※こちらの小説はR18となっております。
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◆紅い足の伝説・2◆










◇◇◇

 

 異変が起きたのは翌日の朝だった。

 なんだこりゃあ、と誰かが叫んだ声でゾロは眼が覚めた。

 甲板に、仲間達が全員集まる。

「………こりゃあ……」

「うわ……なにこれ、油?」

「………気持ち悪いわね」

 それぞれが呟く。

 昨日まで確かに青かった海は、まるで黒い油を流したようにねっとりと緩やかな波を作っていた。

 

 

 

「………薄ッ気味ワリィ」

 傍らで海を見ていたコックが、ぽつりと呟いた。

 その青い眼が眇められて、睨むように水平線の果てを見ている。そのどこまでも、海は黒い。

 まるで海ではない場所を見ているかのような錯覚を覚えるほどに。

「なんなんだこの海は。……空は青いってのに」

「空が青いのとどう関係があるんだ」

 そう問うたら、心底憐れみを籠めた眼で見つめられた。

「馬鹿だな、テメェは。海は空の色を映して何倍にもしてるからあんなに青いんだ」

「……透明な水がどう空の色を映してんだよ」

「知るか。自分で調べろ」

 そう言ったきり、ぷいっとまた海の方を向いてしまう。

 その海のように青い眼が青いままなことに不意に気付いて、何故だかゾロはほっとしてしまう。

「……テメェの眼も空の色を映してんのか?」

「は?」

「だから青いのか」

「スゲーアホだなテメェ……んなわけねーだろ、こりゃ生まれつきの色素だ。大体オレの眼が空の色で青いんならてめーらだって青くなきゃおかしいだろが」

「………」

 その通りだ。

 我ながら本当に馬鹿馬鹿しいことを言ってしまったことに気付いて、ゾロは沈黙した。

 コックに倣って海に視線を移す。

 海の色が変わるなど、毎日のことだ。厚い曇天の下の海は濃いグレー、夜明けや夕暮れには藍に染まり、夜の海は黒い。

 けれどいまこの海の変化は、そういうものではない。

 奇妙に人の心をざわめかせ、不安にさせる、不自然な海。 

 反対側の船縁でものは試しとばかりに釣り糸をたれていたウソップが、釣れねぇなぁと呟いた。

 

 

 

◇◇◇ 3日目 ◇◇◇

 

「ナミさん」

 声を掛けられて、ナミは顔を上げた。海図を書くときだけかける眼鏡を外し、サンジが男部屋から続く窓から手招きをしている事に気付く。

「サンジ君。どうしたの」

「ちょっと相談が」

 あまりいい予感はしなかった。

 海はあの日以来ずっと黒いままだ。何が起こるかとずっと海を見張っていたナミも、あまりにも代わり映えしない風景と気候に時折気を抜くようになっている。

 ただでさえ人を不安にするような海だ、警戒するのはよいが張りつめていてはかえって神経が参ってしまう。

 甲板に出て、サンジの後についてキッチンへ向かう。

  いつもみなが集うテーブルの上には、白いカップが一つ置かれていた。

 その中を覗き込んでナミは顔をしかめる。

 薄暗くどんよりとした灰色の、奇妙な水が入っていた。

「なに、これ?薬?」

「いや……ナミさん、これ、海の水を濾過したもんだよ」

「え……」

「飲めねぇんだ。一応口に入れてみたけど……舌がぴりぴりした。毒なのかもしれねえ」

「え、ちょっと、大丈夫なのサンジ君」

 こんな色の水をよくも試してみたものだ。そう思ってしまうほどその灰色の液体は不気味で不安な色をしていた。

 激しい雷雨を呼ぶ暗い雲を百倍に濃く煮詰めた色とでも言えばいいだろうか。

「ああ、飲んじゃいねぇから。……けど、わかるだろ」

「……そうね」

 メリー号の真水は、海の水を汲み上げて濾過して使用している。優秀な濾過器だがさすがに塩気をすべて抜くことは出来ないので、主に風呂や食器洗い、洗濯などの生活用水になっているのだが。

