※こちらの小説はR18となっております。
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 以上を踏まえた上で、先にお進みくださいませ。
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◆紅い足の伝説◆










◇◇◇ 序章 ◇◇◇

 

 この海に果てはない。

 世界は円を描いて丸く、豊穣の海はその球体の七割を占めている。底深く、懐広く、抱かれた命の数を数えることなど出来はしない。

 未知という可能性のすべてを満たして、母なる海は、厳しさと優しさの両極を天秤に掛けている。

 

 

 

 例えば、と思う。

 例えば。

 あの船が嵐に遭わなかったとして。あの海賊が脚を失わなかったとして。二人で遭難して、あの孤島に取り残されることがなかったとして。

 それでも自分は、その海を、目指しただろうか。

 夢を夢として暖かな光のように心の片隅に抱いたまま、どこかの島のどこかの街の小さなキッチンで、一生を終えたりはしなかっただろうか。

「……しねぇな」

 けれどいくら考えても答えは否だ。

 たとえあの海賊に会わず、あのレストランに居らず、この船が迎えに来ることがなかったとしても、自分はいつか小さな独りきりの舟でもって夢へと漕ぎ出しただろう。

 眼を瞑れば海が眼裏に広がる。それは深く、青く、果てしなく、今まで見てきたすべての青を集めて凝縮し、すべての生き物の涙を加えたような、美しい美しい色だ。

 そしてきっとこの想像よりももっともっと美しい青い色が、この海のどこかに、あるのだ。

 諦めることなど出来ない。

「おい。コック」

「なんだ」

「酒」

「………我慢しろ」

「……そうか」

 船縁から見下ろす海の色は黒い。

 この色が早く青く染まらないかと願いながら、サンジは振り返った。

「もう、残りすくねーんだ。あれも水分とカロリーだ、無駄に飲むな」

 ああ、と珍しく素直に剣士が頷いた。

 彼も解っているのだ。

 広大な海に比べれば雨の一滴ほどの本当にちっぽけなこの船が、いまどれほど厳しい状況にあるのか。

「………風が、ねぇな」

「ああ」

 傍らに彼が立つ。

 海は凪いで、とっぷりと黒い色はまるで溶かしたバターのようだと思う。

 この広く満ちた場所のどこかに、想像も出来ないような青い色を抱えているくせに、どうしていまこの海の色は黒いのだろうか。

 さっさと戻れよ、と祈るようにサンジは呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前へ、前へ、前へ。

その意志だけがただ不可能を可能に変える力なのだ。

 

 

 

「しーまーが、みーえーたーぞーーーッッッ!!!」

 今日も今日とて陽気なキャプテンの声がメインマストの上から響き渡った。この船の、隅から隅まで彼の声は良く届く。

 船縁から航海士は水平線を見晴るかした。

「……まだ見えない。まったく、ルフィったらどんな眼してるのかしら」

「マストの上からだからでしょう」

「まあそうなんだけどさー」

 この船の紅二点、ナミとロビンは船縁に並んで島影が見えてくるのを待った。風は追い風、今のところ航路は順風満帆だ。

 白い帆を目一杯に広げて、ゴーイングメリー号はまっしぐらに海を駆けている。

「あ、あれかしら」

 細い腕を上げてナミは行く手を指差した。

 島影が、水平線の向こうにぽつりとその頭の先を見せていた。

 

 

 港にはたくさんの船が停まっていた。

 中には海賊船もちらほらといるようだが、この島の住人は気にしないのだろうか。明らかに柄の悪そうな男達が荷を担いでうろつく中で、食べ物の露天商が幾つも商売をしている。

 漂ってきた美味しそうな匂いを、職業柄ついつい嗅いで分析してしまった。

「へーえ。なかなか良さそうなとこね」

 ナミの言葉にサンジは頷いた。

「その通りだねぇ〜、ナミさん!今晩は腕をふるうからね!」

「期待してるわ、サンジくん」

 そんなことを言われた日には、もうサンジはメロメロだ。

 活気のある港の様子からして、市場もさぞかし賑わっているに違いない。

 新鮮な食糧を仕入れにさっそく飛びだそうとすると、船尾の方からふぁあ、という間抜けな欠伸の声が聞こえた。

「……んだ……島か」

「あんた今起きたの」

 呆れたようなナミの声。習い性のようにびしっと睨みつけると、まさしくたった今起きたという風情の剣士が伸びをしながらこちらへやってくるところだった。

「丁度良いわ。ゾロ、サンジ君手伝いなさいよ」

「ああ?何でオレが」

「停泊の準備一つも手伝わなかったヤツが偉そうに言ってんじゃないわよ。サンジ君は、あんた達のために山のように食糧を買わなきゃいけないから、いっつも市場とメリーを三往復くらいしてんのよ。戦闘がなきゃただのごくつぶしなんだからちょっとくらい役に立ったら」

