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◆◆◆ 彼の傷 ◆◆◆

 

 

「………うちに来た依頼は」

 渋々、と言った様子で狐原が語りだした。依頼内容を明かすことは本意ではないのだろうが、この際そんな事は言っていられないと諦めたのだろう。

 東乃とイチと、そしてさくらの無言の問いを受けてようやく狐原は口を開いた。

「うちに来た依頼は、大したことじゃなかった。指定された家に書類を届ける、それだけだ。ただその際は顔がわからないように、という指定でな」

「………それを怪しいとは思わなかったわけ」

「その程度のことを胡散臭いと思ってやめてたんじゃこの商売が勤まるわけないだろう。ただの変装や付け髭でも良かったんだが、この馬鹿が悪のりしやがって」

 ちらりと厭そうな視線を狐原が東乃に投げる。

「ジャン・レノみたいな髭にしてみたかったんだ。せっかく怪しい依頼なんだしな」

「全然なってねぇよ。……まぁそのお使いの帰りでこいつは引っさらわれ、自力で抜け出したんで事務所の場所はバレずにすんで、一応って事で依頼人の周辺を探ってみたらばさくらが見付かったわけだ。以上」

「以上、じゃないよ」

 尖った声をイチは出す。このまま終わりにされてはたまらない。

「なんでさくらはこんなに痩せてるんだ。監禁されてたのか」

 ソファに座ったイチの、片腕に張り付いて、朝からさくらは片時も離れようとしない。反対側の脇には三毛猫が居て、小さな彼の手が時折その毛並みを撫でていた。

 誰も敵のいないこの場所でそれでも庇うようにイチはその肩を抱いて、その手にあたる骨の感触が痛い。

「監禁……と言えば、そうなるかもな。ただし、お前の考えているような意味でじゃない。その子は、ある家庭に、養子として迎えられていたそうだ」

「養子だって?」

「そう。半年は家から決して出さないと言う条件で、養育費と一緒に渡されたらしい。……まぁちょっとばかりでかい屋敷の、いいお宅だったそうだが」

「それがなんでこんなに痩せてるんだ」

「食べなかったそうだぞ。……と言うのは、うちの事務所のアルバイトの証言だが。ああちなみに、家人には半合意半ば無理矢理、こちらに彼の家族がいると言って引っさらってきたそうだ。まぁ、不審に思ってはいたんだろうな」

「当たり前だ。その条件をおかしいと思わない方がどうかしてる。……さくら」

 眉を顰めてイチはさくらを見やる。

 おどおどと伏せた眼を上げさせて、本当か、と聞いた。

「さくら。出されたのに、食べなかったのか?」

「………ぅん」

「言ってるだろう、いつでも。どんな状況になっても食事は摂れって。忘れたのか?」

「……わ、忘れて、ない……でも、だ、誰も……いなくて」

 小さな細い声。

「なんだ。しゃべれるのか、そのガキは」

 無遠慮な言葉にイチは狐原を睨みつけた。

「昨日どころかアルバイトが連れてきたときから始終黙りだったらしいからな。てっきり口が聞けないかと思ってたが」

「……しゃべれるよ。あんたみたいな失礼な男に聞く口はないだけだ」

「イチ……ご、ごめんなさい」

 震えてさくらがイチの服の裾を掴む。

「ごめんなさい……ちゃんとする、だから、怒らないで」

「怒ってない。さくら。だから、なにがあったか話してくれ」

 猫を撫でる彼の手よりも優しく、その伸びすぎた髪を撫でる。

 さくら、と東乃が呼んだ。

「なにも怖がらなくて良い。オレと狐原は、イチが、とても好きなんだ」

「おい…」

「だからイチの友達の君のことも、もちろん好きになるだろう。怖いものはなにもないよ」

「………」

 黙ったさくらが上目遣いに東乃を見る。それからもう一度イチに視線を戻して、唇を開いた。

「………みんなは…どうしたの」

「行方不明なんだ。さくらと同じように、攫われた。オレは、東乃と狐原に頼んで、いまみんなを捜してるんだ。さくらを見つけたように、咲希とナツも見つけてみせる」

「……また、みんな一緒に、暮らせる?」

「そうできるように努力している。……さくら、なにがあったんだ?」

「うん………」 

 ぽつぽつと彼が語り始める。

「イチが……出掛けて行って、すぐに、知らない人が……来たんだ。咲希が転んで泣いて、僕は、川沿いに草を採りに行ってて」

 前後するさくらの話はなかなか要領を得ない。

 咲希とさくらはその男達に連れて行かれて、すぐにバラバラにされたようだった。暴力は受けず、けれどひとりぼっちにされて知らない家へ連れて行かれ、丁寧だったけれど自由はなくて、とても淋しかったとさくらは言った。

