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「失礼いたします」

 ノックの後、返事をしないで居たら彼は勝手に入ってきた。

 非難の眼を向けても取り合おうともしない。いつでも動かないその顔が憎たらしくて、きりりと爪を噛む。

 爪を噛む仕草は友人を真似したものだ。仕草を真似れば、あの強さが手に入るかも知れないと闇雲に彼を追いかけた時期があった。

「爪の形が悪くなります。おやめ下さい」

「………ほっといて」

「駄目です」 

 お目付役としてつけられたこの男は肩書きは秘書だが、実際のところ教育係のようなものだ。所作をいちいち見咎められて落ち着く暇もない。

 実際このところは目も回るような忙しさだった。

 置いてきたもののことなど考えられないくらい。

 あの日からもう、気付けば一月が過ぎていた。

 暦はもう数日で一番暑い月を迎える。この場所はいつも一定の温度に保たれていて、季節の変化が良く分からなくなる。

 日にちが経つことさえ。

「どうぞおいで下さい。御当主様がお待ちです」

「………」

 ため息をついて立ち上がる。

 まだほんの数回しかお目に掛かったことのない彼のことをもう少し知りたいと思っても、こうして定められた時間にしか近寄ることを許されない。

 なぜ自分はここにいるのかと問いをまた胸の内で繰り返しながら、彼は、男の後について扉をくぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから違うって、イチ。こうして真ん中に乗せたら、ちょっと水をつけて二つ折りにして、こうやってひだをつけるんだ」

「やってるだろ、うるさいな」

「やり方が違うんだって」

「喰えりゃなんでも一緒だろ」

 事務所の一角を借りて自前のノートパソコンを開いていたら、一緒に夕食の支度をしないかと東乃に誘われた。今日は珍しく彼が留守居で、狐原が外に出ている。

 夕飯は餃子で、皮から作ったと自慢げに東乃が小さな綿棒で皮を丸く作る技を披露してくれた。

 後は餡を詰めてひだをつければいいのだが、それがなかなかうまくいかない。

「ほら、こうやるんだって」

 思いの外器用な指先がまるで売り物のように綺麗に餃子を形作って、内心でこっそり感心する。基本的に料理をする環境になかったイチは食事を作ることが不得手だった。

「さくらは?今日は一緒じゃないのか」

「庭で茶々丸と遊んでる。……あいつは、犬猫が好きなんだ」

「へぇ、それは良かった。茶々も喜んでるな」

 忙しくてなかなかかまえないからな、と嬉しそうに東乃が言う。

「……ここに、犬だの猫だのが居て良かった」

「珍しいな、イチがそんな事言うなんて」

「オレの事じゃない。……さくらが、すぐ慣れることが出来た」

 いつでも寝床に潜り込んでくる巴や、ばたばたとうるさいペン太、遊ぼうと誘いに来る茶々丸がいなかったら、さくらはこんなに簡単に心を開きはしなかっただろう。

 咲希とナツの不在が心に掛かってはいても、時折心底嬉しそうな笑顔を見せる彼にイチはほっとしている。

 東乃と狐原にももっと怯えるかと思ったが、どうやら慣れたようだ。挨拶くらいは交わせるようになった。

「………アンタに、迷惑かけたな」

「なんのことだ?」

「兄貴に……借りを作ったって聞いた」

「あぁ……」

 狐原か、と東乃は忌々しげに舌打ちをする。

「気にしなくて良い。イチ。オレが勝手にやったことだ」

「………ああ」

「オレと兄さんは仲がいいんだよ」

「だから兄貴はあんたにヤクザになって欲しいのか?」

 そう問えば、東乃は困ったような顔をする。こんな風に彼の境遇を問おうと思ったのは初めてだ。ごまかすように餃子の皮を手に取った視線を真っ直ぐに見上げれば、東乃は困った顔でそれでも笑った。

「うーん……まぁね。ほとんど意地みたいなモンだけど」

「意地?」

「そう。オレが妾の子だったって話は聞いた?」

「……いいや。狐原は、そんな話はしない」

「そうだな。うん、あいつに失礼だった」

 笑って東乃は、小麦粉のついた指先でイチの頬を弾く。まるで小さな子供にするようなその仕草にどうすれば良いかわからなくて、しかめ面をした。

「不機嫌な巴さんみたいだ、イチ。鼻の頭に皺が寄ってる」

「………粉がついた」

「白粉みたいで可愛いな。うんまぁそれで、オレの母さんはお妾さんでね。親父は、ヤクザの幹部だった」

「……アンタの兄貴が跡を継いだって事か?」

「そうだね。代々世襲制っぽくてね、ヤクザっていうのは。オレは小さい頃から母親と住んでた別宅と親父の屋敷を往復して暮らしてた。それはなんでかって言うと親父がオレを兄さんの当て馬にするためで」