「濾過器も、黒くなっちまった。仕方ねぇから溜め置きの水で洗っておいたが……この海域から抜けない限りは、使わねぇほうがいい」

「海からの汲み置きの方も、飲み水に取って置いた方がいいってことね」

「ああ。一応真水の樽も買ってはあるけどそうたくさんじゃねえからな。……レディ達にゃ申し訳ねえ話だが」

「なにいってるのよ、サンジ君。さすがに命がかかってるんだからあたしだってシャワーくらい諦めるわ。……それにしても、おかしな海よね」

 キッチンの窓から見える外の海は、まるで黒土の不毛の大地を眺めるかのようだった。

「風もない。ほとんど凪も同然だわ。船足もかたつむりみたいに鈍い。……どうしようかしら」

 最後の言葉は独り言だった。

 こと、メリー号の操船に関してはナミに一任されていると言っても過言ではない。少し無理をしてでもこの海域を早く抜けるべきかどうか、ナミは迷っていた。

 ふと眼が合うと、サンジがにっこりと笑う。

「なんでもいってくれよ、ナミさんのためなら火の中水の中、オールを漕ぐのなんか平気の平左だぜ〜!」

「そうね。考えとくわ。でも漕ぐのはまずグータラの船長か三年寝太郎の剣士よ。……とりあえず、サンジ君水のことはみんなに言っておいた方がいいと思うの。呼び集めてくれる?」

「もっちろん、喜んで!」

 威勢良くサンジが飛び出していく。

 いつもの席で灰色の水を見つめながら、堪えても沸き上がってくる不吉な予感にナミはため息を付いた。

 

 

 

「じゃ、なにか、海の水が全部毒だってのか!」

 眼を剥いたウソップが心底愕然とした顔をする。

「そうと限ったわけじゃねえが……まあ、飲まねえ方がいいのは確かだ。嘘だと思うなら、そこの灰色の水ちょこっと口に入れてみろよ」

「い、い、いや、ごめん被る」

「へぇー」

 ウソップが後ずさる脇から好奇心旺盛な船長がゴムの手を伸ばし、さっとカップを引っさらった。

「あっ、おい!飲むなよルフィ!」

 チョッパーが止めるのもお構いなしに灰色の水を一気に半分ほども口に流し込んだルフィは、次の瞬間噴水の様に水を吹いた。

「ぎゃー!」

「うおッ!!」

「きったない!バカッ、なにすんのよ!!」

「まっじ〜い!!ホントに水かこれ!!」

 吹きだした水のかかったゾロには本気でど突かれ、ナミには罵倒され、犬のように舌をつきだしたルフィはものすごい顔をした。

「バカ。だから毒だっつったろ」

「すんっげー、まずかったぞ!サンジ!」

「……ってことは」

 はたとウソップが顔を上げる。

「この海域を抜けるまで、新しい水が汲めねぇってことか」

「抜けるにはちょっと時間がかかりそうね」

 水のかからない場所にいたロビンが残った灰色の水を少しだけ小指の先につけて舐め、顔をしかめると、そう言った。

「マストの天辺に眼を咲かせて見てみたけれど……どこにも、青い色は見付からないわ。航海士さん、航路はあってるんでしょう?」

「あってるわ。ログポースが指している方向へ、向かってはいるのよ。……すごくのろいけど」

 どうする、とウソップが聞いた。

「あと二日だけ待って、風が吹かないようなら漕ぎましょう。なるべく早くこの海域は抜けた方がいいと思うの」

 ナミの言葉にみなが頷く。

 この海を不気味だと感じているのはどうやら全員同じのようだ。

「サンジ君、よろしくね。……この変な海を抜けるまでは、食べ物も水も節約することにしましょう」

 風呂や水場はなるべく使わないようにすること、くれぐれも盗み食いをしないことを特にキャプテンにきつく約束させて、話し合いは終わった。

 だーいじょうぶだって、という呑気なルフィの言葉が、少しだけみんなをほっとさせた。

 

 

 

◇◇◇ 5日目 ◇◇◇

 

