまた心配そうな眼を向ける。

「もう……寝た方がいい」

「ああ」

 素直に頷いてまた布団に潜り込む。自分の体温で暖まった布団は気持ちが良かったけれど、足元にはいつもいる猫が居なくて、それを少し淋しいと思う。

 眼を閉じると雨の音。

 奇妙に頭が冴えて、眠れなかった。

 先刻の一眠りが、よほど深かったのかも知れない。頭の傷は疼いていたけれど、もうさほどの痛みはなかった。

 直に雨に混じって聞こえてきた音が、押さえた啜り泣きなのだと気がついて、イチは眼を開けた。

 障子に背を預けて、子供のように膝に顔を伏せた男が、泣いている。

「………なに…泣いてんの」

 問いかければ東乃の肩が微かに震えて、けれど顔をあげずにくぐもった声が聞こえた。

「…………なんでもないよ。イチ。気にしないで」

「オレのため?」

 障子越しに灯った灯籠のぼやける光で、闇に慣れた眼に彼の姿が映る。眼を瞬いて、イチは、不思議なものを見るようにその姿を眺めた。少し眼が悪いイチに、輪郭はぼんやりと崩れる。

「ねぇ……オレのために泣いてるの」

 答えはない。

 ただ押し殺した嗚咽が、雨に紛れて響いて、彼がイチを守れなかった無力を悔いているのだと知らせる。

 一人で生きることの出来る自分にはどんな助けも、守護もいらないのだとずっと思っていた。けれどそれならば、彼の嘆く姿を見て、こんな風に心が騒ぐのは何故なのだろう。

 その涙を、止めたいとも、もっと眺めていたいとも思うのは。

 ゆっくりと上掛けを剥ぎ、起き上がって、イチは彼にいざり寄った。彼の隣に手をついて、どうしようかと惑って、その耳元にキスを落とす。

「………イチ?」

 東乃が顔をあげる。

 その頬の濡れた涙を舌先で舐めとって、驚いた顔を間近で見つめた。

「イチ?」

 そう言えばあの倉庫の夜、同じようにこの男は背を預けて座っていた。

 あの日がもうなんて遠いのだろう。

 月日が経って、こんな風に距離は縮まっている。あの時この男がくれて寄越したチョコレートは甘かった。

 とても。

「………こんな気分になるの、初めてだ」

「え?」

「あんたを……慰めたいよ。すごく」

 東乃の耳元で囁いて、その冷えた裸足の足の甲を指先で辿る。

 びくりと引いたのを許さずに、筋張った甲の骨と踝を探って、唇で髪の端に、濡れた頬に、耳にとキスを落とせば、焦った男が障子伝いに避ける。

「なんで避けるんだ」

「そりゃ……イチが、そんなことするから………」

「しちゃいけないのか?」

 離れた距離を許さずに詰めて、イチは囁く。

「なぁ。オレがあんたに触れるのは、いけないことなのか?」

「いけないとか…そうじゃなくて。言ったろう、イチ」

「ああ、聞いたよ」

 微かにイチは笑む。

 どこまでもイチの意志を、イチを貴いもののように扱ってくれる東乃が、とても、好きだと思った。

「オレが、こうしたいんだ」

 その好きが、どんなものなのかはわからない。

 彼の言うものと同じかどうかすら。 

 けれどイチはこうして彼に触れたいと思い、彼の涙を止めて、イチを守れなかったと嘆くその心に、慰めを差し出したかった。

 彼のせいではないという言葉を言うのは容易かったけれど、自分の唇は嘘をつける。

 もっと確かなもの。

 もっと揺らがないものを。

 彼に。

 強引に身体を擦り寄せてキスをすると、逃げはしなかったけれど唇は固く閉ざされている。舐めて、噛んで、促すと少しずつ解けて、やがてどちらが与えているのかわからない深いキスになった。濡れた音が耳につく。