「当て馬?」

「そう。要するにことある事に比較して、兄さんを立てて、オレを貶めるわけだ」

 歳の差ってものがあるんだから、能力を比べようたって無理な話なんだけどねぇ、となんでもない事のように東乃は笑った。

 理解することは出来ない。けれど想像することは出来た。

 上に立つものに自分と近い誰かと常に比較され、侮蔑されるならと考えてその不愉快さに眉を顰める。

「……アンタ、良くグレなかったな」

「グレたさ。イチだって見ただろう?昔のオレはもっともっと酷くて馬鹿だった」

 東乃が笑って、それはもうとうに乗り越えたことだとイチに教える。

「けど、母さんも、狐原も、オレを見捨てなかった。それに兄貴は……優しくてね。オレを認めてくれて、親父に反発して。親父はもう杯を返して引退したけど、今も、抵抗し続けてる」

「それがあんたをヤクザにするって事なのか。良い迷惑だな」

「兄さんは、親父がオレに言った言葉を今も気にし続けてるんだよ」

 立ち入りすぎたかと思ったイチの言葉を東乃は咎めない。

 穏やかに笑うその胸中に過ぎる過去がどんなものかはわからず、思わず視線を落としイチは止まったままの手をぎこちなく動かして餃子を作る。

 高い位置から柔らかに響く言葉を聞き逃さないようにしながら。

「オレが出来損ないでも、屑でも、役立たずでもないって、照明しようとしている。親父に……いや、世界に、かな」

「…………」

 視線を合わさず彼のもう髭のない顎の辺りを見て、これは自分が言うようなものなのかどうかと迷って、けれどこうして彼の渡してくれる情があるならばとイチは思い切った。

「あんたは……役立たずじゃないよ」

「………」

「出来損ないでも、屑でもない。………少なくともオレにとっては、すごく……」

 その先をどう続けて良いのかわからない。

 彼が自分にとって、どういう位置にいるのかがまだ知れなくて。

「………ありがとう。母さんと、兄さんと、それから狐原だけだ。今までオレにそう信じさせてくれたのは」

「………アンタの母親は?どこに居るんだ?」

「亡くなったよ。オレが二十歳の時に。この屋敷は、母さんとオレが住んでた別宅だ。今はオレの名義になってる」

 相続税も払わずどうやったか知らないけどと東乃が言って、最後の一個を瞬く間に餃子の形に造り上げた。

「………露骨にわかるな……」

「なにが?ああ、餃子の形か。最初はこんなもんだよ」

 盆ざるの上に大量に乗った餃子を少し並べ替えて東乃が時計を見る。夏の長い暮れはまだ夕陽の色をしているけれど、夕食には丁度良い時間だった。

「こんな広い屋敷が、オレと母さんの二人に必要ないって事も、親父にはわからなかったんだ。イチ。あの人は好きなように生きて、そうして今は一人きりだ」

 呟くように東乃はそう言った。

「可哀想だと言ったのはオレの母親だ。それがどういうことなのかは、あの時は良くわからなかったけど」

 イチに向けたのではない言葉と視線が宙をさまよう。そしてテーブルの上に落ち、優しく解けて、イチはこの食卓には東乃の望むもの、彼の得たものがあるのだろうかと思う。

「………」

 何かを言おうと口を開きかけたとき、バタバタという足音が廊下から響いた。

「イチ、イチ!」

 息せき切ったさくらが小さな子供のようにきらきらと眼を輝かせて扉から飛びこんでくる。その後には大きな図体をした犬が続いて、イチは眼を丸くした。

 ドンと細い身体が勢いよく飛びつく。

 受け止め損ねてよろけた肩を、東乃がそうっと支えた。

 思わず見上げると、色の薄い眼が笑って、イチとさくらを見下ろしている。

「……さくら。危ないだろ」

「あ、うん、ごめんねイチ。あのね、茶々丸が、すごく頭がいいんだよ!あのね、僕が投げたボールを、ぜんぶ探して来ちゃうんだ。もっと遠くにと思ってほおったら、木の上に乗っちゃったのに、ちゃんとジャンプしてとってきたんだよ」