 まるっとした羊の船首には、今日も今日とて船長が座っている。船の往く末が丸ごと見えるその場所はルフィのお気に入りで、他の誰かがいると自分の場所だぞと本気で怒る。

 独り占めされるのは悔しいのでウソップもたまにはメリーの頭に乗って海原を眺めるのだが。

「おーい、ルフィ」

「んー」

「なーにかみーえーるーかー」

「なーんもみーえーなーいーぞー」

「うーみはあーおーいーかー」

「うーみはくーろーいーぞー」

「そうかよ」

 ちぇ、と舌を打ってウソップは手元の釣り竿の先を見る。

 見えるか見えないかというテグスが真っ直ぐに落ちて、先端は海に沈んでいる。

 この5日間、海が黒くなってから魚は一匹も釣れていない。

 サンジはこの海が毒だと言った。ならば、この海には、魚は一匹も住んでいないのだろうか。

 そんなのは酷い。

 魚が一匹も住めない海なんて、この世界にあってはいけないとウソップは思う。

 海は、すべてをその懐に抱えてこそ海なのだ。

「なあルフィー」

「んー」

「誰なんかなー、この海をこんなにしやがったのは」

「んー」

「普通じゃありえねえだろ、こんなに黒い色に染まったり……油みてーにねとっとしたりよ。誰かが、酷い毒でも撒き散らしたんじゃねーのかな」

「んー」

「だとしたら、許せねぇよそいつ。見つけだしてウソップハンマーでタコ殴りだぜ」

「んー」

「って寝てんのかコラ!!」

 ちょっと真面目な話をしたというのにルフィは羊頭の上で鼻ちょうちんをふくらませていた。

 思わずびしっと突っ込むと、ルフィは思い切り欠伸をして仰向けに寝転がる。

「だーって、腹減ったんだもんよー」

「さっき昼飯山のように喰ったじゃねぇか」

「足りねぇよー。肉じゃねーと力でねー。美味いんだけどさ」

「だったら文句言うな、ルフィ。この海抜けるまでの辛抱だろ」

「おーう」

 サンジがこのところどれだけ食糧と水に気を配って料理を作っているかウソップは知っている。キッチンのゴミ箱には欠片すらほとんど入っていたことがない。

 いつも極力無駄を出さないのがサンジの料理だが、最近は包丁の使い方一つさえ違う。そして常なら食材にならないものを料理にするために、倍の時間を掛けている。

「サンジがすげー頑張ってんの知ってるだろ」

「おう。……でもなー、早くサンジのとびきり美味い料理を腹一杯食いてぇよ」

「そうだなぁ」

 この海域を抜けるまでは節約、という約束なので、いつもは好きなだけお代わりできるところが一人一杯だったりする。

 ちょっとだけ物足りないのも確かだ。

「あーあ。早く、この黒い海から抜けてぇなぁ」

「なぁー」

 とっぷりと黒い海を見つめて、二人してため息を付いてしまった。

 

 

 