 ぐうの音も出なかったらしいゾロが沈黙する。元より、この船にナミの弁舌に敵うものなどいはしない。

「いや、ナミさん、別に君たちの食糧を買うためならオレは苦労なんて一つも…」

「で、どうなのよ」

 ぺらぺらと口先から出てくるサンジのラブコールをあっさり遮って、ナミがそう言う。

 頭を掻き、ちらりとその黒い眼でサンジを見たゾロは、頷いて良いぜと言った。

 サンジは少し驚く。

 もっと嫌がるかと思っていたからだ。

「荷物持ちすりゃいいんだろ。要するに」

「そうそう。いっとくけど、喧嘩しないでよね。二人とも。せっかく買った食材が無駄になるのはごめんよ」

「もちろんですとも!」

「そ、じゃあ、行ってらっしゃい」

 にっこり笑ったナミは、食糧用にとベリーを追加してくれた。

 いくらサンジが上手に買い物をしてもこの船のエンゲル係数は上がる一方だが、これだけあれば新しい香辛料とお茶、コーヒー豆も買い足すことが出来るかもしれない。

 上機嫌でサンジは久しぶりの陸地に降り立つ。

 後ろからはゾロが無言でついてきた。

 珍しいこともあるものだと思うが、何を考えているかいつも良く分からない剣士のほんの気紛れなのだろう。

 なんにしろ、手があるのは助かる。

 早く食材を買って帰れれば、それだけ早く仕込みが始められる。季候の良いこの島はどうやら秋島のようで、きっと美味しい食べ物がたっぷりあるはずだ。夜には冷え込むかも知れないから、煮込み料理もいいだろう。

 上機嫌で鼻歌を歌いながら、サンジは初めて歩く街をどんどん進んでいった。

 

 

 

 しっかりついてこいと言っているのに何故か途中三回は道に迷いそうになった類い希なる方向音痴の剣士を罵倒しながら、市場にたどり着いた。

 港から市は、大抵近い。

 広い道の両脇には露天が所狭しと店を広げ、食料から衣服、装飾品、日用品、ありとあらゆるものが売られている。

 巨大なマグロの隣に華麗な絨毯が並べられている光景も、ここでは当然のことだ。

「うひょー、すげぇ!見ろ見ろ、あれ!」

 とびきりカラフルな七色の縞の魚を見つけて興奮のあまり思わずゾロの袖を引くと、面倒そうな顔をしながらも彼はちゃんとそちらを見た。

「……喰えんのか。ありゃあ」

「もちろん!アレぁな、深海に住んでてめったにとれねぇっていう幻の虹回魚だ。一回喰ったことがあるが、独特の香りがあって、身がきゅっと締まっててめちゃめちゃうめぇんだぜ。ああ、あんまり高くなきゃ買っちまうのになぁ」