 すごいよねと興奮して笑うさくらの頭を、ふいに東乃が撫でた。

「すごいだろ。茶々は、利口なんだ」

 一瞬きょとんとして、怯えるかと思ったさくらは、東乃に笑って見せた。

「うん、すごく、頭が良くて、可愛いね」

 自分が話題になっていることを知っているのか、でかい犬は尻尾を振りながら三人の回りをぐるぐると回る。ワン、と吠える声の合間に、玄関の開く音が聞こえた。

「ああ、狐原が帰ってきた。イチ、餃子用のでかい皿を出してくれ。さくらはジャーからご飯をよそってもらえるか。夕飯にしよう」

 はい、とさくらが甲高い声で返事をする。イチは黙って食器棚を探って、その間に東乃が餃子用の大きな鉄鍋をコンロにかけた。

 まるで家族みたいだ。

 バチバチと弾ける油の音、帰ってきた狐原の小言と大人しく脚を拭いてもらっている犬、おぼつかない手つきで食器を出すさくらに、なんの騒ぎかと戸口から覗く二匹の猫。その穏やかな光景を、イチはそんな風に、馴染みのない言葉で飾った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イチ。衿が折れてる」

「ああ………」

 東乃の大きな手が伸びて、白いシャツの衿を直す。どこから調達してきたのかイチにぴったりのサイズのシャツは襟元がレースのようなひだひだで、少し気を抜くとすぐくしゃくしゃになる。

 ジャケットは薄いグレー。

 ボタンのないそれもやはり借り物で、滑らかな艶のある生地は馴染みのないイチにも十分高級と知れるものだった。

 細身のぴったりした黒のパンツを合わせて着たイチをしげしげと眺めて、東乃は満足げに頷いた。

「よく似合ってる、イチ。格好良いよ」

「………これ、どこから借りてきたんだ?」

「うちのアルバイト。着道楽がいてな」

「ここ程度のバイト料で買える服なのか?」

「失敬な。これでも仕事によっては危険手当込みでけっこう払ってるんだぞ」

「へぇ」

 ここしばらくの仕事量を見ていると、とてもそうは思えない。

 まだ決着はついていないけれど今のうちに聞いておこうと、イチはなんでも屋の基本料金を問うた。

「料金はいくらなんだ」

「ああ……いや、気にしなくても」

「きちんと払う。いくらだ」

「うーん、ちょっと高いけど…」

 そう言って東乃の提示した金額は、確かに高額だったけれど払えないものではない。

「わかった。全部終わったら、すぐ支払う。それとも半額支払っておいた方がいいか?必要経費もあるだろう」

「いや、全部終わった後分割払いでも……」

「それくらいの蓄えはある」

 和室にはまったく似合わない洋ダンスの姿見の前で自分の身支度を整えながら、ちらりと東乃がイチを見る。

「余計なことかも知れないが、どうやって?バイトか?」

「バイトもしたけど、基本的には株で。人の名義を借りてネットで動かしてる」

「へぇ。すごいな、イチ。そう言えばノートパソコン、持ってたな」

「オレ達が金を手に入れる方法なんて、そうそうないからな。頭も使うさ」

 いくら履歴書を偽造しても、バイト代などたかが知れている。

 健康保険にも入れないのだから、いざというときの金はいくらあっても足りない。こう言うときのために、少しずつ溜めてきたのだ。

「よしっと。じゃあ行こうか、イチ」

「………」

 いつもはざんばらにしている髪を後ろできちっと結わえ、チャコールグレイのラフなジャケットを羽織った東乃は、さすがに体格が良いだけあって見栄えがする。シャツは黒、パンツも黒でまとめていた。