「優しく……してくれたけど。でも、イチも、ナツも、咲希も居なくって……どうしていいかわからなくて。ご飯もちゃんと食べられなかった。……ごめんなさい、イチ」

 十五歳とは思えない幼い口調で謝るさくらを責める言葉をイチは持たない。

「………これからはちゃんと喰えよ」

「うん。……今朝のご飯だって、食べたでしょう。おいしかった、イチが居てくれたからかな」

「作ったのはこいつだ」

 東乃を示せば、さくらは視線を逸らしたままごちそうさまでしたと小さな声で言う。

「いえいえ、お粗末様でした。さくらはなにが好きなんだい?なんでも、作ってあげるよ」

 場を和ませる東乃の声にさくらの視線が揺れる。答えればいいと促すと、掠れた声がオムライスが好きと呟いた。

「ああ、美味しいよね。じゃあ今晩はオムライスだ」

「言ったんだから、ちゃんと喰えよ。さくら。……で、狐原。その、あんた達に依頼をした奴が黒幕で、オレ達やナツを攫ったって言うのか」

「それが、そう単純でもない」 

 そう言って狐原が難しい顔をする。

「オレが思うに……お前と東乃を攫ったのと、ナツを連れていったのは、おそらく別々だ。………もうちょっとだけ待て」

「………ああ」

 イチは頷く。こうしてさくらが戻ったのだからきっと咲希も、そしてナツも帰ってくるはずだ。

 そう無理矢理に信じてさくらを見れば、ざんばらな髪の向こうで穏やかな眼がにこりと笑った。

「さて、と。じゃあオレは、ちょっくら出掛けてくる」

 東乃がそう言ってソファから立ち上がる。

「狐原、二人を頼むな。オレは面倒を片づけてくる」

「………ああ、行ってこい」

「行ってきます。イチ、さくら」

「………いってらっしゃい」

「ううん、いいなぁイチにそう言ってもらえると!」

 鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で東乃は事務所を出ていって、やがてがらがらと玄関の引き戸を開ける音が聞こえた。

 聞くともなくその音を追っていると、狐原がパソコンを立ち上げる電子音が響く。

「イチ」

「………なに」

「あぁ、そう身構えるな。悪かった、昨日のことは」

「………別に」

 拍子抜けするほどあっさりと謝られてイチは返事に窮する。

 狐原は最初からそう言う男だった。ずけずけと酷いことを言うかと思えば、自分の非は簡単に認めてみせる。

「なんだその顔は。……言っておくがオレは、そう酷い男じゃないぞ。まぁ口は悪いがこれはオレの個性だ」

「………個性が良く言うよ。言って良いことといけないことの区別ぐらいはつけたらどうだ」

「そうだな。その境がなかなか難しい」

 真面目くさって狐原が頷く。

「オレには口に出して良いと思えるようなことが、実は相手にとっては一番言ってほしくないことだったりするらしくてな。どうやら本当のことほどまずい場合が多い」

「そうだろうね」

「まぁこっちも傷つけたくて言っているわけじゃないからな、早々深刻な事態にはならないが」

「……あんたが深刻な事態のレベルをどの辺りに定めてるかによるね、それは」

「まぁそれもそうだな」

 ははは、と狐原が笑って、どうやら彼がその辺りをまったく改める気がないことを示す。

「それでな、イチ。これはその境がたぶん人より低いオレにとっても言わなくて良いと思えるようなことだが」

「………なに」

「まぁ明里は絶対言わないだろうから、代わりにオレが言っておく。あいつにとって、あの兄貴に頼るのは、相当大変なことなんだ」

 ふと昨夜の会話が返って、イチは眉を顰める。彼の兄はヤクザなのだと、東乃は言っていた。

「…………」

「多少は聞いたんだろう」

「………関東の大きなヤクザの、幹部?っていうのか?だってことだけ」

「ああまぁ、そう言うことだ。そしてあれの兄貴はちょっとばかり馬鹿でな」

 臆面もなくヤクザを馬鹿呼ばわりする狐原は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「もしかしてあんたも知り合い?」

「ああ……まぁ幼なじみだ。オレより三つばかり上だが、昔はよく遊んだ仲だな。少々やんちゃだった時代に」

 デスクの前の椅子に腰を下ろして、狐原がため息をついた。

 今日も事務所は暑い。

 彼の後ろの窓は開け放たれていて、庭の夾竹桃の色鮮やかな花がよく見えた。蝉は思う様鳴き騒ぎ、夏を謳歌している。

「馬鹿が馬鹿なりに努力して、その方向性がああだったせいでいつの間にか押しも押されもせぬ立派なヤクザだ。あいつの悪いところはそれをまったく後悔していないってとこで」