 今日からオールで漕いで少しでも早く進むことになったので、まず当番に当たったチョッパーは甲板にいた。

 人型になったチョッパーとゾロで、無理のないよう、けれどしっかりとオールを操る。心なしか船足は速くなったようだ。「な、ゾロ!速くなったな!」 

「ああ、そうだな」

「これならきっとすぐ抜けられるぞ!」

「だといいな」

 ゾロのしっかりと筋肉の付いた逞しい腕が、少しも淀みなく大きなオールを操る。ゾロはすげえなあと感心しながら、チョッパーも負けじと力をこめた。

 人間型になっているときはもちろん力持ちになるが、それでもゾロには敵わない。

 いつでもあんな大きな錘で鍛錬をしているからこんなに強いんだろうか。

「なーゾロ」

「なんだ」

「オレも鍛錬したらもっと強くなるかなぁ」

「なるだろうが……お前は医者だろ」

「そうだけどさ」

「医者の勉強する時間が少なくなるぞ」

「ううん……」

 それは困る。強くはなりたいが、それよりももっと優秀な医者になりたい。たくさん勉強をして、もっとよく効く薬を作って、みんなの健康を守って怪我を治したい。

 そんなことを考えながらずっと漕いでいたら、少し疲れてきてしまった。

 ゾロより漕ぐのが遅れたら、船の進む方角が変わってしまう。 慌てて気合いを入れ直し、ぐっとオールを持つ手に力をこめると不意に漕ぐのが楽になった気がした。

 チョッパーの腕から生えた二本の腕が、しっかりとオールを握っている。

「ロビン!」

「ちょっとお手伝いしようと思って」

 二人に比べたら非力だが力の入れどころを心得た手が加わると、チョッパーは大分楽になった。

「ありがとう、ロビン!」

「どういたしまして」 

 階段に座ったままのロビンがにっこりと笑う。その笑顔が優しかったのでなんだかチョッパーは照れてしまった。

 トナカイなので人間の美醜にはさして興味がなかったが、ロビンのことはとても綺麗だなぁと時々思う。

「こら、トナカイ。ロビンちゃん働かせてんじゃねーよ」

 キッチンから姿を見せたサンジがくわえ煙草のまま怒鳴る。「あら、いいのよコックさん。私が好きでやっているんだもの。速くこの海域を抜けたいわ」

「ああ、君はなんて素敵なレディなんだロビンちゃ〜ん!!くれぐれも無理をしないように気を付けて!」

「わかったわ、コックさん」

 ハートを飛ばしながら降りてきたサンジが、チョッパーに近づいてくる。片手には夜の見張りの差し入れの時に使う籠を持っていた。

「ほら、口開けろ。チョッパー」

「え?」

 言われるままに口を開くと、ぽいっとその中に何かが放り込まれる。つぐんで舌で探ると、その美味しさにあやうくほっぺたが落ちそうなほどだった。

「甘ッ!なんだこれ、サンジ!」

「オレ特製ヌガーキャンディだ。漕ぐ手は止めるなよ、疲れたら舐めろ」

 パラフィン紙に包んだヌガーを、ポケットに押し込んでいってくれる。

「ありがとう、サンジ!」

「おお。がんばれ」

 そう言うとサンジは今度はゾロの方に歩いていく。

「ほら、口開けろ」

 いつも喧嘩しているゾロにも同じようにヌガーキャンディを口に入れてあげるのかなと思っていたら、ゾロの口に押し込まれたのは巨大なおにぎりだった。

「……ッ!、!」

「テメェは片手でも漕げるだろ。落とすなよ」

「……ッ、!」

 あっさりそう言って去っていくサンジに、ゾロがおにぎりをくわえたまま礼とも罵倒ともつかない唸り声を上げた。

「ロビンちゅわん、少し待っててね!ロビンちゃんにも特製おやつをお持ちするぜ!」

「あら、いいわ。私は。そんなに漕いでいるわけではないもの」「だめだめ、肉体労働は疲れるんだぜ!きちんと食べておかないと」

 そう言うとサンジはさっさとキッチンに向かう。

 美味しいヌガーキャンディを舐めながら、サンジはみんなのことをすごくよく見ているんだなぁとチョッパーは感心した。

 たくさん動いたら、それだけたくさんカロリーを摂らないと体は必要以上に疲れてしまう。

 きっとサンジはこれからこうやって、オールを漕ぐ当番に特別なおやつを差し入れしてくれるつもりなのだ。

 チョッパーにはチョッパーの好きなもの、ゾロにはゾロの好きなものを。

 そう思うとなんだか嬉しくなって、オールを漕ぐ手にも力がこもった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇ 10日目 ◇◇◇

 