「どうした?」

「いや……」

 一瞬見惚れていたことなどとてもではないが言えず、イチは曖昧にごまかす。

「なに、きちっとしたオレの方がかっこいい?イチがそう言ってくれるなら毎日スーツにしようかな」

「誰もそんな事言ってない。毎日スーツなんて言って、あんたなら三日で駄目にしそうだ」

「惜しい。二日で」

 ヴェルサーチをぼろぼろにして狐原に大目玉を食らったと東乃は笑った。

「……勿体ない。猫に小判だ」

「そうそう」

 行くぞ、と言って踵を返したら、ひょいと肩を掴まれた。

 いぶかしんで見上げると焦点がぼやけるほど近くに東乃の男臭く整った顔。

 唇に柔らかな熱が触れて、そのまま動かないで居ると濡れたものがぺろりと下唇をなぞるように舐めていった。

「………犬か。あんたは」

「残念。びっくりしてないんだ。イチ、もっとメロメロにしてみせるから舌とか入れて良い?」

「お断りだ」

 乱暴に口元を拭って、そう言えば借り物のジャケットだったと気がついたけれどもう遅い。ざわりと背筋の震えた感触など、断固として残しておきたくなかった。

 







「馬子にも衣装とは良く言ったもんだ」

「イチ、すごく、格好良い…!」

 狐原とさくらにはそれぞれのそれなりの賞賛を送られた。

「ノータイで平気なのか?」

「ああ」

 東乃の問いに狐原が頷く。

「そこまで堅苦しいクラブじゃない。紹介さえあれば、誰でも入れる。まぁ多少はましな格好で、と言う程度だな。その格好なら平気だろう」

 つい先日、狐原が調べあげた場所だ。

 このなんでも屋に書類を届けることを依頼した相手を尾行して、彼が出入りしたいくつかの場所にさらに張り込んで、そこに出入りする人物をすべてチェックするというまるで警察のような手順を踏んで、ようやく見つけたと狐原は心底疲れた顔で言っていた。

「そこのクラブで、幾度かナツに似た容姿の少年を見たという証言がある。背の高い男と一緒だったそうだ。関係はわからん」

 東乃が行く事になったクラブにどうしても同行するとイチは言い張った。

 それが本当にナツならば、今度こそ事情が知れる。

 消えたのが彼の本意なのか、それとも無理矢理だったのかもわからない状況にはいいかげん痺れを切らしていた。

 彼が消えてから一月半が経つ。

 生きているのならばそろそろなにがしかの手応えがあっても良いだろう。

 そうして押し切ったイチは、東乃と共にクラブ『Othello』へ出向くことになった。

 

 
















 

 カウンター席の止まり木に並んで腰掛けて、イチは店の内部をざっと見渡した。
 新宿のクラブと客層が違うのは六本木という土地柄か、それとも客を選んでいるためだろうか。

 二箇所在るカウンターに、いくつかのテーブル席。窓際には外を向いた大きな一人掛けのソファが斜めに向かい合うように設えてある。

 押さえた上品な照明に、足音の聞こえない絨毯、つやつやとした葉の観葉植物。水槽には熱帯魚が泳いでいて、そのゆったりとした泳ぎはこの店でさんざめく客達に似ていた。

 時折起こる微かな声は、主に奥にあるビリヤード台とダーツからのものだ。

「なにになさいますか?」

 穏やかな問いが聞こえて目の前に立ったバーテンにジンバックを頼むと、東乃に目線で咎められた。

「いいだろ。ここでソフトドリンクを注文する方が目立つ」

「目立つのはもう手遅れだと思うけどね……」

 そう呟くと東乃はアルコールを咎めることを諦めてボンベイサファイアのロックを注文した。

「まあね。……顔を知ってる奴が、居ないと良いけど」

 日本人の平均身長を軽く超えてしまう東乃と居ては、目立たないようにする方が無理だ。おまけに東乃はこの店の中にいる男達と比べてもまったく見劣りせず、今日は殊更にその見目の良さが際だっている。