「買えばいいじゃねぇか。うめえなら、誰も文句ねえだろ」

「高えんだよ。うちの船には質より量だ」

 とはいえ、もちろん質を落とすこともしないつもりだが。

 それから広い市場をぐるりと二周巡って、サンジはめぼしい店を見つけだした。それぞれの店の品揃えと単価、鮮度や傷み具合を量って一番良さそうな店を選ぶ。

 野菜はここ、魚はここ、肉はここ。

 もちろん時間のあるときにしかやらないが、この選別が出来なくては一流料理人になどなれはしない。

 店の場所が覚えられない方向音痴など論外だ。

 市場を巡っている間にまた五回は行方不明になりそうになったゾロにほとほと呆れつつ、サンジはいよいよ買い物を開始した。

 まずは野菜と果物。市場の奥に陣取っていた婆さんの店に行き、早速交渉を開始する。

 冷えた船底に置いておけば長持ちするし、保存食のジャムにもなる柑橘類はたっぷり、早くしおれてしまう葉ものは十日間分だけ、根菜類はまとめて袋で。

 いかにも百戦錬磨の婆さんもそれだけ買えばそれなりに値切りに応じてくれたし、おまけにアセロラの実が一袋ついてきた。

 ビタミンCがたっぷり採れるし干して乾燥させておけばうんと長持ちするこの果物は、なかなか実る島のない貴重品だ。

「ありがとうございます、美しいレディ!」

「誰に向かっていってんだい。まぁ、悪い気はしないけどねぇ」

 けらけらと笑った婆さんがさらに二つ放り投げてくれたリンゴを齧りながら、上機嫌で次の店に向かう。もちろん荷物はすべてゾロに持たせて、どうやってリンゴを食うかと興味津々で見ていたらばくりと噛み砕いて丸飲みだった。

 野生にも程がある。

 次の店では肉。絞めたばかりの鶏肉を三十羽、豚を三頭分。

「……あー。やっぱ豚五頭にしてくれ。塩漬けがもう切れてたんだった」

「おお、ありがとよ兄さん。……けど持っていけんのか?」

「へーきへーき。荷物持ちいるしな」

 笑って安請け合いしたが豚五頭はさすがに野菜と果物を持ったゾロには持ちにくそうだった。

 仕方なく鶏は自分で持つことにする。

 最後は魚。もちろん船で釣ることも出来るが、いつでも釣れるわけではないし市場に来たからにはまとめ買いしておくのが得策というものだ。

 オイルサーディンにするための小アジをたっぷりと、それにとびきり味がいいと魚屋のオヤジが自慢する大きな金目鯛、干して干物にするためのイカを買い込んだ。 

 ゾロの荷物に金目鯛を積んだらもう小山のような有様だ。

 先に船に帰っていいと言いかけたが、寸でで危うく思いとどまった。

 道に迷われたらせっかくの食材の鮮度が落ちてしまう。

「……まーもうちょっとだからよ。落とすなよ」

「ああ」

 重量的にはまだ全然平気そうだ。

 後は調味料、香辛料を買い込む。岩塩の質のいいのがあったので、多めに買った。海の水を汲み上げて塩にするのももちろん美味いが、岩の塩にはまた違った風味がある。

 溶け込んでいるものが違うのだろう。

 そこまで買ったら、さすがにもう一杯一杯だった。

 重量はともかくいくら袋に詰めてもらっても担げる物には限界がある。

「うっし。一度、船に戻るぞ」

「……やっとか」

「落としてもつまんねーしな」

 市場を出て帰途を辿る。もちろん、方向音痴の剣士と違って道を間違うなんてことはない。優秀な航海士には敵わないがサ

ンジの中にもちゃんとがある。

「お前、いつもこんな風にしてんのか」

「ああ?」

「いつも、島に着く度、こんな風に色々買ってんのか」

「あったりめーだろ。お前等が食う食料、どっから出てきてっと思ってんだ」

「………」

 そんなことは考えてもみなかったという顔をゾロがしていた。その間抜けさに思わず失笑する。

「テメェ、アレだな。結婚したら上げ膳据え膳ってタイプだ」

「………なんだそりゃ」

「食器の一つも下げねーで、ふと気付けば可愛い奥さんに三行半突きつけられんだよ。気を付けた方がいいぜ、ゾロ」

 仏頂面に声を上げて笑う。

 これは自分の仕事で自分の権利だからゾロが知っている必要もないのだが、なんだかちょっと考えこんでいる風の剣士がおかしかった。

「さっさと戻るぜ。魚が腐っちまう」

「ああ」

 荷物は重いが、不思議と足取りは軽かった。

 新しい食材を仕入れるとさてどんな料理をつくろうかとうきうきしてしまう。

 それはもちろん船に乗る仲間達に美味しい料理を食べさせたいからで、その中には当然、後ろから山のような荷物を持ってついてくる男も入っているのだった。

 

 

 