 キッチンでノートをめくり、サンジは唸った。

 今日使った食材に羽根ペンで横線を引く。残りの食材は前の港でたくさん積めたおかげでまだまだ充分だったが、こうも先行きが見えないと節約をせねばと思ってしまう。

 海はまだ黒い。

 ほんの十日ほどだというのに青い海の色を忘れてしまいそうな気がした。

「ああ……これも使ったな」

 最後の青菜にも線を引く。半ばしおれかけていたが紙にくるんで船倉に置いておいたのでよく保った。今日のスープでみんなのお腹に入って、おしまいだ。

 残りの食材を頭の中で考える。

 幸い果物は充分だ。生のものもまだ日持ちするし、乾燥したものを買い込んできていたのが良かった。

 ビタミンは、人間の身体に必要不可欠だ。

 壊血病などこの船のクルーには一切おこさせねぇぞと心の中で唸って、明日のメニューを考える。

 極力無駄の無いようにしているが燃料も有限だ。なるべく火力を使わず、効率のいい料理を作らねばならない。

 ノートと首っ引きで唸っていると、ふいにキッチンの扉が開いた。

「……んだ。まだ寝てなかったのか」

 ゾロがキッチンにずかずかと入ってくる。

「酒」

「………人がメニューに頭悩ましてるってのに気楽に言ってくれるぜ」

 ちっ、と舌を打ち、部屋の隅っこに置いてある樽を指差す。

「アレだ。ただし、一杯だけだ」

「………」

「不満なら飲むな。節約っつってんだろ」

「……わかった」

 酒樽はまだ船倉に入っている。考えすぎだと言えばそれまでなのだが、サンジは黒い海を抜けるまではどんな隙も見せたくなかった。

 毎日漕いでいるというのにこの海の果てはまだ見付からない。

 明日のメニュー、明後日のメニューを考えながらノートにレシピを書き付けていると、グラスに酒を汲んだゾロが向かい側に座る。

 いつもなら甲板に出ていってしまうのに、珍しいこともあるものだ。

「んだよ」

「別に」

 樽の中身はビールだ。ゾロならそのくらい一口で終わりだろうに、ちびちびと飲みながら向かいの席に居座っている。

「さっさと寝ろよ。明日も漕がねぇといけねえんだから」

「お前もだろ」

 明日の午前中はゾロとサンジの番だ。

「これが終わって、上に差し入れしたら寝るさ」

 グラスを片付け、何だか言いたいことを全部言っていないような複雑な顔のまま、ゾロは出ていった。

 なんだありゃ、とついサンジは呟いてしまう。

 良く分からない男だ。

 ノートを閉じて、冷蔵庫に入れてあった冷製サンドイッチを取り出した。ベーグルの間にトマトとコンソメのジュレ、生ハムを挟んでぴりっとマスタードの効いたソースをたっぷりかけてある。

 二つに切って籠に入れ、脇にピクルスとオリーブを添えて温かい紅茶を淹れたポットをつければ出来上がりだ。

 キッチンを出て、メインマストの上の見張り台を見上げる。

 今夜の当番はウソップの筈だ。

 ウェイターで鍛えた絶妙なバランス感覚で、紅茶の一滴も零さずさっさとマストを昇る。

「はいよっ、お待ちかね今夜の夜食だぜ……」

「あ、サンジ君」

「えっ?」

 ぽかんと開いた口からぼろっと煙草が落ちてしまった。

 メインマストの上にいたのはウソップではなく、ナミだった。

「あ、あれ?どうしたんだナミさん?」

「代わってもらったのよ。夜の海の変化が見たかったから」

「そうなのかい?ウソップがさぼったわけじゃ」

「違うわよ。ね、それ、夜食?」

「ああ、そうだけど」

 基本的にはロビンとナミは夜間の見張りのローテーションには組み込まれていない。

 ロビンは時々誰かと代わって見張っているが、夜更かしは女の子のお肌の大敵よ!と主張するナミに敵うクルーなどこの船にはいないからだ。

「嬉しい!やっぱり起きてると、お腹がすくのよねー。チョッパーもルフィも夜のおやつは美味しいって言うから楽しみにしてたの」

「そんな、光栄だぜナミすわぁん!しまった、せっかくナミさんが見張りをしてるんだったらもっとスペシャルなお夜食をお持ちすりゃよかったぜ……!!」

「料理に手抜いたことなんか無いくせに」

 あはは、と笑ったナミが籠を受け取って、嬉しそうに眼を輝かせる。

「ベーグル、大好きよ。ありがとう、サンジ君」

「いえいえ、どういたしまして!」

 ナミの様な素敵なレディに喜んでもらえるならばどんな料理だって作ってみせる。可愛らしく、強かで、頭がいい上充分に強い彼女のことをサンジは敬愛している。

 可愛い女の子はもちろん一人残らず大好きだが、この船の女性陣にはさらに別格の魅力があった。

 生きることの姿勢、とでも言えばいいだろうか。

「でも、もう遅いわね。サンジ君。ほどほどでいいから、無理しちゃ駄目よ」

「ああ」

「どこまでこの海が続くか解らないんだから、体力は温存しておかなくちゃ」   

 その台詞で、見張りの交替がただ夜の海を見るためではないことにサンジは気付く。

「……もっと長引きそうかな」

「……そうね」

「随分広いみたいだな。この海は」

「ええ」

 ナミが頷く。

「ちゃんと見張るから、安心してよサンジ君。夜食、ごちそうさま。明日も早いんだからもう寝なさい」

「ああ、それじゃお言葉に甘えて。おやすみなさい、ナミさん」

「おやすみなさい、サンジ君」

 メインマストを降りる。

 振り返れば、月明かりにナミのオレンジ色の髪がちかりと光るのが見えた。

 