「へぇ」

「馬鹿なところは、努力さえすれば誰でも自分の場所へ来れると思ってるとこだ」

「………それは、相当頭が悪いね」

「まったくだ。東乃は、明里に自分のところへ来て欲しいと思ってる」

 彼の指す東乃、というのが兄の事だとすぐイチは気がついた。そう言えば最初から狐原は東乃を明里と呼んでいる。

「………東乃にヤクザは無理だろ」

「あたりまえだ。良くても刑務所行き、悪けりゃ即東京湾で石抱いて沈む羽目になる。……あいつのあの不安定さを、東乃はわかってない」

「どんな兄なんだよ……」

「ついでに世の中にはヤクザ以外にもごまんと職業があって、そのどれもが尊敬に値するものだって事実も、わかってない」

 呆れかえってイチはため息をついた。

 彼の兄は、ヤクザという陽のあたらない職業をそんなにも誇りに思っているのだろうか。

「明里は今日あの兄貴に礼を言いに行ってる。まぁあいつもわかっちゃいるから、巧くかわして帰ってくるだろうけどな」

「…………」

 けれど東乃は、兄に借りがある。

「イチ。別に恩に着ろっていうわけじゃない。ただ、あいつが、その最後の手段を使ってもお前を助けたかったって事だけ覚えておいて欲しい」

「……その方がよっぽど恩より重いな」

「だが、事実だ」

 ついでにと狐原は付け加える。

「オレも止めなかった。お前が飛び出してったときには、ほんとに慌てたんだ」

 疑って悪かった、と最後にもう一度渡された謝罪に上手く返事をすることが出来なくて、イチは、ただ頷いた。

 

 

 

 








 

 

 

「イチは」

 静かな声。さくらはいつも、こうして一言一言を考えながらゆっくりと口にする。その遅さを笑うものも居たけれど、イチは彼がただとても用心深いだけなのだと知っている。

 自分の言葉がどんな波紋も起こさないように、いつでも気を配っている。

「イチは……あの人達が、好きなんだね」

「………好き、だって?」

「うん」

 イチと、ナツと、咲希と居るときだけさくらは饒舌だ。

 夕食を終え、狐原と東乃から離れてほっとしたのか、並べてのべた床の中でぽつぽつと色々なことを話した。

 夕食のオムライスは考えていたものと違ったけれどとても美味しかったこと。

 連れて行かれた家の住人が優しかったこと。

 引き離されるとき泣き叫んでいた咲希が、できればもっと優しい家にいてくれないかという望み。

 禍福を同じもののようにさくらは話す。

「ちょっと……ほっとした。きっとイチは、一人で、僕達を捜してるんだと思ってたから」

「………まぁ…色々あったからな」

「うん……ちゃんと、頼れる人が居て、良かった」

「………そうか」

「そうだよ……ナツの、事に……僕達は、なんの助けにもなれなかったけど…それは、ちょっと、………淋しいけど」

「………」

 イチの沈黙にさくらは淡く笑う。

「イチは、ばれる嘘はつかない。……そんな風に潔いとこが、すごく、好きだよ」

「ああ」

「だから、ね……イチに………」

 名を呼ぶ声が緩やかにぼやける。彼が眠りの淵に落ち込んでいくのがわかって、イチは続く言葉を問わなかった。

 並べた布団の上を夏の夜の涼風が渡って、二人の上に吊られた蚊帳〈かや〉を揺らす。御苑のおかげでクーラーが無くても夜は涼しいからねと、東乃がこれを引っ張り出してきたときには仰天したものだ。

 知識としては知っていたが、本当に使うことがあるなど考えたこともなかった。

 透けた網の向こうには開いた障子、そしてぼんやりと庭の灯籠の影が見えて、夢を見ているのかも知れないと思う。

 イチが今まで生きてきた現実と、今この場にいる事が、とてもそぐわない。

 明日の朝に目が覚めたら、傍らにはナツとさくらと咲希が居て、そうしてイチは今日をどう生きていこうかと算段を始めるのかも知れない。

 この夜は、きっと、少し変わった夢として忘れ去られることになるだろう。

 そのどちらが幸福なのか。

 イチにはもうわからない。

 蚊帳が揺れる微かな衣擦れがして、器用な三毛猫が二人の布団の間で丸くなるために潜り込んできたのに気付きながら、イチは穏やかな眠りについた。

 







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