 荷物を船に置いて、とりあえず傷みそうな物の始末をつけるとサンジはもう一度街に出た。

 ゾロは船番だ。

 一人残っていたウソップが、新しい道具を仕入れてくるぜと二人と入れ違いに街に出ていったからだ。

 こんなに天気の良い日で、気候のいい島で、じっとしていろと言う方が無理な話だ。仲間達は皆それぞれ思い思いのところへと出掛けている。

 市場に戻り、コーヒー豆と紅茶葉を買い求めた。

 その隣の店には酒が並んでいた。長い船旅には腐らず、傷まず、水分とカロリーになる酒は必需品だ。バラスト代わりに船底に入れておけば邪魔にもならない。

 樽でラム酒とビールを買い、それから珍しい酒が棚に並んでいることに気付いた。米を原料にした酒だ。

 確か、ゾロの故郷でも作っていると以前言っていた。

「……ま、お駄賃ってことで」

 ラムやビールよりは多少値が張るが、財布と相談して買えないほどでもない。

 一升瓶を買い込んで、まあたまにはいいんじゃねぇかとにんまりした。

 サンジは別にあの男が嫌いなわけではない。

 むかつくことばかり言うし、買うも売るも日常茶飯事の喧嘩だが、船の上で溜まりがちなエネルギーを発散できるのはなかなか良いものだ。たまにひやりとするような本気の喧嘩は、自分の力量を量ることも出来る。 

 なにより、あの男は、サンジの料理を残したことがない。

 もちろんそれは全員にいえることだが、夜が更けるまで酒盛りをしたとき、ナミとロビンは寝室に引き上げ、ルフィとウソップとチョッパーが酒に酔って寝こけ、サンジが空いた皿を引き上げる脇で山のように作った酒の肴を最後きれいに平らげるのはいつもゾロだった。 

 もうそろそろ腹もくちくなっているだろうに残そうとしたことがない。

『別に良いぞ、無理して喰わなくったって』

 ルフィがさっさと潰れてしまったある晩、もくもくと料理を片付けるゾロについサンジはそう言ってしまった。

 食べ物を無駄にする気など無いが、ちょっと火をいれて別の料理に仕立てれば明日の朝でも味が落ちたりはしない。

 けれどそう言ったサンジをちらりとみて、ゾロは言った。

『美味いもんを残すのは、もったいねぇだろ』

 酒と料理を存分に楽しむあの姿勢が、サンジは気に入っている。

 もちろん、本人に言ってやる気は毛頭無いが。

 ラムの樽をごろごろと転がし、ビールと米の酒を担いでサンジは二度目のメリーへの道を辿る。

 いつの間にか日は少し傾きかけている。

 美味しい晩ご飯のために、早く帰らなければ。

 そう思ったとき、ふと呼ばれた気がした。自分に向けられた声だと思った。

 振り返ると、斜め後ろの路地に香辛料の露天商がある。

 香辛料は買ってしまったが、ざっと店先を見るとさっきの店では揃わなかった物が何種類かあった。

 こんな店があっただろうか。

 酒樽を転がしたまま近寄ると、若い男の物売りが並べられた香辛料の向こうでにっこりと笑った。

「どうぞ、みてって下さい。金色のお兄さん。カモミールからローズマリー、胡椒、フェンネル、ハーブと香辛料なら何でもござれだ」

「おお、ありがとうよ。……昼前も商売してたか?」

 それならちょっと勿体ないことをした。こっちの店の方が、先程買った店よりものがいいようだ。

「いや、ついさっき開店したんだよ。寝坊しちゃってね」

「なんだもったいねぇ。なかなか良いのばっかりなのによ」

「はは、ありがとう。駄目なんだよねぇ、朝弱くって」

 にっこりと笑う商売人の顔には、好感が持てる。足りない分をここで揃えていっても良いかも知れない。

「じゃあ……白胡椒を100g。それに、キャラウェイシードと……ローズマリーの生はあるか?」

「もちろん。オレのとこでは、これをお薦めしてるんだ」

 そう言ってみせられたのは、小さな鉢に植わったままのローズマリーだった。肉料理に多彩に活躍する尖った松のような葉が、たっぷりと茂っている。

「ね?これなら、キッチンの窓際にでも置いておけば邪魔にならないし。ローズマリーは丈夫だからね、毎日ちょっと水をやるだけですくすく育ってくれますよ。新鮮な葉が使いたい放題だ」