「あんたと来ない方が良かったかな」

「言っておくが、目立ってるのはイチもだ」

「そうかな」

 自分の造作が整っていることは知っているが、今日は着慣れない衣裳に初めての場所だ。

 そう目立つこともないだろうとたかをくくっていたが、東乃には違うように見えるのだろうか。

「目立つかな」

 耳元で囁いて微かに笑えば、少し赤くなった東乃が横目で睨む。カウンター席は、こんな風に内緒話をするのに向いている。

「イチ。こんな場所でからかわないでくれ」

「からかってないよ。人に話が聞かれたらまずいだろ」

「まずいことなんかまだ話してない」

 東乃が小さくため息をつく。

 どうぞと二つのグラスが二人の目の前に出されて、透明な酒を東乃は煽った。

「ジンだっけ」

「そう。あのなイチ、オレがお前のこと好きなの知ってるだろ。だからそんなにくっつくな」

「は?」

「いちいち聞き返すなよ」

 照れたのをごまかすように真っ直ぐ正面の酒の瓶を睨みつけている東乃の横顔を見て、イチは言葉に窮した。

「………好き?」

「そう言ってるだろ」

「あんたが?オレを?」

「何度も言っただろう。キスだってした。まさか覚えてないとか言わないだろう」

「……………」

 好きと、幾度かは言われた。

 けれどあの状況のあの言葉と、今こうして言われていることを一緒くたにしてはいけない気がする。東乃の中であれとこれが一緒ならばそれはどんな認識の齟齬〈そご〉なのかとイチは口を開きかけて、けれど問う言葉が上手く出てこない。

「………あのな、イチ。ほんとにわかってないみたいだから言っておくけど……オレは、お前が、好きなんだ。どんな好きかっつーとキスをしたり舌を入れたり他のとこも舐めたり触ったり、服を脱がしてその先もしたいような好きだ。わかったか?」

「……………わかった」

「よし。だから、あんまりオレに近づくな。それと厭ならキスも拒めよ」

 それはあんたが到底拒めないような唐突さでするからだろうと抗議をしようとして、イチは、それを言葉にしたことがないのに気がついた。

 いやだと。

 一度も、言っていない。

「…………」

 こちらを見る東乃の眼の真剣さに何を答えることも出来なくなって、ジンバックを一口飲むと、イチは止まり木から滑り降りた。

「イチ」

「奥を見てくる」

 絨毯を踏み、観葉植物の脇を抜けて、イチは奥のスペースへと脚を運ぶ。間隔を置いておかれたビリヤードの台は一つは塞がり、一つは開いていた。三つあるダーツにはすべて人が居る。