 

 

◇◇◇ 20日目 ◇◇◇

 

「みんなーッ!起きて、怪物よーっ!!」

 真夜中過ぎに響き渡った声に、うっかりキッチンでうたた寝をしていたサンジは飛び起きた。

 あれはナミの声だ。このところ夜間の見張りを多く引き受けている彼女のために、夜食を届けに行って、まだ数時間しかたっていない。

 急いで甲板に飛び出すと、暗い海からまるで小山のような何かが生えているのが見て取れた。

「ナミさんッ!!」

「きゃー、サンジ君、どうにかしてーッ!!」

 木の葉のように揺れるメリーのメインマストに、見張り台のナミが必死でしがみついている。

 サンジについで飛び出してきたロビンが手を咲かせ、ナミの身体をしっかりと押さえるのを見て取ってとりあえずほっとした。

「なんだありゃ、海王類か!?」

「わかんねーよ、こう暗くちゃ…!!」

「うっひゃー、海坊主みてーだな!」

 暗いせいなのか何なのか、海から生えたものには目も鼻も口も見当たらない。つるっとしたナマズのようなそれは、それでも生き物のようで、ぶるりと体を震わせた。

 その衝撃で船が横転しそうな程傾く。

「うお、あぶねぇッ!」

「チョッパー、ウソップ、舵しっかり押さえてろ!」

「お、お、おう!」

「わかった!!」

 操舵室へ二人が飛んでいく。船縁へ向かうゾロとルフィに、サンジは叫んだ。

「おい!気を付けろ、海水を被るなよ!」

「わかってる!」

 ルフィのパンチが炸裂し、ゾロの銀の刀が空を凪ぐ。

 グギャァアァアアア、というどんな生き物の声と似ても似つかない不気味な悲鳴が夜空に響き渡った。

「うお…ッ」

「ひゃあ!」

 尾鰭と思しきものが激しく海の表面を叩き、大きな波が湧き起こる。ねっとりとした黒い海水が巻き起こり、メリーの甲板にかかった。

 怪物の間近にいた三人はもろに水を被る。

「……ッ、おい、飲むなよ…!!」 

 口の中に僅かに入った水を唾ごと吐き出して、サンジは怒鳴った。黒い海水は濾過したものとは比べものにならないくらいまずく、舌がびりびりとした。ろくなものじゃない。

 こんな海水の中で生きている生物は、いったいなんなのだろう。

「この…ッ!」

 右脚で船縁にかかったひれを蹴ってはずし、ついでメリーにのし掛かろうとする頭を左脚で蹴り飛ばす。

「おい、ゾロ!」

「おお!」

 三刀が夜を切って閃く。また怪物の悲鳴が響き、苦痛に大暴れを始めた。

 どさっと三人の真ん中に斬り飛ばされたひれが落ちてくる。

 ナマズのような怪物はしぶとく、三人を相手にしても引こうとしなかった。つるつると滑る上になるべく海水を被らないよう引け腰になってしまうのでなかなか決定的なダメージを与えることが出来ない。