「なるほどなぁ。いいな、それ」

 感心してサンジは唸った。

 乾燥した葉だって悪くはないが、新鮮なものには到底敵わない。海の上で植物を育てるなど考えたこともないので、鉢植えを置いておくとは思いもよらなかった。

「買ったぜ、それ」

「毎度あり。可愛いピンクの花もつけてくれるからね」

「そりゃいい」

 花は好きだ。海とはまったく違う陸の美しさを見せてくれる。 注文したものを量って手早く包みながら、青年がちらりとサンジを伺い見た。

「……ねえ、金色のお兄さん。もしかして船乗りかい?」

「ああ、そうだ。今日着いたばっかりでな。ログはすぐ溜まるって聞いたから、慌てて買い出しに来たのさ」

「ああ、ここのログは一日で溜まってしまうからね。……そうか、船乗りなのか……」

「?」

 どこか思案気な青年の様子にサンジは首を傾げる。海賊だと知られたわけでもないのにどうしたことだろう。

 商品の包みを渡し、金を受け取りながら、青年が口を開いた。

 

 その時、ナミは市場の薄暗い路地裏で水晶を抱いた占い師に呼び止められて。

 

 ウソップは金物屋の主人との世間話の合間に。

 

 チョッパーは街角で街一番の年寄りだという黒い猫に。

 

 ルフィは良い喰いッぷりを褒めちぎる食堂の主人と女将さんに心配されて。

 

 ロビンは公園の木の枝に止まっていた美しい青いオウムに。

 

 ゾロは港で働いているという恰幅の良いおばさんに寝入りばなを大きな声で叩き起こされて。 

 

 皆一様に、同じ言葉を聞いた。

 

 

「気を付けて」

「え?」

「この先の海はさ……危ないんだよ」

 青年は人の良さそうな顔に不似合いな複雑な表情を浮かべていた。

 困ったような、心配しているような、怯えているような。

「危ない?海賊でも出るのか」

 それならばそう大した問題ではないが。

「いや……そういうんじゃなくてね。良く分からないんだけれども」

「わからねえ?どういうこった」

「ううん……なにかがあるんだ。それだけは、確かなんだけれど、その内容は良く分からないんだよ。伝説では……セイレーンが住む島があるっていう。海の底に、人の辿り着けない国があるって聞いたこともある。けれど、本当のことは、解らないんだ。それはここに辿り着く船じゃなく、旅立っていった船の話だから」

「まあ、道理だな」

「ただ……海が、人を、試す場所だと……聞いたことがある」

「……ふーん」

 また随分と曖昧な情報だ。

 ここは、美しいセイレーンがいようと海の国があろうと、その他どんな有り得ない出来ごとがおきても不思議ではないのかも知れないが。

「……ま、わかった。とりあえずこの先の海は重々注意しろってこったな」

「ああ、うん。そう言うこと。……言うまでもないけれど、水と食糧は充分に積んだ方がいいよ」

「おお。忠告、ありがとよ」

 礼を言って青年に背を向ける。気を付けて、ともう一度追い掛けてきた声が不思議と耳の奥に残った。

 

 

 

 秋島の夜は、予想通り冷え込んだ。

 風こそ無いが星と月の冴え冴えとした、しんと冷え込んだ夜だった。

 挽肉とみじん切りの玉ねぎ、チーズの刻んだのをを大きなキャベツの葉で幾重にもくるみ込み、特製ブイヨンをベースにしたトマトソースでじっくりと煮込んでサワークリームを加えたロールキャベツが、本日のディナーのメインだ。

 コツは煮る前に小麦粉をまぶし、フライパンで焦げ目が付くまで焼き付けること。こうするとキャベツの甘みと香ばしさが加わって、何とも言えない味になる。

 ほうれん草のクリームスープ、フルーツサラダ、エリンギのソテーを添えたスズキのムニエルに浅蜊と鷹の爪のパスタ。

 所狭しと食卓に並べば皆が歓声を上げて料理に飛びつく。

 その瞬間が、サンジはたとえようもなく好きだった。

「こらこらこら、がっつくんじゃねーよ!充分にあんだろ!ルフィ、人の分盗るな!」

 ゴムの手を伸ばす船長にげんこつを落とし、さっさと一杯目のスープを空にして皿を差し出す剣士におかわりを注ぎ、ナミとロビンに果実酒をサービスする。

 フォークとナイフが使いづらいらしいチョッパーにはちゃんと一口サイズに切ったロールキャベツ、キノコ嫌いのウソップには好き嫌いを無くすためわざとキノコを多めに乗せてムニエルを取り分けてやる。