 その全員がナツではなく、見覚えもないことを確認しながら、イチは今言われたことを頭の片隅で考えていた。

 あの男が、自分を、好きだという。

 本当かどうかなど疑う余地もないほど真剣に。

 人を愛する、というこの世の至る所に存在するその現象の事を、イチは考えたことがなかった。

 少しぼんやりしていただろうか。

「失礼」

 掛けられた声にふと我に返る。目の前で行われていたビリヤードのゲームはいつの間にか終わっていて、イチの脇には確かキューという名の棒をもった女性が立っていた。

「そこを退いていただける?これを置きたいの」

「ああ……失礼しました」

 綺麗に化粧の乗った顔は歳が良く分からないが、おそらく五十はくだらないだろう。キューの台を避けたイチを、鑑賞するようにまじまじと覗き込んでくる。

 そんな眼には慣れているので、にっこりと笑い返した。

「僕の顔に何かついていますか、奥様?」

「あら……いいえ、ごめんなさいね不躾で。とても可愛らしいと思って」

「ありがとうございます」

 イチの整った容姿や、繕った態度に興を惹かれるものは夜の街に多い。彼女もそうらしく、面倒になる前に挨拶をして離れようとしたイチの背後から声が掛かった。

「奥様。次は僕に、バンクショットを教えて下さるお約束でしょう?」

「あら、そうだったわね」

 どうやら今まで彼女とビリヤードをしていたらしい青年のようだった。婦人に笑いかけながら、ちらりと尖った視線をイチに寄越す。

 彼女の若いツバメなのだろう、そこそこ整った顔はけれど媚びを浮かべて下品だった。

 面倒に巻き込まれるのはまっぴらだとその脇をすり抜けようとして、彼女に呼び止められた。

「あら、ちょっとまって。私達と一緒にビリヤードをしましょうよ。あんなに見ていたのだもの、興味があるんでしょう?」

 何に、と言わない女の姑息さとその視線にこもった色気に内心でため息をついて、イチは仕方なく答える。

「いいえ。ビリヤードはやったことがありません」

「それなら、私が教えてあげるわ」

「いいえ……」

 さらに続けようとした言葉を、無遠慮に肩に置かれた手が遮る。

「いいじゃないか。あんなに熱心だったんだ、やったことがないなんて嘘だろう?」

 面倒なことになった。

 熱心どころか、見てすらいなかったのに、そんなに長く自分はぼうっとしていただろうか。

 彼女の興味を失いそうになった青年は、苛立ちを視線にこめてイチを貶めようとしている。彼女の興味が失われるくらいに。

 原因を作った婦人はたぶんその苛立ちを知りながら止めもせず、ただその眼に掌の上の玩具を転がすような愉しげな光を浮かべている。

「……僕は、本当にビリヤードを知らないんですけれど」

「またまた。それなら、僕と二人でゲームをしよう。奥様は特別お上手だから。僕とならいい勝負になるだろう」

「あら、私は仲間はずれ?」

 そう持ち込むことを狙った青年の言葉に、からかうような女の台詞。

 ふいに馬鹿馬鹿しくなって、イチは彼に八つ当たりをしようと決めた。

「わかりました。そこまで言うのなら。でも僕は、本当にゲームをしたことがありませんよ?」

「そうこなくては。遊びなんだしね。ゲームはローテーションゲームでいいかな?」

 さらに問いを続けようとして、イチは視界の端に映った大柄な男に気がついた。

「イチ」

 心配そうな顔をした東乃が立っている。

「どうしたんだ?何かあったのか」

 イチの隣に東乃が立つと、青年は僅かに身を引く。

「ビリヤードをすることになった。ローテーションゲームって?」

「手球を最小番号の球に当てていって、球をポケットに落とすとその番号の数字が得点になるゲームだ。ビリヤードが得意なのか、イチ?」

「ぜんぜん」

 東乃に気圧されて、青年が勝負をあきらめてくれるならそれでもいい。そう思ってちらりと見れば、どうやら彼はまた婦人の興味をひく対象が現れて焦ったようだった。

「さあ、ゲームをしよう。キューを選ぶと良い」

「こちらへおいでなさいな。二人で、ゲームを観戦しましょう」

 彼女が東乃を手招いて、彼は戸惑った顔をする。

「イチ」

「大丈夫だ。……アンタは、ゲームじゃなくて周囲を見張るのを忘れないでくれ」

 最後の言葉だけ耳元に囁いて、イチは彼の傍を離れた。 

 空いたテーブルではもう青年が球を並べている。ラックにあったキューを手にとって、イチは殊更に張り付けた笑みを浮かべた。それは無表情と同じものだったけれど、この顔を綺麗だと賞賛する人間は多い。

 ブレイクショットを青年に譲り、ゲームが始まった。

 首尾良く最初のショットで6番の球をポケットに決めた青年が、続けて手球を1の球に当てていく。手球と呼ばれる白い球は、相手のファウルの時以外は動かしてはいけないので、二度目のショットからが問題なのだ。

 口とは裏腹にかなりの上級者らしい青年は、続けて二つ球を落とし、三つ目を失敗した。一つも落とせなかった場合は、ファウルだ。

「どうぞ」

「これは、動かしてもいいのかな」

 手玉を指してそう問えば、青年は眉を顰めた。

「今のは僕のファウルだ。当たり前だろう」

「そう」

 手玉を置き、構えて、無造作に撞く。最小番号の球に当たるどころかキューは球の縁を掠めただけで、手球はおかしな方向へと転がった。

「どうぞ」

 変わらない顔で勧めれば、青年が嘲るような笑みを浮かべる。

「緊張してるのか?それにしたって今のショットはないだろう」

「どうぞ」

 青年の番。

 イチの番。

 明らかに前者の方が多く、得点の差は徐々に開いていく。

 けれどイチは、変わらず笑みを浮かべていた。

 

 








 はらはらと東乃はイチを見守っていた。

 いきなりビリヤードの勝負を始めたかと思えば、お話にならないほどお粗末だ。キューを支える手つきはそれなりに見えるし、一応構えはするものの、当てようと言う集中力がどこにも見あたらない。