「イチ……傷に障る」

 けれど離れた途端、荒い息も治まらないくせにそんなに冷静なことを言う東乃が憎らしくて、脚に爪を立てた。

「もう痛くない」

「そんな事言って………」

「痛くない」

 だだをこねる子供のようにそう言えば、ようやく東乃は諦めたようだった。大きな手がイチの身体を引き寄せる。

 なで下ろされる感触にざわりと腰が疼いた。

 布団の上に場所を移して、触れ合う。

 東乃の手が慣れた動きでイチの服を解いて、慣れてるんだねと言うとまあそれなりにと返された。

「イチは?」

「え?」

「お前は、どうなんだ」

「さぁ。……どうかな」

「どうかなって………どっちなんだ一体」

 少し焦った声をあげた東乃に、イチは指先を伸ばす。

「こんな風にオレから触りたいと思ったのは、あんたが初めてだよ。……それじゃ、駄目か?」

 少し、惑った顔。

 失望させたかと言ったことを悔いて、イチは視線を外す。

「………悔しいけど。でも。駄目じゃないよ、イチ」

 本当のことしか言わない優しい声に、安堵する。

 切りもなくキスをして、その大きな手が探るようにイチを辿る。薄い肩から、鎖骨、胸に触れて乳首を掠めるとぴりりとした痺れが背に走る。

「痛くないか?イチ」

「平気だって……言ってるだろ」

 心臓が高鳴っているせいか、頭の傷は少し疼く。けれどそんな事を言ったら、きっと東乃はやめてしまうだろう。

「嘘吐きだな」

 掠れた声で笑った東乃の顔が酷くなまめいて、イチは目眩を覚えた。

「けど、もう、止まってやれないよ。イチ」

 そうっとイチの身体を布団の上に倒して、東乃の唇が耳元に触れる。くすぐったさに震えると、今度は首筋に、ぬめる舌が辿って鎖骨に。少し強いキスが痕を残して、イチは身を捻った。

「あと……つけるな」

「聞かないよ」

「…ぁっ」

 胸元を探って、乳首を嬲られる感触に、イチは思わず声をあげる。大きな掌が身体中を探るように動いて、たまらずイチは上掛けを噛んだ。

「だめだよ、イチ。ちゃんと声を聞かせてくれなくちゃ」

 けれど東乃の手が上掛けを奪って、イチの頬を包み込むように触れる。優しく繰り返される淡いキスの合間にも、卑猥な手が下着へと滑り込んだ。

「……ぁあ…ッ、あ、東乃…ッ」

「イチ……イチ」

「………んぅ……っ」

 まさぐり合って、キスをして、舌を搦めて。

 全裸になった身体をやはり熱い皮膚で覆われて、イチはたまらず何度も喘いだ。

 濡れた音が一度吐いた精液だと気付くまだほんの少しだけ冷静な思考がたまらない。

 何もわからなくなってしまいたかった。

「……ぁあ……ッん、うぅ……」

「イチ……イチ。大好きだよ」

 重なり合った性器が擦れて、東乃が押さえきれない息を乱し、荒い声で低く呻く。

 その声に籠もった熱にくらくらした。

 初めて他人と触れ合っている気がする。

「………んぅ…ッ」

「……っ」

 低く呻いて、じわりと熱が下腹に弾ける。

 重い身体は、けれど始終イチに負担をかけないようにと優しかった。汗に濡れた包帯を辿る指先。

「………代えようか」

「………っいい……大丈夫」

 荒い息で返事をして、イチは眼を閉じる。

 とても、満ち足りていた。

 

 今日はここまでな、と東乃は言って、いくら大丈夫だと言ってもその先に進もうとはしなかった。

 濡らしたタオルで丁寧に二人分の汚れを拭って、冷えないようにとパジャマを着せて、その間イチはただうつらうつらしているだけで。

 甘やかされているなと、そう思う。

 そうしてイチの傍らで寝そべった東乃に、次があるかどうかわからないよとそんな風に憎まれ口をたたいて、けれどゆるゆると眠りに落ちるそのあまりの気持ちよさに、またしてもかまわないかなと思った。







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