 皆が一通り空腹を満たし、一段落が着くまでがコックの仕事だ。ようやく会話が弾み始めた頃を見計らって、一番水場に近いチョッパーの隣に腰を下ろす。

 少々冷めてしまっても料理は存分に美味しく、サンジは自分の腕前に今日も満足した。

「そういえば、今日よぉ」

 そんな風にウソップが切り出す。

「金物屋に色々仕入れに行ったんだけどよ。変なこと聞いたぜ」「ふぇんなふぉと?」

 まだ口の中にたっぷりと食べ物を詰め込んだままのルフィが問い返す。

「きったねぇなてめぇ、飲み込んでからしゃべれ。……何かこの先の海は、危ないんだってよ。気を付けろって」

「え……」

 微かな声がテーブル全体から上がった。思わず皆で、代わる代わる顔を見てしまう。

「……あんだあんだ。もしかして、全員かよ」

「オレも聞いたぜ。露天商に」

「私も聞いたわ。胡散臭い占い師だったからでたらめだと思ってたんだけど」

「ああ、そういやぁ言われたな。港のバーさんにだったが」

 気を付けろ、と。皆がそれぞれに言われていることを確認しあって、顔を見合わせた。

「……どうやら、ガセってわけじゃなさそうだ」

「そうね。全員が言われたとなると……この港に着く船乗りにはそう忠告する習慣になってるのかも知れないわ。ちょっと注意した方がいいかもね」

 ううん、とナミが腕を組む。海の様子のことならば一番勘が働くのは彼女だ。

「でも、ねぇ。実は、胡散臭いと思ったからあんまりちゃんと聞かなかったのよね。具体的にどう危ないのか誰か聞いた?」「いや、それがよお」

 ウソップもデザートの洋なしのババロアを抱えたまま首を捻る。

「いろいろ聞いたんだけどよ、それがいまいちはっきりしねえんだ。海の魔物がいるとか、海に試されるとか……そんな感じでよ。具体的に何があるかってのはさっぱり」

「ロビンは?」

「私に気を付けろと言ってくれたのは青いオウムだったから。ただの口癖なのかと思ったわ。……もしかしたら飼い主の言葉を聞いて覚えたのかも知れないわね」

「ううん……じゃ、チョッパー」

「オレにそう言ってくれたのは港に住んでる黒猫だぞ。この先の海は……ええと、人を、惑わすから気を付けろって」

 結局のところ、いったい何に気を付ければいいのかは解らないままだった。

 サンジも露天商の青年から聞いた話を披露したが、セイレーンや海の底の国、海が人を試し惑わすのだといわれても何のことやらさっぱり理解できない。

 うーん、と唸ってナミがオレンジの髪をくしゃくしゃにした。「ぜーんぜんわっかんない。海上に霧が出るのかしら。それと暗礁が多いとか。………まあとにかく、準備は万全にってことよね」

「いつもとかわんねーな」

「うっさいゾロ。なんだかわかんないんだからしょうがないでしょ!あんた達がもうちょっと具体的に聞いてきてくれりゃよかったのよ!」

 ナミが怒鳴っている間にそろっと彼女のババロアの皿に伸ばされたルフィの手を容赦なくフォークで突き刺しながら、じゃあ、と恐る恐るサンジはお伺いを立てた。

「出発はいつにする?ナミさん」

「そうねえ……一日で溜まるって言ってたから明日の朝一にしようかと思ってたけど。まだ何か準備はある?」

「念のため、食糧をもう少し足しとこうか」

 保存のきくものを、というとナミは頷いた。

「一応そうしときましょうか。他にはなにかある?」

 面々の顔を見回して返事がないのを確かめると、じゃ、とナミは言った。

「明日の昼前に出航ってことで良い?サンジ君は食糧の買い出し、ルフィは船番ね。残りの面々はもうちょっとこの先の航路のことについて街の人に聞いてきてちょうだい。いい?」