 仕事を忘れないようにちらちらと店内を見回しながら、どうしてもイチに戻ってしまう視線を止められない。

 どんなに失敗しても変わらない笑みを浮かべたイチに、次第に勝っている青年の方が苛立っていくのがわかった。

 ついにすべての球がポケットに落ち、勝負が決まる。

 イチが落とした球は三つきりだった。

「楽しかったよ。ありがとう」

 にっこりと笑ってイチはそう言うと、さっさと東乃のところへ来ようとする。

「ちょっと待てよ……!」

 けれどその肩を相手の青年が乱暴に掴んで、東乃は慌てて立ち上がった。

「真剣にやってないだろう、今!もう一度だ!」

「真剣も何も」

 にっこりと笑うイチの白い綺麗な顔。明らかにわざと浮かべている笑みに東乃は元からイチが青年を相手にしていないことに気がついた。

「初めてだって、何回も言ったでしょう?ゲームがおもしろくなかったのは僕のせいじゃなくて、ビギナーを無理矢理引っ張り込んだあなたのせいだと思うけど」

「なんだと?」

「ああそれとも、僕が素人なのをわかってて見せ物にするためにやらせたのかな。それは随分と品性のないやり方だね」

「……ッ」

「じゃあね」

 ひらりと手を振って、イチが東乃のところへ戻る。

 けれど東乃が何かを言うより先に、傍らに座っていた婦人の方が声を掛けた。

「あなた、とてもおもしろいわね。どうかしら、この後、こちらの方と一緒に私と遊ばない?」

 東乃の隣に座っていた婦人が断られるはずが無いという風にそうイチに誘いをかけて、間近のイチの顔がまた綺麗な笑みを浮かべる。

「年上の女性も好きですけどね。もっと、スマートなやり方を学んだ方がいいよ、おばさん」

 絶句する婦人の脇をすり抜けてカウンターへと戻るイチの背を追って、東乃はその顔を覗き込む。もう張り付けた綺麗な笑みではなくて、見慣れた無愛想な顔をしていた。

「てっきりビリヤードが出来るのかと思ったよ」

「出来ない。見たことしかない」

「負けて良かったのか?」

「あんなゲーム一つで傷つくようなくだらないプライドなんか持ってない」

 からかうような問いにちらりと背後に視線を流して、そしてばつが悪そうに東乃を上目遣いに見ると、少し八つ当たりだったと言った。

「お前に八つ当たられた方は、たまらないな……」

「…………でも」

 視線を逸らし、スツールに腰掛けながら、ちょっとだけ悔しいかなと呟いたイチに思わず笑いを零し、そのほんの少しの本音がたまらなく可愛いと思った。

 





 深夜を過ぎ、客は増えも減りもしない。

 数組か出ていくと、また数組が入る。人の流れを眺めながら時間を過ごして、もう閉店も近い。

「そろそろ……」 

 今日は帰るかと、東乃が言いかけたときだった。

 クラブの出入り口ではなく、奥の扉を開けて入ってきた人影に、イチは思わず立ち上がった。

 東乃と同じ位背の高い男の、その背後にいる細い影は。

「ナツ…!」

 小さく叫んだイチに東乃が振り返る。

 いくつかのことが同時に起こった。

 スツールを飛び降りたイチに、慌てて止めようとした東乃。バン、と何かが壊れたような音、砕け散るガラス、誰かの悲鳴が響いて、ぱらぱらと数人の男達が立ち上がった。

 ナツの方へ駆けていくもの、それを押さえる男、ナツを庇うように腕に囲った背の高い男。

「ナツ!」

 叫んでイチは店の奥へと走った。

 事情はまったくわからないが、ナツは狙われている。最初の音は銃だったかと幾度か聞いたことのある意外に軽い銃声を思い出して、彼の狙われる理由を考える間もないまま男達の間を擦り抜ける。

「ナツ!」

 人混みがごちゃごちゃに紛れて、誰が誰だかわからなくなった。ぶつかりながら擦り抜けて奥へ進むと、堅く閉まった扉が見える。

 ナツは、あの向こうへ逃れただろうか。

 声が届いたかどうかは、わからなかった。

 そいつを捕まえろと誰かが叫んで、イチの腕を男が掴む。

 近くにあったテーブルから取った重い灰皿を顔に投げつけて腕を取り返し、東乃はと思い出す。あの男なら万一のこともないだろうが、銃を持った相手が居る。

「捕まえろ!エディングスの孫と関係のあるガキだ!!」

「………エディングス?」

 捕まえようとする手を払い、ものの隙間を抜けて逃れると、東乃の高い背が混乱の向こうに見えた。

「東乃!」

「イチ!」

 イチに気付いた東乃が目の前の男を一撃で昏倒させ、こっちへと向かってくる。

 思わずほっと息をつく。

 あの男が居た、それだけで、イチは安堵した。

 それで一瞬、気が抜けたのだろう。横にいた男が凶器を振り上げたことに気がつかなかった。

「イチ!!」

 大きな東乃の声。

 そんな声で叫ばなくてもと思って、手と頬がざらざらとした感触に擦りつけられていることに気がついて、起きなければと微かに手に力をこめたのが最後の意識だった。

 頭を殴りつけられて、イチは昏倒した。

 

 







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