 やがて夜がうっすらと明けはじめた頃。

 グギャアアァァアァ、と苦痛のにじんだ悲鳴を上げたナマズが、ずるずると海の中に沈みだした。

「あっ、コノヤロウ!こんだけやっといて逃げようってのか!」「よせ、ルフィ!海にはいるな!」

 勢いのまま追い掛けようとしたルフィの首根っこをひっ掴んで危うく止める。

 怪物に浴びせられた海の水で、肌がびりびりしていた。

 飛びこんで泳ぐのは自殺行為だろう。ましてや頭に血が昇ったルフィは見境がないので、自分が海に嫌われているということを忘れている。

「ちょっと、おい、暴れんなって…!」

「ふんぬ〜ッ!」

 じたばたするルフィをふんづかまえていると、不意に真上から水を浴びせられた。

「うお、つめて…ッ!」

 慌てて見上げるとゾロが樽を担いでいる。

「うわ、おい、もったいねぇ!なにすんだゾロ!」

「チョッパーが持ってきたんだよ。洗っとけって」

「ああ……」

 確かにゾロも水浸しだ。さらにバシャバシャとかけられて、サンジは顔をしかめた。ルフィの上から退いて、彼の全身にも充分水がかかるようにする。

「おい、もういい。オレもルフィも充分だ。お前は?」

「ああ、平気だ」

「びりびりするとことかねぇのか」

「ああ」

 ゾロが担いだ樽を覗き込めば、もう底の方に少ししか残っていない。

「ああ……おーい、チョッパー」

 戦闘が終わったのを見て慌てて医療カバンを持ってやってきた船医に確認する。

「お前これ、どこから持ってきた?」

「キッチンのヤツ。壁際の」

「ああ、わかった。ありがとうな」

 それは組み上げて濾過した分の樽だ。陸から汲んできた真水の樽が後幾つ残っているかを頭の中で勘定する。

「みんな、どこか怪我は?あと、びりびりしたりとか怠かったりとか」

「平気だ」

「おお、平気だぞ。チョッパー」

 ルフィが答えて、びよんとゴムの手を伸ばす。

「でも、一応これ飲んでおいてくれ。もしかしたらかぶった拍子にちょっと飲み込んでるかもしれねぇし」

 チョッパーが差し出した丸薬は、どうやら毒消しのようだった。有り難く受け取って口に放り込む。

「苦ッ!」

「我慢してよ、ルフィ。良薬は口に苦しっていうだろ」

「でもにげえー。あーあ、なぁサンジ、あれ喰えねえかなぁ」

 ルフィが指したものを見てサンジは顔をしかめる。

「まあ止めといた方が無難だろうな。クソいじきたねぇキャプテンがどうしてもっつーなら調理してやらんでもないが」

 いつの間にか夜は明けていた。

 水平線から太陽はゆっくりと離れて、たっぷりとした橙の光をみんなに投げ掛けている。見張り台から降りてきたナミが、思い切り伸びをする姿が見えた。

「あーあ、怖かった。ちょっと三人とも、平気?」

「ああ。大丈夫だ」

「波かと思ったらいきなり盛り上がってきたのよ。なんだったのかしら、あれ」

「さあな。……海王類かもしれねぇが、それにしても」

 くい、と顎で朝陽に照らされたものをゾロが指す。

「まともじゃねぇよ」

 ゾロが斬り飛ばした怪物の一部分だった。

 ひれだと思っていたが、まるで手のように分かれている。その表面にはびっしりと毛のような突起が生え、色は黒い海水を濾過したときのような灰色だった。

 こんな物体を喰おうという船長の気が知れない。

「やっぱやめとけ。ルフィ」

「ううん、そうだなぁー」

「海に流しちまおうぜ」

 そう言ったゾロがさっさと刀の先を引っかけ、えいとばかりに船の向こうへ放り出す。

 とぷん、という鈍い水音と共に怪物の一部は沈んでいった。

「てっきりなんも棲んでねぇと思ってたのにな。あんな怪物がいんのか、この海にゃ」

 ウソップがぞっとした顔をして呟く。

 昇ったばかりの朝陽に照らされて、海がぎらぎらと光っていた。

 サンジは顔をしかめる。

 自分が今まで見てきた海と、この海は、まったく違うもののように思えた。

「……人を試す、ってのは……なんなんだろうな」

 聞き咎めたゾロが顔を上げるのにひょいと肩を竦めて見せて、サンジは煙草に火をつけるとキッチンへ向かう。

「さて。オレはメシの支度をするぜ。おとなしく待ってろよ、テメェら」

「おお、メシぃ〜!!」

「メシ〜!!よろしくサンジ、腹減ったぜ!!」

「おとなしく待ってろっつったろ」

 呆れてそう言うとルフィとウソップとチョッパーが一層騒ぎ出す。

 階段に座っていたロビンが、とにかく何事もなくて良かったわとにっこり微笑んだ。

 


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