 航海士の言葉に異論があるはずもない。

 ええ、冒険してぇ、とだだを捏ねる船長の言葉を無視して、皆が一斉にはいと返事をした。

 

 

 

 

 干した果実と穀類を買い足し、船に戻ったらキッチンテーブルには虹色の魚がどっかりと乗せられていた。

 あっけにとられてサンジは煙草を足元に落としてしまう。

「……おいおい。虹回魚じゃねぇか……」

 昨日市場で売られていた美しい鱗が、きらきらとキッチンの小窓からの陽を受けて光っている。

「なんだ、なんだサンジ?キレーな魚だな!」

「あ、おう。虹回魚ってんだが」

 市場で出会ったので一緒に帰ってきたチョッパーが丸い眼を輝かせる。

「へえ!すげー、きらきら光ってるぞ!食べられるのか?」

「おお、とびきりうめぇぞ。……しかし」

 誰が買ってきたのか。

「こんなキレーで美味いのか!楽しみだな、晩ご飯」

「……おお」

 まあいいか。買ってきたにしろ、釣ってきたにしろ、この美しい魚を存分に料理していいと言うことなのだろう。

 ちょっと照れくさいような気分になりながら、サンジはチョッパーに今晩の美味しい料理を約束した。

 

 

 

 そして昼前に船は海を出た。

 羊の船首を沖に向け、メリー号は風をはらんで一散に走っていく。

 結局のところこの先に起きることは良く分からなかった。

 けれど未知ならばいつでも同じ事だ。

 進む足を留めることなど出来はしない。

 空は青、海も蒼、風は追い風で心配するようなことなど一つもないと、航海士が笑った。

 

 

 

「よお。晩飯は、美味かったかよ」

 マストの見張り台に金色の髪がひょっこりと覗いた。

 独りきりで夜間の見張りをする日は、実のところこれが秘かな楽しみだ。

 先日はチョッパーがトマトと鶏肉の挟まった美味しいパニーニを差し入れしてもらったと自慢していた。 

 今日の夜食は何だろうか。

「あの虹回魚、てめーだろ。ゾロ。買ったんか」

「いや……泳いでたら獲れた」

「嘘こけ」

 ははは、とサンジが笑った。今夜は明るい月が出ている。

 その光を映して、金色の髪が、もう一つの月のように輝いた。

「ありゃ、深海魚なんだ。上の方泳いでたってそうそういるもんか。まあいい、美味かっただろ」

「ああ」

「ごっそさん。オレも美味かったぜ」

 ウソップに付き合って市場に行ったら、昨日は売れなかったらしい虹色の魚が半値に下がっていた。

 まだ充分に美しかったので、アレ、美味いそうだぜと交渉上手なウソップに任せてさらに値切って買ってきたのだ。

 小遣いの中から金を出したのはゾロだが、別にゾロの手柄ではない。

「と言うわけで、今日の夜食は夕食に次いであの魚だぜ。夕食は刺身とソテーだったが、今度は醤油と砂糖で甘辛く煮付けてみた」

 さっと差し出された籠の中には海苔の巻かれた大きなおにぎりが三つ、そして虹回魚の切り身らしい照りの着いた茶色い煮物。脇には青菜の炒め物が添えられている。

 もう一つの小皿にはぱりっとした虹色のものが山と盛られていた。

「なんだ、こりゃ」

「虹回魚の鱗さ。揚げてみたら、案外いける。虹色が鮮やかになって見目もいい。レディ達に喜ばれそうだが、まずはテメェに味見させてやるからありがたく思えよ、ゾロ」

 偉そうな口調は聞き流して、その珍しい食材を手に取る。

 口に放り込めば、ぱりぱりとした歯ごたえと薄い塩味は確かに酒のつまみにぴったりだった。

 微かな茶の風味は、塩に混ぜてあるのだろうか。

「どうだよ」

「ああ……いけるな。酒は」

「寝こけんじゃねーぞ。ほら」

「お」

 にんまりと笑ったサンジが差し出した酒は、ゾロの好物だった。米を原料にした、風味豊かな味は懐かしい故郷と師匠の顔を思い出させる。

「別にテメーのために買って来たんじゃねぇが……まあ、昨日の駄賃だ。飲み尽くすなよ」

「ああ」

 空にしない自信はなかったが、とりあえず適当に頷いておく。

「じゃあな」

「………」

 呼び止めようかと思ったが、ゾロが何か言うより先に素早いコックは見張り台から消えていた。

「………なんだってんだ」

 思わず呟いてしまう。月の光のような金色が行ってしまった見張り台は、夜の闇が深まった気がした。

 物足りなさに思わず下を見る。

 キッチンからはまだ灯りが漏れていた。後かたづけが残っていたのだろう。夜が更けても大抵サンジは見張りの夜食を作るために残り、朝は一番に起きてみなのための朝食を作っている。

 手元の一升瓶を見下ろして、あのキッチンからサンジが出てきたら一緒に飲もうと誘うかと、ゾロは思案した。

 

 

 

 なんかさあ、と隣に座っていたナミが呟いた。

 手元の本から視線を上げて、ロビンはテーブルの向こうに座る航海士の横顔を見る。

 太陽のような明るいオレンジの髪を風に靡かせて、海の果てを見つめるナミは難しい顔をしていた。

「おかしくない?海が」

「そうかしら……どのあたりが?」

 ロビンには何も感じられない。

 海は凪いで、風が弱いのが帆船にとっては難点だが、問題はそれくらいしか感じられなかった。

 ロビンは、もう二十年の間海の上にいる。時には陸に上がることもあったが、かつての歴史の名残を調べるためには島から島へ渡ることが不可欠だった。

 航海のための術を学びもしたし、気候を読むことにもそこそこ長けていると思う。

 けれどこの航海士は、そんな知識では量れない場所で海を感じている。

「良く分からないのよ……解らないの。そこがおかしいんだけど……なんだか、水平線が近く見えるって言うか」

「………」

 ナミに倣って海の果てを見る。けれどその感覚的な言葉は、やはりロビンには感じ取れなかった。

 海は青く、水平線は淡く煙るばかりだ。

「ああ、もどかしい……嵐じゃないのよ。低気圧でも……風でも、雨でもないの。でも、海が、違うのよ」

「……あなたがそう言うのなら、気を付けた方がいいわね。そろそろあの街の人たちが言っていた海域に差し掛かっているのかも知れないわ」

 手元の本を閉じて、ロビンは頷く。

 海を感じ取ることに関して、ナミ以上の者などこの船にはいない。全幅の信頼を置く、という言葉の意味を、ロビンはメリー号に乗って初めて覚えた。

「んナ〜ミさぁ〜ん!ロビンちゅわ〜ん!本日のおやつですよ!!」

 不意に伸びきった声と共に二人の目の前に皿が差し出される。パラソルの丁度日陰になる部分に美味しそうなプチフールの三つ載った皿を二枚並べて、料理人は口上を延べ始めた。

「本日のおやつは、洋梨、コーヒー、カスタードのタルトでございます。甘さは控えめにしてありますので、クロテッドクリームをたっぷりつけて召し上がれ」

「ありがと、サンジ君。美味しそうね」

「もちろんですとも〜!オレがお二人にまずいものを出すわけがないでしょう!」

「そうね。それでね、サンジ君」

「はい?」

 くいっとサンジの耳を引っ張って、ナミが言った。

「おやつのついでに、みんなに言って回って。海に注意してって」

 その言葉にサンジのおかしなくるくる眉毛が寄る。

「……おかしいのかい?」

「よく、わからないの。でも……違うのよ。海が」

「へぇ……」

 眉を顰めたまま、コックの青い眼が海を見る。

 彼もずいぶん長い間海の上で暮らしてきたといつか聞いたことがある。

「……わかった。注意しとくよ、ナミさん」

「お願いね」

 ひょいと片手をあげてサンジは去っていく。

 たっぷりとクリームを付けて洋梨のタルトを口に放り込んだナミが、あら美味しいわと呟いた。

 

 

 その夜。

 麦わら海賊団は、みな揃って不思議な夢を見た。

 青く、豊かで、美しく、充足と希望ばかりがあり、それでいて僅かな切なさを孕んだ不思議な夢だった。

 目が覚めたとき、その内容を覚えているものは、誰もいなかった。

 

 

 

 

 

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